エソテリック心理学ノート

4【自己観察】 (2007.8.18)

   要するに、われわれはわれわれ自身を観察しなければならないのである。
  これは単純に聞こえるが、しかし断じてそうではない。まず第一に、ほとん
  どの人は、単に自分がしたり言ったりしているかもしれないことに気づいて
  いるがゆえに、自分自身を観察していることをもちろんのことと思っている。
  その種のことは真の自己観察ではない。われわれが言う意味で自分自身を観
  察できるためには、人は自分自身をいわば二つに分け、自分の内なる「何か」
  が、残りのパーソナリティ=人格が何をしているかを観察できるようにさせ
  なければならない。人は、これをおこなうことができる潜在的な力を生み出
  さなければならない。あらゆる人は自分のなかにその潜在的な力を持ってい
  るのだが、われわれのほとんどは終生けっしてそれを利用しない。われわれ
  自身の一定の部分をして残りの部分が何をしたり言ったりしているかを見守
  り、観察させるようにするこの能力は、自己知というわれわれの目標に向け
  ての最初の実際的な一歩である。パーソナリティが何をしているかをわれわ
  れが実際に見ることができるまで、われわれは以前にした間違ったことをし
  続けるだろう。
  (…)
   自己観察によってわれわれはわれわれ自身の機械性、日常生活へのわれわ
  れの単なる反応、そして、首尾一貫した一個の完全な存在である代わりに、
  われわれは単に相反し、相容れない複数の「私」のかたまりにすぎないとい
  う事実に気づかされる。これは、実際、どの個人にとっても受け入れるのが
  大変なことがらである。が、人がそうする覚悟ができないかぎり、<ワーク>
  が要求するあのわれわれ自身についての理解を得ることはまったく不可能で
  ある。われわれが討論していることに関連して用いられる<ワーク>の他の
  重要な教えは、人間は眠っているということであり、そして<ワーク>の目
  的は彼を目覚めさせることである。
  (ハリー・ベンジャミン
  『グルジェフとクリシュナムルティ/エソテリック心理学入門』P.41-45)

わたしたちは、ほとんどロボットである。
ほとんど自動化しているコンピューターといってもいい。
こうしてキーボードの前で入力している「私」は存在しているものの、
ほとんど自動化されている状態であるともいえるだろうか。

コンピューターそのものには「意識」はない。
さまざまなソフトウェアが組み込まれ、
さまざまに作動し、さまざまに機能してはいるが、
コンピューターはただ動いているだけであり、
プログラム部分に、または作動のプロセスにエラーがあれば
機能しなくなってしまうだけのことである。

わたしたちのパーソナリティとして機能している「私」は
さまざまなソフトウェアを組み込んで動いている、動かされている。
それぞれのソフトウェアはそれぞれ別々に作動していて、
同時に使用することがあったとしても、ソフトウェアは別のものである。
しかし、「私」はさも、同一の「私」であるかのように思い込んでいる。
そして、それ以外に「私」が存在することに気づけないでいる。

私たちは、生まれてこの方、
さまざまに条件づけられながら、
それをひとつひとつソフトウェアとして自動的に機能させ、
その条件づけを意識することなく、
それらが働くがままの状態を続けている。
なぜ、自分がそうしているのかわからないままに
「そういうものだ」「そうなっている」ということで生きている。

そういう状態で、「自己観察」を行なうということは
ほとんど不可能であるにもかかわらず、
(理由になっていない)理由をさまざまに自分に納得させ、
自分で自分のことをわかっていると思い込んでいる。
まるで催眠術にかけられた状態で、不可思議な行動を刷り込まれ、
その行動が起こることに対して別のさまざまな理由を挙げたりさえするように。
(ほんとうは、ただ無意識に強制されているだけなのである)

わたしたちは、ほとんど眠り込んでいる。
さまざまなことを無意識に強制されていることに気づかず、
自分ではちゃんと覚めていると思いこんでいる夢遊病者のように
ロボットのように生きている。
そういう状態で自分を観察することは非常にむずかしい。

「自己観察」を可能にするためには、
まず、自分がいかにプログラムされているかを
ひとつひとつチェックしていく必要がある。
そのチェックも、自己満足的に擬装されたチェックではなく、
存在を震撼させられ、世界観が根底から覆るほどのショックである必要がある。

本来、「思考」というのも、そういうことを踏まえていなければ、
単に自動化された想念にすぎない。
「頭で考えるだけではなく実践を」という場合にも
そういう意味での「思考」を踏まえた「実践」であるならば、
その前提には真の「自己観察」なしでは成立しないことがわかる。
「自己知」のない「実践」は単なるレミングの暴走なのである。