マニ教・悪


グノーシスとマニ教

グノーシスとマニ教文献

中村雄二郎「悪の哲学ノート」

悪の役割1●不二と大和

悪の役割2●日月神示

自由ゆえ、悪ゆえの帰依

 

グノーシスとマニ教


(91/11/30)

 

 シュタイナーは、「マニ」に関して、「西洋の光のなかの東洋」で、紀元4世紀にキリストの使者マニはスキティアヌス、仏陀、ゾロアスターの3人を呼んで、霊的な会議を開き、アトランティス以後の菩薩の叡智のすべてを薔薇十字の秘儀のなかに保管することが決定された、と述べ、またマニは来世紀に自分に適した身体を見いだし、芸術と宗教の指導者となって、聖杯の秘儀の力を扱い、人間みずから善悪の区別ができるように導くだろう、と語っているそうですが、そういうシュタイナー思想の背景としても、このグノーシスとマニ教に関する内容は今後参考になるものと思われます。また、薔薇十字なんかに関しても、今後取り上げていきたいと思ってます。

 R.シュタイナーの「マニ教」(アーガマ113号所収、西川隆範訳)に描かれている「マニ教」に関して、この会議室の趣旨に反しない程度の内容をご紹介させていただきます。アーガマの同じ号に、このシュタイナーの論文に関連して、西川隆範氏の「悪魔論」も収録されていますので、併せて、編集しながらご紹介したいと思います。

 今回は、上記の資料のなかから、「マニの生涯」「マニの語る神話」。そして、テーマとして「宇宙性善説・性悪説に関する視点」「グノーシスとマニ教における基本的問題設定」「古代グノーシス及びマニ教における『悪』の問題」を取り上げてみました。

 その他のテーマとしては、「秘教主義と公教主義の戦い」「悪の秘儀」「創造の秘密/3つのロゴス」「なぜ寡婦の小、寡婦の子供たちなのか」など、マニ教の思想の展開部分とその歴史上の役割についてシュタイナーはどう考えていたのかなどもありますが、別の機会に譲ることにします。

●マニの生涯●

・216年、中近東に、コルビキウスとして、父フッタクスと母メイスの間に生まれる。

・7歳の時、裕福な未亡人に引き取られる。(詳細はわからないが、マニは奴隷として、この未亡人に身請けされ自由にしてもらったということである。)

・この未亡人はマニが12歳の時に亡くなり、マニにスキティアヌスが書いた4冊の本「秘儀の書」「聖職者の書」「福音の書」「宝の書」を残した。

・マニは、この4書を学び、またミトラ神の秘儀に参入。

・12歳の時、天使エル・タワンとの出合を体験。

・24歳の時天使アト・タウムが現れ、マニは宗教家となることを決意。

・マニは、「巨人の書」「ねぎらいの書」「安心の書」を書く。

・マニは、「寡婦の子」、マニ教徒たちは「寡婦の子どもたち」と呼ばれた。

・マニ自身は、自分を、キリストが人類に約束した「聖霊」と呼んだ。

*スキティアヌスは、 エジプトの秘儀に参入し、エルサレムへ向かう途中没する。その仲間で、仏陀の叡智を担ったテレビントゥスがバビロニアを訪れ、ミトラ教の司祭に殺害される。テレビントゥスの死後、スキティアヌスの本を管理した未亡人はスキティアヌスの妻であったという説も。

●マニの語る神話

「昔、闇の聖霊たちは光の国に進撃しようと思った。光の国の境まで来て、光の国を征服しようとした。しかし、彼らは光の国に対してなにもできなかった。そして−−ここが大事なところであるが−−彼らは光の国によって処罰された。しかし、光の国には悪しきものはなにも存在せず、ただ善だけが存在していた。だから、闇の悪魔たちは、もっぱら善なるものによって処罰されたのである。どのようなことがおこったのだろうか。光の国の霊たちは、自分たちの国の一部を取って、それを物質的な闇の国の中に混ぜたのである。光の国の一部が闇の国と混ぜられたことによって、闇の国のなかに混沌とした渦が生じた。この渦から、いままでになかったもの、すなわち死が生じた。闇の国は絶えずみずからを消耗し、みずからを消滅させる萌芽を内に担ったのである。そして、このようなことが生じたことによって人間が発生した、と語られている。原人は闇の国と混ざり、闇の国に存在すべきでないものを死をとおして克服するために、光の国から派遣されたのである。重要なのは、光の国は戦いによってではなく、柔和、寛大、慈悲によって闇の国を克服するということである。悪に対して戦うことではなく、悪と混ざることによって、悪を救済するのである。光の一部が悪の中に入り込むことのよって、悪は自らを克服するのである。」(シュタイナーの「マニ教」から)

