自我・自己をめぐる考察4


メカニカル人間にならないように

霊魂体など

心の欲する所に従いて矩を踰えず

「心の欲するところ」と「矩」の「中」

自我・内なるキリスト・自己認識・虎

自我と世間

個としての出エジプト

 

メカニカル人間にならないように


(96/03/15)

 

 今のポップスとかロックはかなり商品化されすぎていて、明確にヒットのためのパターン化が行なわれています。ですから、そうした決められたパターンの組み合わせ、編集作業で器用につくられていく音楽からは、決められた感じ方が半ば強制されていくようになるのではないでしょうか。それがわかっていればまだしも、わからないままに受容していくととんだロボット人間ができていくように思うんですよね。

 人間は、基本的に、外界から五感を通じて受け取ったものを内的にコピーして蓄積していくことになりますから、そういう、言ってみれば「死んだ」「メカニカルな」ものを蓄積していけば、人間そのものも、そうした「死んだ」「メカニカルな」ものの合成になってしまうようになります^^;。

 でも、そいうふうなコピー人間になっていったとしても、そうでない部分というのは、人間のなかに残るのは当然です。でも、それに気づかずに、コピーを続けていくと、そうした自分本来の部分というのは、眠り込んでいき、半ば死滅してしまう危機に陥っていくことになります。

 そういうのを、シュタイナー的にいえば、「アーリマン」の働きだということができます。チャップリンが「黄金郷時代」(だったでしょうか?)描いた機械のシステムに身も心も疲れはててしまうようなあり方よりもっと悪くて、自分で進んで、快楽的に、そうした機械を自分のなかに取り込んでいくわけです。

 もちろん、機械を否定するのではなく、そのシステムに自覚的であり、それに自分を支配されてしまわないように常に精神を研ぎすませておくことが必要というわけです。

 「なんとなく「エーテル体」=「魂」、「アストラル体」=「心」という風に、思わず見なしてしまいそうなのですが、・・」ということですが、それでは、「エーテル体」のところがまったく違います^^;。まあ、魂だとか心だとかいう言葉そのものの使い方が通常、雰囲気で使っているだけなので、不正確であたりまえだともいえますが、エーテル体は、あくまでも「生命体」で、「生きている」ということに関わりますし、「アストラル体」は、いわゆる「感情」や「感覚」、低次の「思考」に関わるものです。

 で、魂とか心というと不正確なので、「心魂」というふうに表現しますと、その「心魂」が、アストラル体のなかで、「心情魂」「感覚魂」「意識魂」を育てているといえます。そして、それらと「自我」とは違った構成要素でして、自我が、そうした「心情魂」「感覚魂」「意識魂」に働きかけて、新しい構成要素を作り出そうとしているというわけです。(今の人間には、まだ多くの場合、そこまでできていないというのですが^^;)

 ちなみに、現在の人間の中心課題というのは、自我が「意識魂」に働きかけて、それを「霊我」にしていくことになるそうです。

 それから、エーテル体・アストラル体・肉体というのは、総合的に見るとどういう関係になっているのでしょうか。それぞれが頂点にある三角形、みたいな感じでしょうか。それとも三層構造みたいに、積み重なっている感じでしょうか。うーん、こんなに単純に割り切れるものではないのかもしれませんね(^^;。

 「自我」に関してですが、単純に「自我」といっても、それは三つに分けてとらえなければわけがわからなくなります。まずは、「私」という個体を表現する自我、それからいわゆる霊的な世界での、輪廻転生の主体としての、いわゆる「第二の自己」、そして、それを超えた、本来の真我ともいえる「真の自我」です。

 ちなみに、シュタイナーの「霊界の境域」(水声社)にそこらへんのことが述べられていますので、少し難解かもしれませんが^^;、ご紹介させていただきます。

一、物質的・感覚的世界の中に肉体が存在する。肉体を通して、人間は自らを独立した個体(私)と見なす。肉体の最初の萌芽は宇宙進化の土星紀に形成され、土星状態、太陽状態、月状態、地球状態といふ地球の四重の変容を通じて、今日の肉体となった。

