武道論


武道の宇宙進化論的ビジョン

武術から宇宙へ●松田隆智

ヘリゲル●日本の弓術

エックハルトと武士道における自由

マーシャル・アーツ●武術の霊的次元

禅の道とヨーロッパ神秘主義

恐れを見ること&「道」について

 

 

武道の宇宙進化論的ビジョン


(92/03/17)

 日本では昔から、声を見たり、匂いを聴いたり・・・という伝統があって、自然の素材から染色を行う草木染めをしてる方の話を読んだりすると、染色というのは単に「色」を「見て」いるだけではないことがさまざまな角度から語られていることが多いですね。色は自然を見、聴き、触れ、嗅ぎ、味わい・・・といった五感以上の感覚でとらえられているようです。

 最近、茶人の柳宗悦さんの本や、染色家の志村ふくみさんなんかの著書をはじめとした日本的な美の世界をちょっとばかしのぞいているのですが、予想以上にこれらの世界は宇宙的な広がりをその内に有しているようで、必然的に五感プラスアルファをクロスオーバーするようです。これって、シュタイナーの世界のようですけど・・・。ちなみに、シュタイナーは、12の感覚ということを区別しています。

 自分の感覚でいうと、やはり五感プラスアルファのクロスオーバーということは特に芸術に関わる場合にはよく起こっているようで、もちろんこれは絵画を聴いている!と明確に報告できるほどではないけれども、全体感覚としては、かなりクロスオーバーしていることは事実です。というのも、感覚器官というのは、特定の振動数をもった波動をかなりゆるい範囲で受けとめるためのもので、本当は裁然と分かれたものではないようなのです。だから、中国の超能力少年の話を聞いたことがありますが、掌が視覚をもつ場合などということはよくあることらしいです。

 今思いだしたのですが、あの縄文土器というのも、掌で見ると、すごいエネルギーを発しているらしいです。

 で、また自分の例に戻りますと、昨日、シベリウスのシンフォニーの6番を聴いたのですが、あの波動というのは単なる「音」ではないことがわかります。あの北欧の景色や匂いや人の感情やらがめくるめくように描かれていました。視覚的なシンフォニーというと、マーラーやブルックナーなんかはそうですね。

 絵画を「聴く」例でいうと、僕はクレーやカンディンスキーが大好きなのですが、特にクレーなんかの絵は、もろ音楽!って感じしますね。そういえば、クレーの音楽性についての本がでてましたね。大体が、僕の絵画を「見る」基準は、その音楽性にあるとさえいえるかもしれません。

 ここらへんは、僕のずっと関心のある神秘学の基本テーマで、シュタイナーの「超感覚的認識」というのも、この延長線上にあるといってもしいかもしれません。イマジネーション認識、インスピレーション認識、イントゥイション認識とかいうことがシュタイナーではいわれたりしますが、それぞれ視覚、聴覚、それを超えた直感をベースとした認識形態で、それらの認識をもとにして、シュタイナーは教育や芸術や医学や農業など、さまざまな分野で大きな功績を残しています。要するに単一の感覚ではなく、全感覚を統合し、それらを超えた認識というのを精神科学として提示しようとしていたわけです。

 シュタイナーのことばかりになってしまいましたが、五感プラスアルファをクロスオーバーするのが芸術的な世界の楽しみのような気がしています。

 さて、芸術の本来の意味も「響き合い」にあるということを現代人はこれから少しずつ理解する、というよりは少しずつ思い出しながら「宇宙愛」に目覚めていかなければならないのではないでしょうか。その方向性に行かなければ日本はおろか地球全体が衰退の方向に行くのははっきりしているような気がします。

 この「響き合い」ということこそが、身体性と精神性との接点でもありますからこれからも探求していきたいと思っています。

 さて、ここで「武道」的宇宙論を紹介させていただきます。

 あの「メビウス身体気流法」の坪井香譲さんの「武道と<宇宙的>愛のヴィジョン」(今回も神秘学カタログ(河出書房新社)より)という記事のなかから、21世紀へと向かう私たち現代人にとっての武術、武道の意味を探るなかで見いだされた「宇宙と生命のビジョン」を通底音とした身体やそれに関わる精神のあり方としての5つの<身体の文法>というのがありましたので、それを紹介します。 

(1)「重力を束縛から祝福へと転ずる」

直立二足歩行。幼児の直立。人類は重力を克服して立ち上がり、両手を自由にすることでヒトとなった。身体上のそうした事件をはじめ、身体の動きは、人間の意識にまで変化させ、可能性を開かせるものである。武術もこの重力の活かし方が、技の力を決め、独自の叡智を秘めたものとする。 

(2)「呼吸を活かすこと」

あらゆる動作は呼吸のリズムと深い関係にある。最も身近な自然のバイブレーションである呼吸は、「おのずから」でありながら「みずから」であるという両側面があり、「自然である人工、人工を通しての自然として、あらゆる<行>の原点を見てゆける。また、武術における呼吸というのは、瞑想における静 的なものとは異なる、動的側面をもつものである。 

