ノヴァーリスノート

28-33


28●心情

39●ポエジー

30●高次の自然学としてのポエジー

31●遊

32●シンボル

33●アレゴリー


 

ノヴァーリス・ノート28

心情


1999.2.7

 

人間の内なるものが、いままでかくも不十分にしか眺められず、かくも心なき扱いを受けてきたのは、奇妙なことだ。心理学というのも、仮面に関わっているにすぎない。この仮面は、聖所の中で真の神々が占めるべき場所を奪い取ってしまったのだ。自然学を心情のために−−そして心情を外界のためにいまだになんとわずかしか利用していないことか、悟性、空想力−−理性−−これらは、私たちの内なる森羅万象の貧相な骨組みである。悟性と空想力と理性の不思議な混合や形成や移行については、ひとことも語られていない。いまだ名づけられていない、新たな力を探し求め、これらの力の関係を跡づけようとした者は一人もいない−−内なるものの中には、これから、いかにすばらしい結合が待ち受けており、そこからいかなる世代が生まれてくることか、誰が知っているだろう。

人間の「内なるもの」である「心情」とは、悟性、理性、想像力、空想力、感情、感覚など、さまざまな精神力の働く場であるが、主観的内面性とは異なる。ノヴァーリスは「心情」を、「内なる世界の総体」と定義している。「心情」は、「すべての精神力の調和−−魂全体の平衡のとれた調子と調和的たわむれ」であるとも言われている。「心情」には、精神、魂、心、理性、悟性、感情、空想力などすべてが含まれる。近世の哲学は、人間を身体と精神に分けて捉え、その精神をさらに、理性と感情、悟性と空想力などと分析してきた。ノヴァーリスは、それらの精神的諸力が、関わり合い、重なり合っている全体を捉える言葉を必要とし、それらを古くから神秘思想において人間の内面空間を表わす言葉として用いられてきた「心情」で言い表わした。(略)「心情」は、自然と人間、客体と主体が交わる場でもある。すでに見たように、ノヴァーリスにとっては、認識の客体はたんなる「非我」や「対象」ではなく、それとして一つの「我」であって、私という認識の主体として見れば「汝」と呼びかけられるべき「他者」である。そして、「汝」であるのは、人間であるばかりでない。石も木も鳥も、森羅万象のすべてが、それぞれ「我」として存在している。すべてが「心」をもっている。「心情」はそのような森羅万象の心の積分のようなものである。「心情」が「私たちの内なる森羅万象」であるとは、森羅万象の内的アスペクトが「心情」だということである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P311-312)

 ノヴァーリスは、森羅万象を含むあらゆる「我」の「内なる世界の総体」、あらゆる精神的諸力の交響する場として「心情」というアスペクトを提示している。「心情」は、私だけの内面的感情を表現しているのではなく、あらゆる存在の「我」の内的な場なのである。

 外なる世界を客体としてとらえようとしたとき、それはどこまでも自分とは切り離された他者として立ち現われる。それは分析の対象であって、共感の対象ではない。だからそこでは共創造ということは不可能になってしまう。支配の対象としてしか森羅万象を含む他者は存在しなくなる。

 しかし、森羅万象を含むあらゆる「我」の「内なる世界」に目を転じると、そこにはともに共感し共鳴し共創造しあう戯れの場が存在している。あなたとわたしは、「心情」という場において戯れ交響しあっているのである。

 あなたがわたしの外なる存在であるかぎり、わたしがあなたの外なる存在であるかぎり、あなたとわたしは創造的な関係にはなれない。

 創造的であるということは、交響的であるということだ。共鳴しあえるということだ。共鳴しあえなくなったとき、すべては外的な冷たさでしかなくなり、ただ物と物との闘争でしかなくなってしまう。あなたとわたしの語らいも、そこには何ら生きた創造はなくなってしまう。あなたとわたしの語らいは、歌による交感でなくてはならない。

 そこにこそポエジーがなくてはならない。ポエジーは心情の吐露ではない。ポエジーはあらゆる存在の内的空間のシンフォニーでなければならない。そこではあらゆる存在が歌っているのがわかる。それを聞き取る耳を持つこと。「心情」という創造の場に共鳴できる耳を持つことだ。ポエジーを失った自然科学はもはやそうした耳を失ってしまっている。失ってしまって物と物との闘争へと向かっている。

 

 

ノヴァーリス・ノート29

ポエジー


1999.2.11

 

