自我・自己をめぐる考察1


世界を呼吸すること

不二のダイナミクス

ポイエシスとプラクシス

自在心

己は阿弥陀様の自力が有り難い

自己の絶対自由

 

世界を呼吸すること


(95/12/03)

 

 古代においては「呼吸」ということが重要な意味をもっていたというのは、いわゆるヨーガの道で、それは呼吸のなかに創造的霊性を体験するものでした。そして、その呼吸と思索とを結合させることが重要な意味をもっていたのです。

 そこらへんのことについて、シュタイナーはこういう話をしています。

(「教育の根底を支える精神的心意的な諸力」(人智学出版社)より)

生まれてから死ぬまで私達は、絶え間なく呼吸しております。空気を吸入し保持し、排出しております。私達が息を吸い込む時、吸入された空気は、私達の全有機体構造の中へと浸透していきます。呼吸脈動は、脊髄溝を通って脳の中へと伝えられます。私達は、肺で呼吸しているばかりではありません。脳でも呼吸しているのであります。私達の脳は、絶えず運動しております。肺呼吸、すなわち吸気・保持・排気は波となって伝わり、私達の脳の中で生きているのです。これは−−今日では私達に全く意識されませんが、常に生起してるのです。ヨガ行者は、こう言いました。「人間の中には、ここで何かが起こっているのだ。自分は、それを意識化したいのだ。」そうして彼は普通やるような無意識の呼吸をせず、異常な方法で呼吸したのでした。彼は異常な吸気の仕方をし、異常な保持の仕方をし、異常な排気の仕方をしたのでした。こうして彼は、呼吸過程を意識化しました。そして私達にとっては全く意識されないものが、彼がこれを認識し感じとったことによって、全く明瞭な意識の中で行なわれることになったのでした。このようにして彼は次第に、いかに脳の中で呼吸が、思考や、知的活動の物質的作用の根底をなすものと結合しているかを、感じとったのでした。彼は、思考と呼吸との間の結びつきを探求し、ついに私達にとっては抽象的なものである思索というものが、呼吸の波動に乗って肉体全体を隈なく運動している、という事実をつきとめたのでした。(P33)

  かつて古代では、このように呼吸過程と思考過程とを、極めて意識的な呼吸法によって関係づけていくヨガ行者の行為というのは、非常に重要なことだっといいます。

 そのことで、ヨガ行者は、思索を全身で感じとり、自分という人間存在を霊性の創造物であると感じることができたのでした。その名残が、なんだかわけのわからないポーズをして修行しているヨガで、かつては意味のあったことが、今では形だけが堕落した形で残っているわけです。

 しかし、シュタイナーは、その古代のあり方をそのまま現代にもってくることは、むしろ危険性があると言っています。

私達の肉体構成は、太古のそれと違っておりますので、私達は今日、このヨガの修行を模倣することはもはや出来ませんし、またそれをしてはならないのであります。それはなぜかと申しますと、一体何をヨガ行者は目的としていたのかを考えてみましょう。彼が目指したのは、自分の思索過程がどのように呼吸過程と結びついているかを、感じとることでありました。そしてこの呼吸過程の中に、自分が、人間であるゆえんを感じとることでありました。こうして彼は、これを認識にまで高めたのでありました。・・・しかしながら私達の人間としての進歩は、私達がヨガ法の栄えていた頃よりは、はるかに高度に、思索をそれ自体として解き放ち、はるかに知的なものに高めたことによっております。(中略)私達は、古代インドにおいて人々が行なったのとは全く違う行為をすべきであり、むしろ彼らよりは、ずっと霊的な行動を取らねばならないのであります。・・・霊の世界へと入る道を見つけるためには、ヨガ呼吸法を修める方が、今日では手軽なのであります。少なくとも手軽なように見えるのであります。これはしかしながら、現代の人間が、霊的な世界に入って行くべき道ではありません。今日の人間は、まず始めに徹底した知性主義の中で、単に像として非実体的に知覚され得るすべてのものを、体験しつくさねばなりません。・・・すべての思索が知的な活動の内でのみ生じれば、それは非実在的なものであり、単なる映像にすぎないのだという事実を体験することは、重大なのであります。すべての思索が知的な活動の内でのみ生じれば、それは肉体の上で失神(無力)状態を体験するのと全く同じことを、心性の中で体験することなのであります。それは実在に対しての失神なのであります。・・・

