自我・自己をめぐる考察2


待つこと

器を広げること

自己発見の中道的な弁証法的運動

実るほど頭を垂れる稲穂かな

自粛という他粛

自粛という他粛2

集合魂

複眼的であるためのあれこれ

空と縁起、矛盾を生きる中道

 

 

待つこと


(95/12/18)

 

 忍耐力ということに関してですが、エドガー・ケイシーによると、この世は、楯・横・高さの三次元というよりも時間・空間、そして忍耐の三次元だということだそうです(^^)。

 忍耐というのは、持続する意志ともいえますし、待つということだともいえます。これは、ほんとうに大切なことで、この待つということは、すぐに結果をださなければならないようなプロセスを許さないあり方ではなくて、そのプロセスそのものを通じて学んでいくというあり方ですから、そのプロセスにおける間違いや愚かさもすべてを糧にできるんですよね。善も悪も、美も醜も、正しさや間違いも、そうしたすべてを取り込みながらそうした二項対立的なあり方を包み込んで熟成させていくことができます。

 でも、待つことができなければ、すべては切り捨てられてしまいます。すぐに結果がでないものは、駄目の烙印が押されてしまう。ご飯を炊くのだって、「赤子泣いても蓋取るな」って感じで、おいしく食べるためには、ちゃんと待たなければならないわけなのに、ね。

 思考や感情や意志も、そのひとつひとつの器を大きくしながら、それらのバランスをとっていくためには、じっとそれらを熟成させていく必要があるのだと思います。

 さて、「自己を否定する、ということは、周囲を受け入れる、あるいはむしろ積極的に取り込む、ということにも繋がると考えてよろしいのでしょうか」ということですが、気をつけなければならないのは、自己を否定するといっても、その否定する自己がちゃんとある人しかそれは否定できないんだ、ということを忘れてはならなと思います。

 器になるという話をしましたが、その器をつくるのってほんとうに大変なわけです。そして、大きくて丈夫なものをつくるほどに、それは困難になります。いい加減な土でいい加減な技術、いい加減な焼き方をしてできた器にその許容範囲を超えたものを注ぎ込もうとしたら、壊れてしまうのです。

 教育というテーマでも、子どもは最初はなんといっても、そのお手本が必要で、そのお手本の真似っこをして育っていきます。そのうえで、次第に自分なりの考え方がでてくるわけです。つまり、本当に芽を出し育つための前提条件が最初は必要ということです。そういうことを怠って、そこにいきなり知識をつめこんでみたところでその器はぶっこっわれてしまう危険性を常にはらんでいることになります。

 この器をつくるということにしても、最初にお話した「待つ」ということが非常に重要になります。「受け入れる」ためには、まずじっくりと自分を育てることが必要で、その上でその自己否定を通じて、器を作りあげていかなければならないわけです。そして、その器に盛れるだけのものを盛ることになります。待てないで小さな器をこしらえてしまった人は、それなりに^^;。もっとも、待つだけで器ができないというのもまた問題ですけど。

  

 

 

器を広げること


(95/12/24)

 

 だれにとっても、その「忍耐」というのは課題なのだと思います。神は「思い」によって宇宙をつくり、人間をつくったのでしょうが、人間は、ただ思うだけでは、この世界ではなにも生み出すことができませんよね。茶碗を焼くにも、適当な土を入手し、それをこね、形にし、そして適切な温度で適切な時間をかけてやきあげなければなりません。このように、プロセスそのものを通じて「作る」ということを学ぶわけです。こうして、発言するにしても、「こんなことをお返事しよう」と思うのはほんの一瞬のことであるにもかかわらず、書くとなると結構な時間がかかります^^;。

 そういうのって、とっても面倒な作業なんですよね。でも、それをしないでいると、何も得られないわけです。つまり、ちゃんと書かないと、「ぼくはこう考えてるんですよ」ということが伝わらないわけです。伝わらないということは、しまうまさんからレスをいただく可能性を生まない^^;。このように、あらゆる可能性の種が「忍耐」から生まれるともいえます。