「心情」において、万物は、時間と空間を超えて、主体と客体の分離を超えて、現実と幻想の区別を超えて存在している。そこではすべてが、「本来の」姿で、しかるべき位置を占めて存在している。そのような内的空間としての「心情」の叙述ないし表現が「ポエジー」と呼ばれる。(…)

「心情」は、「しるし」ないし「記号」の浮かぶ内的空間であった。「ポエジーの媒体」である「言葉」とは、この「しるし」や「記号」に関わっている。ノヴァーリスの「ポエジーの媒体」としての「言葉」は、空想や感性に関わるイメージや「しるし」でありうるとともに、悟性や理性に関わる「概念」や「記号」でもある。(…)

「世界はガイストの顕現である」という表現があった。その表現とつなげるならば、「ガイスト」の顕現が「世界」であり、「世界」は最後に「心情」となり、「心情」の顕れが「ポエジー」であるという、「顕現」の系列を想定することができる。「ポエジー」は、この顕現の系列の最後の項となっている。(…)

ポエジーに対する感覚は、神秘的なものMystizismに対する感覚と多くの共通点をもつ。それは、固有なもの、個人的なもの、知られていないもの、秘密のもの、顕現してくるであろうもの、必然的に偶然的なものに対する感覚である。それは、叙述できないものを、叙述する。見えざるものを見、感じえないものを感ずる。[…]詩人は、まことに心を喪失しているsinnberaubt−−だからこそすべては、詩人の内に立ち現われる。詩人はもっとも本来的な意味で、主客体Subject Objectを−−心情と世界を−−表現するvorstellen。良い詩の無限性、永遠性もここからくる。ポエジーに対する感覚は、予言の感覚や宗教的な、見者の感覚Sehersinn一般と近い感覚を持つ。詩人は秩序立て、一つにまとめ、選び、発明する−−そして、詩人自身にも、なぜこうであって、別様ではないのか、理解できない。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P336-341)

 ポエジーというのはとてもとらえにくい。それは、ポエジーが「秘密のもの、顕現してくるであろうもの」に対する感覚であり「叙述できないもの」「見えざるもの」「感じえないもの」を表現しようとするものだからだ。

 しかし、叙述できるもの、見えるもの、感じられるものを図式的に表現するのは、すでにそこには「創造」ということは死滅しているのだといえる。いまだ生成の途上にあるもの、今生まれようとしているそのものを表現する。そのことの不可能性の前での挑戦。それは主−客という対立をすでに超えている。

 すでに表現されたものは、すでに死んでいる。シュタイナーが常に図式化をすり抜けていこうとしていたのも、常に生きた思考ということを何よりも重要視していたからだ。

 シュタイナーの精神科学は、すでに叙述されたものではなく、常に体系化、図式化という認識の死を拒むものであり、常にその認識そのもの生成のプロセスそのものである。

 その意味で、シュタイナーの提示した精神科学・人智学は、ポエジーそのものであるともいえる。認識生成のプロセスそのものでありながら、いやそうでなければ可能にならない「学」なのだ。だから、マニュアル化というようなあり方は、シュタイナーの精神科学・人智学においては、もっとも相容れないものだといえる。

 ポエジーという創造そのものの原理。それを生きようとするプロセスそのものを決して死滅化させないようにしなければならない。

 しかしそれにもかかわらず、死滅化したものにしがみついてそれを情報化し、図式整理するだけで満足してしまう認識のなんと夥しいことか。

 

 

ノヴァーリス・ノート30

高次の自然学としてのポエジー


1999.7.11

 

 ヨーロッパの近世において、人間は「私」の自覚を強め、自己を世界や自然から切り離して意識するようになった。自然と人間、客体と主体、物質と精神、身体と心をひとまず分離したところに、近世の自然科学や哲学は成り立つ。ノヴァーリスは、十八世紀末の西ヨーロッパの東の端にあって、精神と物質など、抽象化という知的操作によって分別された二元をふたたび結びつけることを自己の課題にしていた。ノヴァーリスの「来たるべき自然学」kuenftige Physikの構想は、このような文脈のなかに位置している。(…)

ノヴァーリスの独自性は、新たな自然学が、新たな科学でも、新たな哲学でもなく、「ポエジー」であること、すなわち芸術であることを理論的に明確にし、実際に「ポエティッシュな」作品を創造したことである。

 ノヴァーリスは、みずからの新たな「来たるべき自然学」を「ガイスト自然学」geistige Physik、「高次の自然学」hoehere Physikなどとも呼んでいる。「高次の自然学」は、「メタ自然学」Metaphysikすなわち「形而上学」とも言い換えられる。(…)

