自我・自己をめぐる考察3


天使の奏でるハープとしての感情

内なるエートス

空と縁起、矛盾を生きる中道2

自分を客体視し操舵技術を身につけること

天使の位階など

言霊の力など

叡智を愛に

意志は未来

 

 

天使の奏でるハープとしての感情


(96/01/22)

 

 ハイになったり、落ち込んだりするような感情を積極的に利用するというよりは、そういう極端な感情に左右されることがなくなるように、感情をコントロールできるようにするということが重要なのだと思います。感情をコントロールするというと冷たくイメージされたりしますが、決してそうではなく、魂の力を強くすることなわけです。

 思考などの表象生活というのは宇宙的なものだけれど、感情や意志などというのは、そういう宇宙的なあり方ではなく、この地上でこそ育成されねばならないのですが、それはともすれば暴走しがちです。

 感情は大切ですし、それあってこその人間なのですけど、その感情を、天使の奏でるハープにしていくことがこの地上での人間の目的だと思うのです。

 激情や耽溺などという音楽は、やはり、天使には似合わないと思いませんか。それが似合うのは、天使にすりかわった悪魔のささやきなのではないでしょうか。

 ま、悪魔のささやきを聞くのも、また、それなりに興味深いことではあるのですが^^;、そのささやきをちゃんと識別する魂の力は必要だと思うのです。一種の、選曲眼でしょうか(^^)。

 

 

 

内なるエートス


(96/01/28)

 

 ヤハウェに関してですが、その存在は、人間に最初に自我を付与した存在であり、それを民族が集合自我として担ったといったほうがいいのだと思います。

 ちなみに、聖書で「神」と表現されているのは「エロヒムたち」であり、そのエロヒムたちのなかでさらに進化したのが「主なる神」としての「ヤハウェ・エロヒム」です。ここらへんの話は、シュタイナーの「創世記の秘密」(水声社)という連続講演に詳説されていて興味深いのですが、話がそれていくので別の機会に。

 日月神示に出てくる「国常立大神」もそういう性格を色濃く持っているといっていいのではないでしょうか。しかし、通常「民族神」といわれている存在は、大天使といわれる位階の存在でいわゆる時代精神といわれるものを司る存在が時代霊としての「アルヒャイ」であるといわれます。これについても、シュタイナーの「民族魂の使命」(イザラ書房)あたりを読むとけっこう詳しいことがわかります。そして、そうした考え方から、日本を見てみるのもけっこう面白いです(^^)。

 さて、自分を磨き続けるというのは「続ける」ことが大事で、一度磨いたから大丈夫だということではありません。それはだれにでもいえることで、磨かないとすぐに曇ってしまいます。ぼくだって、たとえば、「よっ、大統領。さすが、議長さんだね!」なんておだてられると、すぐに増長しがちですから^^;、油断しないようにいつも頑張っていないといけません。ま、増長するほど暇じゃくて、やりたいことがたくさんありますから、それを勉強したりるすのでせいいっぱいだから、今のところは、かろうじてなんとかなってるように思うんですけどね。

 思考訓練というのも、継続的にやっていかないと、なかなか身につきません。いつも手元にたくさんの望遠鏡や顕微鏡や色眼鏡やなんだかなんだを持ったつもりになって、事ある毎に、シミュレーション訓練していくとそういう癖がついていくのではないでしょうか。

 ただ、その時に、海千山千のジャーナリスティックなあり方ではなく、それを感情の器にのっけながら、そこに自分なりのエートスというか倫理感情を育てていくというのが大事なのだと思います。そうでないと、ただの揚げ足取り屋に堕しかねませんから^^;。

 ここで少しそのエートスということについていいますと、そのエートスというのは、カントなどが道徳形而上学などで述べているような「定言的命法」、つまり「〜すべきだから、わたしはそうするのだ」ではなく、「私はみずからの内なる自由意志によってこれを選択する」でなくては「自由」であるとはいえないように思います。外から来たものではなく、みずからの内から育てたものであることが必要なのです。そして、それこそが「私が私である由」ということに他ならないのです。