(3)「気---(巡らせ、養い、集中し放つ)」

医学上での人体中の気の巡りである<経絡>はある程度観察されているが、<体の内部の気>と風水の気のような<外>とのかかわり方の構造についてはまだよくわかっていない。坪井さんは、「体の内の気の循環の道のリズムと、天体の運行のリズムとが、時間、空間において、一定の構造でつながっていることを見いだした」そうである。 

(4)「時・空間のドラマ」

すぐれた武術には、三次元のなかだけで力や速さを争うのではない要素がある。「ルネ・トムが手時提示するような、時空間のカタストロフィ的なしかも瞬間的転換があり、その中でこそ信じられないような技がなされるのではないか。(中略)そこに時空間へ新しい目をむけるべき現代・未来人へのヒントがある。」 

(5)「声、言葉(神道的にはコトダマ)、○△□六角形などのカタチ(中略)、螺旋、無限記号、あるいはトポロジカルな転換作用をもつメビウスの環、ないしクラインの壺等々の要素が入ってくる。武術ばかりでなくあらゆる身体技にこうした要素が互いに分かちがたく関りあい融合して働く。」 

「それはもはや己れ一個の技や力の優劣にこだわる領域を脱け、自己のみが宇宙に目覚めるといった人格<完成>の世界をも超える。世界と人がその本相では活々と多用多重に共存してこそ、世界が深い喜こびと共に生成発展することに目覚めさせるものなのだ。そこで私たちの武は旋回する<光の舞>のようになるだろう。光は<無限速度>へ入る時の<有と無>の<間・はざま>にある。」

 この「光の舞」の世界は、もはや「個」の世界ではなく、それをはるかに超えた、「個」がそれを包み込む「世界」とともに生成発展していく「無限高速」の世界であり、その世界では、宇宙進化の「進歩」と「調和」のそれぞれの原理がそれぞれの原理を高めあいながら螺旋状に乱舞している。それこそが真性の「目覚め」でもあるような、そんな世界。そして、その「目覚め」は、目覚めそのものが「供犠」の行為でもあり、「利自即利他」の行為でもあり、だからこそ、それは崇高な祈りそのものでもある。

 「<光速>を通ることによって時空間の束縛は突破される。東西の神秘家達のサトリのときに必ず<光>が伴っていることを思いおこしたい。この光をしるものは、無限定の<愛>に目覚める者になるのだ。人間も自然も、意識も身体も、すべてそれらは透明な<光>と化し、宇宙大虚空に透化してゆくのである。そして人は時々刻々新しく世界へ向かうものとなる。宇宙と共に進化するものになるのだ。」

 「もっと光を」といったのはゲーテですが、「光」を観るということは高次の悟りの世界をかいまみることでもあります。そこでは、もはや自と他も、また意識と身体も別のものではなく、まさに自らが「光」そのものと化しているのかもしれませんね。そして、その向かう方向は宇宙進化という大きな流れに沿っている。

 

 

 

武術から宇宙へ●松田隆智


(92/03/19)

 

 「武道」ということを考えていたら、劇画「拳児」で自らの修行歴をモデルにしたこともある中国武術で有名な「松田隆智」さんの対談集「魂の芸術/武術から宇宙へ、松田隆智対談集」(福晶堂、昭和63年)を読んだことがあるのを思いだし、拾い読みしていたら、これがなかなかに面白い。そこで、簡単にこの本の内容と松田隆智さんの「武術」に関する考え方を紹介します。なお、この会議室の議論の流れからは、「武術」ではなく、「武道」という名称を使いたいとは思いますが、この本では一貫して「武術」という名称が使われているので、それを使います。

 この対談集は、中国武術の専門誌「武術」(福晶堂)に1986年9月号〜1988年6月号まで「文武双全対談」として連載されていたものを収録したものだそうです。

 まず最初に、対談集の最後に載せられている「21世紀に向かう武術」というテーマで著者自身が武術に対する考え方を語っている箇所がありますので、それ引用します。

「真の愛とは欲望から離れて大きく全体的にそそがれるものであり、この世の生きとし生ける物から、宇宙のすべてに広がるものだ。

武術の修行を通じて『宇宙的な愛』を知ることこそが、21世紀における武術の意義であり、社会的な価値でもあるものと思う。

 少なくとも頭を丸めて経文を暗記するだけで、悟りきったような顔のできる宗教家よりも、苦練を積まなければ勝利を得ることができない武術家の方が、心を真剣の境地においているのであり、苦練を経験し耐え抜くことによって多くのものを学び、やがて真の安らぎを得ることができるだろう。その時こそ、武術は”魂の芸術”となる。

 いかなる分野の芸術家も、真の芸術家であるならカルロス・カスタネダのいう”戦士”であるはずで、ましてや武術を学ぶ者は武術家である以前に戦士であるべきである。

 武術を殺敵護身の戦闘技術として、徹底的に集中して苦行を続け、やがて苦行から解放された時こそ、心は宇宙に広がって行き、”真の戦士”となれるだろう。

 武術が他の芸術と匹敵できるものなら、武術自体が音楽にも文学にもなるはずであり、また逆に音楽や文学を学ぶことによって武術自体が高次元に上昇していくはずであり、”万法帰一”となるはずである。殺的護身の本質を失わずに、格闘技から芸術に到れば、武術は伝統文化として確立するだろう。