 ノヴァーリスは、科学と哲学とポエジーとを区別し、この三者を学の段階として理解している。「すべての科学(学問)は、ポエジーになる−− 哲学になったあとに」。(…)

ノヴァーリスはゲーテを、「私たちの時代のもっとも注目に値する自然学者」、「同時代の自然学者」、「この[新たな]自然学の祭司」などと呼んでいるのである。(…)自然学者としてのゲーテは、「抽象化」と「具象化」を同時に為すという意味での「魔術的観念論者」に相当するのであった。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P344-350)

 すべての科学は、哲学になったあとにポエジーになる…。ノヴァーリスの「来るべき自然学」は、まさにそんな「ポエジー」の構想。シュタイナーの精神科学を「ポエジー」の構想、「来るべき自然学」そのものであるととらえることもできるように思う。

 シュタイナーが「自由の哲学」で論じた「一元論」というのも、主体と客体というふうに二元論化してしまった認識を統合したものとしてとらえることができる。これは、認識論的「ポエジー」の著作だととらえることができる。

 シュタイナーの農業、医学、教育などへの関わりも、自然と人間、客体と主体、物質と精神、身体と心など二元に分裂してしまった人間を統合しようとした試みだといえる。すべてが「来るべき自然学」としての「ポエジー」にほかならない。

 シュタイナーの四大元素霊についての講義にしても、それは自然を、物質を描写しながら、それがそのまま壮大な宇宙的ポエジーになっていることがわかる。そしてその宇宙的ポエジーが人間の本質をも同時に示唆し、農業や医学の基礎ともなっている。そして、それがシュタイナー教育の基礎でもある。シュタイナーの精神科学の最大の魅力は、まさにそこにあるように思う。

 シュタイナーがノヴァーリスを人智学にもっとも近いというように述べているのも、ノヴァーリスの「来るべき自然学」などの構想を知るととてもよく理解できるものとなる。

 しかし、現代では、自然と人間、客体と主体、物質と精神、身体と心などは「科学」という名のもとに分断されてしまっているし、それに警鐘を発することが多くても、それをどのように統合すればいいのか途方に暮れているような状態。「哲学」にしても、今や「精神」を語ることが勇気がいるほどだ。「感覚」を語ろうとする試みは夥しくあるのだけれど、そこには「精神」が欠けている。

 すべての科学は、哲学になったあとにポエジーになる…。そんな来るべき自然学としてのポエジーを希求したい。

 

 

ノヴァーリス・ノート31


1999.7.17

 

 自然の運動と人間の芸術活動がそれぞれ自己完結的に独立しつつも、あるつながり、対応関係をもつことは、また「遊び」の概念に即して明らかにすることができる。神や自然の「遊び」、「たわむれ」については、次のようなメモがある。

神と自然もまた遊んでいるのではないか?遊びの理論Theorie des Spielens。聖なる遊び。純粋遊び学reine Spiellehre−−日常gemine遊び学−−高等hoehere遊び学。応用遊び学。

雲のたわむれWolkenspiel−−自然のたわむれ、きわめてポエティッシュ。自然は風琴(アイオロスのハープ)だ−−自然は楽器であって−−その響きはさらに、私たちの内なる琴線を奏でる。

 「遊び」や「たわむれ」とは、自由で、非日常的で、非功利的な自然のあり方を表わしている。(…)

ノヴァーリスでは、人間が自己を意識し、その自覚に基づいて為す「遊び」が、関心の中心を占めている。

遊ぶことSpielenは、偶然を相手に実験することexperimenrieren mit dem Zufallである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P389-390)

 白川静によれば、「遊」とは、隠れたる神の「出遊」、彷徨する神である。

遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人はともに遊ぶことができた。

(白川静「遊字論」/「文字逍遙」平凡社 所収/P10)

 宇宙は戯れている。それは神が対象のない絶対性から出て、みずからをみずからに顕現しようとする戯れ。

 なぜ人は遊ぶのか、遊び得るのか。

 それに対してこう答えることもできるかもしれない。人は神であるかぎり遊ぶことができる。もしくは、神に近づこうとするがゆえに人は遊ぶ。

 従って、遊びはたんなる手すさびではありえない。自由が高次の自由においてその本来を示し得るように、遊びは、人間がその高次の能力を創造し得るときにのみ、その本来を示すことができるのだといえる。