ヨガ道は、自分の人間を呼吸の中に求めました。私達現代の人間は、思索という映像、すなわち知性主義的なるものに相対して感じる失神状態の中に、私達の人間を見失わなければなりません。そしてその後に自らに、こう言うことが出来なければならないのです。「今は我々は、ヨガ行者が進んだように、内部に向かって呼吸過程に従って進んで行くのではない。今は我々は、外界に向かって進むのだ。一本一本の植物を眺め、一つ一つの動物を眺め、一人一人の人間を眺め、そして外界を共に生きるのだ。」(P44-46)

  かなり長々と引用してしまいましたが^^;、つまり、かつては呼吸過程と思考過程をシンクロさせてそのことで思考能力を高めていくことが重要だったのですが、現代の人間にとっては、思索などの知的な作業をするということは単なる映像の中に生きているにすぎなくなってしまっているというのです。

 もちろん、思考することに意味がないということではなく、かつてのようには思考過程そのものが実在に近づく道であるということはもはやなくなっているということで、思考過程そのものを通じて、そのことで実在から遠ざかってしまったという状態を体験し、そこを通り抜けていく必要があるのです。つまり、そこで体験せざるをないのが、思索という映像に対して感じる失神状態であるというわけです。

 現代では思考ということが非常に重要になっています。古代のヨガでは、その思考を高めるという目的で意識的な呼吸ということをさまざまな技法で追求していました。呼吸過程を思考過程そのものとしていたのです。そして、そのことで霊的実在を把握しようとしていました。

 しかし、現代ではかつての状態とは大きく異なっているということで、呼吸過程を思考過程とすることはできなくなっています。呼吸過程によって霊界に歩み入ることは非常に容易ではありますが、そのことは、むしろ退歩を意味するようになっているのです。変な例ですが、ただ答えを引きうつしているだけの試験のようなもので、その上に、その答えと試験の問題とが異なっているのに気づかない。そんな状態に比すことができるでしょうか。

 現代では、あくまでも思考というプロセスを通っていく必要があって、しかもそれらが単なる映像にすぎなくなっているということを深く体験し尽くさねばならないというわけです。そして、そのことで実在から遠ざかってしまったという状態を通り抜けて、むしろ外界の生を共に生き、事物のなかに入り込んでいかなければなりません。ヨガの行者は、自己の内部に入り込んでいったわけですが、現代の我々は、外界に出ていかなければならないというのです。

 かつての呼吸過程にあたるものが、現代では知覚にあたるといえます。ですから、かつては呼吸を取り込むことが実在を取り込むことになったように現代では、世界を知覚することそのものが実在に近づくことになる。かなり端折って分かりやすく説明するとこうなるでしょうか。

『いかにしてより高き諸世界の認識に達するか』という私の本の中で、私はどのようにこのことをなすかを述べました。どのようにして植物を、単に外側から眺めるのではなく、そのすべての活動と生起とを、残らず追跡し、その結果として、思索が単なる映像という性格を完全に脱し、外界の真の生を共に生きることになるか、それをこの本の中で述べたのであります。私達は植物の中へ自分自身を沈めていきます。そして重力が根の中で大地に向かって進んで行き、花を咲かせる力が上に向かって展開してくるのを感じます。

私達は花が咲く営みを共に体験し、実が生じる営みを共に体験します。私達は外界の中へすっかり浸り込んでしまうのです。この時に私達は、外界から受け入れてもらえるのです。ちょうど失神状態から目ざめるように、再び目ざめます。(中略)

このように私達は事物の中へ入り込んでいかなければなりません。ヨガ行者が自己の内部へ入り込んでいったように、私達は外へ出ていき、すべての事物と自分とをこのように結びつけるよう試みます。そして、そうすることによって事実上ヨガ行者と同じ所に達するのでありますが、ただ彼等よりもより一層心的に、より一層霊的にこれを得るのであります。私達が私達の持っている概念や理念、すなわち単なる知性が描き出すものの一切を、実体をもって浸しきった時、私達は再び、いかに霊性が私達の内部で創造的に活動しているかを、感じとるのであります。(P47-48)

