自由について


自由について

自由のよって立つ土台

選択の自由とカルマ

カルマ論について

自由のために(1)Kに寄せて/見ること

自由のために(2)Kに寄せて/自由の基盤

自由のために(3)ホスピス●個性化

自由のために(4)ホスピス●小さな父

小さな父

共苦/「苦」を共に担いあう自由

「苦」の理由

 

 

自由について


(92/08/30)

 

 「自由」というのは、僕の一番大切にしたいテーマのひとつです。本当の自由とかいうちょっと目には青くさいものを追い求めていろいろやってるようなものですから(^^)。理想やこの自由もそうですが、「手垢にまみれて原石の輝きを失っている」言葉ってたくさんあって、こうした言葉を使うと、青くさいとかカッコつけんじゃねえよとかいわれるようにさえなってしまってますが、何が悲しいといってこうした現実ほど悲しいことってないかもしれませんね。

 さて、「自由」ですがシュタイナーが生涯追求していたのもこの「自由」の獲得というテーマかもしれません。それはその哲学的主著「自由の哲学」に見られる通りです。この本のテーマはシュタイナー自らが語っているように、「芸術としての哲学が人間の自由とどのような関係を持つのか、人間の自由とは何か、われわれは自由を持っているのか、あるいは自由になることができるのか」ということにあります。

 また、シュタイナーはこの「自由の哲学」にふれながら、次のように「自由」を究極の倫理的目標として掲げています。

私は自由を、宇宙過程を表す概念として論じようとしました。人間の内部には、地上的なものだけでなく、偉大な宇宙過程も働いているのです。このことを感じとれる人だけが自由を理解でき、自由を正しく感じとれる、ということを示そうとしました。この宇宙過程が人間の内部に取り入れられて、その内部で生かされるときにのみ、そして人間の最も内奥のものを宇宙的なものと感じるときにのみ、自由の哲学へ到ることができるのです。近代自然科学の教えに従って、自分の思考を外からの明確な基準によって計ろうとする人は、自由の哲学に到ることはできません。どんな大学においても、外的な基準に頼って思考するように人びとが教育されていることは、私たちの時代のまさに悲劇です。私たちはそれによって、すべての倫理、社会、政治の問題において、多かれ少なかれ、どうしていいかわからなくなっています。なぜなら外的な明確さを頼りにして思考するのであれば、人間の行動のために思考を働かせようとするとき、思考が『直観』にまで高まる程に、自分を内的に自由にすることはできないからです。ですからこの外的に依存した思考によって、自由の衝動は排除されてしまったのです。自然法則や社会的因襲強制から脱して、自由な精神になることが究極の倫理目標です。」

 こうしたシュタイナーの自由についての考え方というのを、その用語にとらわれずにクリシュナムルティと比較してみれば、その両者が驚くほどよく似ていることに気づくはずです。ただその違いは、シュタイナーが神秘学的なヴィジョンを提示しながら、それをもとに自由を考察し、しかもその上で、政治、経済、教育、医学、農学などにみられるように、「実践」に向かう魂の育成ということを考えていたことにあるという気がします。

 僕の自由観というのは、自由の基礎としての「直観的な思考」を育てながら、それに基づいて、「選択の自由」と「創造の自由」によって自らの責任のもとに、「理想」に向かっていく姿勢ということに集約されます。

 引用ばかりになって恐縮ですが、「自由な行為」についてのとっても感動的な(と僕は思っています)シュタイナーの記述が、「神秘主義と現代の世界観」(水声社)にありますので紹介させていただきます。

人間の行為すべてが自由の性格を帯びているのではない。細部にわたるまで自己観察に貫かれた行為のみが、自由な行為なのである。自己観察が個体的な自我を普遍的な自我に高めるので、自由な行為は全我から流れ出る行為である。人間の意志は自由であるのか、あるいは、一般的な法則、変更できない必然性のもとに置かれているのかという古くからの問は、正しい問の立てかたではない。人間が個体としておこなう行為は自由ではない。人間が霊的な再生ののちにおこなう行為は自由である。人間は一般的にいって自由なのか、不自由なのかではない。人間は自由でも、不自由でもある。(中略)不自由な意志を自由の性格をもった意志へと変化させるのが、人間の個体的な上昇、進化である。自分の行為の法則性をみずからの法則性として貫いた者はこの法則性の強制と、不自由を克服したのである。自由は人間存在の事実として最初から存在するのではない。自由は目標なのである。

自由な行為によって、人間は世界と自分との間の矛盾を解く。人間の行為は普遍的な存在の行為となる。人間は自分がその普遍的な存在と完全に調和しているのを感じる。自分と他者との間に不調和があれば、それはまだ完全に目覚めていない自己のせいだと感じる。しかし、全体と離れることによってのみ全体へのつながりを見いだすことができるというのが、自己の運命なのである。自我として他者から分離されていなければ、人間は人間ではないであろう。しかし、また分離された自我として、みずから全我へと拡張していかなければ、最高の意味において人間であるということはできないであろう。本源的に自分の中にある矛盾を克服するのが、人間の本質に属することである。

 先日来、「我と汝の断絶」というテーマがありましたがその断絶ゆえの「自由」の可能性ということがここには提示されていると思います。「不二」と「二」のダイナミズムとかいうちょっとおおげさなテーマも、このみずからのうちにある「矛盾」を克服しながら成長していくという人間としての倫理的使命(^^;)の一表現として理解できるかもしれませんね。人間の倫理的使命とは「理想」を追求していくことだと思うのです。

 

 

 

自由のよって立つ土台


(92/09/04)

 

 時間の使い方というのはとってもむずかしいと思います。頭の切り替えができるというのは大切なことですが、それにとらわれ過ぎて、リラックスできないようになったり、すべてに対して感受性がにぶったりするようだと、悲しいですよね。忙しい中にも、人だけではなく、動物や植物やモノにでさえ、それを豊かに感受できる自分でありたいと僕は思っているのですが、よくそこらへんのバランスがくずれてしまうことがあります。ちなみにバランスが崩れたとき、僕は腸に集約されてでてくるようです。要するに小心ものなわけです、僕の場合は(^^;)。

 それから、「相手の立場に立つ」ということってとても大切なことですが、それが日和見につながってくると、コミュニケーションの意味が感情の調和という以外の意味を失ってきますから、やはり「イヤミ」は別として(^^;)、「あなたはこういうが、わたしはこう思う」というのは欠かせないと思います。