 ノヴァーリスにとっての遊びへの関心は、人間の自己意識と自覚に深く関わっている。

 人は罪の子であるという。人の生は苦であるという。その桎梏から抜け出るために、外なる神を仰ぐことは自らを奴隷となす。遊べない者は生の奴隷である。奴隷から脱しようとすれば遊ばねばならない。遊ぶことはそれがそのまま創造となる。深い自己意識のなかで戯れねばならない。

 遊びをせんとや生まれけん。人の生はすべてが遊びである。神への献身とは遊びである。

 

 

ノヴァーリス・ノート32

シンボル


1999.7.20

 

 「シンボル」は、何かを指し示している。では、その「シンボル」と「それによって指し示されているもの(象徴されているもの)」とは、ノヴァーリスにおいて、いかなる関係にあるのだろうか。

 ここで第一に注目すべきことは、ノヴァーリスにおいては、「シンボル」と「それによって指し示されているもの」とが定まっておらず、逆転しうるということである。

いかなるシンボルも、それによって象徴されているもの seinSymbolisiertes によって、ふたたびシンボルされるSymbolisiertwerden ことができる−−逆シンボルGegensymbole。しかし、シンボルのシンボルというものも存在している−−下位シンボルUntersymbole。

 フィヒテが「自我」を中心に哲学を組み立てたのに対し、ノヴァーリスは「理解」を「我」と「汝」の対話として捉えた。「非我」が「自我」の「シンボル」であるだけでなく、逆に、「自我」も「非我」の「シンボル」であるのであった。そのように「自然」が「理念の担い手」であるだけでなく、「心情」も「自然の担い手」になるべきであると言われていた。「自然」と「心情」のあいだに、平衡関係が成り立っている。(…)

 ノヴァーリスの「シンボル」の第二の特徴は、「シンボル」と「シンボルされるもの」との混同が、厳しくいましめられていることである。

シンボルとシンボルされるものとの取り違えVerwechselung des Symbols mit dem Symbolisierten−−その同一視−−真の完全な表象や−−模造とオリジナル−−現象と実体の関係が可能だと信ずること−−外面的類似性から−−全面的な内的一致と関連を結論づけること−−要するに、主体と客体との取り違えに、あらゆる時代の民族と個人の迷信と誤謬のすべては基づいている。

 この第二の特徴は、第一の特徴と関わっている。つまり、どちらにおいても、Symbolisiertenということ、「シンボルにする」、「シンボルを作る」、「シンボル化する」という行為が重要であって、この行為を為す主体の自由が重視されている。「シンボル」という結果ではなく。「シンボルにする」という行為が重要なのである。

 この運動を固定化し、「シンボル」を絶対化したり、実体化したり、「シンボル」と「シンボルされるもの」を混同するとき、「迷信」が生まれる。(…)

 ノヴァーリスの「シンボル」の第三の特徴は、「シンボル」も「シンボルされるもの」も、プロセスとして、運動として捉えられていることである。たとえば、「光」は「聡明さ」Besonnenheit の「シンボル」であると言われる。(…)

「聡明さ」は、ノヴァーリスにおいて、カントやフィヒテの哲学の意味での、自己の意識をもっている状態をさす。「行為」や「自己運動」は、自己の反省を踏まえた精神の運動のことである。いっぽう「光」は、当時の自然科学や自然哲学の重要なテーマであった。ノヴァーリスがここで考えている「光」は、現代の自然科学の常識の「光」ではなく、シェリングやエッカルツハウゼンの思弁的哲学の「光」である。ノヴァーリスの「光」は、光についての自然学を踏まえているのである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P410-413)

 シンボルについて語るのはとても困難な部分を多く含んでいるのだけれど、とても重要な部分なので、ノヴァーリスの示唆する「シンボル」及び「アレゴリー」について見ておくことにしたい。今回は「シンボル」について。

 シンボル辞典のようなものまでがつくられているようにAはBのシンボルであるというような定義によってシンボルとシンボルされるものとが固定的にとらえられてしまいだけれど、重要なのは、「シンボルにする」行為、そのプロセスそのものだということを忘れてはならない。

 精神分析などでも「夢」がさまざまに解釈され、Aが登場する夢を見るとそのAというシンボルはBを意味しているというように固定化されて解釈されてしまうことは往々にしてある。ユング全集の出版社からも「夢のイメージ」というシリーズが出版されていて、たとえば「水」「木」「火」「魚」…といったテーマで、そのイメージのそれぞれについて、その意味を夢の実例を挙げながら解説するというもののようだけれけど、シンボルの意味をあらかじめ知っていてそれについて解説しておくというのだとしたら、それはもらはシンボルではなく「記号」にすぎなくなってしまう。「シンボル」と「シンボルされるもの」が混同されてしまうのだ。

