ノヴァーリスノート

20-27


ノート 20●しるしの学

ノート 21●カバラ

ノート 22●パラケルスス

ノート 23●水平と垂直

ノート 24●記号

ノート 25●実践的=ポエティッシュ

ノート 26●表現の問題と自由

ノート 27●ベーメの「シグナトゥール」

 

ノヴァーリス・ノート 20

しるしの学


1998.10.4

 

背後に働く「力」の「現れ」は、「文字」ないし「象徴」と呼ばれている。ここには、自然の現象は、その内に働く運動の現われであり、外なるものは内なるものを指し示している、という理解がある。

 「外なる、形をもつもの」と「内なる、霊的なもの」の関わりをめぐるこのような考えは、ヨーロッパ自然神秘思想の伝統に関わっている。「霊・精神と文字」、「原型と映像」、「神と神の似姿としての人間」。「しるされるものとしるし」、「ちからとかたち」などの対となる組み合わせは、キリスト教の聖書解釈、新プラトン主義、カバラ(ユダヤ神秘主義)、ヘルメス的自然学においてくりかえし取り上げられてきたテーマであり、ルネサンス以来の近世においても哲学・自然科学・文学・美術・音楽などさまざまな領域に適用されてきた。ノヴァーリスもこのような伝統につながる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P219)

 ルネサンスの「しるしの学」では、「しるし」と「しるされるもの」、つまり「記号」とそれによって「記されるもの」は、類似性、共感でつながっていたのだけれど、そうした記号についての考え方は、17・18世紀の「古典主義」の時代には消滅してしまうことになる。

 ノヴァーリスはそうした17・18世紀の記号学をめぐって思索している。哲学の問題を言語や記号の問題と関連させてとらえ、言語そのものも記号として考察している。しかし、ただそれだけではなく、カントやフィヒテの哲学をふまえながらルネサンスの「シグナトゥールの学」を視野にいれながら、新たな「ロマン主義的記号論」を築いている。「シンボル」と「アレゴリー」の理論である。これは、ロマン・ヤコブソンが、かつてノヴァーリスから啓発されたものでもある。

 この「記号」についての考え方は、非常に重要なもので、たとえばぼくの場合、20年以上前に、はじめて記号学に興味をもった頃、言語に関してもそれは「恣意的記号」でしかないというふうにほとんど当然のように思っていた。

 それで、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の考え方などをはじめ語用論的な、いわば道具としての言葉の考察から、その延長としてのコミュニケーション理論に興味をもつことになった。同時に、ちょうど丸山圭三郎がソシュールについて紹介をはじめたころでシニフィアン、シニフィエとかいうのが半ば流行になった頃でもある。ロマン・ヤコブソンやムカジョフスキーなどにも言語の美的機能としての詩学に関連して興味を持っていた頃のことだ。

 その頃は、ノヴァーリスもシグナトゥールも過去のロマン主義的な遺物のようなかたちとしてしか理解していなかったが、こうした数年に渡る言語学・記号学・コミュニケーション学についての関心がやっとこうしてノヴァーリスやシュタイナーへの関心につながってくることとなった。「外なる、形をもつもの」と「内なる、霊的なもの」の関わりの重要性にやっと気づくことができたように思う。

 ある意味では、非常に即物的な記号論、言語観から出発しただけに、現在も主流だといえるそうした観点の根強さも、それが「影」のように引きずっているものについてもぼくはぼくなりのかたちで理解することができるように思う。もし、最初から歪んだかたちでロマン主義的なものから出発したとしたらむしろ「外なる、形をもつもの」と「内なる、霊的なもの」の関わりには気づけないままに、逆に「影」のようなかたちで唯物的な思考の狭窄にとらわれてしまうことになったのではないかと思う。宗教者が無意識のうちにむしろ唯物的な思考に操られてしまうように。

