トルテック・ノート

 

■ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」

■トルテック・ノート1●飼い慣らし

■トルテック・ノート 2●言葉の創造力

■トルテック・ノート3●自分のこととして受け取らないこと

■トルテック・ノート 4●思いこみをしないこと

 

 

ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」


1999.5.29

 

■ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」

 (松永太郎訳/コスモスライブラリー(星雲社)/1999.4.25発行)

 

 ドン・ミゲル・ルイスは、メキシコに生まれ、母親がヒーラー、祖父がナワール(シャーマン)という家庭に育つ。伝統的なトルテックの教えを引き継ぐことを望まれたが、現代医学へと進み、外科医になる。やがて、交通事故で臨死体験を持ち、トルテックの道を歩み始める。このような経歴の著者によるトルテックの教えが本書ではとてもシンプルに表現されています。

 ナワール云々というと、カスタネダのシリーズがイメージされますが、カスタネダのシリーズがドンファンというナワールの教えをカスタネダが語るという形式をとっているのに対して、本書では、著者のドン・ミゲル・ルイス自身がナワールとしてより直接的に語っているので、カスタネダものにくらべとてもわかりやすいところが特徴だといえますし、本書は百十数ページほどの分量なのですぐに読め何度も読み返すのにもとても重宝します。しかし、カスタネダものの特色でもあるストーリー性はなくいわゆる「読物」としては物足りないかもしれません。とはいえ、これは小説ではないのでそれを求めても仕方ないですし、カスタネダもののように結局何が書かれてあるのかよくわからなくなるところもありますので、プラスかもしれません。

 本書の内容はそのシンプルさにもかかわらずとても深いので、「ノート」でその内容をいくつかご紹介してみようと思っていますが、ここでは、本書の最初に書かれている「トルテック」についてのところをご紹介させていただきます。 

 遠い昔、トルテックは「知識を持つ男女」として、メキシコ南部で知られていた。人類学者は、トルテックを一つの国家ないし種族として語るが、実際はトルテックとは、古代のスピリチュアルな知識を求め、伝えること、またその実践をおこなう一つの社会を形成する科学者や芸術家たちであった。彼らは、現在のメキシコ・シティの近くにあるティオティワカンに師(ナワール)と、その弟子達とで集まっていた。ティオティワカンは、人間が神になる地として知られる古代のピラミッドの町である。

 長い間、ナワールは、古代の祖先の智恵を隠し、その存在を表にしなかった。西欧人によって征服されたこと、弟子達が、その力を乱用したことなどから、こうした知識を、賢く使う用意のできていない者、利己的な目的のために使おうとする者たちから隠す必要があったからである。

 さいわいなことに、秘密のトルテックの教えは、何世代にもわたってナワールの様々な流派によって伝えられ、体現されてきた。何百年にもわたって、それは秘密のヴェールに包まれてきたが、古代の予言は、いずれはトルテックの教えが、人々の智恵として戻る時代が来るとしていた。今、「イーグル・ナイト」の流派のナワール、ドン・ミゲル・ルイスが、この力強いトルテックの教えを私たちと分かち合うべく導かれた。

 トルテックの教えは、世界中の聖なる秘密のスピリチュアルな伝承と本質的に同じ真実から生まれている。それは宗教ではないが、過去、この世界に出現したスピリチュアルな教師たちを敬う。トルテックの教えは確かにスピリットを信奉する。だがもっと正確には、人間の生き方を教えるものであり、幸福と愛への、やさしい道を教えるものなのである。

 

 

 

トルテック・ノート1

飼い慣らし


1999.6.2

 

 私たちは、自動的に飼い慣らされた動物である。今や、私たちは、与えられた信念システム、同じ褒美と罰のシステムに従って、自分たちを飼い慣らすことができる。私たちは、信念システムによる規則に従わないと、自分自身を罰する。そして「良い子」であった場合、自分たち自身に褒美を与える。

 信念システムは、私たちの心を支配する「法の書」である。疑いなく、「法の書」に書かれていることは、なんであれ私たちにとって真実である。私たちは、全ての判断を「法の書」に基づいておこなう。たとえ、その判断が、私たちの本性に反していると思われる場合でも、十戒のような道徳的な法でさえ、飼い慣らしのプロセスの中で、私たちの心にプログラムされる。こうした合意が「法の書」にまとめられ、私たちの夢を支配する。

(ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」コスモスライブラリー/P6-7)

