エソテリック心理学ノート

3【想像上の「私」】 (2007.8.17)

   グルジェフ・システムによれば、われわれが自分自身と呼んでいるものは、
  単に想像上の存在または錯覚にすぎない。それはなんら存在しないのである
  ーーわれわれ自身および他の誰の目にも、それはまったく現実的で、確かに
  堅固に見えるかもしれないが、それが錯覚に基づく安定した連続性を与えら
  れるのは、単に、その間ずっと用いられているのが同じ身体であり、同じ精
  神と感情だという事実のゆえなのである。
  (…)
   ゆえに、グルジェフ・システムの第一の目的は、かれらが常にかれら自身
  だと思っている「私」はーーグルジェフ・システムでは「想像上の私」とし
  て知られているーー単に想像上のものであることに気づかせることである。
  いったいわれわれがこの根本的に重要な事実に本当に気づけば、自分自身に
  対するわれわれの態度が変わりはじめるであろう。われわれが自分自身に対
  する態度を変えないかぎり、そして変えるまでは、想像上の人間から真の人
  間ーーわれわれ自身への意識的で首尾一貫した働きかけの結果われわれの人
  生に生じる安定的で確固たる何かを備えた人間ーーへのわれわれ自身の変容
  の基本的要因であるあの自己知を身に付け始める可能性はない。
   (…)
   現代心理学は、本質的にパーソナリティまたはいつもの(日常の)自己ー
  錯覚に基づいた、または想像上の「私」ーーにーーまたそれにのみーー関わ
  っている。従来の心理学がーーわれわれがまさにしているようにーーわれわ
  れの「自己」を構成しているとみなしているのは、この錯覚に基づいた「私」
  なのである。 
  (ハリー・ベンジャミン
  『グルジェフとクリシュナムルティ/エソテリック心理学入門』P.34-38)

パーソナリティはペルソナ、仮面。
人はさまざまな仮面を被っている。

仮面以外の自分のことはわからないまま、
仮面を被った顔を自分だと思っている。
そしてその仮面はひとつではない。

たとえば、役割によってつける仮面は異なってくる。
役割とまでいかなくても、対する人によって、
つける仮面はさまざまな形や色や音色をもっていて、
それを半ば自動的につけかえていたりもする。

そのペルソナを心ゆくまで楽しむことはできる。
物語を読み、映画を楽しむときなど、
その登場人物になりきるときの私もまたひとつのペルソナ。
それらの体験も私というペルソナをさまざまに彩り
ときに変容させてくれることもある。

しかしそれらペルソナは
舞台の上で演じられている私であることを忘れてはならない。
舞台の外の私はその演じている私ではない。

この地上においては、演じるのはペルソナであるため
ペルソナを自分だと錯覚してしまうことになりがちであり、
それ以外に自分があるなどとは露ほども思えなくなってしまう。
バーチャルリアリティそのものが現実だと思えるようになるのである。
それは地上を離れてもなかなか脱ぎ捨てることの難しいペルソナになる。
仮面が顔にくっついたまま、外れなくなってしまうホラーのように。

もちろんペルソナにはペルソナの大切な役割がある。
舞台の上に演技する人がいなければドラマは展開できない。
自分だけでもなく、いっしょに演技する役者たちもまた同じペルソナである。
しかしそのペルソナ同士のドラマが終われば、仮面の下の顔の世界がある。