 その「忍耐力」によって焦らずに、じっくりいきということが何よりも大事なのではないでしょうか。焦りが執着になるというのはけっこう危険ですから。付け焼き刃でわかった気になっても、ほとんど意味がないというか。ある理想に向かおうとすることは大切なことなのですが、ともすれば、待てずにはやくその理想の状態を得ようとして焦りが生まれます。そこに「解脱病」が生まれます。

 さらにいうと、臨済の言葉に、「仏陀に会ったら仏陀を殺せ!」という過激なのがありますが、「悟ったと思ったら、その悟りを火にくべて焼いてしまえ!」というような解脱病への徹底的な否定衝動も必要になります。「悟った」という錯誤と思い上がりが魔境になるのだと思うのです。「わかる」というのは、自分の持続的な意志とともにある状態であって、それを結果として、達成されたものとしてとらえていくとおかしなことになるのではないでしょうか。

 ですから、「わかろう」「わかりたい」はとっても必要なことだけど、それを「なにかがわかったらそれでOKだ」という発想にすり替えるとそれが一つの執着になってみずからの歩みを結果的には止めてしまうことになるというわけです。

 さて、自分の器に応じたエネルギーしか人は受け入れることはできません。それがオーバーしてしまうと、まさに狂気に陥ってしまう。解脱病というのも、そのエネルギーがすぐにほしいばっかりに、自分の器を忍耐強く大きくすることなくして、すぐにその電流をつないでしまうことでもあるんでしょうね。

 でも、自分の器を広げようとすると、それなりの自己否定を繰り返していくことが求められるといえます。自分という思いこみ、マーヤの部分を否定する作業なんかもそうで、偽我にとってはまさに「死」を意味するわけですから、その偽我は、その過程でさまざまな抵抗を試みます。

 それは、ほんとうの狂気かどうかさえわからなくなりますし、ほんとうに狂ってしまうこともあるのかもしれません。禅などでも、本当の狂気かそうでないかぎりぎりのところでやってるってところがありますよね。

 禅なんかは、どっちかというとブッチギリって感じがありますが^^;、こうして現代社会にいきてるぼくらはなかなかそうはいきません。ですから、「自分を見る」ということで、少しずつ自己のマーヤを剥ぎながら着実に、魂の器、魂の力を育てていかなければならないのだと思います。

 

  

 

自己発見の中道的な弁証法的運動


(95/12/31)

 

 「仏陀に会ったら仏陀を殺せ!」っていうのは、悟りというのは、決して実体的にそこにあるのではないということで、仏陀が悟りを与えてくれるとか、キリストが再臨して救ってくれるとか、そういうものとはまったく関係がないどころか、むしろそうしたのは妨げにしかならないということではないでしょうか。

 今更、禅の公案って時代でもないですし、ぼくの知ってる禅宗の(臨済宗です^^;)坊さんを見てても、そういうのは、現代ではむしろ形式主義化している感じがしますから、現代ではむしろ、禅をくんでる坊さんがいたら、邪魔してあげて、「禅なんか組むんじゃない!」と殴りとばしたり、はたまた、禅を組んでない坊さんがいたら、今度は、「禅を組むのが仕事じゃないか!」なんて、また殴りとばしてあげるような、そんなのが相応しいんじゃないでしょうか^^;。つまり、そういう形式から自由なもっとアクチュアルなものでなければ、禅ということそのものが逃避になってしまいかねないということだと思います。

 道元の「正法眼蔵」にこんな言葉があります。 

仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。(現成公案)

 自己を追求するということは、まさに自己否定によって可能になる。その自己否定を通じてしか自己を発見する道はないのだし、自己を肯定することもできない。ぼくなりの解釈をいうとこういう感じになるでしょうか。  