 長い間、自分は武術の純粋性にこだわりつづけてきたが、今ではいかなる物とも調和できるようになったばかりか、良い文章を読んだり、良い音楽を聞くと、それだけで自分の武術が高次元に上昇するような気がするようになった。

 芸術は人に感動をあたえ心を豊かにするものであり、武術家も技術家を第一段階とし、それを超越して芸術家の域を目指してこそ、21世紀における存在意義ともなるだろう。」

 シュタイナーは芸術、学問(科学)、宗教の融和ということを一貫して説いています。そして、彼にとっては教育も芸術でなければならず、ひいては人生それ自体が芸術でなければならないことを再三強調しています。やはり、宇宙進化ということを背景にした、あらゆる営為というのはそれ自体が芸術そのものでもあるということであって、それはオイリュトミーにもみられるように、身体性や精神性その他諸々が高次の芸術として融和した状態というのが、「イデア」としてイメージされているのではないかと思えるのです。

 この松田隆智さんも、「武術」という身体性を中心としたテーマから結局は、その武術としての純粋性を超えて、高次の次元へと高められたテーマへと次第次第に「上昇」していき、宇宙的な観点での「武術」を探求するようになってきたようです。この高次の武術のことを松田氏自身、「武芸」と呼んでいるようです。

 「本来の『芸』とは『技術の究極の形』つまり『最高の境地』を意味する語であり、それは『真、善、美』である。したがって『武芸』とは『武技』と『武術』が真(真理)にかない、善(最良の方法)になれば、自ら美(機能美)を持つはずであり、『技術』が『芸術』に到るまでには、必死の境地での絶えざる努力が必要である。」

 さてさて、この松田隆智さんの対談集は、とにかく対談の相手と内容が多彩ですので、目次にある対談相手とその対談のテーマを書き抜いておくことにします。もし、この中でどれか関心のあるものがありましたら、改めて詳しくその内容を紹介させていただくことにしますので、コメントください。 

1)吉福康郎/拳法の秘密を科学で解明

2)坪井香譲/○△□メビウスの環、宇宙の動き

3)土取利行/自然の音、神のリズムと至高の武術

4)高橋賢/美術と歴史、神秘と虚偽と真実と

5)ジョー小泉/ボクシング、連打とショートとKOパンチ

6)夢枕獏/「発勁」パワーと「伝奇」パワーの接点

7)中沢新一/苦行を超えると愛が見えてくる

8)トニー・チェン/革命戦士の拳法が生き続ける知られざる中国武術インU.S.A

9)アラン・マラトラ/伝統の対極拳はピラミッドの頂点だ

10)高橋京三・高橋厚吉/鎧を貫く当て身の威力

11)張世忠/波乱万丈!大陸を駆け巡った八極拳の高手

12)金澤弘和/真の空手は宇宙の法則の具現化だ

13)細野晴臣/宇宙に広がる。未来の音、未来の拳法

14)胡桃沢耕史/マンドリン片手に世界を放浪、マフィアに監禁された直木賞作家

15)鎌田東二/風の谷のナウシカを目指す、太陽に入門した若き神道学者

16)小島章司/ジプシーの神に魅入られたフラメンコの戦士

17)河野亮仙/インドの文化に心を学ぶ青年僧

18)スタンレー・プラニン/新たなる次元の扉を開く合気道

19)吉福伸逸/呼吸を命綱にして自己の魂を探検する

20)海老原博幸/世界を制覇したカミソリ・パンチ

21)津本陽/日本武道の真髄を追求する剣豪作家

  *植芝盛平をモデルにした「黄金の天馬」という小説があります。

22)ミルフォード・グレイブス/アフリカ戦士の伝統を受け継ぐドラムの神様

  *両手両足がそれぞれ別のリズムで動く「ヤラ」と呼ばれる武術を創始。

 武術や拳法については、漫画の読者の域を出ませんが、その向かうべき方向性については真剣に考えていきたいと思ってます。

 

 

ヘリゲル●日本の弓術


(92/03/23)

 

 武道というテーマを考えながら、本屋さんをのぞいていたら、かの有名なヘリゲルの「日本の弓術」(岩波文庫)が目に止まりました。分量も少ないのですぐ読んでしまったのですが、やはり名著(というより、名述か)だけあって、なかなか含蓄の深いものでした。この「日本の弓術「というのは、ヘリゲルが来日した際、阿波研三氏について5年間学び、故国ドイツに帰り、行なった講演で、エックハルトに代表されるドイツ神秘主義と日本の禅などとの関連を示唆しながら、弓道の本質に迫ろうとしている著者の精神が伝わってくるようです。

 この本を読んで昔のことを思いだしていたのですが、実は僕の兄は高校生のころ、弓道部に入っていて、そういえば、弓道というのは、的に矢を当てるのが目的ではない。的に当てようとする心が道を妨げる・・・なんて、兄が聞きかじったことを得意げに話していたことを思い出しました。そのわりには、兄は単純理系的科学主義的思考に染まっているようですが(^^;)。

