芸術論1


仁義なき芸術論●物と語り合う

クレーとシュタイナー/色彩論の序

新しい意識と拡大された芸術の概念

色彩の宇宙誌

鉱物絵の具の持つ色彩のシンボリズム

エジプト、ルネッサンスの鉱物顔料

夜−比類なき歌い手

 

仁義なき芸術論●物と語り合う


(92/11/07)

 

 仁義なき芸術論ということですが、僕が今考えている芸術の意味についてちょっとだけ語ってみたいと思います。今回お話したいと思うのは、そのとっかかりの部分に過ぎませんが、シュタイナーがいうように、宗教、学問(科学)、芸術は本来ひとつだったということから外れないように、その原点ともいえる部分にこだわってみたいと思うのです。

 現在の僕の芸術に対する考え方は、僕の以前漠然とイメージしていたものとは大きく変わってきています。それはそんなに昔のことではなくて、昨年の暮れに、高橋巌さんに、シュタイナーの「霊的ヒエラルキーとその物質界への反映」というテキストの講義を受けてからのことです。

 その講義の基本テーマというのは「四大霊の解放」ということでした。そのときには、まだまだ明確にはイメージしきれなかったのですが、その講義にあたって高橋巌さんが、そのテーマに関連させて引き合いに出されていた柳宗悦さんの「妙好人」や「茶道」についての話があったことからそれらに関連させたりしながら、ずっと折りにふれて考えてきて、最近になってやっと、その意味についてやっと少しは理解できてきたのではないかと思えるようになりました。

 それを一度に語ることはおそらくむずかしいでしょうし、シュタイナーのいう「四大霊の解放」ということについて説明するだけでもかなり困難なことといわざるを得ませんので、それらに関連した一端の話などから少しずつお話しはじめようかと思います。

 最初に、柳宗悦さんの「茶道を思う」(「柳宗悦茶道論集」岩波文庫所収)から。

彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議は泉から湧き出る。

誰だとて物を見てはいる。だが凡ての者は同じようには見ない。それ故同じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものとが生まれ、見られるものも正しきものと誤れるものとに分かれる。見ても見誤れば見ないにも等しい。誰も物を見るとはいう。だが真に物を見得る者がどれだけあろうか。

その少ない中に初期の茶人たちが浮かぶ。彼らは見たのである。見得たのである。見届けている故に彼らの見た物からは真理が光る。

どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が目に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。・・・

 なぜ物を見るというだけで、特に見ることによってどうなるものでもないはずなのに「正しき」と「誤れる」、「深き」と「浅き」ということが分かれてしまうのでしょうか。これは「見る」ということだけではなくて、「物をつくる」ということにおいても同じことがいえるのではないかと思います。

 つまり、どちらも「物と語り合う」ということに、大きな意味があるのではないかといえるのだと思うのです。そして、「語り合う」にあたっては「じかに」ということが問題となる。

 染色家の志村ふくみさんの「一色一生」(求龍堂)の中には次のようなバーナード・リーチの語ったことの概要が紹介されています。

昔は名もない職人が家具や陶器を作っていた。李朝の白磁一つを見ても、とうてい自分のものなど遠く及ばない美しさを持っている。現代という時代は、中世とは違う人間を作ってしまった。芸術家という化け物に変わってしまった工人はどう身を処すればいいのか。

客は展覧会でも、個展でもない。

一つの作品がもっと深いところで大きな存在につながっており、作者の精神と呼応し、一体となっている重大な点を見逃がしてはならない。「生命」これが仕事の根幹である。写実の出来、不出来により生きているというのではなく、深い生命の根源につながっているかどうかということである。

人間には自然に具わった機能、頭・心・手があり、工芸はこれらを偏りなく使う数少ない営為のひとつである。

工人が仕事をするとき、次の二つのことをしている。一つは使って楽しく、役に立つものを作る。もう一つは、形の完成を目指す終わりのない旅である。この二つの活動が合わさり、工人と素材と一つになったとき、ものに「生命」が注入される。