 

  

 

空と縁起、矛盾を生きる中道2


(96/01/31)

 

 よくは知らないのですが、般若心経といえば仏教の経典のはずなのに、なぜか神道などともクロスすることが多いようですね。修験道系なんかでも般若心経は、けっこう用いられるようですけど、修験道というのは、密教のようで古神道のようで、よくわからないですね。神仏習合といえばそうなのかもしれないですが、そこらへん、何か秘密がありそうな感じもするのですが、どうなんでしょうか。

 それはそうと、ぼくもその般若心経というのは大好きで、いわゆる宗教的な思想にふれた最初の体験でした。といっても、大学を卒業する頃、岩波文庫をなんとなくみて、「おおっ、これはすごいことを言ってるような気がする」と勝手に思って、それから少しずつ仏教の本なども読むようになったのですが、そういえば、まだ15年くらいにしかならないんですね。もちろん、そのころは、「空」や「無」やのムードに酔って、そういう用語を使えることを少しかっこよく思ってただけですけど^^;。

 そうだ、せっかくですから、ぼく流の「般若心経」の解説でも近々やってみることにしましょうか。「それは違うで、わてはこう思いますねん」っていうのがでればそれがまた新しいとらえ方に繋がるかもしれませんからね(^^)。何事も、ムードでわかった気になってるのが一番進歩ないですから。

 「一切は空である。だから、それに執着してはならない」とかいいますが、たとえば、「外界はマーヤーである」というのも同じ様なもので、単に、今自分のいるところを否定的にとらえたところでどうにもなりません。ですから、さらにこういうべきなのだと思うのです。

 「一切は空である。だから、空とは何かを探求しよう。」

 「外界はマーヤーである。だから、そのマーヤーとな何かを探求しよう。」

 それが神秘学的な態度であるといえます。

 それに対して、先のように「空だから執着を断て」というだけなら、現代においては化石化した宗教の教条を守ることに等しいのではないでしょうか。

 「縁起」ということを考えていき、それが時間と空間の問題に関わってくるとすごくイメージしにくくなるのですが、ぼくは、人間の意識という関数が、時間変数を入力することで、空間を形成する、そんなイメージをもっています。

 ですから、すべてのマーヤーは、人間の意識が関数になって、時間のなかで生み出されます。また、諸行無常というのも、意識が通常の関数である限り、特定の時間と空間の枠のなかにとらわれてしまうともいえます。

 ・・・なんだかうまく説明できないのですね、やっぱり^^;。

 「中道」に関して言えば、矛盾を避けるようなあり方は、「都合の悪いものは見ないようにしよう!」ということにほかなりません。それで調和をはかったとしても、そこからは何も学べませんよね。それでは、むしろ、自分を不自由な領域に押し込めてしまうことになります。ですから、さらにいうと、今やってる中道論は、副題をつけるとしたら「自由への道」とでもいえるわけです。

 

 

 

自分を客体視し操舵技術を身につけること


(96/01/31)

 

 「極端な感情に右往左往させられないように、自分を客体視する」ということに関してですが、それは客体視しながら、操作技術を習得するということでしょう。よく使われる譬喩に、舟を櫂でこぎながら川をゆくイメージがありますが、その川がゆるやかでやさしい川なのか、激流なのか、また大きな海で、たまには台風が襲ってくるのか、そうしたことに応じた、操舵技術というかそうしたことになるでしょうか。

 よく、仏教などで執着を断てとかいって、感情をコントロールするために、最初から荒れた川には漕ぎ出さないようにすることがありますけど、そういうのだと、もし激流に遭遇したらおしまいになります^^;。