 それはともかく、この講演録の要と思われる部分を引用します。

 「弓を引く前には、まず初めの儀式が行なわれる。それはきまった歩数だけ進んで、射手が次第に的と相対する位置に来るのであるが、途中で立ち止まっては深く呼吸をする。それから射手が弓を引く構えをすれば、その時すでに、完全な沈思に成功する程度まで精神が統一されている。一旦弓を引き絞れば、沈思の状態は決定的となり、引き絞っていればいるほど沈思は深められ、その後の一切は意識の彼方で行なわれる。射手は、矢が放たれた瞬間に初めて、ふたたび、しかも漸次にではなく不意に、我に復る。忽然として、見なれた周囲が、世界が、ふたたびそこに在る。自分が抜け出していた世界へ、ふたたび投げ返された自分を見る。自分のからだを貫き、飛んで行く矢の中に移ってはたらきつづけるある力によって、投げ返されたのである。このようにして射手にとっては、無と有とは、内面的にはどんなに異なっていても、きわめて緊密に結びつけられるのみならず、両者はたがいに頼りあっている。有から無に入る道は、かならず有に復って来る。それは射手が復ろうとするからではなく、投げ返されるからである。」

 弓術(この講演録では、弓道ではなくそういう表現がされてるが、意味はスポーツとしての弓ではなく、「道」としての弓です)というのは、この講演録の他の場所でも述べられているように、禅僧が行なっている「神秘的な沈思法」と同一の境地を目ざしでいるようです。

 「実際に、無と有との間には、あるいは理解をいっそう容易にするため構わず言ってしまうならば、神性と現世の生活との間には、完全な忘我と明瞭な自己意識との間と同一の、断ちがたい関係がある。非有の中の有の経験が自己の経験となるのは、無我の境に移された者が自己存在の中へ、死者が生成の中へ幾度でも投げ返され、そのようにして、自己の存在の軌道を越えたはるか彼方にまで意義を有するものを、自己自身について経験する、ということによるしかない。」

 「非有の有」という神秘的な境地というか経験としての弓術というのが述べられているわけですが、こうした弓術の精神を明かにしようとした試みは、「神秘説のもっとも内面的な本質を射中でようとする一つの試み」でもあって、シュタイナーの思想へとつながっていくマイスター・エックハルトなどのドイツ神秘主義などについて禅などとの関連でよりよく理解するためにも、こうした武道についての認識を深めることは、かなり意味深いことのような気がします。

 ドイツ神秘主義といえば、ちょうど岩波文庫でエックハルトの遺産を受け継いだ、ドイツ・バロック時代を代表する神秘主義的宗教詩人のシレジウスの「シレジウス瞑想詩集」(上・下)が刊行されたところです。

 このシレジウスをはじめ、エックハルトやベーメ、パラケルススなどについてのシュタイナーの著作、「神秘主義と現代の世界観」(白馬書房)があります。それから、エックハルトについても、これも岩波文庫で、「エックハルト説教集」というのがでてますので、興味のある方はぜひどうぞ。

 さてさて、話を戻して、ヘリゲルですが、この講演の中で、日本の武士道精神について述べたところがありますので、最後にその箇所を引用しておきます。「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」につながる見解をみせていて、なかなか興味深いところです。

 「仏教ならびにすべて真の術の錬磨が要求する沈思とは、単純に言うならば、現世及び自己から決別ができ、無に帰し、しかもそのためかえって無限に充されることを意味する。これが幾度も修練され、実際に経験されるならば、そして決定的に理解された思想としてではなく、意識的持ち出された決意としてでもなく、意識的に持ち出された決意としてでもなく、非有の中の現実の有として生きられるならば、これは死をも、これは死をも、また意識しながら死んで行くことをも、沈思そのものに対するように少しも恐れないあの自若とした落ち着きを生み出す。じじつ、人間の生存がただ数瞬にして取り消されるものにせよ、あるいは持続するものにせよ、いずれにしてもそれは、非有の中の有の実現に移されることに変わりはない。

 同時に、ここにかの武士道精神の根本がある。日本人がこの精神を己にもっとも特有なものとするのは当然と言ってもいい。そのもっとも純粋な象徴はS朝日の中に散る桜の花びらである。このように寂然として内心揺らぎもせずに生から己を解き放つことができるというそのことこそ、終わりが初めに流れ入る生存の、唯一ではないが究極の意義を示し、かつ開示する。」

 武士道、禅、ドイツ神秘主義、シュタイナーを貫いて流れる共通した「精神」について理解を深めていきたいものです。

 

 

エックハルトと武士道における自由


(92/03/23)

 

 前回簡単にふれたドイツ神秘主義の源泉であるエックハルトですが、その「説教」の中心には「自由」ということがありました。武士道が実は最高度の自由の表現であるということは以前に述べたことがありましたが、この武士道の自由とエックハルトの自由ということにはどこか共通性があるように思われますので、そこらへんについてちょっとばかり見ていくことにしたいと思います。