 現代に生きる我々は、意識的な思考をもちながら、その上で、我々が五感いやそれに意識を加えた色声香味触法でとらえるすべての事物を(ちょと変な言い方ですが)呼吸しなければならないのです。「世界」はその色声香味触法を通じた「界」によって我々にとりいれられます。それをいかにみずからの心性のなかに浸すかということこそが重要なのです。そのためには、その色声香味触法をいかにしていくかということが課題になります。

 さて、「己の内側に篭りながら外を徘徊する欲を批判しても何も変らない」ということも、このこととの関係でとらえることもできるように思います。色声香味触法の「窓」を閉じて瞑想三昧するということによっては、世界をみずからの心性に浸すことはできないのは当然です。ですから、色声香味触法の「窓」から世界を積極的にとりいれること、そのあり方を実践的に日々試みていくことなくしては、みずからの内には霊性のきらめきは期待すべくもないということなのでしょう。

 その課題についての、ひとつの解答が柳宗悦さんの「美の法門」で非常に示唆的に描かれていることではないかとぼくは考えているのです。

 最後に、その「美の法門」(岩波文庫)の「仏教美学の彼岸」から。

「来来山河草木悉是仏性」と経にはいうが、一切の人間にかかる仏性が用意されているのである。自然の美はいうも更なり。人間の創作する品々、かかるものを美しいと感じるのは、人間の心それ自身に、美しさを受け取る性情が備わっている証拠であろう。人は美しさを悦ぶ。美しさで幸福を味わう。これは内に既に美仏性が備わっている所以ではないか。花を美しいというが、

かくいう人の心にもまた美しさがあるともいえる。もしこれがなかったら、花と人間とには縁がなくなる。一切の人々は本来美と深い宿縁をもって、この世に生まれているのである。美の世界で衆生済度が出来ないなら、それは何かがその幸を妨げているからである。その支障が、自他の二元論m美醜の二元等によって起こっている事を、反省せなばならない。(P23-24)

  

 

 

不二のダイナミクス


(95/12/06)

 

 かつての時代において「呼吸」が担っていた修行的意味あいが、現代においては、知覚等を通して世界を呼吸することが担っているといえます。

 なぜ現代に科学という方法論が全面にでてきたかということにしても、それはいわゆる外的世界についてしっかり見ることができるようになったこととそれについての知的な作業が可能になってきたということがあると思うのですが、やはりそれにはそれなりの意味があると思うわけです。

 でも、もちろんそうした外的世界を、自分とは切り離されたものとして、唯物的にとらえていくことは問題ですし、それを注意深く避けなければなりません。花を見るとしても、それを単に外から見てきれいだなと思うだけではなく、その花の内側からそれを体験していくという可能性を追求してみなければならないと思うのです。それは、人間関係をとってみれば、相手の内から自分を見てみるというか。もちろん、それによって、自分の内的な自由を失ってしまってはいけませんけど、そうでなければ、そういうアプローチというのはとっても重要だと思うのです。

 そうそう、こういう発想もあります。ゴムボールがあるとしましょう。その内側と外側がありますよね。でも、ふつう、内側、外側といっているのは、視点をそのゴムボールを見ている側からいっているだけで、視点をゴムボールの閉じた中に置いてみるとすると、内側と外側は逆転します。人間の内と外というとらえ方も、自分を裏返したイメージでいくと、外宇宙がそのまま内宇宙になってきます。

 さて、「不二」に関してですが、たとえば、「いただきます」とご飯を食べる。その「いただきます」はひとつの供養でもあり、それは、その食べ物を対象化する行為ではなく、その食べ物を内側から感じとる行為でもあると思うのです。ですから、「おいしい」「まずい」という二項対立は不二ではない。もちろん、おいしく感じるものはおいしいのですけど^^;、そうした、「おいしい」「まずい」という対立を越えたところに不二がある。

 実は、この不二をダイナミクスとしてとらえるところに「中道」ということが現われることになります(^^)。「中道」というのを、二項の止揚としてとらえていくと、不二のダイナミクスを実践するのが「中道」だということになるわけです。

 話を「事物を呼吸する」ということに戻すと、それは、その事物と自分という「二」を「不二」化することでもあります。「不二」というのは、単に「二でない」とか「一」であるということではなくて、「二であって二でない」、「二と一の不二」・・・こうしたことで、自他の矛盾を包括して統合しながら二は二でもあるような呼吸ということです。