 ですから、まずは「客体視」というように、自分はどれだけの状況に対することのできるまで成長しているのかを確かめ、さらにそれに応じた操舵技術を身につけながら、またそれに甘んじることなく、自分を成長させていくような、そんな方向性が理想のように思います。

 とはいいつつも、もちろん、ぼくも、けっこう客体視が甘かったり、操舵技術が未熟で沈没寸前になったりといろいろで、なかなか大変です^^;。

 「天才とか言われる人たちは、自分の「激情や耽溺」を世界の中でうまくハーモナイズできちゃう人なのかも」ということですが、そういうところもあるかもしれませんね^^;。

でも、天才でないぼくのような存在は、やはり、「激情や耽溺」からは一歩身を置きながら、行きたいものです。もちろん、たまにはその渦中にいることで学ぶものありますから、それから逃避してしまうのももったいないですよね^^;。

 

 

 

天使の位階など


(96/02/05)

 

 エロヒムだとかヤハウェ・エロヒムだとかいう天使存在は、神的な存在ではありますが、「神様」ではないのだと思います。日本でよくいわれているような八百万の神という意味ではそうなのですが、それは、天使存在だとかその他の霊的諸存在のことですから、本来の意味での「神様」とはいえないように思います。

 ぼくにも「神」が究極的にはどういう存在なのかは正直いってわかりませんがそれができあがった存在なのではないのは確かだと思います。この宇宙のすべては神であって、その部分として私たちの個別存在がいます。その個別存在が進化していくことで、神そのものも進化しているのではないか。そういうふうにイメージしています。

 でもって、エロヒム云々は、人間よりもはるか高次の存在ではありますが、それなりの位階をもった存在だということです。ちなみに、シュタイナーによれば、人間より高次の天使存在はアンゲロイ(いわゆる守護霊的な天使)、アルヒアンゲロイ(大天使/民族霊)、アルヒャイ(時代霊/人格の霊)、エクスシアイ(形態の霊)、デュナメイス(動きの霊)、キュリオテテス(叡智の霊)、トローネ(意志の霊)、ケルビム(調和の霊)、セラフィム(愛の霊)という9位階あるということですが、もちろんこれよりも高次の存在があるということでそうなると、ま、わけわからなくなるといいますか^^;。

 ちなみに、エロヒムの位階は、そのなかのエクスシアイ(形態の霊)です。時代霊としてのアルヒャイのひとつ上の位階ということになります。

 で、民族は「大天使」の影響を深く受けているわけですけど、アルヒャイのほうが観点が上位にあるといえます。「民族」ではなくて、もっと世界全体の、まさに「時代精神」に関わるわけです。しかし、民族が大天使だけの影響を受けるかというとそうでもないようで、そこらへんは非常な複合的なあり方をするようです。というのも、過去はともかく、人間は必ずしも「民族」としてあるだけではなくて、もっと複雑な連関にあるからです。ちなみに、シュタイナーは、あの時代、大天使ミカエルが、時代霊に昇格したとか言っていたようですが、果たしてどうなんでしょうか。

 第二次世界大戦では、ある意味では、民族霊が好戦的だったともいえます。といっても、そういう観点でだけとらえるのも?ではありますね。ま、それはそれで、ある種の「型」の遂行だったのかもしれません。それは、もっと広いカルマ的連関を見てみなければよくはわからないと思います。

 さて、「多角的で普遍性のあるものの見方」をするためには、「自分なりの見方」というフィルターをなくすのではなくて、そのフィルターを通じながら、それを契機としてさらに先に行くということが大事です。でないと、「多角的で普遍性のあるものの見方」というのが抽象化されてしまい根無し草のようなクラゲのようなものになってしまうと思うのです。インターナショナルがナショナルのインターだというのと同じで、どこかから抽象的に普遍性が降ってくるわけではないというわけです。

 こういうことはあまりに当たり前のことなんですけど、思わぬ所で当たり前ではなくなってくることもあるようなので、特に朝日新聞的な抽象論には気をつけておきたいものです^^;。