 自由については、いろいろむずかしい問題がありますが、たとえば「言論の自由」ということを正当に機能させる場合には、陳腐な言い方になりますが、それにともなうさまざまなレベルの「責任」を把握しておかなければ、単なるたわごとにすぎなくなります。「言論の自由」をうたうマスコミの関係者の多くが陥っている無責任症候群はなんとかしたいものですね。

 さて、ここ数日輪廻転生やカルマの話がでてましたので、それと「自由」との関係についてのシュタイナーの見解をちょっと紹介しましょう。以下の引用は、以下のものからです。

●シュタイナー:「カルマ論/カルマ的関連の秘教的考察」第一巻の一

         (高橋巌監修、志賀邦瑞訳、日本人智学協会発行)

ある人間を理解するには、その人間の魂的生活全体が正しい意味での自由に向かう傾向、自由への方向性を持っていることをはっきりと認識しなくてはならないのです。<自由の哲学>を読めば、自由という観念は正しい意味で把握するのが極めて重要であるとわかるでしょう。この著では、自由をまず思考の中で展開させました。自由の源は思考にあるのです。人間は思考の中では自由な存在であると、直接的に意識できます。

自由な人間本性という基本的事実はまさに、直接体験されうるものなのです。通常の地上生活においては、私たちはいろいろなことをまったく自由に行いますが、それらのことはしないではいられないものなのです。それにもかかわらず、それによって自分の自由が損なわれたとは感じません。(中略)

以前の地上生活に由来するもの、考慮に入れなければならないもの(中略)すべてを取りあげてみて、現在の地上生活が以前の地上生活に規定されているからといって、自分の自由が損なわれたとは感じないでしょう。

カルマ的必然性があったとしても、その人にとって自由に振る舞えること・自由の領域に属することが、個々の人間の生には無数にあります。

カルマを真に洞察するとき、そのカルマを納得できないというケースは決してないでしょう。自分の気に入らない事柄がカルマの中で生じる場合は、それを宇宙の普遍法則から考察すべきでしょう。そうすると、新しい地上生活がまったく白紙で、一つひとつを新たに始めるよりも、カルマ的に制限されたものの方が結局はよいと、だんだん思うことでしょう。なぜなら、私たちとはカルマ的存在そのものなのです。私たちの存在とは、以前の地上生活から由来するもの自身なのです。自分のカルマ的な(そのカルマと並んでまさに自由の領域があるのです)ある事柄が、それがあるがままとは違うようにしたいというのはまったくばかげています。なぜなら全体は互いに法則をもって関連しているので、一つのものだけを批判することはできないからです。

そのように、自分のカルマをなくすことはできません。私たちはカルマそのものだからです。だからといって私たちは動揺することはありません。というのはカルマは自由という行為とともに存在し、私たちの自由の行為を損ないはしません。(中略)私たち人間は歩行をします。歩く下には地面があります。自分の下に地面があるからといって歩行が損なわれたと感じる人はいません。もし地面がないとしたら、歩行ができず、下に落ちてしまうと分かるはずでしょう。私たちの自由も同じことです。自由は必然性という地面を必要とします。自由は土台の上にのぼらねばなりません。

 自由について考えるにはみずからのよって立つ「土台」をきちんと認識しようとする営為が必要であると考えているのでした。

 

 

 

選択の自由とカルマ


(92/09/07)

 

 時間の使い方ってほんとうにむずかしいですね。先週も僕は休みもないし残業の嵐という状態でアップアップしてましたが、そんなときの方がかえって時間をなんとかねん出しようとして工夫するから少ない時間の中で本が読めたり、いろんなことが考えられたりします。それにくらべて、時間がゆったりあるときの方が、なんにもできなくてただぼんやりとしてしまっているような気がします。もちろん、緊張の糸が途切れて、疲れがどっとでて眠くてなにもできないというところもありますけどね。とにかく、自分のペースにあった無理のない、しかも必要以上に怠けすぎないような時間の使い方をいつも模索していきたいものだと思っています。

 腸の調子が良くないのは僕のベースとしてある魂の傾向性が原因らしくて小学校1年のとき僕は腎臓炎で入院していろいろたいへんだったことともおそらく共通しているもので、いろんな心配事を気にやんで、それをどこにももっていけずにそれが「毒」となってたまるんだろうと思います。先日の隆ちゃんへのレスの心の五毒についての話に関連してきますが心にたまった排斥物はうまく排出できないと、だんだんたまっていきます。消化の良いものを食べるとか、こういうのが効くとかいろいろあるでしょうが、やはりまずは心の傾向性を改めるというのが先決だと僕は思っています・・・が、なかなかそれが直らないのがつらいところです(^^;)。

 でも、僕の得意な、ある種のマイナスをプラスの側面へと視点を変える、という勝手な見方を使うと、いろんなことを気にやむというのは、物事を深く内省的にとらえる可能性をはらんでいるということでもありますので、(もちろん、あくまでも可能性ですが)いきなり逆の性格になろうというのは無理が多くて、かえって良くないような気もしています。

 さて、日和見ですが、これも良くみると、調和的な性格ということでもあります。問題になるのは、決然とした判断を求められるときの優柔不断だけで、それ以外にあまり我をはらないというのは大切なことだと思います。よくいるでしょう、つまらないことでよくメグジラをたててる寛容さのない方が。やはり、いいのは「中道」だなあ、と話をもっていってしまうのでした(^^;)。しかし、「血のにじむような優しさ」って大事ですよね。それに「血のにじむようなきびしさ」っていうのも、もちろん大事です。「優しさ」と「きびしさ」というのは「愛」の両側面ですから。

 さてさて、ご質問の「必然性という地面」について。これは「自由」の存立基盤としての「カルマ的必然性」のことで、おもに「選択の自由」ということと大きく関わってくる問題です。

 自由というとすべてのものからの自由ということがイメージされますが、それはなんの制約も受けないということでは決してなくて、たとえば魚が水の中でしか生きられないように、われわれ人間が地上の上で空気の中でしか生きられないように、さまざまなカルマの制約を受けながら生きる地上生活の存立基盤に立った上での「自由」ということがイメージされなければならないと思います。その水や空気は確かに制約ではあるけれども、それを前提としている存在はその中で水や空気を自らの自由を制限するものだとはあまり思いません。