 

  

 

ポイエシスとプラクシス


(95/12/07)

 

 たとえば、「花を呼吸する」ということもいえます。自分が種になって発芽し、葉をつけ、成長し、やがて花をつけ、実り・・・そういうプロセスを体験するような感じでしょうか。

そういうふうに、自分の外界を「呼吸」していくこと。

 そうそう、「事物を呼吸する」ということでいうと、ちょうど、風の本棚でご紹介した西田幾多郎ですが、その「ポイエシスとプラクシス」という概念が参考になると思いますので、小坂国継さんの「西田幾多郎/その思想と現代」(ミネルヴァ書房)からその概略をご紹介してみることにします。

一般に、ポイエシス(制作)とは物を作ることであり、これに対してプラクシス(実践)とは自己を作ることであると考えられている。したがって、両者はいわば相反する方向の働きであると考えられている。しかし、西田は、両概念を行為的直観のもつ二方向(ないしは二側面)と考え、したがって何らかの意味でポイエシス的でないプラクシスというのものなければ、プラクシス的でないポイエシスもない、両者はいわば相即不離の関係にあり、ポイエシスはプラクシスであるからこそポイエシスであり、またプラクシスはポイエシスであるからこそプラクシスであると考える。われわれは外に物を作るという働きを通して、実は内に自己自身を形成していくのであり、したがってプラクシスはポイエシスをとおしておこなわれる。そしてここから西田の実践概念の観想的ないしは心境的性格がでてくる。ポイエシスにおいては内即外・外即内、主体即客体、客体即主体であるように、プラクシスにおいても内が外であり、外が内である。主体が客体であり客体が主体である。そしてこのような相即的関係は主体すなわち自己の側の絶対否定をとおしておこなわれる。西田はそれを「物となって見、物となっておこなう」とか「物来たって我を照らす」とかいった表現でいいあらわしてはいるが、要するにそれはわれわれの自己が物になりきることであり、「物の真実に行くこと」(本居宣長)である。西田哲学には、「善の研究」以来、このような身心一如あるいは物我一如の境地において真正の自己が実現され、したがってまたそのような境地においてはじめて真の実践がおこなわれるという確信が一貫して見られる。(P8)

  ちょっとわかりにくいところもあるでしょうけど、いわんとすることが例の「不二」であることは、ご理解いただけるのではないでしょうか。自己の絶対否定によって「物となって見、物となっておこなう」ことで逆に自己を形成していくというダイナミクス。それが「事物を呼吸する」ということでもあるのではないでしょうか。

 さて、夫婦とかの人間関係に関しても、夫婦だから一心同体で「一」だというのではなく、「自他の矛盾を包括して統合しながら二は二でもある」というのが理想だと思います。融合では決してない結びだということです。それは、共同体のあり方でも理想なんですよね。共同体としては諸矛盾を包括統合した「一」でありながら、その構成員それぞれはやはり「多」として存在しているということです。そういうのを西田幾多郎好みの表現でいうと「一即多」「多即一」となります(^^)。

 

 

 

自在心


(95/12/10)

 

 自己の絶対否定によって、物となって見、物となって行う、というのは、芸術家にも相通ずる精神ですけど、先日の、柳宗悦さんの「美の法門」(岩波書店)がまさにそれを言わんとしていたわけです。

仏性とは、自在心の事である。無碍心の事である。如何なる場合にも主たることである。禅語で「随所作主」というが、かかる「主」は、自在心たる事を意味する。それが分別に邪魔され、拘束されて不自由に陥ったり、自己にこだわって、その奴隷となったりする時、仏性を傷つけられてしまう。こうなると誰が作っても醜くなってしまう。醜さとは不自由なるもの、拘束されたものを意味する。・・・

芸術も色々やかましく定義されたりするが、要するに自在心の芸術となればそれでいい。否、自在を離れて芸術はない。また何も芸術とは限らぬ。宗教もまた自在心を離れてはない。自在心たる事が宗教人たる事である。しかも自在人は特別の資格ではなく、禅がはっきり説く如く、平常底即ち無事底の人たる事である。芸術の場合、この自在人になる事が、なかなか個人としては大変である。心の修行がいる。芸術というと、すぐ技術を考える人があるが、技術はどちらかというと二次的である。それより心の自由を整える事が肝心である。これがそうた易い事でないからよい芸術がなかなか生まれてこぬ。(P34-39)