二、四大元素の中に精妙(エーテル)体が存在する。エーテル体を通して、人間は自分が地球の生命体の一部であることを知る。エーテル体の最初の萌芽は宇宙進化の太陽紀に形成され、太陽状態、月状態といふ地球の三重の変容を通して、今日のエーテル体となった。

三、霊界の中にアストラル体が存在する。アストラル体を通して、人間は霊界の一員である。アストラル体の中に「第二の自己」が存在する。「第二の自己」は輪廻転生を通じて自らを表現する。

四、超霊的世界の中に「真の自我」が存在する。感覚界、四大元素界、霊界の諸体験、感覚、思考、感情、意志の諸体験すべてが忘却された時、人間は真の自我の中に霊的存在としての自己を見出す。(p96)

  ちなみに、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀とかいうのは、現在の地球が、いわば「転生」してきたプロセスを意味しています。つまり、今の地球は、その「転生」した現段階のあり方だということです。

 でもって、「神様から与えられた「自由」を行使する本質的な部分が「自我」」というのは、その上記の中の「真の自我」にあたるように思います。「自由」というのは、そこに関係してくるわけで、いわゆる「輪廻」を超えた部分であるといえるわけです。仏教で、輪廻を解脱する云々というのは、本来それを意味していたように思います。

  さて、「意志」に関してですが、意志は、ほとんどの場合、非常に暗い意識であって、いわば、夢のない眠りにあるときの意識状態であるともいえまして、ほとんど、通常の意識状態では、制御できないものであるといえます。その「意志」を育てていくためには、思考内容を感情という保育器に入れて、気長に気長に育てていかなければならないようです。

 ですから、「倫理的意志」だとか「自由意志」だとかいうことは、まずは、思考をちゃんと統御できないとしたら、育つはずもないわけです^^;。もちろん、感情にふりまわされるというのも保育器が壊れるようなものですから、発育不全になってしまいます。

 シュタイナーの挙げている事柄でいえば、次の6つの性質を自らの内に形成しなければらないということです。 

・思考世界の統御

・行為の統御

・忍耐

・肯定的なとらえ方

・とらわれのない態度

・内的均衡

  ぼくも、これらを最初に知ったときには、「こんなことできるか!」って思ったのですが、こうしたこと抜きにしては、「自由」なんてありえないんだと、毎年毎年、いや毎日毎日、その必要性を実感しています。もちろん、まだまだその必要性がわかった程度でしかありませんけど^^;。

 「人事を尽くしたあとに「天命を待つ」」といいますが、人事の最初の一歩が、上に上げた六つの性質の形成です^^;。ですから、「尽くす」なんてことは、無限の目標なわけですよね。ほんとうに先は長く果てしない道です。

 

  

 

霊魂体など


(96/04/07)

 「音」というのは、物質的な耳で振動を聞き取っているように思いがちですけど「音」というのは、本来、霊的なあり方を空気が媒介してるもので、「聴いてる」というのは、決して「耳」だけではないのだと思います。

 シュタイナーによれば、ぼくらの通常聴いてる(と思っている)音というのは、音エーテルが空気を貫いてそこに知覚できる振動として表現されるもので、音そのものというのをぼくらは聴いているわけではないようなんです。人間には、通常肉体といわれているような固体的な身体のほかに、液体的な身体、空気的な身体、熱的な身体というのがあって、音エーテルというのはその液体的な身体と深く関係してるようです。で、その液体的な身体で人は音の幻を聴いているというわけです。

 しかし、音というのは、通常聴いていると思っているもの以上をぼくらに伝えてきますから、その部分で深い影響を受けてしまいます。人は、聴くということで、その同じものを内的に複製しているそうですからその複製物が自分のなかに蓄積してある性質を形成していくことになります。そこに大きな可能性もあると同時に、大きな危険性もあるわけです。

 で、昨今のコピーされたような騒音のような音楽の集積というのは確実にぼくたちにそれなりの足跡を残しているんだと思います。そうしたなかに、どれほど魂の栄養分があるかを、ちゃんと意識的に感じとれるひとが、どれほどいるかを考えるときに背筋が寒くなってくるのはぼくだけではないと思います。