 ひとはそれぞれの課題をもって生まれ変わってきますが、その課題は他から強制されたものでは決してなく、自分がそれを必要だと感じて自ら選択した結果としての課題です。その課題、つまりカルマということを基盤にしなければ、生まれてきた意味がなくなってしまうわけです。その自らが選択したカルマ的必然性の上に立って、そこからが自由の領域になってきます。つまり、自らが生まれ変わってくるに際して自由に選択したカルマ的必然性の上で自らを高めるためにどういうような自由を選択するか、という2重の自由の中でわれわれはこうやって生きているということなのです。

 「必然性という地面」というのは、生まれて来るに際して自らが自らの課題に基づいて選択した必然的条件としてのカルマのことなわけです。シュタイナーは、自らの課題を果たせない状況で生まれてくるほうが魂は自らを不自由だと思うだろうということを言ってたりしますが、自らの最重要課題を解くことが選択の自由であり、ひいては創造の自由につながってきます。

 なぜ今自分がここにこうしている、いやいなければならないかということはカルマ的必然性と自由ということを考えれば認識可能になっていくのではないでしょうか。

 

 

 

カルマ論について


(92/02/25)

 

 基本的には、「原因」と「結果」の連鎖ということが問題であって、「カルマ」というのは、その垂直的・通時的な側面を表現しているのだと思います。要するに、「徳」を積む行為の連鎖によって、いわゆる「進化」が促進され、「業」を積む行為の連鎖が「退化」を促進し、「霊障」を起こさせる。「霊障」というのは、どちらかといえば、カルマのの共時的・水平的な側面で、同じ周波数をもった「存在」との「共鳴」によって起こるものなのでしょう。同じ「共鳴」でも、「高次存在」とのそれの場合だと、啓示だとかプラスのインスピレーションということになるようですね。つまりは、同じ周波数同士のチャネリングということなのでしょう。

 自業自得ということばがありますが、これはその通りで、自分の積み重ねてきた行為の連鎖を自分が負っているということで誰にも文句はいえないわけです。キリスト教でいう「蒔いた種は刈り取らねばならない」ということですね。

 また、「共鳴」ということでいえば、「ひとを呪わば穴二つ」で、「呪う」という行為を行ったら、その時点でその意識行為のバイブレーションを受け自分がその波動の中に入ってしまうわけです。おっしゃるとおり、「自縛霊」というのも、自分の意識のバイブレーションの「縄」で自分自身をかんじがらめにしているということなのでしょう。

 「祈り」ということは、日常生活での実践と深く関連していますけど、これも自分を一種の放送局のようなイメージで考えると理解しやすいと思います。そして、自分が発した「電波」(つまりこれが「念」ですね)の「質」によってそれが共鳴できる「存在」、他の表現でいうとその電波を受けられる「受信器」に届けられ、その届けられた先からまた「それなりの」電波が返ってくる。その連鎖によって、「徳」のベースができたり、「霊障」が起こったりする。

 カルマということが不自由そのものであるという方もいらっしゃるようですが、カルマがなければまた「自由」もない、つまり、原因がなければ結果も生じ得ないということだけは認識していなければならないように思えます。表現形態は違いますが、シュタイナーもカルマ的必然性と自由ということについて「私たちとは本来カルマ的存在そのもの」であるといった上で、こういうふうに言っています。(「シュタイナー:カルマ論/日本人智学協会発行」からの引用)

自分のカルマをなくすことはできません。私たちはカルマそのものだからです。だからといって私たちは動揺することはありません。というのもカルマは自由の行為のもとに存在し、私たちの自由の行為を損ないはしません。

そのことをはっきりさせるもうひとつのたとえを行いましょう。私たち人間は歩行をします。歩く下には地面があります。自分の下に地面があるからといって歩行が損なわれたと感じる人はいません。もし地面がないとしたら、歩行ができず、下に落ちてしまうと分かるはずでしょう。私たちの自由も同じことです。自由は必然性という地面を必要とします。自由は土台の上に昇らなくてはなりません。

 カルマ的必然性というのは、ともすれば誤解されやすく「差別」の正当化だとかいうようなレッテルを貼られがちなのですが、この「自由」ということをちゃんと考えていくためにも、この会議室で再三再四強調しているシュタイナーの「自由の哲学」というのは本当に重要な視点を提供してくれると思います。

 さて、カルマによって「徳」を積むということに関連して、「愛他」「利他」ということの意味について、この「カルマ論」のなかに、わかりやすい説明がありましたので、ついでに紹介しておくことにします。

皆さんがある前生を回顧するとします。そのときある人間にたいして良いことや悪いことをしました。死から新たな誕生までの生がその前生と今生の間に存在します。この霊界の生において皆さんはまさにこう考えるのです。ーーーー自分は不十分である。なぜならある人間に悪いことをしたからだ。その行為は皆さんの人間的価値をある程度奪います。それは皆さんを魂的に奇形にします。この奇形をまた直さなければなりません。皆さんはこの欠陥を直すものを新しい地上生活で得ようと決心します。皆さんは死と新たな誕生の間で、この欠陥を清算するものを自分の意志で受け入れます。皆さんがある人間に良いことをしたとしますと、人間の地上生活全体が(中略)人類全体のために存在すると分かります。そして、皆さんがある人間を成長発展させた場合、その人は前生において皆さんがいなかったら得られなかったであろうものを実際得ることができたのだと、皆さんは思いいたります。そんことによって死から新たな誕生までの生において、その人と一体になったと感じます。皆さんが以前その人を成長発展させたやり方に応じて、さらに作用させるために、その人を新たな地上生活で探します。

 このカルマ論というのは、やはり人類全体の進化発展ということのために私たち個々の人生があるということをさまざまなレベルから解明しようとしているということですが、残念ながら原著で1500ページにもわたる大著でまだそのほんのさわりの部分しか日本語に訳されていません。ただ、訳されている部分だけでも、なかなかの内容なので、近いうちに紹介させていただきたいと思っているところです。というのも、やはり、神秘学の機軸になるのがこのカルマ論に他ならないからでこのカルマということが理解できない限り、人間学ということ自体がその根底のところで理解しがたいからなのです。

 このカルマということが理解できたときに、おそらく仏教的にいえば「大乗」、キリスト教的にいえば「キリスト衝動」ということが、理解できるように思えるからで、神秘学の醍醐味というのもそこらへんの解明にあるような気がしています。