  自己の絶対否定ということは、また自己の絶対自由を意味する自在心でもあります。随所に「主」となるということは、絶対自由であり拘束されていないことです。

 そして、重要なのは「平常底」「無事底」ということ。それは、この日常を離れては自在はないということであり、また同時に日常から自由でありそれに拘束されていないということなわけです。

 この柳宗悦さんには、「南無阿弥陀仏」という名著があるように、他力のなかに、限りない美を見つめている人なのですが、引用の箇所にもあるように、説明には禅のような自力の言葉を使っていたりします。つまりは、他力は即自力であり、自力は即他力であるということにほかなりません。これは、自己の絶対否定がそのまま自己の絶対自由であるということと同じです。

 さて、「一と多」についてですが、「一」と「一」が融合するというのではなく、「一」という個は個のままでありながら、「多」であり、それが「一」として豊かさを深めていくということが重要なのではないかと思います。同じ理念であったとしても、なにも融合する必要はないわけだし、それならば、「多」であるという必要はまったくなくなってしまいます。

 昨今の民主主義的なドグマにしても、「みんながおなじでないといけない」っていうようなわけのわからないことが強要されることが現実的には多くなっています。これは、姿を変えたファシズム以外の何者でもないのではないでしょうか。

 

 

 

己は阿弥陀様の自力が有り難い


(95/12/13)

 

 他力は即自力であり、自力は即他力であり、これは、自己の絶対否定がそのまま自己の絶対自由であるということと同じだ、ということについてですけど、こうした逆説的なあり方は、なかなかわかりにくいと思います。ぼくも、以前は、「他力」ということを「自力でない」という意味で、否定的にとらえていましたが、そういう単純な二項対立的な発想だと、他力と自力という相互否定の関係になってしまうのに気づきました。

 では、他力とは、通常イメージされるような、他力本願的な、依存的なものなのだろうかと問ってみたのですが、どうもそうではないらしいと気づくようになりました。

 他力というと念仏ですが、その念仏の世界を体得した在家の求道者「妙好人」、庄松のこんな言行録が残っています。 

人はみな他力他力と喜ぶが、

己は阿弥陀様の自力が有り難い。

  阿弥陀様の自力とはいったいなんでしょうか。それは己を空しくしたところに働く阿弥陀の自力であり、それこどが他力そのものだということなのではないでしょうか。

 このことをパウロの言葉で言うならば、「私の中でキリストが生きている」ということがいえます。

 ぼくもこの他力即自力のことが、ああそうなんだ、と実感するまでには、長い長い道のりがありましたが、シュタイナーと西田幾多郎のおかげで、それを哲学的にも神秘学的にもかなり明確に認識できるようになりました。

 参考までに、このことを、先日ご紹介した小坂国継さんの「西田幾多郎」(ミネルヴァ書房)から、「絶対と相対の自己否定的媒介的関係」ということに関する西田幾多郎の思想をご紹介させていただきます。

「絶対」とは、文字どおり「対を絶したもの」のことである。したがって、それはどのような「相対」にも対することはない。というのも、絶対が相対に対するとすれば、それはもはや絶対すなわち対を絶したものではなく、それ自身一種の相対すなわち何かに対するものになってしまうからである。しかしながら、一方、単に対を絶したものはそれ自身なにものでもない。それは単なる無にすぎない。非有にすぎない。したがって、絶対が単なる無や非有でないとすれば、それは何らかの意味で他に対するという意味あいをもっていなければならない。しかし、他に対するものは相対であって、もはや絶対ではない。ここに絶対のアポリアがある。絶対は対を絶したものであるとともに他に対するものである。