諸仏諸祖の受持し単伝するは、古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳なり、同参同証す。(古鏡)

 この「古鏡」という「古」というのは、古いというのではなく、「根源的な」とでもいうような意味だと思います。つまり、その根源的な鏡に、見るものも見られるものも同じ、映すものも映されるものも同じような、対立が一体化された鏡そのものになってしまうようなそんなあり方こそがこれまで真に伝えられてきたものだのだ、ということ。

 結局、重要なのは自己を発見するということなのですが、そのための方便そのものが自己目的化してしまうと、その目的が自己でないところになってしまって、自己否定がなされない。それで、偽我を自己だと思いこんで悟った気持ちになる。そういう危険性ってありがちだと思うんです。

 ですから、そういう自己発見の作業というのは、自己否定即自己肯定の常なるプロセスそのものとして永遠に続くものだということを忘れないようにしないと、すぐに悟った気になって、「先生」なんてよばれていい気になったり。人は尊敬されたりすると思い上がるものですから、それが魔境になって、自己発見の中道的な弁証法的運動をやめてしまうことがありますから、お互い気をつけたいものですね。

 ある意味では、「自己発見の中道的な弁証法的運動」を放棄したときに「偽我」はみずからを絶対化することになるのだと思います。まさに、偽我の自己主張はほんとうは再生しない死そのものなのにね^^;。

 「熱狂の中の決断」という言葉がありますが、自己を冷静に見つめられない人間は判断能力を欠いているのは確かだと思います。そういう意味でも、絶えざる自己否定即自己肯定の運動を冷静に繰り広げる覚悟というのが重要なように思います。

 その運動を現代的に展開するためには、ある意味では、禅の方法論は、現代的ではもはやないともいえます。現代は、家庭にあり、会社にあり、で、そのうえで、家庭にも会社にもとらわれない姿勢というのが必要条件なのだと思います。いや、むしろ、その環境から学べない者、それに埋没する者は、自己変革を語る資格がないとさえいえるのかもしれません。

 

 

 

実るほど頭を垂れる稲穂かな


(96/01/04)

 

 瞑想中に仏陀が「こんにちは」って出てきてもそれにとらわれてはならないということがいえます。それは魔境だから、知らんぷりするってことでもあります^^;。そういう、自分を特別視させてしまうような働きかけというのは、すべからく魔境ととらえていいんだと思うんです。しかし、その魔境に取り込まれて、「自分は仏陀だ」というかいうことを信じ込んでしまう方もいらっしゃいますけどね^^;。

 もちろん、それは瞑想だとかいうことだけではなくて、日々そういうふうなとらえかたを忘れてはならないんだと思います。つまり、会社なんかで少し偉くなったり、社会的地位があがったりすると、すぐに「俺は偉いんだ!」なんて勘違いしはじめることって多いでしょ。勘違いしたとたんに、ほんとうは奈落が待っているってわけです。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」っていうのを忘れてはならない。

 しかし、逆にいうと、究極の慢心をしなければならないということもいえます。というのは、「今の自分くらいで慢心するほど、自分は小さな人間か」、そう思って、「まだまだ」「まだまだ」というのを永遠に繰り返すわけです。だって目標が「神」だとしたら、永遠の運動になるはずでしょ^^;。慢心するなら、そこまでしなくちゃ、ってことです。

 戦前の軍の暴走、大衆の暴走の時代にあっても、そのなかでまともな人はまともだった。石原莞爾しかり、安岡正篤しかり、です。あの時代を見るときには、やはり、日本が悪かった良かったではなく、日本の何が「熱狂的な決断」だったのか「冷静な決断」だったのかをちゃんと見分けていく作業が必要なんだと思うんです。謝罪一辺倒は単なるアホだし、逆の正当化もまたアホです。そうそう、女性をもちあげる方は、女性は被害者だったというバカもいるけどあの時代、どんなに馬鹿げたことを、いわゆる婦人会がしてきたかということにもちゃんと目を塞がずにいなくちゃいけませんよね。ですから、男だ女だというのにも意味がない。肝心なのは、熱狂の状況にあって、どれだけ醒めていられるか。醒めていながら、それだけ魂の深いところからの情熱をふつふつとたぎらせているか、でしょう。