 

 

自由のために(1)Kに寄せて/見ること


(94/05/15)

 

 最近いろんな本を読みながら、おりにふれて考えるテーマについて、特にゴールというか結論を導き出すとかいうことではなく、いわば即興的にとりとめなく語ってみたいと思った。ゴールがないとはいっても、漠然とした大テーマは、遠くはるかにかすかに見える気もする「自由」をめぐることになるようにも思い、とりあえず「自由のために」とでもしてみた。途中、ひょっとしてそれが違ったテーマに変化する可能性もあるが、それもよしとすることにしたい。お付き合いいただければ幸いである。

 なぜか、最初はクリシュナムルティになってしまったが、それは出発点を赤裸々にしてくれるという意味であって、それは単なる出発点であることをご承知願いたい。

 ひさびさ、クリシュナムルティ(以下、K)についての論考を読む。これまでKについて考えていたことが集約的に書かれているもののように思った。そこには、Kの重要性が述べられていたのだが、やはり同時にだからこそその限界性、いやそう表現するのは適切ではないだろうから、そのどうしようもなさ、仕方のなさとでもいったものが浮かび上がってきているように思った。しかし、これを読んでそう思ったのは、僕だけなのかもしれないが。

 その論考は、次のものに収められていて、そこには「クリシュナムルティの会世話人」の大野純一さんとの興味深い対談も収められていた。また、この論考は、Kについてだけのそれではなく、「ホスピス」「シュタイナー人智学」「解放の神学」についても、それぞれそれらについて実践的に取り組んでいる方との対談とそれに基づいた論考が収められている。K以外のものについては、今回は特にふれない。

●津田広志 編著「生のアート」(れんが書房新社)

 Kは「見ること」の「自発性」について語り続けた。この著書と同じくそう思う。「見ること」のためには「受動的」でなければならない。「思考」を使い、それによって集中的目的を定めて見るのではなく、全体的受動的にみなければならない。著者はその「目の在り方」をジョージ・レナードが「サイレント・パルス」で紹介している「ハードアイ」に対しての「ソフトアイ」であるという。それは、スポーツ選手が使う目の使い方であり、「刻々と動く戦況を輪郭を設けずソフトに受容し、敵味方の動きの流動体をとらえながら自己の身体を的確に運動させること」である。

 こうしたKのいう意味での「受動的」に「見ること」は「瞑想」と同じであるという。しかしKのいう瞑想はいわゆる宗教的な技法としてのそれとは異なっているということは指摘しておかなければならない。それは「形式のない瞑想」であり、内面的な瞑想ではなく、「関係を見ながら外へ向かう瞑想」であるのである。ちなみに晩年のKはそうした「受動的」という言い方でさえ形式的であると考えたのか、その言葉を使っていないほどだともいう。

 この瞑想についての考え方は、僕自身の経験からもいえることであるし、ことあるごとに強調しておきたい点でもあるから、孫引用しておくことにしたい。

瞑想は決して終わることのない運動である。自分がいま瞑想を行っているとか、瞑想のための時間をとってあるなどということは決してできない。それはあなたの意のままにならない。あなたが組織だった生活を送ったり、あるいは特定の生活規則や道徳にしたがったからといって、瞑想の祝福が訪れるわけでもない。それはあなたの心が本当に開いているときにのみ訪れるのである。(「クリシュナムルティ瞑想録」大野純一訳)

 そういう意味では、「見ること」というのは「ソフトアイ」であり、かつまたそういうルール下で生み出されるようなものではなく、まったくの即興的なものであるともいえる。つまり、それは「条件づけられている」ことから自由でなければならないのである。(「自由でなければならない」という表現は適切ではないが)。Kは晩年にはこの「条件づけられている(conditioning)」という言い方をより先鋭化し「プログラミングされている」という言い方をするようになってるくらいである。

 この「条件づけ」はいかにしておこるのだろうか。そのプロセスを観察することこそKのいう「見ること」であり「瞑想」である。我々は未知なものに関係するとき、すぐに既知なものや社会通念や体験などでそれを処理しようとする。そうした既知なものによるパターン化こそが「条件づけ」のはじまりなのである。その条件づけによって形成される自我は、いくら「知」を積み重ねても「既知なもの」の延長上でしかありえない。つまり、どこまでいっても「未知そのものと遭遇することは絶対にできない。つまり関係と遭遇することはできない」のである。「あるがまま」をみることができなくて、その「あるがまま」と「あるべき」との間で、ベイトソンのいうダブルバインドが引き起こされる。「条件づけ」というのは、現在を見るのに常に過去から見るということになり、それによって今まさに直面している「未知」を無意識的な「外部」として放出してしまうことになる。そしてそれが条件反射化して、「抑圧」される。これによる「分裂症」の3つのパターンについて、著者は次のように解説している。

この無数の、網の目状になって日常のいたるところに潜伏しているダブルバインドを回避するために、我々はさまざまな自己防衛を行ないはじめる。まず既知の情報処理パターンで自我を防衛するのは、ベイトソンによれば「破瓜型」の人間である。つまり対人関係で杓子定規に反応し、複数のメッセージをあえて一元的に、字義どおりに解釈し自己防衛するタイプ、いわば教条主義的な人間である。第二は、自分のなかに複数のメッセージを受けて混乱する「妄想型」である。この場合は、複数のメッセージを受けすぎて判断や述語づけが困難になり、葛藤に苦しみながら、常に他の意味が隠されているのではないかと、猜疑心を妄想的に肥大させてしまう。そして第三には、こうした人を苦しめるメッセージをすべて無視してひたすら内向し、自己の内面に自閉する「緊張型」もあらわれるようになる。しかもこれら三つの「分裂病」にあらわれるパターンは、心理学の病理に還元されるものではなく、クリシュナムルティが言うように社会的な条件づけによっておこるのである。

 結局、こうした「条件づけ」「プログラミング」は、「見ること」を「過去」から引き出してくることから起こる。従ってそれから自由になるためには、自由なインプロヴィゼーション、即興としての「見ること」を実践していかなければならない。クリシュナムルティのいうように「見ることが即行なうことであり、両者は別々でない。」のであるから、常に新たに見るという「自発性」が必要である。著者は言う。