 さて、「性」に関してですが、性に関する基本的な考え方は、タントラや密教、道教などにかなり面白いものがあると思います。ぼくも、先日から、そこらへんを少しずつみているところなんですよね。ぼくなりのテーマとしては「煩悩即菩提」って感じで^^;、その「性」というエネルギーがなぜあるのか、また、そのエネルギーを生かすための危険性のないあり方はあるのか、そうしたことを見ていきたいなと思っているのです。

 そうそう、空海が持ち帰った「理趣経」って密教の経典があって、これを貸すの貸さないので最澄と喧嘩をすることになるのがあります。これはのっけから性的なことが載っていて、刺激的な経典なのですが、たぶん空海は、最澄だとたぶんここらへんを誤解するだけで益なしとでも判断したんではないかと思っています。ま、女性をただただ遠ざけてる坊さんには、ちょっと刺激が強すぎるわけで^^;。

 ともかく、そこらへんで、面白いのが見つかったら、ご紹介させていただこうと思います。

 さてさて、「霊魂体」に関してですが、わかりやすくいえば、心と身体っていう二分法がありますね。これは、キリスト教で「人間は身体と心魂からなる」というドグマが公会議で決められて以来のことなんですが、それが現代の迷妄を生んでるわけです^^;。そのドグマが決められるまでは、人間は、身体、心魂、精神(霊)の三つ、いわゆる「霊魂体」でできているとされていて、そうとらえないと人間というのがよくわからなくなってくるわけです。

 で、通常いわれている「心」というのは「心魂」「魂」ということでいってみれば「身体」と「霊(精神)」をつなぐものだといえます。そして、「神様とつながっている」とあえていうとしたら、その「霊(精神)」の部分なわけです。

 そして、そこに「真我」とかいうものをあるといえると思います。ですから、通常、ぼくらが思考、感情、意志だとかいってる魂的なあり方はそうした「真我」あたりのことの影絵のようなものだといえます^^;。「この世はマーヤだ!」というのも、そういうことを意味しているわけです。さらにいうと、「心魂」は、シュタイナー的にいいますと、感覚魂、心情魂、意識魂という魂のありかたがあります。

 それでもって、身体、心魂、精神(霊)の三つでとらえるとすれば、「エーテル体」というのは、身体にあたると考えたほうがいいかと思います。つまり、身体は、物質的な肉体と生命的な身体を意味している、と。もちろん、この区分のとらえ方はさまざまなので、ほかのとらえかたもできますけど。

 地球の転生と人間の進化というのも同じものの別の表現だともいえますので、地球の転生と人間の転生を切り離して考えることはできないと思います。ただ、今のような転生のシステムがずっと以前からあったというのはちょっと違うかなって感じです。“太陽系の前世”・・・っていうのは、よくわかりませんが、その前に、「前世」っていうことの意味をある程度明確にしとかないとなにが分かったことになるのかさえわからなくなると思います。

 ま、とりあえずは、人間ってのは、生だ死だっていってるけど、死後の世界からみてみれば(迷ってなければですが^^;)、この世に生まれてくることこそが一種の死なわけですから、生まれ死に、生まれ死に・・・てことで進化してるってことを想定されるのでいいいんじゃないでしょうか。で、その転生のシステムだとか、死後のプロセスだとかいうことについてはシュタイナーの「神智学」などの書籍で詳細に解説されてますので、興味があれば、ぜひ読んでみてください。

 先の「霊魂体」ってことでいうと、「魂の世界」、そしてその「魂」がしがみつこうとするものは、マーヤでしかないということがわかれば、そこに安住することはもはやできないということなのだと思います。しかし、そのマーヤにおいて、それを統御できる力は必要であると。その力があればこそ、そのマーヤを離れていられるということなわけです。