 私たちは支配されている、支配されたがっている。「法」は外からきて、私たちの内なる法にもなる。檻がつくられ、それに慣れた後は、檻がなくても、私たちはその檻の中以外では生きていけないと思い込む。そしてその檻を伝えていく。

 クリシュナムルティはそれを「条件づけ」と呼んでいた。その「条件づけ」は、ほとんど先験的なものと化し、その外にでることはできなくなってしまっている。

 なぜそうでなければならないんだろう。そう問うことさえできれば、そしてそのなぜに懸命に答えていこうとさえすれば、檻の外へ出る道はおのずと開かれているはずなのに、その問いを発することそのものがタブーとなっているか、なぜと問うことそもののが不可能になってしまっている。

 私たちが自分を正しいと思い、間違っていると思う。その正しさと間違いがなぜなのかを問い直してみること。正しいものは正しいんだ!間違っているものは間違っているんだ!そういうトートロジーから自由にならなければならない。

 なぜシュタイナーが「自由の哲学」の重要性を繰り返し強調したのか。それは、まずそうした「飼い慣らし」の状態に気づき、条件づけられた道徳観念から自由になることが出発点だからだ。そこに「悪」の可能性ということもキーになる。「悪」は「良い子」になるべく条件づけられた状態に意識的になるために必要な契機なのだといえる。

 

 

 

トルテック・ノート 2

言葉の創造力


1999.6.21

 

 言葉を通じて、あなたは創造的な力を作り出す。言葉を通じて、あなたは全てを顕現させる。どんな言葉で話そうと、あなたの意図というのは言葉を通じて現れ出る。夢や感じていること、あなたの本当の姿というものは、言葉を通じて現れるのである。

 言葉は、単なる音声や文字ではない。言葉とは、力なのである。それは、表現し、コミュニケートし、考えるための力なのであり、したがって、それを通じて、自分の人生の出来事を作り出していくものなのである。(…)言葉は、人間であるあなたにとって、もっとも強力な道具である。しかし、諸刃の剣のように、言葉は、もっとも美しい夢を作り出すことができるが、同時にあなたの周りのものを破壊することもできる。片方の刃は、間違った言葉を使うことであり、それは地獄を作り出す。もう片方の刃は、正しい言葉を使うことであり、それは美、愛、そして地上の天国だけを作り出す。使い方次第で、言葉はあなたを自由にもするし、自分で考える以上に、奴隷にもしてしまう。あなたの言葉は、純粋な魔術であり、間違った言葉を使うことは黒魔術なのだ。(…)

 ゴシップは、黒魔術の中でも最悪のものである。それは全くの毒だからである。私たちは、合意の上で、ゴシップを交わす。子供の頃、周りの大人がしょっちゅう、ゴシップをしているのを聞いている。大人たちは、単に他人に関する意見や考えを言い合っているのだ。知らない人に関する意見や考えまでも、言い合う。感情的な毒は、意見や考えに乗って流れていく。私たちは、こうしたことを正常なコミュニケーションとみなしているのだ。(…)

 長い間、私たちは、他人のゴシップやまじないを受け入れてきたが、それは私たちが自分に対して使う言葉にも言えることなのである。私たちは、常に自分たちに対して話し続ける。「ああ、私は太っている。私は醜い。私は年をとった。私は、髪が薄くなった。私は馬鹿だ。私はなにもわからない。私は決して完全ではない」と言い聞かせているのである。いかに私たちが、自分たちに背く言葉を使っているのか、おわかりだろうか。

(ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」コスモスライブラリー/P21-35)

 仏陀の「八正道」のなかに「正語」というのがありますが、正しく言葉を使うということがいかに重要なことかがそれでもわかります。「言霊」という考え方があったのも、ほんとうの名前を隠して、自分をだれかに操られないようにしたのも、言葉にはそれだけの力があるからなのだといえます。

 そして、その力についてどれだけ自覚的であるかによって、その力が人にそして自分に作用するものから自由であることができます。自由であるということは、選択の自由であり、また創造の自由ということでもあります。まさに、言葉は現実を創造していくのです。言葉は魔術そのものなのだすから。

 人と人との間のコミュニケーションをつくるためにも、また壊すためにのも、言葉はとても重要な働きをします。たとえば、ほんのひとことの「ありがとう」という言葉が深い人間関係のはじまりとなり、感情の赴くままに発した不用意なひとことが人を傷つけ、人と人との大切なつながりをだいなしにしてしまいます。