●テーマ1/宇宙性善説・性悪説に関する視点●

 この宇宙が性善か性悪か、という問題。マニ教では非常に重要な視点ですよね。この問題に関する考え方は2つあって、宇宙そのものがどっちの性格をもっているかという視点と、人間が宇宙をどうとらえたかという視点があります。つまり、人間がこの宇宙をどう見たいかということ。で、マニ教に関して、シュタイナーはどう考えているのかということですが、自己原因としての宇宙なり大自然なりであるにもかかわらず、(この「にもかかわらず」が重要なんですが)人間は宇宙的に独立していると考えているのではないか、と思います。

●テーマ2/グノーシスとマニ教の基本的問題設定●

 で、グノーシスの思想ですが、その根本的な問題というのは、被造物としての人間とその造物主としての神との合一が問題なのか、あるいは自立が問題なのかということにあります。  古代グノーシス(AD1〜2世紀ごろ)では、神が人間を創造したときに「悪」の力が必要だった、と考えています。グノーシスでは、この神を低次の神として、「デミウルゴス」と呼んでいますが、このデミウルゴスを超えて、高次の神へと到達することができるかどうかが、さらなる課題として提出されています。

●テーマ3/古代グノーシス及びマニ教における「悪」の問題●

 古代グノーシスまたはマニ教における「悪」というのは、宇宙に実体的に存在している普遍存在としてそれを審判するというのではなくて、歴史の発展段階の一時期だけにあらわれる現象としてとらえ、人間の段階的進化に必要なものとしてこの「悪」を考えているようなのです。つまり、「善」に対して、対立要素としての「悪」をもってくることで、「善」を実現しようとする考え方ですね。だから、マニ教では、「悪」というのを、積極的に評価するようになります。「悪霊」というのは、人間に自己をささげた善神であるとして評価するんですね。ここらあたりがさまざまに誤解される根本的な要素になっていると思います。だから、公教的なキリスト教では、この考え方は、絶対に受け入れることなどできようはずもない。

 グノーシスには、さまざまな神性が神によって創造され、ある神性が対立しあいながらあとは融合しあいながら宇宙に流出していくという「流出吸収論」というのがありますが、この「流出」もなかに人間の創造も「悪」の存在もあるとされています。そして、この悪霊は未来において、また善霊に生まれ変わる。

 古代ペルシアの世界観は、黄道12宮に配された12の神のうち光と善の神が5つの宮に、そして悪と闇の神が5宮に属し、残りの2つの神が自由意志でどちらかを決定できるというものですが、このペルシアの宗教であったゾロアスター(ツァラトゥストラ)の秘儀が、マニ教として発展させられたものである、とシュタイナーは考えているようです。

 

 

 

グノーシスとマニ教文献


(91/12/18)

 

 よく行く市立図書館で、マニに関する本を何気なく探してたら、「世界の宗教と教典」があったので借りてきました。マニ教について、わりとちゃんと説明してありました。参考になります。

 それから、もしやと思って、キリスト教関連のコーナーを見てみたら、講談社から出てる全11巻の「キリスト教史」というのがあって、その第1巻の「初代協会」というのに、マニについての簡単な解説が載ってました。

 それから、この本には「グノーシス説の紀元」という章があって、エビオン派、エルカサイ派、ニコライ派、ケリントス派、シモン派、メナンドロス、サトルニロス、バルベロ・グノーシス派、シエト派、カルポクラテス、バシリデスといったグノーシス各諸派の説明が載ってました。へえ、知らなかった、って感じです。