 ちなみに、三島由紀夫の「葉隠入門」(新潮文庫)には、武士道の考え方を集約しているこの「葉隠」が自由という理想を追求していたことについてこう述べられています。

 「かくて常朝が、『武士道といふは、死ぬことと見付けたり』というとき、そこには彼のウトーピッシュな思想、自由と幸福の理念が語られていた。だから今日のわれわれには、これを理想国の物語と読むことが可能なのである。私にも、もしこの理想国が完全に実現されれば、そこの住人は、現代のわれわれよりも、はるかに幸福で自由だということが、ほぼ確実に思われる。しかし確実に存在したのは、常朝の夢想だけである。」

 シュタイナーの自由の哲学と武士道とを比較して 

人間の普遍的な存在の行為の格率というのが「武士道」ということであり、それによって「大義」に目覚め、それを実践することがおおいなる「自由」を選択し、自由な人間になることではないでしょうか。

 ということを述べたことがありましたが、この武士道に対して、エックハルトの説く自由とは、「離脱」というあり方によって説明されています。この自由へのアプローチは、もちろんキリスト教的な神秘主義の色彩が強いので、安易に比較するのも誤解のもとではありますが、そこはそれ、神秘学遊戯団故のクロスオーバーということで、武士道の理想との比較によって、ある考え方の共通性を見ていただければと思います。

 「『内なる貧しさ』のなかで外的、内的一切の束縛から解かれ自由であるようなあり方をエックハルトは『離脱』と名づける。エックハルトの説くこの『離脱』というあり方は、世を捨て隠者となり山深く、あるいは荒野で独居するようなあり方ではなく世界のまっただ中にあって活動しつつ、心の平安と自由の内に不動にとどまりつつ生きるあり方である。アウグスティヌスの説く『外なる人』というわれわれの感覚的欲望や、身体的はたらきは人を限りない悲しみや苦しみの淵へと陥らせる人間の有限性と弱さとを語る者であるが、エックハルトの場合は、この『外なる人』を禁欲的苦行によって押さえ込こもうとするのではなく、『内なる人』すなわち精神の不動性によって、苦しみや悲しみの内にあっても、同時にその苦しみや悲しみを高く超え出たあり方のあることを説くのである。所有という物との関係にあって、その物にとらわれずにあるあり方、苦しみや悲しみのただ中にあって、苦しみや悲しみを超えた不動性に立つあり方、そういった高い「自由」がくりかえし説かれている。」(エックハルト説教集「解説」(岩波文庫)より)

 ユングはエックハルトについて、「自由な精神の木に咲く最も美わしき花だ」と評したそうですが、こうしたエックハルトの思想というのは、苦しみや悲しみや物欲などのなかにありながら、それらを超えて生きる限りない自由ということを強調しているようです。これらの考え方かたすると、山のなかで修行にあけくれている行者さんのような方は自由でも悟りでもなんでもなく、単なる逃避であることが明かですし、平常の生活の中で、しかも執着から自由な人間ということの大切さが身にしみて理解できるようです。

 精神世界のビジネスマンたちは、おそらく山に逃避はしなかったものの、多くの場合、今度は「所有」ということに深くとらわれる傾向性を深く深くもつようになっているようですね。悲しい堕落です(^^;)。

 シュタイナーによれば、神秘体験によって得た輝きが自己陶酔的なものであれば偽りの神秘体験、完全に明るい自己意識のなかで体験され、おのれをむなしくした暖かい愛の力があふれでるなら本物の神秘体験である、ということですが、前者の偽の神秘体験またはどこか正常さを欠いた神秘体験ということが世には氾濫しているようですね。後者のような真性の神秘体験であれば、あの宮沢賢治のような「うちうのあい」がそこから輝きでるはずです(^^)。

 さて、自由ということについてさらに考えていくことにしますが、武士道やエックハルトにみられるような行為というのは、結局は、自分と世界との間の関係を最高のものにするためのものであるようです。

 「自由な行為によって、人間は世界と自分との間の矛盾を解く。人間の行為は普遍的な存在の行為となる。人間は自分がその普遍的な存在と完全に調和しているのを感じる。自分と他者との間に不調和があれば、それはまだ完全に目覚めていない自己のせいだと感じる。しかし、全体と離れることによってのみ全体へのつながりを見いだすことができるというのが、自己の運命なのである。自我として他者から分離されていなければ、人間は人間ではないであろう。しかし、また、分離された自我として、みずから全我へと拡張していかなければ、最高の意味において人間であるということはできないであろう。本源的に自分の中にある矛盾を克服するのが、人間の本質に属することである。」(シュタイナー「神秘主義と現代の世界観」より)

 宇宙から自我によって切り放されている人間が、苦しみや悲しみや物欲などを克服しながら最高度の自由を獲得する行為が「普遍的な存在の行為」であり、それが「進歩」と「調和」という原理を最高度に併せ持ったということでもあり、それによって「最高の意味において人間である」といえるのでしょうね。

 いつも理想ばかり語って実質が全然伴わない愚かな悲しい存在ではありますが、理想だけはいつも最高度の自由の門前に置いておきたいと思うのでした。

 

 

マーシャル・アーツ●武術の霊的次元


(92/04/05)

 