 シンボルはAはこういう意味をもっているといえるような記号ではなく、その「シンボルにする」というそのもののなかでこそ意味を持ち得るものだ。それが固定化され、実体化されてしまったときに、シンボルは死ぬ。死んで、死んだ概念をまとった記号の亡霊になる。「そういうものだ」の源泉だといえる。その世界では、「私」と「あなた」の関係も固定化、実体化され、もはや「対話」による理解は存在しない。一見「対話」がなされているようにみえながら、その実、そこで行われているのはプログラミングされたシミュレーションにすぎない。

 シンボルが生きて働いているとき、シンボルとそれによってシンボルされるものとは、容易に逆転しうるものともなる。「私」は「あなた」のシンボルになり、「あなた」は「わたし」のシンボルになる。そこに「対話」が生まれ、「理解」が生まれる。そこには生きて働いているシンボルの交歓がある。もちろん、そこで「主体」がなおざりにされるというのではなく、その逆で、まさに主体の自由としての「シンボルにする」という行為そのものが重要だということである。

先日読んだ「セスは語る」のなかに、「物体(もの)は象徴(シンボル)です」というところがあった。

物体は、象徴です。普通あなたがたは、それらを単なる現実であると考え、思考やイメージや夢については「他の何かを象徴的に表すもの」と見なすことが時おりあるようです。しかし真実は、物体そのものが「象徴的現れであり、物体は内なる体験を表す外面的象徴なのです。

(ジェーン・ロバーツ著「セスは語る」ナチュラルスピリット/P674)

 物質的に表現されている現実とみなされていることに関しても、それを「私」によってシンボルとされているものなのだといえる。ただ私たちは、そのことに気づくことなく、それらを「現実」という固定化され実体化されたものとしてとらえている。ノヴァーリスの「シンボル」についての示唆は、わたしたちの認識そのものの根底にまでかかわるものなのだといえる。

 

 

ノヴァーリス・ノート33

アレゴリー


1999.8.18

 

 ノヴァーリスは、詩学における象徴的表現を表わす用語としては、「シンボル」よりも「アレゴリー」を多く用いる。また作品「ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン」とその未完の第二部の創作との関連では、「アレゴリー」を詩学のキーワードとしている。(…)

啓蒙主義的な狭義のアレゴリーとは区別される、ロマン主義的な広義のアレゴリーが、探求の課題となっている。

 この広義の「アレゴリー」概念は、十八世紀の終わりに啓蒙主義的「アレゴリー」に代わる象徴的表現を表わす概念として浮上してきたものとしての「シンボル」概念に近い。

形象(ビルダー)−−自然からとったアレゴリー的形象−−噴水について私が最近作ったもの−−源泉を囲む虹。泉の祈りとして立ち昇る雲。

この私的なメモで示唆されているのは、「形象」とあるように、言葉による絵である。その絵の「泉から立ち昇る雲」に、「泉の祈り」という意味付けがなされている。これが「自然からとったアレゴリー的形象」と呼ばれている。「シンボル」と同じく「アレゴリー」も、ノヴァーリスにおいては、自然科学の分野でも用いられる。(…)

 また「シンボル」と同じく、「アレゴリー」においても、プロセスや運 動に重点がある。

動物にとっての感官は、植物にとっての葉や花に当たる。花は、意識ないし頭のアレゴリーである。この高次の花の目的は、高次の繁殖−−高次の自己保存である−−人間においてそれは、不滅性Unsterblichkeit−−累進的繁殖−−人格性の器官である。(植物と人間の)両方にとって注目すべき帰結。(…)

 ノヴァーリスの「アレゴリー」は、何かを指し示すものであった。ただそのとき、「指し示す」という行為に重点があった。「アレゴリー」は、何かを意味するのだが、何を意味するかは固定的ではなく、「意味するということ」が問題なのである。また、ノヴァーリスにおいては、「シンボル」も「アレゴリー」も、プロセスや運動としてとらえられていた現象に関わっていた。さらに「シンボル」や「アレゴリー」は作られるべきものであった。現実態としての自然は、可能態や必然態としての自然に転位されるのであり、「アレゴリー」は、可能態や必然態としての自然に関わっていた。(…)