 グノーシスにマニ教。やはり、なかなか奥深いものがありますね。参考までに、マニ教に関して、「世界の宗教と教典」にその参考文献が紹介されてましたので、

ご紹介しておきたいと思います。

●矢吹慶輝「摩尼教」(「岩波東洋思潮」13・岩波書店)

●足利惇氏「ペルシア宗教思想」(国書刊行会)

●荒井献「原始キリスト教とグノーシス主義」(岩波書店)

●F・ニール著・渡辺昌美訳「異端カタリ派」(文庫クセジュ・白水社)

●石田幹之助「長安の春」(講談社学術文庫)

●アウグスティヌス著・岡野昌雄訳「マニ教駁論集」

                    (アウグスティヌス著作集7・教文館)

 

 

 

中村雄二郎「悪の哲学ノート」


(94/12/01)

 

 悪の問題について系統だって考えてみたいと思っていた矢先、

●中村雄二郎「悪の哲学ノート」(岩波書店/1994.11)

 という、岩波書店の「へるめす」に連載されていたものをまとめたものがでたので、これをガイドにしながら、しばらく「悪」ということについて考えてみることにしたい。

 そういえば、最近では、悪魔に関するものと天使に関するものが次々と出版され、いわゆるブームになりつつある気がする。今回のブルータス(332号)の特集も、「<天使>解体論」だったし、パオラ・ジオベッティ「天使伝説」、ジョン・ロナー「天使の事典」なども扶桑社から占星術で有名な鏡リュウジ氏の訳で登場したところだ。ちなみに、この「天使伝説」には、シュタイナーの天使や自然霊などについての興味深い内容についてもふれられている。

 ということで、これから中村雄二郎「悪の哲学ノート」から「悪」についてのさまざまな視点をひろいだしながら、それについてしばらくあれこれと考えてみることにしたいと思う。

<悪>の問題に対処するにあたって心すべきことのうち、とくに重要なもう一つは、<善と悪>の二元論的対立という固定した図式に囚われないようにすることである。それは、なによりも、悪の問題の変幻自在なあらわれ方を捉え損ねないようにするためである。単純に、悪魔を存在すべからざるもの、滅ぶべきものと見なす、きれいごとの世界に陥らないことである。その点で、キリスト教的な神と悪魔や光と闇といった明解な二元論的な対立を超えて素晴らしい知恵を含んでいるものがある。それは、バリ島の<魔女ランダ>の在り様である。

バリ人のコスモロジーあるいは象徴的世界において、ランダはたしかに悪魔的な怪獣であるが、彼女に対立するのは善なる神ではなくて、善なる怪獣のバロンである。そしてバロンが男性であるのに対して、ランダは女性である。バロンは今では善なる怪獣として村びとをランダの魔力から守る働きをしているが、もともとは善なる怪獣ではなく、ランダと同族の怪物であった。それを村人が供えものによって、自分たちの側に引き込んだのであった。したがって、善獣であるバロンのうちにも怪物性が未だ色濃く残っている。[P30-31]

 バリのコスモロジーについては、ずっと以前から中村雄二郎氏の論考があるが、このバリのランダとバロンの関係というのは非常に興味深いものがある。善なるバロンも悪なるランダもここでは「獣」なのだ。そして、ランダという「悪」がなくなってしまったらいいというのではない。「悪」を否定してはいないのである。

 また、ここには善と悪を代表とする獣がいるわけだが、だからといってここに「二元論的な対立」があるかというと決してそうではない。両者の交流によって新しい生命が生み出されていくとでもいえるようなふたつのダイナミックな役割とでもいえる。

 それと、興味深いのが善獣のバロンが男性で、悪獣のランダが女性ということだ。女性といえば大地性と切り離せないが、それが悪であるということは、伊耶那美が黄泉の国にいったということなどと考え合わせると興味深い。

通常、哲学で言われている自己認識の必要性とは、なによりもまず、<悪>の自覚あるいは自己認識の必要性と言ってもいいのではなかろうか。どんなに善意で行なったことでも、他人に迷惑を掛けること、害を与えることはいくらでもあり、善意によって自己の行為、他者への加害行為が免責されないことは、言うまでもない。それどころか、制度を媒介にした現実の社会関係のなかでは、いわゆる善意の人、善人の方がおのれをそれと知った悪人よりも、他人に害を与えることが多いとさえ言えるのである。[P28]