 ぼくも慢心は得意中の得意なので、着実に自己変革に取り組みたいと思っていますが、やっぱり、「朝、起きられない」とか「仕事はいやじゃ〜」という声が自分の偽我から聞こえてくるのではありました^^;。

 

 

 

自粛という他粛


(96/01/06)

 

 「究極の慢心」の目標とするところですけど、それは、“究極の自由”です(^^)。自由であるということは天上天下唯我独尊ということですから、ある意味では究極の“慢心”なわけですが、それは永遠の探求で、小賢しい慢心とはまったく無縁なわけです。

 さて、「謝罪一辺倒」の方向性が妙に正当化される昨今ですが、これから世論は、「謝罪一辺倒」の方向性とその逆の、日本の正当化の方向の二つの極端な方向性の双方が極論を吐くようになるのではないかと思います。もちろん、あまりの「謝罪一辺倒」の方向性に対するアンチテーゼは必要でそういう意味合いから、「愛国」的なあり方を強調するのも意味があるのですがそれは往々にしてわけのわからない「愛国」になりがちですから、そこらへんについては常に醒めて観ていかなければならないと思います。

 たとえば、あの時代、婦人運動家たちは、「贅沢は敵だ!」というスローガンを掲げて、強烈な「自粛」運動を展開し、婦人団体を中心にした「贅沢全廃運動委員会のメンバー」たちがわざわざ街に出て摘発をはじめたりして、さらに「婦人挺身隊」とかいうものを組織編成して、贅沢排除のための監視運動をエスカレートさせていきます。朝日新聞などもそういうのと歩調を合わせて、戦争を煽る方向にいきます。現代でも、婦人団体がさまざまに行なっていることを思えば、「さもありなん」という感じがしますよね^^;。ですから、あの時代も現代も、男女の別なく、熱狂した人たちは、その時代のまさに「空気」のなかで無自覚で無責任な行動にでてしまうわけですし、確かに「女性擁護」そのものが逆差別になることもたくさんあると思います。そこらへんも、ちゃんと見ていけば、ほんとうに変です^^;。

 

  

 

自粛という他粛2


(96/01/11)

 

 「最近の日本人」だけではないと思うのですが^^;。かつてのように地縁血縁による村八分的なものをつくってしまうもとでもあるその場の「空気に従う」あり方が「マス」にシフトしただけなのではないかとぼくは思っています。

 どちらにしても、自分なりの意見をもっているわけではなく、なにかを鵜呑みにしているということでは変わりがない。

 「だれが何と言おうと、自分はこう思う」という主体性と「だれが何と言おうと、自分はこうする」という勇気がないと、容易に「戦争賛美」になりますし、容易に「一億総懺悔」になります^^;。だから、坂本龍馬が希少価値をもつわけです。

 「街に出て摘発」する「婦人挺身隊」は、今では狂気のような感じもしますが、彼女たちは、まさに「正気」なんです、あの時代では。そもそも「自粛」を「他粛」へと意図的にとりちがえていて、「贅沢は敵だ!」を無差別的に適応することを正当化して恥じない。

 でも、こういうの、今でもほとんど変わりませんよね^^;。「差別用語」というわけのわからない言葉狩り、そして、それに過剰反応するマスコミの「自粛」の運動。

 その先鋒にいるのが、朝日新聞なわけですけど^^;、なぜかぼくも朝日をとっていたりします^^;。朝日が好きだと思ったことはないんですけどね。朝日の新聞販売店のおばさんがとっても個性的で好感が持てるのと、地元の地方紙があまりに論外というほどに稚拙なのとが原因のようです。