 「その長く果てしない道を、行き着く先がないことを薄々知りつつ、しかしたゆまず歩いていくことが“人事”なのかもしれません」ということですけど、行き着いてしまうのだったら、つまらないわけです^^;。どこかのゴールにつくということは、まさに「終わり」なわけで、無限だからこそ、無限の楽しみがあるわけではないでしょうか。そこには、「解脱したら悟って終わり」って馬鹿なこともないだろうし・・。たぶん、天使たちだって、そうした無限の道の途上にいて、人間に行く手を指し示してくれているわけで、住む世界は違え、人間と同行二人(二人じゃないけれど^^;)って感じで道を歩んでいるのではないでしょうか。

 

  

 

心の欲する所に従いて矩を踰えず


(96/06/29)

 

 「自我」に関してですが、人間がこの地上に生まれてくる意味というのは、やはり、その「自我」ということに最重要の意味があるんだと思います。ですから、その「自我」を滅したりするんではなくて、それを正しく成長させていくということを考えていく必要がありそうです。「虎」のテーマも、まさにそこに関わるものだと思うのです。虎を殺してしまっては何にもならず、それをよく飼い慣らしがら、いずれは、論語にもあるような、

心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず 

という境地になれればいいのだと思っています。

 

 

 

「心の欲するところ」と「矩」の「中」


(96/07/04 )

 

 「心の欲するところ」と「矩(のり)」は、相互否定的になると始末に負えません。「心の欲するところ」が「矩」をぶちかますと、たんなるガキのわがままですし、その反対に「矩」が「心の欲するところ」をぶちかますと、今度は姑息な因習にとらわれたロボットになってしまいます。

 そうならないためには、まずは「心の欲するところ」を深くみつめてみなければなりません。己の「心」の働きについて自覚的でなければならないわけです。「虎」の動きをしっかりと観て、その働きをコントロールするということです。

 そこに内なる倫理、エートスというか、心の底の底をぶちやぶったところから浮かび上がってくる、まさに「自由意志」としての「矩」があります。シュタイナーはそれを「道徳的ファンタジー」と言ってます。「心の欲するところ」と「矩」とが「中」しなければならない、つまり発展的に統合されなければならないというわけです。それを見出すために、「自分を観る」というのも重要になってくるんですよね(^^)。

 

 

 

 

自我・内なるキリスト・自己認識・虎


(96/07/15)

 

 いい機会ですから、自我の問題と日本人の課題等について、いっしょにお話しながら、整理していければと思いますので、よろしくお願いしますm(__)m。

 最初に、すこしぶっとんだ内容も含めて、今ぼくの考えていることのいくつかをスケッチ的にお話してみようと思います。かなり、飛躍しているところもでてくると思いますが、ま、そうしたところは追々ご説明させていただくことにして、とりあえずアウトラインをば。

 古代の「異能者」たちは、「「自我」を滅する」というよりは、いわば「集合的な自我」の力を発揮していたといったほうがいいかもしれません。そこらへんのことは、ユダヤやキリストのことを考えてみればいいと思います。

 アブラハムはヤハウェと「契約」しますが、その契約は個としての自我による契約ではなく、集合自我というか民族魂といったレベルでの契約だといってもいいと思います。それは、パウロの言った「内なるキリスト」と対比してみればよくわかります。「戒律」によって外から民族としてのアイデンティティを重視したユダヤに対しキリストは「愛」によって内から「個」としてのアイデンティティーを重視します。

 さて、話を天照大神の天磐戸開きのことに強引に持っていきたいと思います^^;。この天照大神を「自我」「キリスト」を象徴するものだと考えてみてください。太陽神「キリスト」としての天照大神は、あの天空に燦然と輝くような外的な存在として崇拝される存在としてとらえることができますが、その存在が、天磐戸に隠れてしまうわけです。そのときには、天照大神は、もはや、外的に崇拝できる対象ではなくなり、その天磐戸を人間そのものとしてとらえれば、その内にある存在となります。

 しかし、その天磐戸はしっかりと閉じられてしまっていて、その力は外に顕現できるものではなくなっている状態です。

 ですから、その天磐戸が真に開かれたとき、その力は、かつて天にあったときのものが人間の内なる力として顕現してくるのだといえます。もちろん、騙されて開かれた扉からでてきた天照大神は偽物で、その扉を真に開かないといけないというのが、まさに現代の課題です。