このインプロヴィゼーションは、アナーキズムやハプニングに見られる無秩序な行為とはまったく関係ない。自我のプログラミングとのミクロ・レベルの闘いをしているわけだ。その意味で<実践>(プラクティス)という伝統的な概念は、クリシュナムルティによって再構築される可能性をもつだろう。相手と全体の状況の気配を見ながら、微妙にかつ瞬発的に動くこと、あるいは動かざるをえないこと、それが教えることは、認識とは相手よりも何よりも自分がいち早く変わることである、ということだ。そうしないと相手に打ち負かされてしまう(つまり機械的反応に巻き込まれてしまう)、自分自身とその認識の位置に対して常に小さなステップを刻みながら差異と変化を加えないと、ものは見えてこないということである。……<見ること>をあえて定義すれば、それは感じる(反応する)ことではなくて、自己が変わる自己差異化、というきわめてリアルな事態を意味するのである。

 そうしたインプロヴィゼーション的な実践のためには、自我のプログラミングを全的に気づいていることが必要である。Kはそれを注意(atenntion)と呼んでいるが、それは「主体的な注意」などというものではなく、中心に「観察者」がいない気づきの状態のことである。それを「瞑想」ということもできる。そしてそれを「自然」が開示される瞬間でもあると著者はいうのであるが、それは「ただ沈黙としてある」という。Kはその「自然」の力を「アザーネス(otherness)」、「他なるものであり、形も実体もなく、世界の至る所にありながら徹底的に他なるもの/外部的なもの」と呼んでいる。

 これはいわば「自ずから起きる」という「自然(じねん)」の思想に近いのだが、Kの場合はそこに「見ること」ということが残されている。そういう「まなざし」が実現したときに「自発性(spontaneousuly)」が起き、その中にこそ真の「主体」がある。そしてその「非人称的なまなざし」は「アザーネス」からやってくる。

 

 

 

自由のために(2)Kに寄せて/自由の基盤


(94/05/15)

 

(承前)

 ざっと、Kの「見ること」「自発性」「アザーネス」といったことについて著者の考察を追ってきた。そしてこうした見方は、現代人にとって非常に重要なものだと思う。実際に十年ほど前にこうしたKの言葉にふれたときの「気づき」というのは、その後も僕のなかに確かな「種」となって育っているのは間違いないことだ。

 しかし、以前からKについて指摘してきたように、その有効性というのは、主に「条件づけ」され、自らのなかにダブルバインドを抱え込んだ、いわゆる「大人」に対してなのだと思われる。もちろん、子供であっても、条件づけによるダブルバインドによって既に内なるプログラミングを絶対化しているのであれば、それはもはや「子供」ではなく、まぎれもなく既にその部分は「大人」としてとらえねばならないのだが。

 ここで何が言いたいのかというと、人はまったく最初から「条件づけ」なしで、成長してゆけるのかどうかということである。「守破離」という発想があるが、Kの「自発性」というのは、この「守破離」における「離」にあたるものではないか。そう思われる。「離」というのは、最初の「守」、つまり「型」の修得ということが前提となる。シュタイナー教育などの視点でも大事になってくる点に、たとえば7歳からの7年+αの時期には「権威」というものがなければ、その後の人生において確かな地歩を気づくことが難しくなるというのがある。これはむしろ、その後自らを自由にせんがための魂の気分とでもいったものを作り出すための前提となるものであって、そのときの具体的な「権威」への盲従ということではないのは、誰にでもわかることである。「条件づけがいけない」ということを、生まれた子供のころから実践させていくと、人間がどのように育っていくかということを考えればよくわかると思われる。それは土台なしの家を建てようとすることに等しいのである。

 そういう意味でシュタイナーは「自我」の積極的な意味をいう。もちろんそれは、Kのいうような意味でのプログラミングされたものという意味のそれではない。魂の中心としてのそれである。中心がない「離」というのは、無秩序になってしまう。朝顔に添木なしで上に向かって成長せよ、というのに似ている。「守」なくして「離」を求めるのに似ている。

 シュタイナーのカルマ論についてもこれがいえて、それによるとカルマというのは、人間がこの地上を歩む場合の大地、魚が生きていく上での「水」のようなもので、それから自由になるということは、それ自体が矛盾しているということになる。魚を水から出してやって、「ほら、おまえは自由なんだ!」っていうのは馬鹿げているのである。

 「自由」とは、無闇なものではない。中心がない「アザーネス」というのは無意味なのである。それは「条件づけ」「プログラミング」からの自由であって、それがないところに自由はないのである。鏡で自分の顔を映すには、自分の顔をそこにもっていかなければならないように、顔がないものを鏡に映すわけにはいかない。Kの発想は、ともすればそんなお化けのような発想に飛躍しかねない部分があると僕は思うのである。それは「自発性」の基盤づくりというプロセスについての配慮が欠けている。たとえその基盤が「マーヤ」であって、最後にはそれを「見破ったり!」と言うことになったとしてもそれは必要なプロセスなのである。

 「自我」は不要なものではない。むしろ、それはその自らの条件づけについて意識し、自らの感情を「器」にするためになくてはならないのである。「聖杯の秘儀」といわれるものはそれに関連したことである。人は、自らを「聖杯」にしなければならない。その「器」こそが「自発性」に他ならず、「アザーネス」であるのである。そこには「見るというまなざし」はあるが、いっていれば「非人称」なのである。

 以前、こうした発想に近いものとして、世阿弥の「花鏡」にある「離見の見」というのを紹介したことがあるが、参考までにそれを改めて紹介したい。

いったい、観客によって見られる演者の姿は、演者自身の眼を離れた他人の表象(離見)である。いっぽう、演者自身の肉眼が見ているものは、演者ひとりの主観的な表象<我見>であって、他人のまなざしをわがものとして見た表象<離見の見>ではない。もし他人のまなざしをわがものとして見ることができるならば、そこに見えてくる表象は、演者と観客が同じ心を共有して見た表象だということになる。……したがって、われわれは他人のまなざしをわがものとし、観客の眼に映った自分を同じ眼で眺め、肉眼の及ばない身体のすみずみまで見とどけて、五体均衡のとれた優美な舞姿を保たねばならない。これはとりもなおさず、心の眼を背後において自分自身を見つめるということではないのだろうか。

        (世阿弥「花鏡」(中公バックス日本の名著10/山崎正和訳)