 平凡社の「イメージの博物誌」シリーズが新たに刊行されはじめていますが、その第3回の配本、ピーター・ペイン著「マーシャル・アーツ/武術の霊的次元」がでました。

 「大極拳から合気道まで、武術の背後にあってその強さを支える心身観・修行観とは何か。理論と実践に通じた著者が、真の達人の境地を探求するスピリチュアルな身体技法論」ということですが、訳者も解題で述べているように、西洋人としての著者が、日本を含む東洋が誇るべき高度な文化としての武術を包括的にとらえ、現代に位置づけようとしたという意味では、「誤解や思い過ごしを含みながらも、どれほど熱心に東洋について勉強しているかを教えてくれる」非常に示唆されるところの多い書であるような気がします。

 先日来武道、武術について見ているだけに、図版も多いこのイメージの博物誌シリーズからの、特にスピリチュアルな側面からのアプローチというのは参考になります。

 この「マーシャル・アーツ」の内容構成を簡単に紹介すると、

1)技術的側面 

2)霊的・心理的修練としての武術

3)体・エネルギー・心・霊性

 というもので、2)では「霊の戦士」として、カスタネダとドンファンの「死の自覚」についての場面が紹介されたりもしています。また、3)の最後には、「修行を十分に積めば、小さな自己は消え去ってしまう。意識は、もはや誰にも属さない。属すべき個人そのものが消えてしまうのだから。そのとき意識は『客体』ではなく『私』そのもの、時間と空間を創造し、意識と存在と愛の本質たる『普遍的な私』なのである。」と締めくくった後で、植芝盛平の言を引用しています。 

「さて、いかにしてあなたはねじけた精神をまっすぐにし、心を清め、森羅万象の営みと和すことができるか。まず神の心をあなたの心とすべきである。それは宇宙のどこであれ、いかなる時であれ<遍在>する<大いなる愛>そのものである。『愛に調和ならざるものなく、愛に敵すものなし』。調和せざる精神、敵の存在を抱える思考は、神の意志に適うものではないのである。」

 さて、「イメージの博物誌」のシリーズ。

今回の第3期は、「眼の世界劇場」「ミステリアス・ケルト」という2冊がすでに刊行されていますが、ずっと以前、もう10年以上前になると思いますが、このシリーズの第I期、第II期も非常に興味深いテーマが満載されていますので、僕も全部はもってませんが参考までにご紹介しておきます。 

1)占星術/天と地のドラマ

2)神聖舞踏/神々との出会い

3)夢/時空を超える旅路

4)魔術/もうひとつのヨーロッパ精神史

5)霊・魂・体/小宇宙としての人間

6)錬金術/精神変容の秘術

7)螺旋の神秘/人類の夢と怖れ

8)タントラ/インドのエクスタシー体験

9)タオ/悠久中国の生と造形

10)魂の航海術/死と死後の世界

11)ユダヤの秘儀/カバラの象徴学

12)時間/過ぎ去る時と円環する時

13)龍とドラゴン/幻獣の図像学

14)地霊/聖なる大地とお対話

15)生命の樹/中心のシンボリズム

16)スーフィー/イスラムの神秘階梯

 

 

禅の道とヨーロッパ神秘主義


(92/06/20)

 

 「禅」と「ヨーロッパ神秘主義」との比較に関連したことについては、以前、オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」若干紹介したことがありますが、同著者による「禅の道」(講談社学術文庫)という著書があって、そのなかでかなり興味深いことが述べられていますのでそれを紹介してみたいと思います。

 実は、ここ数カ月、ある地方誌にビジネスマン向けの精神性をテーマにした小文を連載していまして、来月のテーマが「禅」ということでもありますので、それにかこつけた「お勉強」なわけであります。いつか書き込みする余裕がないときにでも、余興のひとつとしてこの会議室にでもUPできればと考えています。ちなみに、その今までのテーマは「仏教」「孔子」「武士道」「神道」でした。

 さてさて、肝心のヘリゲルの「禅の道」。ここには、ヨーロッパ神秘主義と対比された禅の独自性についての興味深いヴィジョンが提示されています。 

禅においては、ヨーロッパ神秘主義の場合とは異なり、<人間>が中心的な位置を占めることは断じてない。それに反して、ヨーロッパの神秘主義においては、恍惚とした至福をもたらす<神秘的合一>(unio mystica)は、人間に約束された特典と見なされている。あらゆる存在者の中でも、人間が、人間のみが、その資格を有しているのだ。神秘的合一を達成することによって、人間は、世界内存在という境位を脱却するのである。そのように脱却すること、自己を忘じ、ついでその自己を再発見すること、死してのち再生することが、<脱−自>(Ex-tasis)と呼ばれる。その時、人間が再発見するのは、根本的に譲ることのできない自己(Selbst)という自らの本来的な中心である。つまり自己は、<合一>(unio)において止揚されるにもかかわらず、やはり依然として保持されているのである。神(Gott)において、もしくは<合一>を触発するものや触発する場をヨーロッパ神秘主義が名づけて呼んだ神性(Gottheit)においては自己は、究極的には滅却されることなく、救済され、恩寵に与り、証されるのである。二元では合一はもたらされないが故に、単に一時的に脱自が求められるにすぎない。すなわち神は、自らの独立独行の能力を究極至極の犠牲として捧げ、もはや抵抗しない魂の中にのみ生まれ給うからである。神の誕生が成就されたあかつきには、魂は、神によって全権を賦与された中心として、あたかも自転する車のごとく、自立自存の生活をおくるのである。