 この「生命を注入」するということから思い出すのが、仏師が仏像を木の中から彫り出すと言われることです。そのとき、木という素材は、その中に仏像が埋まっているのです。そのとき仏師は「木」を「正しく」そして「深く」見ているといえるのだと思います。なぜ、そんなことがいえるのでしょうか。

 こうしたことを深く理解するためには、宇宙論的にその「見る」ということ「作る」ということをビジョン化して考えなければいけないというのが、僕の考えです。

 同じく志村ふくみさんの著書のなかで紹介されているノヴァーリスの言葉。

すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。

きこえるものは、きこえないものにさわっている。

感じられるものは感じられないものにさわっている。

おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。

 見えないものを見る、聞こえないものを聞く、感じられないものを感じる、考えられないものを考える・・・ということが問題にされなければなりません。

 シュタイナーによれば、この物質的世界というのは高次の霊的ヒエラルキーの反映したものであるということになります。そして、その「反映」ということについて、最も重要な働きをしているのが「火・風・水・土」という「四大霊」なのです。これらの存在について考えていくためには、これまで地球がたどってきた、「土星紀」「太陽紀」「月紀」、そして現在の「地球紀」という、転生の宇宙進化論的プロセスを考えないといけないのですが、それについては輪読会でふれることになると思いますのでここではふれませんが、単純にいうと、私たちがこうして生きている物質界というのが形成されるにあたっては最初の「神のエネルギー」ともいえるものが、「光」になり、「火」になり、「風」になり、「水」になり、「土」になり・・・というように、高次のエネルギー存在が低次のエネルギー存在へと供犠を捧げていくことがどうしても必要となってきます。その「供犠」という行為によって宇宙進化という壮大なプロセスが可能になってくるのです。

 ただ、その供犠を捧げた存在達というのは、グリム童話で魔法をかけられて蛙しされてしまった王子様のような存在で、そのまま蛙のままでいるということは、まさに「救い」がないのです。魔法をかけられた存在の魔法を解いてあげることがどうしても必要なのです。詳しいことは、またの機会にしますが、物質の中に閉じ込められたそうした「四大霊」を解放できるのは人間の働きかけ以外にないのです。それは、この物質界のあらゆる現象についていえて、太陽の運行などの季節の移り変わり、月の満ち欠け、昼と夜・・・ひいては、人間のカルマの形成、といったことにまで大きく関わってきます。

 そこで、「物と語り合う」ということに戻りますと、その行為というのを「正しく」「深く」することで、物のなかに閉じ込められていた四大霊は解放されるのです。そのときの「正しく」「深く」ということは、端的にいえば、その物の霊的意味を見て、理解してあげるということです。だから、物をいわゆる「唯物」的に見てしまうと、かえってその封じ込めを強化してしまうことになります。たから、作るということにおいても、見るということにおいても、芸術行為というのは、四大霊の解放ということが大きなテーマとならなければならないということになります。なぜ芸術があるのか、ということに深く深く関わってくる問題だからです。だから、こうした芸術が、宗教や科学といった領域とも切り放して考えることのできる問題ではないことは明らかでしょう。

 最初にいった柳宗悦さんの「妙好人」というテーマについても、その妙好人という存在そのものがそういう意味では「芸術」そのものなのです。そこには、生きることそのままが芸術であり、しかも宗教であるということが如実に示されているということになります。(妙好人については、柳宗悦「妙好人論集」(岩波文庫)参照)

 というのは、人間の宗教的感情や感謝の気持ち、勤勉さといったことが物に封じ込められた四大霊の解放のみならず、宇宙の運行に関わることにまで大きく働きかけるからなのです。以前、感謝というのは、宇宙のエネルギー循環だといったことがありましたが、まさにこうした人間の行為によって、物質を高次なものに霊化していくことが可能となるのです。

 ついでに言っておくと、生きているときに、過度な物質的生活を送ると自分という物質存在を強化し、四大霊をさらに封じ込める結果となり、その解放されない物質存在が新たな転生にあたって戻ってきます。つまり、転生輪廻の物質部分の部分のカルマと密接に関係してくるのです。反対に、正しく宗教的に生きた方というのは肉体のなかの四大霊の多くの部分が解放されていますので、そうしたカルマを形成しにくいともいえます。