 ゲーテにとっては、現実態としての自然が、そのまま「シンボル」でありうる。一方、ノヴァーリスの「アレゴリーとしての自然」は、可能態や自然態としての自然である。ノヴァーリスにとって現実態としての自然は、謎の意味を秘めた「ヒエログリフ」であり、何であるか定かでないが、何かを指す矢印となっている。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P416-433)

 「アレゴリー」は通常、「寓意」と訳されることが多い、辞書には、「抽象的な観念を具象的なものによって比喩的に表現するもの」とあるが、ノヴァーリスのいう「アレゴリー」は「寓意」とは訳せない。むしろ、ほとんど「シンボル」に近い意味で使われている。

 ノヴァーリスにとって、「個別的なもの」と「一般的なもの」、「世界」と「人間」、「客体」と「主体」の調和は失われていて、分裂している。だから、その両者を結ぶ行為が問題となっている。「個別的なもの」が「一般的なもの」を表し、「一般的なもの」が「個別的なもの」を表す。「世界」が「人間」を表し、「人間」が「世界」を表す。「客体」が「主体」を表し、「主体」が「客体」を表す。その表すという行為そのもの、プロセスや運動を重要視するとき、ノヴァーリスの「アレゴリー」が現れる。アレゴリーは、何かを指し示すが、何を意味するのかは固定的でない。「意味するということ」が問題なのである。

 そして、ノヴァーリスにとって「アレゴリーとしての自然」は、可能態や自然態としての自然であり、謎の意味を秘めた「ヒエログリフ」となっている。ゲーテの自然学は、目に見える「現象」に関わるものだが、ノヴァーリスの自然学は、「現象の背後」に目を向け、電気、磁気、化学反応など、現象となって働く「力」そのものにその関心が向いている。

 ノヴァーリスの「アレゴリー」は「シンボル」に近い意味で使われているといったが、もちろんその両者は区別されている。両者は異なるタイプの象徴形式なのだ。その「アレゴリー」は、19世紀の神話学者クロイツァーと美学者ゾルガーのアレゴリー/シンボル論に近い。

クロイツァーによれば、(…)「シンボル」においては「一瞬のうち」に理念が全体として立ち現れ、「魂のあらゆる力を把み切る」のに対し、「アレゴリー」は、「私たちを誘って、見上げさせ」形象の内に隠れている思考のとる歩みのあとを辿らせる」、「シンボル」には「瞬間的な全体性」があり、「アレゴリー」には「瞬間の連なりの全身運動」がある。つまり、「シンボル」は、瞬間的に成就するが、「アレゴリー」は、思考過程において成り立つというわけである。

 ゾルガーによれば、「シンボル」の内では、「理念」の働きが成就して「事物」Objektになっているのに対し、「アレゴリー」においては、「理念」の働きがまだ行われている最中である。「シンボル」が「理念」と「現象」の相互浸透の運動が完成し、静止した結果であるのに対し、「アレゴリー」では、「理念」と「現象」の相互浸透のプロセスがまだ集結していない。つまり、ゾルガーは、「シンボル」が成就し完成した意味作用であるのに対し、「アレゴリー」では意味作用がまだ進行中であるという区別を立てる。そしてこの区別の上に、「シンボル」は「すべてを感覚的に現実的に形づくる」のにふさわしく、「アレゴリー」は「より深い思考」にふさわしいと、それぞれ価値ある、異なったタイプの表現であるとする。(P433-434)

 ノヴァーリスが、詩学における象徴的表現を表わす用語として、「シンボル」よりも「アレゴリー」を多く用いるというのは、「アレゴリー」のほうが、意味作用のプロセスそのものに関わり続けているからだといえる。ポエジーは、すでに完成した意味作用ではなくて、常に進行中の意味作用のプロセスそのものだといえるのだから。

 我々の「生」そのものをポエジーととらええてみることにしよう。そうするならば、その「生」はすでに完成した意味作用では決してなく、常に進行中のプロセスそのものであるといえる。我々の「生」の意味をこうである!と固定化されたものととらえてはならない。その運動そのものをダイナミックに展開中の「謎」そのものとしてとらえなければならない。そうでなければ、「生」は死んだものとなる。「思考」もその生きたプロセスそのものでなくなれば死んでしまう。

 人間の謎をあくなきプロセスのなかで探究しつづけること。たとえば、シュタイナーが「人智学」のなかでめざしたのもそのことではなかったかと思う。

 


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