 世の中の多くの慣習とかいわれる「そういうものだ」はおしなべて「外から」の「こうすべき」です。ぼくは、物心ついてからそうした「そういうのものだ」がいくら考えても、決まりのための決まりにしま思えないことが多かったですから学校などの規則というのもその自己目的化した教師の無責任主義以外にその根拠を見つけられないで、とてっも息苦しく感じてました。

 大事なのは、「私が私である由」である「自由」を追求し続けることであって、「そういうものだ」で満足することではないわけです。ぼくは「自由」こそがすべての基盤であって、それ以外に、ぼくには指針が見つけられないのです。そしてそれが、宇宙的に生きるための人間学の基礎でもあると思うのです。

 世に、ただただ無条件に、認識なくして「神様が好き!」って方や、その反対に、「神も仏もあるものか!」って方もいらっしゃいますが、そのどちらも、なんだかぼくにはよくわからないんですよね。やはり、「人事を尽くして天命を待つ」ではありませんが、「人事の限りを尽くしてこそ神が認識できる」そういう方向性をとっていければと思っているのです。でも、こういうのは、いわゆる宗教的な方には不遜に映るようなんですけどね。

 

 

 

言霊の力など


(96/02/06)

 

 言霊のパワーとかいうことは確かにあります。母音が霊性を表現し、子音が肉体性を表現するとかもいいますが、言葉というのは、ぼくには、どうも波動幾何学的なイメージがありまして、言葉を発することそのものが波動で、その波動がある特定の形となりそれが何らかのパワーを持つって感じでしょうか。

 特定の振動が特定の図形を形成するというのはたとえばクラドニ図形なんかもそうで、いわゆるAUMという音は円を形成したりもするらしいんですよね。

 日月神示に、神は数で会話しているとかいうのがあったそうですが、数というのは、そのまま幾何学図形でもあり波動でもあるわけです。そこにカバラなどとの関係もでてくるように思います。

 カバラといえば、ずっと勉強しなくちゃと思いながらそのままになってまして、ふと思いついて、インターネットでカバラを検索していましたら、これがけっこうあるんですよね。そこらへんの資料もたくさん集まってたりしますので、少しあらためて勉強してみようかなとも思ってます。

 しかし、インターネットで、いろんなテーマについて検索をはじめたりすると、それはもういろんなデータがわんさか仕入れられるし、オンラインで無理なものでも、簡単に購入できたりするので、重宝してます。最近は、そこらへんのデータ収集に時間をとられてしまってますが、ここは神秘学の部屋なので、ここらへんでそこらへんのデータを一気に集めて、もっと総合的な見取り図のようなものをつくってみたいと思ってます。

 そうそう、ゾロアスター関係のものもインターネットで調べていると、これが次から次へとでてくるはでてくるは。しまいには、聖典のAVESTAを原典で読むための辞書やら、はてはその独特の文字をMACで表示させるためのフォントやらまであって、まあ、そこまでは突っ込む気はありませんが、ほんとうに便利なものです。

 さて、「「空」や「マーヤー」に対する探求心というのは、結局世界に対する好奇心からでてくるものなのかもしれません」ということですが、確かに、好奇心というのは必要でしょうね。そういえば、ぼくも「おもしろそうじゃん」からはじまっているような・・・。

 もちろん、そこには「なぜぼくがここにいるんだろう」や「世界はなぜあるんだろう」のような問いかけがセットになってるんですけどね。

 で、ぼくのこうした方面でのガイドは、最初は主に仏教と老荘思想でしたので、どっちかというと、現世否定的な方向に傾きがちだったわけです。そもそも、物心ついてから、どうもそういう方向ってありましたし^^;。「なんか、こうやって生きてくの、意味ないんだよなぁ」的な・・・。