 こうした考え方は、今流行のエコロジー思想の欺まんを明らかにする上でも大きな意味をもっています。つまり、唯物的なエコロジー思想は、自然をかえって呪縛しまうということで、真性のエコロジー思想というのがあるとすれば、それは、感謝に満ちあふれて物を慈しむということであると思われます。

 かなりざっとした説明でしたし、芸術の個々のあり方にはふれられませんでしたが、

僕の最近考えるようになった芸術の根底にあるものについてそのスケッチをお話ししてみました。

 

クレーとシュタイナー/色彩論の序


(92/11/08)

 

 クレーとシュタイナーについてですが、先日もお話ししたように、クレーの日記には、「きょうもシュタイナーでいっぱい」という一節があります。研究者の方がシュタイナーにほとんどふれないのは、「ふれたくない」のと「わからない」というのがその主な理由なのだと思います。

 クレーの奥さんはピアニストでしたけど、シュタイナーの弟子でもありましたし、周辺にもシュタイナーを研究していた人はたくさんいたようです。クレーの次のような墓碑名も、どこかシュタイナーとの関係をイメージさせるような気がします。

この世では私は理解されがたい。なぜなら私は生まれたるものと死せる者たちの間に住んでいるからだ。ふつうよりいくらか創造の核心に近づきはしたものの、まだまだ充分とはいえない。

 それから、こういうエピソードもあるようです。第一次大戦中に戦死したマッケという画家といっしょにチュニジアに旅行に行ったとき満月をみて、そのときに、自我とは何かということにはたと思い当たり、仲間を置いてひとりで帰ってしまったことがあります。その満月から得られたインスピレーションを基にして、宇宙の叡智と自分の自我との照応関係を考え、それを抽象画の中で表現しようとしたというのですが、ちょうどそのころシュタイナーの思想と出会ったようです。

 今紹介したことは、シュタイナー研究家で有名な高橋巌さんと志村ふくみさんの対談(アーガマNo.101所収)にあるのですが、その中で高橋巌さんは、線と色ということについて、クレーとシュタイナーの影響関係を次のように語っています。

パウル・クレーは、線と色を二つの対極のように考えていますでしょう。そこにはそれぞれいろいろな思いがこもっているように思います。色彩で宇宙を表現して、線で思想を表現するとでもいいましょうか。宇宙の思想と地上の思想というのがあって、それを色彩と線で表現しようとしていたようです。ところでシュタイナーは、フォルメン線描というものを考案していました。フォルメン線描とは、子供に宇宙の調和を表しているような幾何学的な線をひたすら描かせることで内的な心の調和を回復させることを意図したものです。クレーの線描をみてみると、シュタイナーの線描とクレーの線の思想は同じなのだということがわかります。

 ということなのですが、なかなかに興味深いでしょう(^^)。クレーの、あの線の秘密というのはシュタイナーの思想にあった、なんて。

 で、シュタイナーの「色」に関する考えは、その講義録である「色彩の本質」(イザラ書房)に述べられていまして、その詳細については、またあらためてということにしますが、それはゲーテの色彩論を基礎にして、それを霊学的な観点から発展させたもので、その内容を簡単にいうと、色彩は物質のないところには存在しないという近代科学的な考えに対して、物質の方こそ色から生じたという考えに立って、その色彩に関する論を展開しているものです。この考え方はちょっと考えるとおかしく感じますが、それを宇宙進化論的プロセスを理解すると、納得のいくものですが、まさにこれって、「仁義なき芸術論」にふさわしいと思いませんか。

 ゲーテの色彩論というのは、ニュートンが色彩を屈折率や物理学的なアプローチで探求したのに対して、光は人間の精神と同様、至高のエネルギーであり、そして色彩は光の行為であり、受苦であるといい、光を粒子ととらえていたニュートンに対し、眼は眼前の色彩に対して反対色を呼び求める性質に注目し、感覚生理学に基づいて論を展開したものです。