 しかし、朝日を読むと、「自己正当化を目指す良識」とでもいうわけのわからない、日本人の集合無意識のようなものがよく把握できます。そういう意味では、意識的に読むと、けっこう勉強になるとは思います。あの天声人語なんかも、ばかばかしくてあきれかえることがよくありますね。よく仮想対話なんて手法も使って何かを批判することっもありますがあの稚拙な会話がすべてを象徴しているようです^^;。

 「やまだくん」は大好きなのですが、ああいう家族関係というの、あれもある意味では集合無意識的な日本人の典型がベースにあるようですね。ぼくは思うのですが、ほかは別としてあの夫婦関係。どうしてああいう関係が夫婦なのでしょうか。多くは「そういうものだ」的なああいう夫婦形態なのでしょうが、なんだか、ものすごく悲しいものを感じてしまうのはぼくだけなのでしょうか。そもそも子どもができたら、互いを「お父さん」「お母さん」って呼ぶのも、どうもぼくにはよくわからない日本人の慣習です。

 そういう意味で、ぼくはどうも、物心ついてから、この日本に舞い降りてきた宇宙人のような感覚に襲われることしばしでした^^;。だから、ほとんど社会的不適応のままずっと居心地の悪さを感じてきているのかもしれませんが・・・。

 

  

 

集合魂


(96/01/16)

 

 「団結心が強い」とか「逆境に一団となって立ち向かう」というのが裏目に出れば「何も考えずに時流に流されてしまう」ということになるということについてですが、要するに蟻塚のイメージなんですよね。そういうのを集合魂的ともいうわけなのですが、この集合魂というのは、たとえば「民族霊」とかいう集合自我なんか、ものすごい叡智をもっているんだと思うんですけど、それを「個」のレベルでとらえると、蟻一匹つかまえたような感じで、その蟻には自分のやっていることが皆目わからなかったりするわけです。動物なんかでいうと、鳥が編隊を組んでたり、魚が大群となって一つの生き物のように泳いでたりするのも、一匹一匹をいくら調べてもわかりません。

 人間は、動物に比べて「個」として独立している度合いが高いのですけど、個としての自我の上位に集合自我のような影響ももっていて、特に、個としての成熟が薄い場合、個が機能しなくなると、その集合自我の意志のようなものに従って人間は行動することになります。おそらく、人間は、過去を遡れば遡るほど、個としてよりは、家族や部族、民族などの集合自我の影響を強く受けていたのだと思います。それが、個の度合いを次第に強めている。

 そういうあり方は、ひとそれぞれで、個を強くもっている魂、ほとんど個ではなく集合的なあり方を強くもっている魂、はたまた個を強く持っていながら、個と個の共同意識に目覚めた魂など、さまざまなあり方をしているんだと思います。

 日本人がほんとうに不思議なあり方をするのは、おそらく古代の集合的なあり方が失われず、封印されたような状態で、現代まで継承されてきているようなところにその因があるのかもしれません。ですから、多くは集合的なくせに、随時、いきなり目覚めたような方が大量に出現するようなところがあります。ここらへんの話は、ひょっとしたらAMA族の話ともつながってくるかもしれません(^^)。おそらく現代の日本の課題は、そうした封印された叡智を解くことにあるのかもしれません。しかし、また「個」の確立ということもまた課題として持っているのではないかと思います。

 新聞に限らず、いろんなフィルターを意識しないでいつも鵜呑みにしてると、ほんとうに偏見だらけの人間になってしまいます^^;。そのためにも、ひとつの事実に対して、いつもいくつかの角度から複眼的にみるくせをつけておくことが必要なのだと思います。そして、そのほうが、好き嫌いで何かを受け取ることが少なくてすみます。つまり、ある表現されたことからフィルターを取り去って、その核の部分をちゃんとみながら、「では、この表現にはどういうフィルターがあるのか」ということを検討していくことができるということです。