 この「離見の見」というのは、この引用にもあるように「我見」ではない。ということは「非人称」でもあるということではないか。そしてそれは単なる「非人称」ではなくて「見るまなざし」という中心のある「非人称」である。このことは、仏教的にいう「無我」ということにも繋がってくるテーマである。諸行無常であり諸法無我であるが故の涅槃寂静であるということ。その涅槃寂静はその言葉からイメージされるようなスタティックなものではなく、Kについてご紹介したような、「見ることのインプロヴィゼーション」であり、それは即実践である気づきに他ならないのではないか、そう思われてくるのである。そしてそこにこそ、「自由」ということが見えてくるのではないか、そう思う。

 

 

自由のために(3)ホスピス●個性化


(94/05/16)

 

 引き続き、「津田広志 編著「生のアート」」(れんが書房新社)から、そのII「病と啓示/ホスピスをめぐって」より、「生」をめぐるいくつかの問題について考えてみたいと思う。

 このII章の最初には、著者のホスピスケアを実践している生田チサトさんへのインタビューが収められている。非常に重いテーマであるが、それゆえにこそ切実な問題について考えさせられる。その中から「ホスピスを我が心の内に建てる」という生田さんが90年に活動を開始された「ホスピス ケア フォーラム」のスローガンに関連したことについて語っている部分、そしてホスピスの最終目標について語っている部分をまず紹介することにしたい。

……大きなスローガンは「ホスピスを我が心の内に建てる」ということです。この新しいフォーラムで考えたことは、まず、我々の中の死はどこにでもあるという認識があるんです。電車の中でも、路上でも、ホスピスの病院でも、家の中でも、どこにでも死はあります。でも、自分の中にホスピスが建っていないと死を避けてしまうのです。……

……自分が生きていて、命をいただいて、死んでいくプロセスはすごく難しいですが、最後に自分の霊性、タレント性に出会うのです。ユングの言葉でいうと、自我からセルフに帰るわけです。あるいは自我とセルフが統合されるのです。最後に下血したり吐血しても、しばらくすると、みんなすごくきれいな顔になりますね。…最後は天や宇宙に飛翔したという実感がありますね。喪失体験が、逆に素晴らしいものと感じられれば、最高です。…世界のために生きることが大切なのではなく、ユングのいう個性化することが大切なのです。個性化することによって、本来の自分の姿で社会や世界と出会うことができるようになります。この個性化に向かうことがホスピスだともいえます。個性化は、自分の感情の嵐に目を向け、壁を崩してボーダーレス化することです。

 「ホスピス」の語源は「もてなす」ということで、「ホスピタル」というのは、そこからきているのはよく知られている。しかしその「ホスピタル」が患者をモノとして扱い、病名というレッテルを貼り、一見その生命を守るかのようにみせながら実はその生命の尊厳を奪っていくようなシステムと化しているのは現代の最大の病なのかもしれない。これは、死者にいわゆる「引導」を渡す葬式にしても、その肝心な部分が捨象されているのと同じことである。

 ここで、生田さんが語っている「ホスピス」が、「本来の自分の姿で社会や世界と出会う」ための「個性化」にあるということのを読んだとき、はじめてその本来の意味について合点がいった。「本来の自分の姿で社会や世界と出会う」ということは、本来の自分に直面することでもあって、「死」にあたって、そのためのきっかけとなる、つまりそれが「もてなす」ことに他ならないのである。

 だから、「ホスピスを我が心の内に建てる」ということができてないといけないというのは非常によく理解できる。自分とちゃんと出会ってない人はホスピスをしても「もてなす」ことには決してならないのである。

 知人に、「仏教と医療を考える会」という仏教系のホスピスを実践されている方がいるが、そうしたことに関わっている方が、ちゃんと自分と出会っているかどうかはなはだ疑問である。このことは以前から疑問であり、そうした方々がいったい「ホスピス」と称して何をしているのかが理解できなかった。僕の知っている範囲でもそこに関わっている僧侶たちはほとんどが唯物論者である。当然、医者の多くもそうした僧侶と同じ認識の基盤を持っている。やはり「ホスピス」という以上、そうした方は「本来の自分の姿で社会や世界と出会う」ことからはじめるべきではないか。今回、生田さんのインタビューを読んでそう思った。

 

 

 

自由のために(4)ホスピス●小さな父


(94/05/16)

 

(承前)

 ホスピスの問題をさらに続ける。

 現代のホスピスというのは、近代医療の「父権主義」へのアンチテーゼとして登場してきたものであると「生のアート」の著者、津田広志氏はいう。それを最も如実にあらわしているのがイヴァン・イリイチが「医原病」と命名したものである。「医原病」というのは、「病気を生み出すように治療とケアを行う」倒錯的な医療行為のこと。

 イリイチは「脱病院化社会」でそうした現代の医療行為の諸問題について語っているが、長くなるのでそれについては、具体的には省略する。要するに医師は次第に企業家のようになり、その資本の支配が、人間の身体の延命を市場化するようになっているということにつながってくる問題である。

 こういう市場性のもとでは、人間の身体は次第にマン・マシーン化してくるようになる。「健康管理」という用語が最近ではごく自然に使われるようになているのが、それをよく表しているようである。この「管理」という言葉は、「商品管理」のように「モノ」に対して使われるものである。

 さて、本来「ホスピス」が批判している「父権主義」とはいったいどういうことだろうか。それについて、津田氏は次のように説明している。

…父権主義の特徴を簡潔に分類すると、どうなるだろう。私は次の三点にまとめられると考えている。まず第一に、医師が患者をオブジェとみなし、一切の社会的人間関係を捨象して数量的/抽象的な対象として扱うこと…、第二にそこから患者の心的世界や諸器官の全体連関を捨象して病状の判断を行い、病名をつけること(ラベリング)、さらに三番目は重要なことであるが、倒錯性をもっていること、つまり一見患者の生命と存在を守るかのように見せかけながら実は抑圧するという機能である。抽象的、審判的、倒錯的、この三つが父権主義の抑圧機能である。これを父権主義と名づけるのは、近代家族の<家>の中における父の存在によく似ていることと関連している。いうまでもなく、ここで患者はまさに<こども>の比喩である。