 シュタイナーによれば、物質界と霊界の間に色と光と熱があるといい、なかでも物質界に一番近くて、しかも霊界に通じているのが色だといいます。それから、色には、物質の表面に固定されている色と、物質から離れて浮遊している色とがあって、前者をピグメント、後者をティンクトゥーラといいます。空の色とか水の色というのはティンクトゥーラなのです。闇に光が射すと青のティンクトゥーラになり、光が闇を通すと黄のティンクトゥーラになります。そして、この二色がまじりあうと緑になります。

 この緑について、シュタイナーは

緑は生命の死せる像として存在する

 といいますが、まさにこの緑というのは不思議な色で、この色というのは植物染料としては直接得ることはできず、闇のなかの青と光のなかの黄の混合によって誕生する色だというのはとっても興味深いところです。植物はまさに緑そのものなのに、その緑が直接とりだせない。人間が手をかけてこの世にもってこなくてはならない色なんです。

 

 

新しい意識と拡大された芸術の概念


(92/12/07)

 

 ヨーゼフ・ボイスについてですが、「著作」というのはよく知りませんが、特集ものはいくつかあって、まず、今年の4月号の美術手帳の特集が「ヨーゼフ・ボイス/カオスと創造」というものでした。まだバックナンバーはあるのではないでしょうか。ちなみに、以前ご紹介したボイスの言葉を再録しておきましょう。

 「私の<拡張された芸術概念>は、自分自身を精神の中でひとつの彫刻作品にして、目に見えない本質を、具体的な姿へと育てることです。そして、私たちのものの見方、知覚の形式をさらに新しく発展、展開させていくのです。」(ヨーゼフ・ボイス)

 1984年に来日したときにPARCO出版から出されたボイスの来日全記録も、収録されている中沢新一氏のインタビューなども含めかなり参考になると思います。

それから、文献目録にも載せたことのある人智学出版社刊の「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」というのもあったりします。

 今回は、「芸術と政治をめぐる対話」から、エンデとボイスの興味深い発言部分をご紹介しておくことにします。両者の芸術に対する考え方の相違がイメージしやすい部分を選びました。

エンデ/

私たちの議論の違いは、ただ、そういう絵の存在によってもたらされる変革の作用をちがったふうに評価している、というだけなんですよね。私は、そういう絵とか、詩とか、音楽とかが存在しているだけで、もうすっかり世界が本質的に変革された、とみなすわけです。それらの作品が、いわば間接的に、まず変革をうながすというのではなく、ともかくそれらが存在しているだけで、私に言わせれば、ちがった世界なわけです。それによって世界が違ったものになる。シェイクスピアより以前の世界は、シェイクスピアの戯曲が存在している世界とは、ちがう。私の場合は極端で、シェイクスピアの戯曲がまだ存在していなかった世界があったなんて、どうしてもまともに想像できないほどです。もちろんそういう世界があったことはわかってはいるのですが、私には、アルプスがまだ存在していなかった世界を想像するのと同じくらい、むずかしい。モーツアルトの音楽によっても世界は、私にとって、ちがった世界になったのです。どこかでなにか作品がうまくできれば、音楽でも、絵でも、いや、小さな詩でもいいのですが、いい作品が生まれれば、その作品が存在するというだけで、世界は変革されるのです。というわけでこのことは、私にとって、とてつもなく重要なことなのです。たんに美的な意味においてだけではなく、それによって人類の精神の状況が別のものになる、という理由においても。これはきわめて重要なことだと、考えています。私にとっては、とてつもなく重要なことなんです。木を植えて森をつくるのとおなじくらいに。

・・・

私は、社会的な意味においても、そう言ってるんですよ。ヴァン・ゴッホのおかげで可能になった、新しい知覚は、新しい意識を導き、そして、その新しい意識が、新しい社会のかたちや、生活のかたちを生み出すんです。

