エソテリック心理学ノート

0  【秘教と顕教】 (2007.8.16)

エソテリックesotericは、秘教的。
それに対して、エクソテリック exotericは、顕教的。

シュタイナーの神秘学/人智学は、
秘教を公開したという意味では、顕教的な位置づけになり、
それ故に、「シュタイナー教育」の受容も生まれたわけだが、
その秘教的な内容は、多くの場合、うやむやにされてしまうことになっている。
その受容者の大半が、秘教-顕教の違いさえわからない、顕教的な人たちだからだ。
つまり、秘教は顕教を包むが、顕教は秘教を容れる余地がないわけである。
宗教における、密教と顕教の違いも同様である。

秘教の公開は、
秘教を秘教のままにしておこうとする立場にとっては言語道断の行為であるが、
(古代においては、秘密の漏洩は、死罪をも意味するものだった)
秘教が秘教だということがわからない人たちにとっては、
それは単によくわからないか、眉唾物でしかなく、
実際のところ、影響を持ち得るところまでゆくには途方もない道程が必要となる。

シュタイナーによる秘教の公開が特別だったのは、
それが、教育や農業、医学といった応用分野において、
さまざまな実践がなされ得るものだったからである。
哲学において、プラトンが対話編のようにイデアの世界の披見をなしたのに対し、
アリストテレスが、自然学や詩学など、学の世界に哲学を導いたのにも似ている。
しかし、アリストテレスの学的実践だけを見る者にとって、
プラトン的イデアの世界への理解が失われてしまいがちであるように、
「シュタイナーの実践」と称するさまざまな活動からは、
その根底にある霊学が失われてしまうことは予想しやすいことである。

さて、先日、書棚を少し整理していたところ、
押し入れの奥から、
ハリー・ベンジャミン『グルジェフとクリシュナムルティ/エソテリック心理学入門』
(大野純一訳/コスモスライブラリー 1998.3.3発行)
という本が出てきたので、ぱらぱらと読み直してみたら、
その内容が、シュタイナーの神秘学を受容する前段階における、
秘教的な態度の基本のところを見直してみるために格好の内容であるように思えた。

もちろん、そこには、シュタイナーの著作等を通じてしか知ることのできないような
「これが知りたかった!」というような内容が盛りこまれているわけではないものの、
『神智学』や『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』といった著作を読む 以前に必要な
「エソテリック」な認識態度がわかりやすく示唆されているように感じた。
そこで扱われているのは、グルジェフとクリシュナムルティに添った内容ではあるが、
「エソテリック」な態度についていえば、基本的にいって、
シュタイナー受容において必要な部分は共通しているように思われた。

本書の原題は“BASIC SELF-KNOWLEDGE”だが、
実際のところ、基本にあるのは「汝自身を知れ」ということこそが、
秘教の基本だともいえるわけである。
秘教と顕教の違いも基本的にはその点にあるといえる。
顕教の場合、“ SELF-KNOWLEDGE”が、
単に“KNOWLEDGE”だけになってしまうわけである。

シュタイナー受容をそうしたかつての顕教にしてしまわないためにも、
この本を使いながら、その“ SELF-KNOWLEDGE”という態度について
思いつくままにメモをしていこうと思う。