 危険なことに、こうした「父権主義」を批判する立場の「ホスピス」運動が、こうした父権主義を取り込み始めている。テレビや新聞でよくとりあげられるホスピス像にも、それは「感動的な風景」として描かれているような形で現れている。そこには近代ヒューマニズムの偽善性が非常に露骨に現れているといってもいい。

 では、本来のホスピス、自己の中にある父権主義(これがもっとも危険だ)に対抗できるためにはどういう在り方が求められるのだろうか。

 それについて津田氏は「小さな父」ということをいう。それはフロイトのいう「個人の先史時代の父」、ユング派のいう「父なるウロボロス」、クリステヴァのいう「想像的父」のように、母でありながら父であり、両性具有的であり、もちろん、男女を問わず象徴的に心性のなかにある。それについて津田氏は次のように説明している。

……父権的な一方的支配ではなく、<こども>に近い患者をその状態に応じて、しかもできるだけ言葉を使わずに受容する、その意味では<母>の行為である。しかし他方、必要なら言語から非言語に至る広範囲な表現を用いつつ、患者に心理的に安定した秩序を与える<父>でもある。患者の身体の様子を<母>のようにうかがいながら、同時に<父>のように秩序と身体の処し方を教える存在。それはある意味で両性具有的な存在である。……

そこで私は一つの命名をしてみたい。まず、旧来の父権主義の父を抑圧的な意味を込めて<大きな父>と呼び、<母>の要素をもちながら<父>である存在を象徴的に<小さな父>と呼びたいと思う。この奇妙な<父>が、実はホスピスにおいて非常に重要な、シンボリックな意味を果たすのではないか。

 では、この「小さな父」が心性としてなければどうしてホスピスができないのだろうか。これについては、患者がヒーリングされるというのは、他からヒーリングされるというのではなくて、患者自身の中にある「ヒーラー」をケア・スタッフの姿の中に投射することによって、自分の中で起こる、ということを理解しなければならない。

 末期患者は治療者をそれと認めるだけでは変化はおきない。この二人の間に相互的な意識の投射が起きる必要がある。治療者は患者の中に自分の傷ついた部分や影を見いだすことで患者を理解し、その反対に患者は治療者から治癒した自分のイメージを見いだす。つまり、自分の欠けた部分を相互に投射して見いだすのである。

 このように、ホスピスは医師と患者という絶対的な関係からは不可能であり、それは上記のような相互投射できる関係において、内なるヒーラーを目覚めさせることで可能となるものである。

 こうしたホスピスをめぐって提出されている「小さな父」という考え方は非常に重要である。それはもちろんホスピスだけの問題ではなく、すべての人間関係学について考えていかなければならない問題だと思われる。

 人間同士がコミュニケーションするということを考えてみよう。コミュニケーションする二人の間に相互的な意識の投射がまったくないコミュニケーションというのは、考えにくい。その投射が「傷ついた部分」や「影」ではないとしても、コミュニケーションが、相手を理解し相互に変容していくためのものでない場合、それは単なる「力」の押しつけでしかない。「大きな父」同士のコミュニケーションというのがそれだろうが、そこに生まれるのは「創造」であるとは考えられない。「小さな父」同士の相互変容のためのコミュニケーションこそが、「創造」なのではないだろうか。

 このことを敷衍して考えていくと、人間はあらゆる関係性において、この「小さな父」ということが目指されなければならないのではないか。それによってあらゆる関係は相互変容の場となり、その関係そのものが相互の「内なるヒーラー」を気づきへと導くものとなる。「エコロジー」というテーマでも、このような在り方が、基本的な姿勢となる必要がある。現状では多くのエコロジーが、「大きな父」的なものであることは言うまでもない。それは医療の現場とまったく同じこと。

 さて、最後に、「自由」についてだが、自由というためには、「他」の自由もセットで考えなければならないのは当然のこと。自由は創造のためにあるのだから、それぞれの自由にあたっては、先のような相互の変容のためのコミュニケーションが不可欠である。相手を理解し、相手のなかにあるものを自分のなかに取り入れていくこと。そしてそれを気づきとすること。それこそが「自由」の条件なのではないか。そう思う。シュタイナーのいうカルマと自由の問題もそこらへんのことがキーになっているように思われる。

 「ホスピス」とは「もてなす」こと。だから、それを自由との関係でいうと、自分も他ももてなせるような自由をもつことこそがホスピスの基本ではないか。そんなことを考えさせられた。

 

 

小さな父

(94/07/01)

 

 子供を独立した人格ではなく、当然のように自分の一部としてとらえている親がいます。自分の一部だったら、自分にできないことを求めてもしょうがいないのに^^;、それを平気で求めてしまうほど分裂的症状を呈しています。

 そこらへんのことはユングなんかのアニマ・アニムスなんかに関連した説明やクリステヴァというフランスの精神分析家医のいう「アブジェクシオン」や「想像的父」ということなどが参考になるかもしれません。ちょうどそれについては、先日ご紹介した津田広志編著「生のアート」(れんが書房新社)の「ホスピス」に関する部分が適切なことを述べてますので、それを。

…アブジェクトとは主体(サブジェクト)とも客体(オブジェクト)とも認めがたいどっちつかずの曖昧なもの、得体の知れないものである。これは物理的な現象だけをさすのではなく、精神的な表現をも示している。そして <アブジェクション>とは、このアブジェクトの棄却する心理作用のことをいう。…

もともの<アブジェクション>の対象となる「おぞましいもの」は、身体を含む母なるカオスとしての自然である。発達心理からいえば、この<アブジェクション>を通して、人間はカオスの自然から離脱し、やがて時間を置いて<大きな父>によって言葉と規範を与えられ、個体として確立するわけである。だから<アブジェクション>は<母>と<父>(<大きな父>)の中間の「境界」で行われる購いの儀式であり、その儀式の進行役が、実は<小さな父>(クリステヴァは「想像的父」と呼ぶ)なのである。さらにいえば、発達心理以外でも、病いや文化的なアブジェクト状態に入りながら、そこから救出するものこそ、<大きな父>ではなく、この<小さな父>であるのだ。