・・・

ボイス/

そう、意図をもたないのはダメで、目標をもった意志が必要なんだ。つまり全体には方向ってものがあるんだ、僕の場合は。投機的なものでもなければ、戦術的なものでも、戦略的なものでもない。配列の指示なんだ。それによって証明されるのは、芸術の概念を通じてしか、人間の問題には接近できない、ということだ。もっともその場合、言ってることを理解してもらう必要があるので、みんなに理解されないあいだは、芸術の概念にしがみつく必要はない。かわりに、社会芸術って言葉を使ってさ、「これは、過去の芸術の概念ではなく、拡大された芸術の概念です。人類学的な芸術なんです」って言うのさ。そのさいには大いに助力が必要なんだよ。いずれにしてもさしあたりは、助力が必要なんだ。人びとはあいかわらず知性で考えるからね。経験できるようにする必要がある。つまりさ、「これが出発点だ。いちばん最初にやることだ。ともかくも自己変革だ」と肌で感じてもらえるように、人びとに働きかけることが必要なんだ。・・・で、自己変革をすると、ぼくは自分がクリエイティヴな存在である、創造する存在である、と肌でわかる。するとぼくは、創造する存在である自分を使ってさ、自己決定という概念を、正しい意味で、正しい立場から使うわけだ。すると、その決定する力によって社会全体にかかわる当然のフィールドが決定される。法を定めるってことさ。

つまりさ、主権者が決定する。自由を経験した者だけが、自分で主権者と名乗れるわけだからね。そしてそのフィールドで、決定がくだされる。つまり、経済の領域での「どのように」に影響を及ぼす形式が定められる。政治家のためにそれを散文でいうなら、こんなふうに翻訳する必要があるだろうね。そう、法社会学者なら、「法における形式がくだす決定が、経済の掟だ」と言うだろうね。また彼は、ボイスの意見をこう翻訳するだろうね。「経済の行為が問題になる領域に対しては、経済の新しい掟をつくる必要がある」と。

 

 

色彩の宇宙誌


(93/11/26)

 

 シュタイナーの色彩論に関連した「色」に関するなかなかの本を昨日見つけましたのでまだちょい読みしかしてませんが、ご紹介いたします。

●城一夫「色彩の宇宙誌/色彩の文化誌」(明現社/93・7刊)

 先日の「音」に関するほんの著者も嘆いていたように、この著者も、現代の色に関する表面的な感受性を憂えているようです。

「色」という字は、漢字では男女が巴状に交わった姿からきているが、英語の「colour」はラテン語の「col」すなわち、殻、外側という意味であり、単なるモノの外側を指している言葉にすぎない。かつて「色」は象徴的な視覚言語であったが、今や「色」はモノの外側に付いた単なる視覚的な役割しか果たさなくなったのである。

 この本では、歴史のなかでの色と人間の関わりあいを文化史的にアプローチしたものということで、次のような内容をもっていますが、参考文献には、シュタイナーの「色彩の本質」や今回の「色彩の秘密」も挙げられていますので、わりと面白い内容になっているようです。

「文化圏における色と形」「エジプトの色彩」「ギリシャ・ローマの色彩」「聖書の色彩」「陰陽五行と色彩」「ビザンチン帝国の色彩」「占星術の色」「ルネッサンスの絵画の色彩」「バロックの色彩」「ニュートンからゲーテ、ターナーへ」「世紀末は黄色の時代」「色の意味と文化」

 

 

鉱物絵の具の持つ色彩のシンボリズム


(94/08/0)

 

 日本画の絵の具(岩絵具)は、実は鉱物を砕いたものなんで、そういえば、西欧でもずっと以前はそうだったようですね。ですから、聖画、イコン画なんかに使った絵の具にも宇宙的な意味があったとかいうことを聞いたことがあります。

 しかし、日本画の色彩のもつシンボリズムということについて鉱物という視点から考えてみた方はいらっしゃるのでしょうか。西欧でもそういう視点は最近見直されてきているようで、ワーブルグ学派の絵画に関するもののなかにもそういうのがあったとか聞いたことがあります。たしかそこらへんの文献が平凡社からでていたような。

 

エジプト、ルネッサンスの鉱物顔料


(94/08/10)

 