<悪>の自覚とは、悪というものが自分と離れたところ、遠いところにあるなどとは考えずに、われわれは誰でも悪を犯しうる状態にあると認識することである。また、自己と他者との間がそういう関係にあるのを認識することである。まことに、そのような関係のなかで人間の行為、社会的行為がなされていることを身を以て知ることによってはじめて、自他の悪に対する訓練がなされるのである。

悪を犯しうる状態あるいは関係にあるということだが、先にわれわれは悪を<関係の解体>とともに<存在の否定>あるいは<生命的なものの否定>としてとらえた。そして、自他の関係は、スピノザ流に言えば、本性上、自己と他者とが一致している場合にはそうではないとはいえ、それ意外の場合には、原理上、自分が存在し生きていることがそれによって他人に迷惑を掛け、他者の存在を否定する結果になるのである。[P28-29]

 「悪気はなかった」ということがよく口にされる。しかし、「悪気はなかった」からこそ救いようがないということでもある。その言述は、自分のなかの無自覚な悪の部分を認めないということである。時と所を変えれば適切で「善」とみなされることでも、それがまったく別のシチュエーションでは「悪」とみなされることがある。それがわからない「善人」は、もはや「善人」ではなくなるのだ。善悪を絶対化してとらえるというのは避けなければならないが、自分のなかにその両者の「働き」が共にあることを自覚することは必要である。

 「悪」が<関係の解体>であるということは、別のことばでいうとすると、「秩序の破壊」ということでもあり、「悪」が<存在の否定>であるということは、エゴによって「他」を否定してしまうということである。

 そして、ここで大切なのは、上記の引用にもあるように<悪の自覚>である。その自覚のない「善」は、片輪走行の車のようなものである。そういう「善」は、むしろ「悪」を際だたせてしまう。だから、<悪の自覚>のある「善」というのこそ、必要なのではないか。

・・・と、こういう感じでしばらく「悪」について考えてみることにしたい。折良く、「悪の哲学ノート」でもとりあげられている、ドストエフスキーの「白痴」を読んでいるとろこだし、そういう「シンクロ現象」もあるということは、やはりここで「悪」の問題を考えてみる必要性があるということだと自分で勝手に思いこんでいるということでもあるし^^;。

 

 

 

悪の役割1●不二と大和


(95/02/02)

 

 シュタイナーのキリスト観をご紹介するにあたって、非常に重要な視点に「悪」という問題がある。そこで、数回に渡って(といっても、成りゆきでどうなるかわからないが^^;)「悪の役割」ということについて、見ていくことにしたい。

善人なおもて往生を遂ぐ、如何にいわんや、悪人においてをや

 この親鸞の有名な言葉は、いまもその力を失ってはいない。いや、むしろいまこそ、この言葉の深い力に思いをいたすときがきたのかもしれない。

 「悪」というテーマは、パソ通をはじめて以来のテーマで、ほんとうはまだまだ本格的に言葉にするには時期尚早ではあるかもしれないが少し前から長年苦手としてきたキリスト教への理解が深まり、それと同時に、親鸞をはじめとする浄土思想への親近感を感じるようになり、その両者の近親性を改めて実感するに至った。

 いうまでもないが、「南無阿弥陀仏」の「阿弥」は「アーメン」である。浄土思想はキリスト教思想の、日本における仏教的バリエーションにほかならない。それは、パウロと親鸞の親近性ということでも想像に難くない。

 ぼくの思索のなかでもっとも長い歴史をもつのが仏教であるが、禅や密教の深さや、華厳経や法華経の深さを感じるにつけ、浄土教はずっと馴染みの薄いものであった。その考え方を転回させてくれたのが、「妙好人」であり、また「悪」についての、冒頭に挙げた有名な言葉である。

 妙好人については、別の機会に譲るとして、親鸞の悪人正機の考え方に通ずる見方は、マタイ福音書の9−12〜13にもある。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(新共同訳)

 もちろん、親鸞の視点は、みずからを愚禿と称したように、みずからも悪人としての自覚に立った弱い人間の視点からのものであり、福音書のそれは、いってみれば「阿弥陀仏」からの視点だといえる。