 ゴシップはあまりにも無自覚な黒魔術にもなりえます。無邪気に交わされるゴシップ。たわないない言葉の数々。それらの言葉が現実を創造していくことになります。そうしてそういう黒魔術によって創造された現実を人はまるで外からやってくるものであるかのように受け止めます。

 マスコミで垂れ流されている多くの言葉も、立派な黒魔術になりえているのだということにも気づく必要があるように思います。ゴシップのためのゴシップ。それを人は消費しています。自分には直接関係ないにもかかわらず、あの人がどうしたこの人がどうした。それらの言葉の毒が垂れ流されそれを人が呑み込みます。その黒魔術的悪循環。

 そうして言葉は自分をも創造してしまいます。私は○○○だ、と言い続けていると人はそういう○○○になります。ごくごく単純なこと。しかしその単純なことに人は気づかず、自分がいかにつまらない存在かを嘆き、そういうつまらない存在になり、そうしたそのつまらなさを隠すためにお金をほしがり権力をほしがり名声をほしがることになります。そうして自分を人に認めさせようとします。ほんとうはまず自分が自分を求めることが大事なことなのにもかかわらず。

 予言の数々も、そうした予言の言葉そのものが現実を創造しているのだということに気づかなければなりません。予言が当たるのではなく、予言の言葉を信じてその言葉通りの現実をつくりあげてしまうのです。

 

 

 

トルテック・ノート3

自分のこととして受け取らないこと


1999.6.24

 

 あなたが、なんでも自分のこととして受け取るのは、あなたが言われたことになんでも合意するからである。合意した瞬間、毒はあなたに回る。そして、あなたは地獄の夢に捉えられる。あなたが捉えられたのは、自分のことを重要だと考えているからである。自分を重要だと考えると、あるいは物事をなんでも自分のこととして受け取ることは、究極的な利己主義である。なぜなら、その場合、前提となっているのは、全てのことは自分に関することだ、という思いこみだからである。教育を受ける間、あるいは飼い慣らしの期間の間、私たちは、なんでも自分のこととして受け取ることを学ぶ。私、私、いつも私。

 他の人がどうあろうと、それはあなたのせいではない。それは、他の人たち自身のせいである。全ての人は、それぞれの夢の中に、その心の中に生きている。私たち一人ひとりの住む世界は、全く違うのである。私たちが物事を自分のこととして受け取るとき、私たちは、他の人が私たちの世界について知っているという思いこみを持っている。そして私たのは、私たちの世界を、他の人の世界に重ね合わせるのだ。

 状況が、あまりに個人的なものとなったとき、たとえば、誰かが直接あなたを侮辱したような場合でも、それはあなたとは関係がない。彼らが何を言い、どんな考えを持とうと、何をしようと、それは彼ら自身が自分の心の中で結んだ合意によるのである。彼らの視点というのは、飼い慣らしの期間に受けたプログラミングに基づいているのである。

(ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」コスモスライブラリー/P39-40)

 「私である」「私がある」ということについてくどくど、つらつらと考えてみることにする。

 「私」というのは、考えれば考えるほどにむずかしい。「私」はいつも「私」をはなれることができないからだ。そして「私」はいつも価値のある存在であることを求めている。いや価値があると人に認められたがっている。さらにいえば、自分はひとよりすぐれていると思いたいし、思われたがっている。

 すべての人は重要でありかけがえのない存在であるというのは事実なのだけれど、そのことを知っていれば自分が認められないという不安は薄れることになる。問題は、自分はひょっとして価値のない人間だと人に思われていはしないか、人より劣っているのではないか、そんな不安を抱えて生きているものだから、あらゆることが自分のせいだと思いこんでしまうことになることだ。

 すべての人は重要でありかけがえのない存在であるということは同時にすべての人はあらゆる責任を有しているということでもある。神はすべてのすべてであるのだからすべてに関して神は当事者であるということと同じである。しかしそこに他者はいない。だからその他者との比較でなにかが問題になるということはありえない。

 天上天下唯我独尊。私は私である。そこには私以外の存在はいない。だから、人からなにかを言われるということはありえない。すべてに関して私は当事者である。だから自分がひとと比べて重要だということはありえない。