 かなり説明をはしょってますが^^;、ともかく、外なるキリストを内なるキリストとして顕現させるということ、そして集合的な形で働く自我を個として顕現させることが重要で、そのための「種」として蒔かれたのが、AMA族という種であって、その自我の力は、一度天磐戸に封印され、そのなかで着実に育ちながら、現代という時代に真の天磐戸開きによって顕現される必要があるというわけです。それは、ユダヤからキリストへという転換と同じく、集合的なあり方から個としてのあり方において、同じ力が姿を変えながら顕現していくという方向性ではないでしょうか。

 特に、日本という磁場は、自我を根付かせるに適したところで、古代において、その磁場にAMA族という自我の種を植え込み、それをいきなり芽吹かせるのではなく、じっくりと時間をかけて熟成させ、適した時代の訪れとともにそれを発芽させ、育て、花を咲かせ、稔らせる……、そういうことが計画されたのではないかとぼくは推理しているわけです。

 「それだけの下地はもうできている」からこそ、「自分を観る」ということが可能なわけだし、(それが可能でなければ、「観る」べき「自分」なんかないわけです^^;)、そのときの要注意ポイントとして「虎」がでてくるわけです。

 「自分を観る」というのは、当然、外に向かう方向ではなく内に向かう方向です。かつて、太陽霊としてのキリストは外的な神でしたが、それが内的な神的原理として顕現する方向性をとりました。それが、ゴルゴタの秘蹟です。それ以来、人間は、内なるキリストを見出す可能性を得ました。もちろん、あくまでも「可能性」ですが^^;。

 しかし、内を観るということは、大きな危険性を伴うことでもあります。真に内を観るためには、「虎」を制御することがどうしても必要です。つまり、「欲」のゆがみによって、それがゆがめられて見えるからです。それはルシファーの働きであるともいうこともできます。ルシファーというとなんだか悪魔の代表のようなイメージがありますが、ルシファーというのは、本来「光輝く者」で、そのフィルターを正すことで真のルシファー、「光のルシファー」を観ることができるわけです。

 ということで、「自分を観る」ということは、「内なるキリスト」を顕現させるということでもあり、そのためには、「虎」をしっかりと制御しなければならないということ。そして、それが可能な「種」である「自我」はすでに蒔かれ、それが生長する可能性の段階にまで至っているということがいえます。しかし、その「種」は、低次の自我としてしか生長しない危険性も大きくありその場合は、もはやその自我は、「自らの由」である「自由」を失い、自立する可能性をなくし、だからこそ「組織なきネットワーク」のための基礎的能力を欠くことになります。

 「高次の自我」を顕現させ育てていくための基本的な考え方は今、「いか超」で説明しているところですが(^^)、まさに、高次の自我こそが「架け橋」であり、そこに「天」と「地」が結ばれていきます。

 思考、感情、意志を切り放し、それを再統合する話ですが、思考、感情、意志が切り放されると、人間は実際何をするかわからなくなります^^;。つまり、まさに自我の暴走になるわけです。だからこそ、そうする前に、高次のあり方で統合の力を身につける必要があります。それが、例の「中道」の原理というわけです(^^)。

  

 

 

自我と世間


(96/07/21)

 

 イスラエル民族は、その個々の人が直接、「神」に向かい合ったのではなくて、あくまでも民族全体として、「神」に向かい合っていたのですが、キリスト教では、「個」が直接「神」と向かい合う可能性を与えたわけです。同じ「血」でも、民族としての自我の継承の「血」と、個としての自我をあらわす「血」とは、違うのだと思います。

 しかし、「個的な自我」というのは、あくまでも「低次の自我」であって、その自我を通りながら、その内に、人類が共有する理想としての高次の自我である「内なるキリスト」を自覚的に担っていく必要があるわけです。

 また、ユダヤ教における民族的な意味での「自我」は、決して「便法」というわけではなく、人類に自我の衝動を与えるための重要なプロセスの一つだととらえる必要があります。