 ここで大事なのは、悪人正機の善悪二元論であるかのようにみえる視点が、実はそうではなく、仏教思想特有の「不二」の視点であるということであり、それは単純な一元論でもなく、二元論でもなく、善と悪を「不二」としてとらえているということである。空即是色、色即是空、とかいうのも、まさにそうした不二の観点である。

 これはキリスト教においてもいえることで、よく誤解されているような善悪二元的な観点は、本来のキリスト教ではない。とはいっても、通常のキリスト教では、そういう「解釈」が主流だから、そう誤解されても仕方がないのではあるが^^;。

 この「不二」ということが理解されないばかりに、一元論か二元論かということで短絡的にとらえ、「二元論がいけないから一元論だ」とかいうようなきわめて二元論的!な見方に陥っていることが多いので気をつけたい。

 たとえば、主客二元論の西洋はダメで、本来の日本精神に立ち返れとかいうあまりに単純すぎて誤解の多い見方などもある。デカルトとベーコンはそのダメ西洋の張本人だというような批判も、実はデカルト主義やベーコン主義をデカルトとベーコンであるとしていたりそうした、最近流行の見方の解説書からのアンチョコであることが多い。デカルトとベーコンの著作やその背景をみてみると、そんなに単純なものでは決してないことはすぐわかるのであるが、一度レッテルを貼られたものは、なかなか見直すのは面倒らしい^^;。

 真の日本精神を尊重し、発展させるためには、そういう偏った見方ではなくもっとトータルな見方で歴史を観、また未来をみていかなければならない。

 日本精神を実に深く尊重しながらも、非常に高く深い見方をしているのは、安岡正篤氏で、氏は、易の「陽」と「陰」の関係のように西洋と東洋をみながら、その双方が必要であるとしている。いってみれば「止揚」である。氏の視点は、深い思索と実践にさせられているだけあってアンチョコによる独断と偏見、つまり「中道」を逸している見方からは遠くまさに「中」の視点であるといえる。

 少し長くなるが、安岡正篤「人生の大則」(プレジデント社)から引用紹介することにする。

今日の世界情勢を深く検討する人々が、よく西洋文化の行きづまりを論じ、それを救うものとして、東洋文化の原理を説き、東西文化の比較論評が行なわれる。当然のことではあるが、男女の特質や優劣を論じるのと同じことで、浅薄・軽率にやるべきことではない。もし同を求めれば、要するに東も西も人間文化で、別に大して変わりはない。しかし異を求めれば、東は東、西は西、それぞれ特徴を異にするが、柳は柳、花は紅で、天地の春光はうららかである。

先に自然を完全なるものthe complete wholeとして観たが、それを言い換えれば、宇宙人生は一者(絶対者)の限りなき分化発展ということができる。単細胞から高等な生物に、直接経験から複雑な認識世界を開くようにそしてそれは明らかに相待(相対)的原理ともいうべきものによって成立 活動している。その相待(相対)的原理、即ち宇宙人生の成立活動する所以のものは、どういうものであるか。一つは無限に自己を分化し、形を執って自己を現じてゆこうとする、いわば造化の代表的形式の働きである。我々の細胞の分裂ということから考えると、一つの細胞が自己を分化し、こういう肉体を形成してゆく。これを陽の原理ということができる。しかしこの働きばかりでは、要するに四分五裂になってしまうのであって、実はこういう体を成すことができない。したがって造化に陽の働き、即ち発現分化の働きがあると、必ずこれに即してその分化をそのままに統一し、形を執って、自己を現ずるに対して、形なきに自ら統一含蓄しようとする、いわば全体性および永遠性を司る働きがある。これが相俟ち相応じてここに我々の肉体的生活、即ち生理が存するのである。この働きを先の陽の原理に対して言えば、陰の原理である。実在は陰陽相待(相対)的原理によって成立活動している。 (p151-153)

東洋文化と西洋文化との上において、このことはまたよい対照をなしておる。西洋文化は以上の諸例から見て明らかに陽的文化である。これに対し東洋文化の方は陰原理を本領とする文化といわねばならぬ。(p161)