 ぼくは主体となる自分はあやふやだけど、順応性がないんですけど^^;、今は、仕事上の仕方ない事情で少しは順応性もあります。ほんとうに集団のなかにいると、ひとりだけそこになじめなくて浮くんです^^;。もちろん、そこでひとりパフォーマンスして目立つっていうのと反対で、なぜ自分がそこにいるのかがわからないままに、自分の規範で動くしかない。たとえば、学校なんかでいうと、運動会や文化祭などにノレない^^;。極力関わらないようにしながら、自分のペースを保ってなんとか乗り切ろうとする。こういうのもほんとうに困りものだと思うんですけど、半ば無意識に働いている集団の力学なんていうのに耐えられなくて、だからといって、自分がどうしたいのかもよくわからないままに途方に暮れてた。こういうのって、けっこう辛いんですよね。

 ま、そんなこんなで、この歳になりまして、少しはいろんなことが見えてきて、やっと、途方に暮れることだけは少なくなったって感じなんです。

 

 

 

 

複眼的であるためのあれこれ


(96/01/22)

 

 かつては、血を同じくする民族というのは、自我レベルでは一つで、「個」といっても、自我を共有した存在としての「個」でしたから、「民族」の意味が現在とは違っていたんだと思います。ユダヤ民族がヤハウェに導かれて云々というのも、その当時は、ヤハウェっていうのは自我で、民族を導いてたわけです。「血」の継承ということが重要だったのも、それによって、進化にとって必要なエーテル体を継承することができたのだといいます。

 しかし、時代は下り、自我を「個」が有する時代になり、かつてのヤハウェの役割は各自の個が真我というかたちで持つ可能性を得ました。もちろん、可能性ということであって、種があったからといって、それが発芽して育ち、実るかどうかは、各自の責任というわけです。

 でもって、かくて、ヤハウェとかいわれていた存在はいなくなったかというと、そういうわけではなくて、やはり、一種の上位自我としては、働いていて、それぞれの民族などを指導しているといってもいいと思うんです。もちろん、時代によっていろいろ役割は交替しているといいますから、それを固定的にとらえると変なことになるんですけど。

 そうそう、それから、OSのたとえでいいますと、人間は絶えずコンピューター・ウィルスの影響にさらされていたり、はたまたバグでハングしたり、プログラムが壊れてしまったりもするわけで、ウィルスチェックが必要だったり、バックアップが必要だったり、またたびたびバージョンが新しくなったりと・・・ま、いろいろ大変だというわけです。

 さて、集団に流されないためには、もちろん、複数のニュースソースというのも大事ですけど、それよりも大事なのは、あるAという事実があっても、それがどれだけ歪められる可能性を持つか、いや歪められるまでとはいかなくてもそれがどのように表現される可能性を持つかという思考訓練を積み重ねておくということなのではないでしょうか。

 「複眼的」というのは、たくさんの角度から見ればいいというだけではなく、その見方そのもののバリーエーションもたくさんあるということで、ぼくの心がけていることでいえば、近視眼的にも鳥瞰図的にも見る、浅くも深くも見る、短期的にも長期的にも見るといったことを通じて、ある事実について、自分なりのイメージをもつようにしています。

 それから、たとえば朝日新聞だと、その好きそうなこと嫌いそうなことなどをあらかじめ念頭に置いておくことをすれば、書かれてあることのボロなどは透けてみえるようになります。もちろん、記事を書いている本人は自分のバイアスには気づいてないことが多いですから、そのあたりもふくめて見ていくと面白いです。特に、天声人語などはこれは笑いものにするのは事欠きません。それから、戦後のマスコミの思想的傾向を見るためには、稲垣武「『悪魔祓い』の戦後史/進歩的文化人の言論と責任」(文芸春秋)という名著が一年半ほど前にでてますので、見てみるのもいいと思います。