 「自分のこととして受け取らないこと」というのは実践的な視点である。すべてを自分のこととして受け取ることで毒をくらってしまうという視点は、すべてひととの比較においてでてくる視点である。だからひとから侮辱されることで打撃を受けてしまう。すべての「私」はその「私」が「私」であるということにたえられず、すぐにそこに他者との比較を持ち込んでいく。けれど実のところそこに「他者」は存在していないのだ。そこにあるのは幻の他者にすぎない。その幻の他者にむかってドン=キホーテのように喜劇的に突進する。そこにあるのは自分の投影なのだ。だから人が投影したものについて、それを自分だと思いこむ必要はない。

 そう思う必要があるのは、他者のいなくなった天上天下唯我独尊であると自分を認識し得たときに限られる。そのときすべては私であるがゆえにすべてに私は責任を持つ。表現をかえれば、「すべては愛である」。だから「私」は貶めれることも、逆に人よりすぐれていることもない。

 ともあれ、「私」というのは、やはり考えれば考えるほどにむずかしい。「私」はいつも「私」をはなれることができない。「無私」というのは多くの場合、「私」の煩わしさを放棄しただけだし、それはいわゆる「エゴ」の裏返しになっているにすぎない。そういうときの実践的な観点として重要なのが「自分のこととして受け取らないこと」なのだ。高次の「無私」は「すべてが私である」ということになるからその場合、他者は存在しなくなるのだけれど、そういう境地にはなかなかなれっこないから、人があれこれいうことを自分のことだと思わない方がいい。人のことをあれこれいう人は決して高次の意味で「無私」な人ではないのだから。「自分のこととして受け取らないこと」というのは一見、、当事者意識をもたないとか自己責任を省みなくてもいいというふうにとられてしまいかねないところがあるのだけれど、実際のところはその逆なのだ。

 

 

 

トルテック・ノート 4

思いこみをしないこと


1999.6.25

 

私たちは、ほとんど全てのことに思いこみをする癖がある。思いこみをすることが問題なのは、私たちがそれを真実と信じるからである。私たちは、思いこみを本当だと言い張る。他の人がやったり、言ったりすることに思い込みをし、それを個人的に受け取って、他の人を責め、自分たちの言葉に感情的な毒を盛り込む。私たちが、思いこみをする度、問題を呼び込んでいるのはこのためである。私たちは思いこみをする。私たちは、誤解をする。私たちは、個人的に受け取る。こうして私たちは、何でもないことから、大騒ぎのドラマを作り出すのである。

(ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」コスモスライブラリー/P39-40)

 人は物語が得意だ。自分のつくりあげた物語を自分で演じている俳優だ。問題はそれを自分がつくっているという自覚がないこと。その劇場で、脚本家かつ主人公として活躍していることを知っているならばとってもスリリングで楽しいはずなのに、ジタバタすることのほうがどうも多くなってしまう。

 思いこみというのは、自分勝手な物語のこと。物語は自分だけがつくっているのではなく、他の人もつくっているのだけれど、自分の無自覚な物語だけが真実だと勘違いしてしまうのだ。

 思いこみをしないためには、まず仏教の八正道でいう「正見」ということが必要だ。色眼鏡でものを見ないこと。あの人なら、この人なら、同じことがどう見えるのか。それを冷静に考えてみること。自分ならそんなことはしない、自分ならそんなふうに考えない。そんなことだけしか見えなくなると、いわゆる独善になってしまう。

 思いこみというのは、個人単位だけなく、集団でもよく起こる。「そういうことになっている」とか「空気が決める」というのもそうである。世の中はおしなべてそういう集団単位の思いこみで満たされていて、たいていのことではそういう思いこみに逆らえるものではない。世の中の常識というものの多くは、ちゃんと考えてみれば、おかしなことがたくさんあるのだけれど、それを疑っては生きていけないのだ。科学は真理であるというような非常に危険な思いこみまでふくめてそれらに疑問を呈することは、多く物議をかもすか、悪くすれば、ほとんど奇人扱いされてしまうのがおちだ。

 世の中で生きやすいのは、自分の思いこみはほどほどにしておいて、そうした集団的な思いこみに巻かれながら、そのなかでうまく立ち回ることで、そうしたい人は、当然のごとくそうしているわけだけれど、どうもぼくの性格からすれば集団的な思いこみには逆らうことが多い。当然のごとく、とても損をすることが多いのだけれど、ま、性格はいたしかたないらしい。

 ともあれ、自分のつくりあげている物語にできるだけ意識的でありたいとそう思う。


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