 「鉱物絵具」の話がでたので、ちょっと調べてみました。ネタ本は、城一夫「色彩の宇宙誌/色彩の文化史」(明現社)です。

 エジプト壁画では、鉱物系の顔料ではこんなものが使われていたそうです。

●赤→辰砂、白斑紅石(シノピア)、硫化水銀

●黄→硫黄、黄土、黄砂、アンチモン

●緑→孔雀石(マラカイト)、エメラルド

●青→藍銅鉱(アズライト)、ラピスラズリ、アメジスト

●白→石灰、貝殻、白豆、白土

●黒→炭素

 ルネッサンス絵画で使われる顔料もこのエジプトとかなり共通していたようですね。

そのころの絵画の技法について書かれたチェンニーノ・チェンニーニの「芸術の書」という本によれば、基本色は7色であり、黒、赤、黄、緑の4色を土・火・空気・水の四元素と密接な関係をもつ自然色、錬金術的に作り出された白、青、黄土の3色を人工色としていたといいます。

 そのころ特に高価で大事な顔料とされていたのは、ウートル・メール(ウルトラマリン)の青で、聖母マリアの外套の色として効果的に使われていたといいます。

 色彩ということでひさしぶりに思い出したのは、シュタイナーの色彩論とも深く関係している染織家の志村ふくみさん。志村さんの随筆から教えられた草木染の妙、日本の色の妙。そういうことについても考えていきたいと思います。

 

 

夜−比類なき歌い手


(94/12/11)

 

 「夜」ということでまっさきに思い出したのが、ドイツロマン派を代表する詩人のノヴァーリスの「夜の讃歌」。松岡正剛氏もこのノヴァーリスを好んでいるそうですが、またノヴァーリスはシュタイナーの哲学的背景にもまた潜んでいる重要な詩人。

 ということで、このノヴァーリスの「夜の讃歌」をご紹介しようとおもっていたところ、ふと読み始めたミハイル・ナイーミ「ミルダッドの書」(壮神社)というシュタイナー的な神秘学思想を背景にしたまさに現代の福音書とでもいうべき魂の書!のなかに「夜−比類なき歌い手」という章がありましたので、それを代わりにご紹介してみようと思いました。しかし、この「ミルダッドの書」は、ほんとうに素晴らしいの一言で、今年の推薦本(これが出たのは二年前ですが)のダントツ一位に挙げたいくらいです(^^)。ほんとうはこの章をすべて、ここで歌われている詩も含めてご紹介したいところですが、あまりに長くなりますので、少しだけ。

せわしい<昼>が無頓着に消し去るものを、悠然たる<夜>は見事な魔法で復元する。月や星々は、ぎらぎらまばゆい<昼>には身を隠すのではないか。<昼>が見せかけのごたまぜの中に沈め隠すものを、<夜>はゆったり落ち着いた法悦(エクスタシー)のうちに広やかに詠唱する。草の葉の夢でさえも<夜>の合唱に感じ入る。

(ほんとうは、ここで、「夜の合唱」が入りますが、残念ながら省略^^;)

もしあなたが、<昼>のなす中傷に対して、顔を気高く上げ、眼を信念で輝かせて応えたいなら、<夜>の友情を得るよう急ぎなさい。

<夜>の友でありなさい。心を自らの生命の血で完全に洗ってから、<夜>の心の下に捧げなさい。<夜>の胸を求める赤裸々な希求を信じなさい。そして<聖なる理解>を通して自由になろうとする野望を除くあらゆる野望を、生贄として、<夜>の足下に奉納しなさい。そうした時<昼>の持つすべての槍はあなたを傷つけず、<夜>は人々の前であなたが真の克服者であると証すだろう。

熱を帯びた昼にここかしこと投げられ

星のない夜に暗闇に包まれ

道を示す足跡も標識もない

世界の十字路に投げ出されても

あなたはいかなる人もいかなる状況も恐れない。

人々や事物と同じく、昼と夜も

遅かれ早かれあなたを求め、自分たちに命令して下さいと

身をかがめて頼むだろうとの

あなたの確信には疑いの影もない。

なぜならあなたは<夜>の信頼を得たのだから。

そして<夜>の信頼を得る者は

来たるべき日にたやすく命令を下せるだろう

<夜>の心に耳を傾けなさい。なぜなら、<夜>の心のうちで<克服者>の心が鼓動してるのだから。

 こうした「夜」の声に耳を傾けるときを持ちたいものですね。昨日と今日は、こうした「夜の歌」などについて思いをめぐらせていました。


 

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