 でも、一切は空だとか、世界はマーヤだとかいうことを考えていくうちに、要らない世界だったら、ここに存在しているわけはないじゃないか。たとえ、自分はマーヤしか見ていないとしても、それにはそれなりの意味があるはずじゃないか。グノーシス的な「この世は牢獄」的なのはどうもおかしい。そういうことを考えはじめて、やっとそこから浮上をはじめることができて、やっと、最近は、「自由になるためにここにいるんだ」というのが少しだけ実感できるようになったって感じなんです。

 究極の自由というとまさに神の境地でしょうか・・・。ま、それも究極の目標ということで、永遠に彼方に掲げておくことにしますが^^;、神も究極の一者、そして完全でありながら、完全であるが故に、それそのものとして進化を続けていると思うんです。ですから、ぼくらもぼくらなりの自由へのプロセスを体験したいきたいものです。

 そう、自由とはプロセスそのものなんだと思うのです。「これで完全に自由を獲得した!」とかいうスタティックなものではない。永遠の進化プロセスの推進ってことが中道でもあり自由でもあるってことだとそういうふうにとらえるのがいいのだと思うのです。

 

 

 

叡智を愛に


(96/02/10)

  

 ぼくが聖書を少しでも読み始めたのはつい最近のことです。かつては、どうもキリスト教にはついてけなかったものですから。もちろん、いまも、通常のキリスト教は似たようなものなのですが、その本来の意味をシュタイナーを通じて学ぶようになってからは、なんだか、ぼくなりのキリスト教徒のようになってたりします^^;。

 最近は、バッハのカンタータなどを聴きながら涙を流してるわけで、そうそう、今日も、最近注目の鈴木雅明さんによる「ヨハネ受難曲」のCDを聴きほれながら、感動に胸ふるわせてたりして・・・^^;。ううむ、キリストのイメージが迫ってくる(^。^;)。

 さて、旧約にでてくる神様が人間味があるというのは、その神様こそが、人間に自我を与えた存在だからかもしれません。

 ちなみに、シュタイナーによれば、人間は、肉体、生命体(エーテル体)、感受体(アストラル体)、自我という構成要素をもっていますが、それぞれの構成要素は、そうした天使存在方から与えられたものなんですよね。その構成要素のなかでもっとも古いのが肉体で、トローネ(意志の霊)から。次に古いのがエーテル体で、キュリオテテス(叡智の霊)から、次に古いのがアストラル体で、デュナメイス(力天使)から、そして自我は、エクスシアイ(形態の霊)であるエロヒムから与えられました。位階としては、トローネが最も高次で、エクスシアイがもっとも低い位階です。

 ここらへんは、少し複雑なのでわかりにくいのですが、そのうち少しずつご理解いただければ、けっこうおもしろいところです(^^)。反対に、こういうあたりがわからないと、宇宙進化のダイナミズムがなかなか理解できないということもいえるでしょうね。

 ぼくのとらえる「神」のイメージは、「完全なるものの、完全なるがゆえのさらなる進化」という感じでしょうか。でもって、人間はある意味では「神の反射板」なんですよね。端末であるともいえます。ですから、変な入力をするとそれが大きな影響を与えることになります。

 かつて、人間は叡智とともにあったといいます。つまり、それが「外」から与えられて、本能的に行動していた。動物達が生まれつきもっている本能というのは、まさに叡智なんですよね。また、生物などの肉体の構造なども叡智の結集であるともいえます。

 しかし、人間は、そうした叡智を失って、代わりに、さまざまなソフトに対応できるシステムを有するようになり、そうした叡智に代わるものを、自分で内的につくっていかなければならなくなりました。

 つまり、はじめから外にあるもので動くのではなく、まったく同じ行動であるとしても、それをいったんは、内的に理解し、咀嚼したうえで行動しなければならなくなったのです。そして、そうでなければ、単なるロボットでしかないわけなのです。

 シュタイナーによれば、そうした外的な「叡智」を内面化し、それを種にして育てていくことこそ「愛」であって、それが現在と未来の人類にとって大きな課題となるのだそうです。