西田は、絶対がかかえているこの矛盾を、絶対は絶対の無に対することによって真の絶対である、と考えることによって解こうとする。ここで「絶対の無に対する」というのは、どのような意味でも対象的有とはならないものに対するという意味である。いいかえれば、自己の内なる自己自身に対するという意味である。ところで、自己に対するものとは、自己に対立するもの、自己を否定するものであるから、真の絶対とは自己自身を否定するものであり、したがって絶対は自己を否定することによって自己に対して立つのである。いいかえれば、真の絶対は自己を絶対に無にすることによってはじめて真の絶対でありうる。絶対は自己否定的に自己に対して立つのである。したがって、真の絶対は絶対の無である。そしてこの絶対無は自己否定をその本質とする。絶対とは単に無対立ということではなく、むしろ反対に自己の内に絶対否定を含むもののことである。絶対は、このように自己を否定することによって自己に対し、自己を否定することによって自己を肯定する。いいかえれば、絶対は自己を否定することによって自己を相対化し、この相対化された自己に対するのである。絶対は自己否定的媒介作用である(同様に、相対も自己否定的媒介作用であると西田はいう)。                      (P271-272)

  この「絶対」を「阿弥陀様」や「キリスト」に置き換えてみれば、自己の否定によって自己が肯定されるということが、理解できるように思います。ですから、他力は、自己を絶対否定することで自己を肯定することであって、それはまた自力の極致でもあることになります。そしてそれこそが、絶対自由でもあるということになるのではないでしょうか。

 ここらへんは、とってもとらえがたいところがありますので、また角度を変えながらお話させていただければと思います。

  

 

 

自己の絶対自由


(95/12/16)

 

 科学者がみんないっしょではないように、哲学者もいろいろです。いや、むしろ、「哲学者」とか「科学者」という名称というのは、ある意味ではどうでもいいことなのかもしれません。それは、哲学する(っていうのも少し変ですが^^;)人、科学する人であり、それはその人のあくまでも部分であって、全体ではないのだと思います。そうそう、「詩人」とかいうのも同じですし、もっといえば、「職業」だとか「先生」だとかいうのも、「父」「母」「子」さらに、「男」「女」とかいうのも、その人の部分でしかありません。

 ですから、大事なのは、それぞれのそのつどの役割を引き受けながらもそれをいわば「仮の宿り」として絶対化しないで、ひとつの表現としてとらえ、そこから多くを学んでいくという視点なのでしょうね。

 もっとも、「哲学」というと、難解な表現形式を多くはとっていますし、そのある部分は、伝えるのに困難な内容を表現しているために、避けられないものでもあるのは確かなのですが、それでも、それがほんとうに切実なものなのかどうかは疑問だと思います。ほんとうにばかばかしいような内容をわざわざ難しい用語を使って表現することで自分が偉くなったような気になっている方々も多いですしね^^;。

 ただ、それはそれとして、ほんとうに切実な内容のものに対しては、それなりの理解をもつということは非常に大切なことなのだと思っているので、そうしたいと思えば、少しはそのための忍耐力も必要になってくるでしょうね。

 西田幾多郎もシュタイナーも、その著作などを理解するのはかなり大きな努力を必要とすると思うのですが^^;、ぼくにとっては、それはとっても有意義な努力であって、しかも、その度ごとの体験が深い感銘を与えてくれるものです(^^)。

 特に、西田幾多郎の思想の表現は、まさに「命がけ」のものだと思います。西田幾多郎は、「朝に参禅、昼に参禅、夜に参禅」、というような日記が残されているように、格闘しながら叡智を紡ぎ出していった希有の哲学者だと思います。ちなみに、禅で有名な鈴木大拙はその生涯の親友だったそうです。

 そのまさにみずからを刻むような言葉は、昨今のポストモダンなどを称するような方々のファッショナブルな詭弁とはまったく異なったものです。

 さて、「自己の絶対否定」は「自己の絶対自由」であるということについてですが、以前別のアーティクルで、音楽の演奏に関して、「受け入れること」ということを少しお話ししたことがあります。「私が演奏する」のではなく「音楽を受け入れる器になる」、そういうあり方でないと、音楽はその場で真に「響く」ものではなくなり、その場での音楽の共有というのが難しくなるということです。そのことは、「自己の否定」が即「自己の肯定」になるということと深く相通ずるところのあることなのではないでしょうか。

 「私が演奏する」の「私が」というのは、「私」を尊重した自由であるように見えて、その実、みずからを不自由にしているのではないかと思うのです。

 もちろん、自分をスポイルするというのが、自己否定であってはならず、みずからが、「世界」を受け入れる器になることこそが、「自己の絶対否定」=「自己の絶対自由」でなければならないと思います。

 


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