 また、そうした民族レベルでの「自我」やその高次の「時代精神」としての「自我」は、かつてのような一方的な上位下達風な在り方ではなくて、「個」がその内に「内なるキリスト」を見いだすことを通じて、そうした「民族魂」や「時代精神」の意味や役割を認識し、その課題に自覚的に関わっていくような在り方で、関わっていく必要があるといえるように思います。

 ちなみに、そうした一神教的な契約の「神」を持たない日本人は、そういう意味での「個」を発達させてはきませんでした。日本人にとっての「神」はいってみれば「世間」だったのです。「世間様に顔向けができない」なんて、ね(^^;)。

 そういう意味では、日本人には、その「世間」に集合的な自我が、個の無自覚な状態のままに働きかけるともいえます。だから、戦前のような半ば洗脳的なファッショ状態ができてしまったり、現在では、マスコミによる、姿は違え、同じような状態ができてしまったりします。

 それも、やはり、高次の自我を受け入れる「個」の器がないままに、集団的な「器」のなかにみずからを溶け込ませているから、その集団的な「器」の在り方を無自覚に反映しがちだからなのだと思うんです。

 だから、向き合うのを「世間」にしてしまうことなく、それはそれとして、自覚的な在り方で、内なる高次の自我を受け入れる個の器を形成することが課題になってきていると思うわけです。

 

 

 

個としての出エジプト


(96/07/21)

 

 現代は、「外的な規範」が音を立てて崩壊しているわけですが、それは、そこにそれまで「そういうものだ」的にあったものが、その「なぜ」を失ってしまっっているということを表わしているんだと思います。「〜せよ」だけでは、どうにもならなくなっているということです。

 ですから、かつての、ユダヤ民族は、「民族」としてモーゼに導かれて、「出エジプト」を敢行して、カナンの地を目指したのですが、今度は、そうした「個」としての「出エジプト」状況から、モーゼが率いてくれるのではなく、自分が自分を導いていかなければどこに行っていいかわからなくなってきているという状況です。

 そのための最初の導き手として、「私が私であること」という「自我」を根づかせ育てていく必要があります。けれど、その「私」は、もっとも低次の「個体」としての現われでしかなくてそれは肉体をもった人間でしか得られない自我ではあるけれど、それだけを「私」だと思いこんでしまうのは、マーヤ、「幻」でしかない。仏教などでいう「無我」という考え方は、このマーヤとしての自我の現われを自分の本来の姿であると錯覚してしまっていることについての警鐘だと思います。

 ですから、そうした低次の自我を越えた、霊的世界の一員としての「第二の自己」とでもいうべき、輪廻転生の主体としての「自己」を認識する必要があります。それが、第二段階。

 しかし、それが本来の「自我」であるというわけではなくて、そうしたアストラル界を越えた世界に、より高次の自我である「真我」があって、それこそが見いだされなければならないものなのだというのが、基本的な神秘学のとらえ方です。

 ですから、まずは、もっとも低次の現われとしての自我を制御する意味での自己認識、反省ということが課題になります。そのことで、「個」としての「第二の自己」が直観されるわけですから、

 そんななかで、「世間」や「そういうものだ」といったことを自らの意志的行動の根拠としているような状態は、少なくとも脱していかなければ、どこにも行けないということになります。

 「出エジプト」ならぬ「出世間」が日本人には必要のようです。もちろん、「出世間」は、決して「隠遁」であったはならず、それは「世間にありながら世間と関わりながら世間から自由である」ということが必要なのだということは、誤解いないようにしなければなりませんが。

 「なぜそうするのか」「なぜそうしたいのか」をみずからの行動の根本原理として自覚すること。それが、新時代の「個としての出エジプト」なわけです。

 「騙されて出てきた天照大神」というとらえ方がありますが、それはそれで無意味だったのではなく、そのプロセスが必要だったということもおさえておきたいものですね。ある意味で「封印された真の天照大神」は、封印されることで、その力を育ててきたという部分もあるのではないかと思われるからです。

 つまり、「騙されて出てきた天照大神」が用意した舞台の後でしか、「真の天照大神」は顕現できないのかもしれないということです。


 ■「自我・自己をめぐる考察4」トップに戻る

 ■「神秘学・宇宙論・芸術」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る