 たとえば、ある道徳的行為とされている行為をしたとしましょう。そのときに、「こういうのが道徳的行為だからこうしよう。みんな認めてくれるだろう」、では外的な強制でしかありません。それに対して、「私はこうせざるを得ない衝動に駆られる」というのこそ内的に自由な真の道徳的行為だということになります。

 ・・・しかし、なかなかこうはいかないんですけど、ね(^。^;)。でも、できないから、がんばれるわけですし、自由の可能性がそこに広大な原野として広がっているわけです。

 「人事を尽くした」なんていえることはまずありませんから、そこに「神」のでてくる余地がないともいえます(^。^;)。おたがい、少しずつでも、あせらないで、がんばっていきましょうね。

 

  

 

意志は未来


(96/02/19)

 

 実はぼくがクラシックを聞き始めたのは、そう昔のことではありません。高校生あたりまでは、ほとんどロック&ポップスの世界でしたし、大学あたりでは、もうジャズばかりでした。でも、そういうのの、ある種のパターンに辟易してきますと、そういうのでない、もっと繊細な表現からくる感動を求めるようになり、一方ではクラシック、もう一方では民族音楽のほうを聴くようになったわけです。クラシックといっても、ひどいのも多いですから、すぐれた曲と演奏をちゃんと選ばないといけませんけどね。

 もちろん、ある程度の聴きこなすための「耳」というのは必要のようです。しかし、そういう「耳」が育っていくにつれて得るものというのは、とっても大きなものがあるような気がします。それまで聞き逃していたような繊細なものが得られるようになるわけですから。もちろん、単に感覚的な洗練のみをもとめる向きも多いですから、そういうのはひとつの魔境のようなものでもあるのかもしれませんが^^;。

 ともあれ、おそらくは“聴かず嫌い”というのがほとんどでしょうから、ぜひ機会があればぜひ聴いてみてください。

 さて、「このエーテル体とアストラル体というのは、僕のイメージでは同じもののような気がしている」ということですけど、それは違います。わかりやすくいえば、エーテル体は生命体ともいえるように、それがないと生きていることができないような、そんなボディです。それに対して、アストラル体は感受体とでもいえるように、感情や感覚、思考などに関わるボディだといえます。

 ちなみに、人間は、夜寝ている間、アストラル体と自我は肉体とエーテル体からはなれます。でも、エーテル体が肉体から離れるということは、まさに「死」を意味してしまうのです。

 自我というのは、いわゆる動物になくて人間にあるものです。動物にも感情や感覚、それに簡単な思考能力はありますけど、人間にしかできないことというのはたくさんありますよね。特に猿学者などは、動物の延長線上に人間をとらえるて、人間も猿も同じようなもんだということを言うことが多いですけど、そういうのはあまりに味噌も糞も一緒的な考え方だと思うのです。

 また、自我は肉体・エーテル体・アストラル体をひとまとめにする力というよりもそういうボディに働きかける別の高次の力だといったほうがいいです。自我があるからこそ人間は自由の可能性をもつわけで、そうでなければ、単なる動物的な個体差の世界でしかありません。もちろん、自我をほとんどまともに人格の力として発達させないで、単なる個体差の世界で走り回っている人間というのは多いのですが^^;、そういうあり方はやはり悲しいし、もったいないと思うのです。

 シュタイナーは、意志と思考についてこういう内容のことを言っています。思考は光そのものでもあるのだけど、それは死滅しつつあるもので過去なのだ。それに対して、意志というのは闇であり非常に物質的なのだかれど、それこそが未来の可能性なのだと。

 みずからの闇のなかから意志を立ち上がらせていくことがなければ、人間は未来を創造する可能性をもつことができないわけです。意志というのは、思考のようには明確にとらえることのできないものですが、それだからこそ、人間にとっての「腹」と関係してくるのだと思うのです。

 


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