 さて、ぼくはほとんど集団に参加していなかったという感じが強いのですけど、参加しないというよりは、常に「はずれていた」だけかもしれません^^;。会社に入ってからも、ぼくはほんとうになれあい的な協調性には疎くて、麻雀はしない、ゴルフはしない、パチンコはしない、酒宴類はできるだけ避ける・・・というように、会社でのなれあいのためのあれこれはしないようにし続けてまして、それでかなりキツイ思いもしてきたのですが^^;、ま、中小企業ってのは、仕事さえある程度してれば、なんとかなるし、「コイツは偏屈なやつだけど、やることはやるから、許してやろう」っていうそんなことでなんとかやってるって感じです。

 

  

 

空と縁起、矛盾を生きる中道


(96/01/22)

 

 「空」というのを「空しい」というふうにとらえるとそれを積極的に展開している仏教思想としては寂しいかなという気がします。「空しい」のだとしても、どういう観点からして「空しい」のかを観ることでそこにむしろ積極的なものを見出していこうというのが適切ではないかと。

 「空」というのは「虚無」的な意味でとられることが多いのですが、むしろ「一切空」「色即是空」「空即是色」という表現にみられるように「存在しているものすべてに空という性質がある」というふうにとらえなければ、仏教は「この世ははかない」と説いているだけの無力な教えであるということになってしまいます。

 ここからは、通常の仏教的な「空」の説明からは少し逸脱しますが、結局、「空」というのは、実相としての霊的事象のことだとしてとらえられます。「この世界は物質世界のように見えるけれども、その実は、霊的事象のひとつのあらわれにすぎないのだ。だから、すべては霊的事象であって、この世のすべての現象も、すべて霊的な働きとして現われているのに、それに気づかないだけなのだ」と。そういうことを説明するために、「諸行無常」というように、時間という観点からみると、すべてのものは常なるものではない、この世のものはすべて仮のあらわれにすぎないのだと説明するわけです。

 しかし、「空」についてもう少しつっこんだ説明をすると、その霊的事象さえも、この物質的世界と同じ、「縁起」という原理で現象しているにすぎないということもできます。「縁起」というのには、わかりやすくいえば二つの観点、つまり、時間的な観点と空間的な観点があります。時間的な観点でいうと、いわゆる「因−縁−果」という原因−結果の法則、空間的な観点でいうと、すべての事象は関係しあっている網の目なのだという最近の量子力学的な観点に近いあり方です。もちろん、この二つの観点は、同じ原則を別な角度からとらえたものです。

 で、「空」というのは、結局、宇宙での諸現象は、そうした「縁起」という原則によっているということで、それがこの物質世界も形成しているのだということなわけです。

 だから、人間は、そうした「縁起」を理解しながら、みずからの存在を深く見つめなければならないということになります(^^)。

 仏教のネックは、この世は「苦」だから、そこから短絡的に「解脱」にいってしまいがちになるところにあって、そこらへんのところで、オウムのネタにされてしまったりもします^^;。

 「縁起」ということを深く理解すれば、「なぜ苦が現象しているのか」について、ただその「苦」から逃れようとするのではなくて、その意味を積極的にとらえようとしなければならないというのは当然のように思うんですけどね。

 「中道」を求めるといっても、好き嫌いがいけないというのではなくて、そうした好きだとか嫌いだとかいうことそのものを見つめることだ大事なんだと思います。そしてさらに、それがなぜそうなのかということを見つること。中道というのはそこからはじまるのではないでしょうか。

 むしろ、こうも言えるのだと思います。右端でも左端でもあり、右端でも左端でもない。そんな絶対矛盾を生き抜くことが中道なのだ、と(^^)。矛盾を避けるのではなく、矛盾を生きよ!と。

 そこに「みんな悩んで大きくなった!」といえるような総合的な観点が、実践的にあらわれてくるのだと思うのです。


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