要約するならば、つまり世界にこういう相対的原理があって大和(だいわ)しており、その分化発現、したがって往々抹消化・刹那化する性向を西洋文化が代表し、統一含蓄、全体性と永遠性、それとともに停滞的休止性を東洋文化が代表し、たまたま時命によってヨーロッパの方がその本分に偏しすぎた結果、だんだん深刻に生命を傷ない、どうしてもこのままでは破滅よりほかないというので、今やしきりに自然と人間との大和に返ろうとしているのである。・・・あまりに主知的に功利的に、物質的に走りすぎている。それを中和しなければならぬ。そういうことを考えてくると、我々の新しい世界文明というものは、ちょうど我々が本領として持っておる精神・能力、それを根底として、それに今まで発展してきた西洋の文化、彼らの本領を接ぎ木して、初めて全(まった)きものになるということを知るのである。そうすると世界文明というものの創造に我々の占めるべき地位・立場・使命がはっきりする。人類文化の大和的関係を知って、初めて真剣に自己の使命に生きることができる。そこに矛盾も排擠(はいせい)もないのである。(p194-195)

 さて、少し脇道にそれたが、善と悪という問題も、もちろん絶対化してとらえるとわからなくなるし、またその反対に、それをまったく無意味な呼称の問題とすると現実のさまざまな問題を見る視点が混乱してしまうことになりかねない。まさに、善悪それぞれの現われとその「不二」という観点が大切である。つまり、「悪の役割」という視点で、それを積極的に見ていくことでその「不二」ということの深い意味が見えてくるように思われるのである。

 そのために、シュタイナーの宇宙進化論と日月神示をみていくとその両者の意外な類似点が見えてくる!その視点について、次回から検討を加えていくことにしたい。

 

 

 

悪の役割2●日月神示


(95/02/04)

 

 まず、「日月神示」で、「悪」が積極的にどうとらえられているかを見てみることにしたいと思う。(「日月神示」についての説明はこの際勝手ながら省略させていただく^^;)「日月神示」は、テーマ別体系的に述べられているとはいえないため悪についての述べられている中で、重要だと思われるところを抜き書きし、それについてのぼくなりのとらえかたをコメントしていくことにする。引用は「太神の布告」(コスモ・テン)より。

人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へとゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪ならずと申してあろうが、今までの教は今迄の教。

 「悪」を「悪」としてそれを排除することは、あまりにも幼稚である。「悪」を「善」に対して絶対化するのは、「段階の低い教」なのである。大事なのは、「悪をも抱き参らせ」るような方向性である。もちろん、善悪を見きわめる必要がないというのではない。判断力を備えた上で、悪を排除するのではなく、それを変容させていくように「抱き参らせ」るのである。そのためには、他の悪を云々する以前に、自らの悪をしっかり見据えることが欠かせない。

悪を悪と見るのが悪。調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあろう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ五と五と同じであると申してあろう。差別即平等と申してあろう。取り違い禁物。

 「悪を悪と見る」のは、自分は悪ではないということだろう。それは単なる自己正当化であり、それこそが「悪」だと自覚せねばならない。

 霊主体従ということは非常に大事な視点である。ただ、間違えてはならないのは、主と従は順序の問題であって、どちらかがより優れているとか比重が高いということではない。これは、古事記の最初に伊奘諾尊と伊奘冉尊の話のようなもので、その順序を間違ってはならないのだが、だからといって、どちらかがより貴いとか優れているということではない。霊的なものに偏してもいけないし、現世に偏してもいけない。大事なのは「中道」の姿勢である。

 「調和乱すが悪」ということと「差別即平等」ということでは、まず、「調和」というのは同じものの烏合の衆的集合ではなく違うもの同士が集まってこその「調和」であるということであり、だから、その「差」こそが「調和」を生むともいえるし、その「調和」こそが、真の意味での「平等」なのである。

悪も神の御働きと申すもの、悪にくむこと、悪ぢゃ。善にくむより尚悪い。何故に判らんのか。 悪を意志して善を理解すること許さんぞ。悪を意志して善を理解せんとするのが悪ぞ。善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ。悪を意志して悪を理解するする処に、善としての悪の用生まれるのざ。