 それに反して、<禅>においては----自覚的か否かは別にして----人間存在そのものが脱自的(ekstatisch)、離心的(exzentrisch)である。人間が、自らを自己(Selbst)として感得し、自己を高めて、実際には決して到達できないにもかかわらず、可能な限り完全に近づけようと努めれば努めるほど、<存在>(Sein)の中心は−−−−もはや----人間自体の中心ではなくなり、人間は決定的に、その中心から踏み出してしまい、ますます掛け離れて行くのである。(中略)禅においては、<合一>(unio)は、帰郷を、今は失われている根源的状態の回復を、意味する。そのため、人間が、動植物や他の一切の存在者と同じように存在の中心を拠り所として生きていけるようになるためには、自らの離心的(exzentrisch)なものを一切否認する道を取らなければならない。

  こうした比較を安易にその他のあり方に比較することは慎まなければならないとしても、こうした両者の比較というのはさまざまなことを考えさせられるのに十分です。

 シュタイナーの方法論は、あくまでも「思考」ということが核にあります。もちろん、その「思考」はアストラル的なものに引きずられた類のものではなくあくまでも「純粋経験」としての「思考」であって、自分ということを離れた高次の認識形態なわけですが、その「思考」によって獲得される高次の認識のプロセスはどこまでも「人間的」なあり方をとどめるものです。そして、その認識獲得の人間的なプロセスに意味を見いだしているようです。

 シュタイナーはアトランティス後の時代を、いくつかの文化期にわけて、現代までのそれぞれを蟹座、双子座、牡牛座、牡羊座、魚座の時代とし、さらに今後水瓶座に時代が到来することになるといいます。

 「蟹座の時代の人間は、世界を幻と見た。双子座の時代の人間は世界を実在するものとして見たが、世界は人間に対峙するものだった。牡羊座の時代の人間は、世界の中に神的な法則を見いだした。牡羊座の時代の人間は、自然界に人間精神の刻印を押した。そして、魚座の時代の人間は、自然の法則を物質に刻印している。つまり、自然界の法則を研究し、その法則を利用して、物質に手を加えているのである。(中略)魚座の時代の文化の特徴は、人間個人の精神を尊重するものであり、そこでは、自然の関係に基づいた愛ではなく、魂と魂の関係が大切なものになってくる。(中略)

今日では、人間の精神力が物質的な欲求を満足させるために使用されている。そのようなあり方を克服して、東方の霊性と西方の知性並びに個体主義とを結合することによって、つぎの時代が準備されていく。」(西川隆範:シュタイナーの宇宙進化論/P133〜134)

 シュタイナーは基本的には西洋的な知性及び個体主義をベースにした認識を高めながら、ヨーロッパ的な神秘主義を克服しようとしていましたが、晩年には、東方的な霊性としてのイントゥイション認識やそうした認識と深く関係する日本精神というか日本的霊性に注目していたようです。ですから、西洋的な「自我」をベースとしながらも、それによる認識を高めながらしかも東方的な霊性ともクロスできるような認識のあり方というのはますます大切なものとなっていくような気がします。

 日本的霊性であるとそのままいうことはできませんが、先の「禅の道」では禅仏教者の認識のあり方についてこう表現されています。「思弁によって目を曇らされることのない禅仏教者にとっては、神秘主義本来のものは、数多、相対、差別を超越しているばかりでなく、単一性と数多性、同一と差異、絶対と相対という対立項すら超越しているのだ。」(P185)

 こうした、西洋的な「知」のあり方のプロセスを通らずそのまま高次の認識を体得しているようなあり方に、近代的な「自我」のプロセスを経て到達するという、人間から神へと向かう秘儀に、僕は限りない魅力を感じています。もちろん、どちらのあり方も、「正しい認識」をめざすという意味では同じであるといえばいえますが、これはそれぞれの魂の傾向性が指向するものなのかもしれませんね。

 

 

 

恐れを見ること&「道」について


(92/08/16)

 

 「恐れ」ということについて、考えてみたいと思います。

 「恐れ」というのは「不在」というところにその基盤をもっています。つまり、「現在は明確に存在していない」ということです。何がいいたいかというと、あらゆる「恐れ」は、「現在」ではなくて「過去」または「未来」にあるということで、それをプラスの方向に持っていくためには、「現在」に生きることが不可欠です。多くの場合の「恐れ」は、顕在的であれ潜在的であれ、過去の記憶にその源泉を持ち、それを「ひょっとしたらまた○○○なのではないか」と未来に向けてそのパターン化した思考を投影していることが多いものです。だから、その「現実」を自ら創り出してしまっているというのが本当のところだと思うのです。

 「現実」というのは自らが創り出しているということを心底から納得できるようになれば、「恐れ」を創り出しているのも自分だと受け入れることができるようになり、そうした状態から解放されていくはずです。そうでなければ、「恐れ」は悪循環の鎖を決して解くことはないでしょう。