だからこの<アブジェクション>がうまく働かないとき、人は「境界症」の症状を示すようになる。つまり情動をうまく取り込むことができず、たとえ言葉を話すことができたとしても、ただ空疎な言葉、力無き言葉、偽りの言葉をえんえんと離すようになる。つまり<大きな父>によって言葉を与えられ、言葉は話せても、<小さな父>が不在であるから、突き上げてくる情動との取り組みが欠けているわけである。…あるいは、<ちいさな父>と<大きな父>の両方が不在の場合、人は<母>のなかに埋没し、パニックのように精神病的症状を示すという。だから<小さな父>の働きは、<アブジェクション>によって情動と取り組ませる仕事をすることである。<母>のように受容しながら<父>のように秩序を与え<小さな父>は、ここで愛しながら憎むという両義的機能となって、人間心性の深部で浄化を行うわけだ。

 これは、現代の、特に母親中心の過程におけるさまざまな問題の核心を浮き彫りにしてくれる重要な考え方だと思います。

 おぞましき<母>は、供がパーフェクトと見える行動をとってもそれをおぞましいとは思わないでしょうし、<大きな父>もそうは思わないのでしょう^^;。母に呑み込まれるか、それとも<受容>されない情動を不発にさせたまま、いずれどこかその解放されない冷たい受動が爆発する・・・^^;。

 <小さな父>ということを使っていうと、対処療法というのは<大きな父>もしくは<おぞましき母>です。そのどちらかしかないと人間は解放されず、麻薬中毒になって爆発!してしまうことになります。

 この<小さな父>という考え方は、「自己教育」ということと通じるところがあるような気がしますね。

 危機感から教育の必要性を再認識しようというのならいいんですけど、多くの場合、子供を所有物としか見ない母親が「教育」「教育」っていうんでしょう?あれを「人間学」だとは僕は思いたくないですね^^;。もちろん常に正しい認識をもっているかたはいるでしょうが、それがどれほどいるかというのは???でしょう。その対極には<大きな父>としての「戸塚ヨットスクール」があったりして^^;。

 どちらも「人間学」では決してないですよね。

 

 

 

共苦/「苦」を共に担いあう自由


(95/04/01 11:34)

 

 いわゆる四苦八苦などという「苦しみ」をそのまま肯定するのではなく「苦しみ」はなぜ「苦しみ」なのだろう、そしてまた、なぜ「苦しみ」というのがあるのだろう、という「なぜ」を問いかけることです。というのも、苦しみをただただ肯定するところでは、その苦しみから逃れる方向が見出せないだろうからです。もちろん、そこには「苦しみから逃れる」ということについて、それがいったいそういうことなのかという観点も必要となります。

 ぼくは、「苦しみ」の根源というのは、「個」が「全体」から切り離されているが故のものなのではないか、そして、「個」と「個」が切り離されているが故のものではないかと思っています。「私」が「あなた」に働きかけること、「あなた」が「私」に働きかけること、そういうことのなかに、「私」は「あなた」がわからない、「あなた」は「私」がわからない、ということが当然生じてきます。もちろん、「あなた」というのは、「私」のなかにもいますし、また、「あなた」は人だけではなくすべての「他なるもの」でもあります。

 しかし、ぼくの考えでは、この宇宙というのは、そういう「私」と「あなた」という相対原理によって生成しています。ですから、ある意味ではそうした「苦」を推進力として使っていることになります。

 そこで大事な観点がでてきます。切り離された「個」と「個」が、「個」の自由によって結びあうということです。「個」は「苦」ですが、その「苦」を共に担いあうという自由です。そこに「苦」の生じた深い意味があるのではないかと思うのです。そして、その「苦」を担いあうことで、「苦」はその呪縛から解放される可能性を有していきます。もはや「苦」は「苦」ではなくなってくるわけです。

 ぼくは、そうしたプロセスそのものに深い意味を見たいと思っています。「苦」を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、「苦」という現象を大いなるプロセスとして見ていくということ。

 苦しむ必要はありません。それを「喜び」としてとらえればいいのです。しかし、そこには深い深い叡智と愛が必要とされます。ぼくのような凡夫は、そういうプロセスが必要なのです。そうでなければ、「あなた」を理解できないから。

 

 

「苦」の理由


(95/04/03)

 

 「個」が「個」でしかないときに、人間は絶対的に孤独です。その孤独を抱えて人間は生きているわけなのです。わたしがあなたではなく、ほかならぬわたしであるがゆえに、わたしは孤独を抱えて生きていかなければなりません。それが「苦」の原因であり、それはたとえ「マーヤ」であろうとも、その「苦」という現象は逃れられないもののとしてあります。

 では、なぜ「苦」でなければならないのかというと、まさに、「個」が「個」であることを超えるためであるといえないでしょうか。孤独を抱えていきていきながら、その深淵を超えるためであると。

 人は、自分の苦しみにはすごく敏感です。赤ん坊はお腹がすいても、オシメが濡れても、おぎゃーと泣きわめきます。たとえ見せかけはどうあれ、人は大きくなってからも、自分の苦しみに対してはひどく弱い存在です。

 その反対に、他人の苦しみに対しては、ひどく鈍感にできています。自分が苦しいのは耐えられなくても、それに比べれば人が苦しいのは平気です。それはきれいごとではなくて、もちろんぼくにしても、ひとの苦しみを自分のそれと同じだけ感じるようなことはできないでいます。

 ぼくは思うのですが、叡智、愛、自由にたどりつくためには、ひとの苦しみをどれだけ理解し、いっしょに抱えてあげることができるか、ということが最も重要なことなのではないでしょうか。「個」であるが故に、感じにくくなってしまった「他」の苦しみをどれだけ抱えることができるか。

 それは快楽でもなく喜びでもないがゆえに、放っておけば決してできないようなことです。そのためには「個」としての「エゴ」を超えていかなければなりません。「わたし」のために、を、「わたしとあなたのために」へ、そしてもっと多くの「わたしたち」へと。

 そこに、「自由」ということの大いなる意味があり、「苦」を分かち合うという「愛」が見いだされ、そこに叡智の泉が滾々とわき出ているのではないでしょうか。

 「全体」から切り離されているがゆえに、「個」は「個」に閉じこもります。その「個」が他の「個」ともう一度結びつくためには、他の「個」を自分と同じようにとらえていくことのできる「愛」が必要です。「わたし」は「あなた」ではないということは、「わたし」の自由と「あなた」の自由が衝突してしまうということです。そこに「苦」が生まれます。その自由を自由として高次のものにすることで結びあうためには、その「苦」を互いに癒しあい、変容させなければなりません。その変容の魔術が「叡智」ということなのではないのでしょうか。


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