 「イシヤ」だとか「メーソン」だとかいうことが言われる。しかし、それを憎み批判し、排撃するのではなく、まずはそれをどれだけ理解できるかということが鍵になる。その理解こそが、「イシヤ」「メーソン」をも「神の御働き」としてとらえるために最重要なことである。それがわからずに、ただただ「イシヤの陰謀」を連呼したり「あいつはメーソンだ」を連呼したりするのは、結局は、自分がその「悪」と同じ次元に陥っていることに他ならない。「善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ」というのはそういうことである。この点は、非常に重要なポイントなのであるが、ここのところで足をすくわれている場合が極めて多いことに気づかねばならない。

悪を食らふて暮らさなならん時近づいたぞ、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ。悪は善の仮面をかぶっていること多いぞ。だが悪も大神の中に生まれたものであることを知らねばならん。ダマシたいものには一まづダマサレてやれよ。ダマサレまいとするからダマサレるのであるぞ。

 悪は役割であることを理解しなければならない。そして、それはちゃんと「食らふて」、「噛んで、よく消化」できれば、貴重な栄養になるのである。一番いけないのは、悪を食わず嫌いして遠ざけることである。もちろん、慎重であるに越したことはないが、それを理解する必要はないとつっぱねているのでは進歩がない。ある意味では栄養失調で病気になってしまうこともある。

今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教といたしてゐたが、それは悪の天の教であるぞ。己を活かし他人も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ、他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪を。神無きものにして人民生きるも悪ぞ。神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。神人ともにと申してあろが。神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。

 これは、仏教で「自利即利他」といっていることである。エゴイズムとしての「自利」は破壊的なものだが、一見正当化されがちな「利他」が慈悲魔になってしまって、自分をちゃんと見ないことのいいわけになっていることが多い。祈りにおいて必要なのもこの「自利即利他」であって、南無阿弥陀仏の真義もそうした「自利即利他」の念仏でなければならない。神と人というのも、そのどちらかに偏るのではだめで、その両者は切り離せないものであるということを忘れてはならない。

善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ。今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう。悪い人のみ改心するのみでない。善い人も改心せねば立体には入れん、此度の岩戸は立体に入る門ぞ。

 ここに善と悪のダイナミズムの視点が提示されている。善も悪もともに役割であることを洞察しなければならない。とくに、悪というのは、いってみれば「つらいお役目」であって、そのせっかくの「お役」を深く理解することが必要である。そういう意味では、善人も悪人もともに「改心」することが必要なのだ。通常のような「悪はいけない」というのは「平面」的な見方であって、「立体」的に見ると、善と悪はダイナミックな相互変容を必要としている。

 さて、簡単に「日月神示」に告げられている「悪」の積極的な意味についてあれこれ思いつくままを述べてきたが、こうした視点をもっと宇宙論的な観点で解明しているのが、シュタイナーの宇宙進化論である。そこで最終的に問題になるのは、「ではわれわれはどうしたらいいのか」である。主役は、「ルシフェル」と「アーリマン」。

 

 

 

自由ゆえ、悪ゆえの帰依


(95/03/10)

 

 自由がないと「帰依」ということが成立する余地はありません。自助努力だとか自力だということもありえなくなります。もちろん、それによって人間は過ちをする可能性ももつことになり、それゆえに「悪」の可能性というものさえ大きなものとなってゆきました。

 しかし、「悪」の成立したおかげで、「悪を選択しない自由」も生まれたのですし、「悪人正機」のような、悪であるからこそ救いがあるというような逆説的であるがゆえの大乗の極みともいえるような本願が生まれたわけです。

 ぼくなどは色気がありすぎて、かなり反抗的な魂のようですが^^;、こうして反抗的であり得るという大いなる恵みを享受できる喜びこそが、自由をどうしたら最大限に発現できるかということにつながるのだと思います。

 むしろ、反抗すればするほどに、神は恵みを惜しまないのかもしれませんし、神は従順であることを臨まないのかもしれません。泥のなかから蓮の花が開くように、泥ゆえの蓮の花だ、ともいえるのでは。「愚禿 親鸞」という表現もまさにそういうことですよね。

 でもって、シュタイナーですが、シュタイナーの悪についての考え方はほんとうに白眉で、少しまえから「悪」をテーマにしたシリーズを幾度か書いているところです。

  


 

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