 こう言うことは簡単なのですが、現実に沸き上がってくる恐れというのは「さあ、僕は過去にとらわれずに、現在を見つめるんだ」と思ったとしてもこれまでについた「恐れ」の惰力というのはなかなか弱まってはくれません。少しずつ少しずつ「見る」ということを実践していく。つまり、「幽霊の正体見たり・・・」ということで、その都度恐れを見定めていきながら、いつもリラックスしているという意識状態でいられるようにするのが一番のやり方かもしれませんね。

 ちょっとこれは余談になりますが、クリシュナムルティの話になります。持ち上げたり批判したりいろいろ申し訳ないですが、今回はクリシュナムルティをちょっとだけ批判しておくと、クリシュナムルティも見ることで恐れから解放されるようなことをいいますが実際にはクリシュナムルティのいうようにすると、多くの場合かえって呪縛される結果になります。「見る」ということについてはOKで、素晴らしいことなのですが、その見方が「否定」を通して「見る」ということなので解放されずに否定の否定の否定の・・・・というふうな悪循環になってしまって、クリシュナムルティ自身は「否定から肯定的なものが生まれる」というのですが、大抵の方は「肯定」に行く前にへたばってしまって、悲しい否定イメージを抱えて身動きとれなくなってしまうのです。もちろん、クリシュナムルティのいっていることは正しいのですが、現実の精神の経済学とでもいう視点が欠けているわけなのです。そして、クリシュナムルティ自身も僕のイメージではいつも悲しさをたたえているということは、「肯定」までいっていないのではないかと思うのです。

 「恐れ」を解決していくのには、肯定イメージによる条件付けと否定に否定を重ねていくやり方のふたとおりがあるのかもしれないけど、否定ではない「見る」というやり方によるプラスへの方向付けがわれわれのようなふつうの精神力しかもっていないタイプには「経済的」で経済対効果もかなり燃費がいいのではないかと考えています。でも、どっちにしても、恐れの直接的原因を「見る」ことは欠かせないと思います。

 こうした恐れの解決法について簡単な視点がまとめてある本がありますので紹介しておきます(すぐ本の紹介になるけど、その方が簡単だからというのがあります・・・済みません(^^;))。

●ジェラルド・G・ジャンポルスキー:愛と恐れ(VOICE) 

ただ、この本、100%おすすめというわけではありません。とりあえず、副題に「愛は怖れをサバ折りにする」とあるようにその心構えについての概略を見るのに都合がいいということです。

 さて、武道についてですが、高度な精神性が求められるようになったのはやはり「禅」の影響ではないでしょうか。ただ、多くの場合は武道は武術に過ぎませんし、茶道は「茶の湯」にしか過ぎません。禅にみられるような本来の自由の境地にたどりついたものだけが「道」と呼ばれるのにふさわしいように思えます。

 ただ、武術を武道とし、茶の湯を茶道としていくような高度な精神的営為というのは確かにあって、こうした理想の境地に僕は注目してみたいなと思っているわけです。

 この「道」ということについては、以前からずっと注目していて一度はちゃんとそのコンセプトを整理してみたいとは思っているのですが、なにしろ、老子も「道の道(い)うべきは常なる道にあらず」というように言葉で説明できるような道は本当の道ではないというのは真実だというのもあって方便の方便とでもいうべき程のものでもなかなかまとめることもままなりません。

 今は少しずつこの「道」の考え方について、たとえば、寺田通さんの「道の思想」(創文社)などに沿って考えているところです。その中でこの日本の「道」の寄ってきたるところについて簡単に概略を示しているところがありますので、紹介しておくことにしましょう。

 「まずはじめには、ごく自然に口から出、筆端に流れ出たはっきり意味の限定されていない『道(みち)』という言葉があった。それよりかならずしもあとではないが、明瞭な意味内容を持つ分類名称として『道(だう)』の語があった。今昔物語のいう『明法道(ミャウボウダウ)』や『兵ノ道(ツハモノノダウ)』がそれで、これらに抹香臭さはないが、これが仏教にいう六道を通過界域でなく到達界域と静止的固定的に、日本的に考えたときその『道』と重なりあうことは疑いえない。ついで『道(だう)』とみずから名告げることはしなかったが、そう呼ぶのにふさわしい修行の純一の要請される、ひたすら向上をのぞむ中世の『道』が来た。これはその必至の帰結であるかのように師弟関係を招きよせ、この関係によって強化され、従って外形化され、中世末から近世中葉にかけて目立つところの『道』となって、地歩お固める。

 こういう経過を通じて、多岐多端な『道』ではあるが、その名が無理なくあてはめられる技藝を何かと言えば、それは個人が、その身体を、素材とし手段として、すなわち、はたらかせて全的に参与する技藝だと確信できそうに思われる。

 とはいっても大切なのは要約ではない。実例の中で自己の鋭便と自由を獲得することである。」 

 ちょっと長くなりましたので宇宙論関係はまたということにしますが、宇宙論にしても、恐れからの解放にしても、「道」ということにしてもあらゆる営為は「自由」の「自由」による「自由」のためのそれを探求することに向けられねばらならないと確信しているのでした。


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