 さて、これから少しずつノヴァーリスが「しるしの学」についてどのように理解していたのかについてしばらく見ていくことにしたい。

 

 

ノヴァーリス・ノート 21

カバラ


1998.10.27

 

音と線による命名(しるしづけ)行為は、驚くべき抽象化である。四つの文字が私にとって神Gottのしるしとなり[神を表わし]−−二、三個が百万の物を表わす。森羅万象を意のままに操ることがなんと簡単になることか!霊界の凝縮がなんとあざやかに見えるようになることか!言語学は霊の王国の動力学である。指揮官の一言は軍隊を動かす−−自由という言葉は−−諸民族を。

言葉と書字に対する驚き、つまり話し言葉や書かれた文字の「ことだま」に対する感嘆は、古代人や「野生民族」など、神話の時代に生きる人々のみならず、のちの時代の詩人にもある。ノヴァーリスはこの断章にみられるような言語観をすでに抱いていた立場で、カバラの言語観に出会った。そのため、知識源となったシュプレンゲルの無理解を超えて、二十世紀のカバラ学者であるショーレムの知見に通ずる、より深く適切なカバラ理解に至っている。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P226)

 ノヴァーリスは、シュプレンゲルの医学史のなかにある「カバラ」についての叙述から「神秘的言語学」としての「魔術」に興味を持った。

 シュプレンゲルは、ゾロアスターの教え、アレクサンドリアのユダヤ人におけるゾロアスター受容、エッセネ派、グノーシス、新プラトン主義の魔術的医学を「いんちき科学」として批判していて、言語は理性的伝達の手段だと理解しカバラの神秘的言語論を荒唐無稽で迷信だとしているのであるが、その批判的叙述にもかからわらず、ノヴァーリスはそれを肯定的に評価し、「言葉」を単にコミュニケーションの手段だとはとらえず、不思議な力をもった絶対的存在であるとしてとらえている。

 シュプレンゲルについての「カバラ」のついての叙述をまとめると次のようなものになる。

(一)カバラは、ペルシアのゾロアスター、さらにはインドのバラモンの哲学にさらのぼる流出説にもとをもち、それをギリシアのピュタゴラス主義やユダヤ思想と混ぜた「シンクレティズム」である。(二)その教説の一つに、「神の言葉」の考えがある。万物は、「神の言葉」によって創造された。「神の言葉」は、万物創造の「元型」、「イデア」であるとともに、「神の子」ないし「天使」として擬人化されることもあり、また聖書の言葉や文字そのものでもある。つまり「神の言葉」は、神性そのもの、物のイデア的存在(元型)、天使やデーモン、物の自然的存在、聖書の言葉など、物質的にであれ、霊的・精神的にであれ、およそ存在するものすべての次元を貫き、これらの次元を相互につないでいる。(三)この「神の言葉」の知が「カバラ」であって、賢者はこの知に基づいて存在に働きかけることができる。「魔術」とは、このような実践なのである。(P224-225)

 「言葉は神であった」という、神のロゴスとしての言葉は、西欧近代において、人間の理性とその表現としての言語に収束し、言語によって世界全体の記述が可能であるとする言語=理性中心主義(ロゴセントリズム)へと至ることになる。しかし、おそらく言語によって世界全体の記述が可能であるという考え方は神を人間、そしてその人間の使う言語にすげ替えたということなのだろう。今世紀初頭に現われる論理実証主義的なウィーン学団の哲学は言語分析であってそれ以外は無意味であるとするような観点もその極北だといえるのかもしれない。その極北において、言葉はある意味で死滅する。けれど、そこでは人間が語っているだけで、もはや森羅万象は語っていない。その象徴のように、ウィーン学団の主要な人物ボルツマンは自殺してしまう。

 ノヴァーリスが思索しているのは、言語によって世界全体の記述が可能であるというのではなく、しるしとしるされたもの、記号と記されるものが、深く共鳴しあっている、そんな「シグナトゥールの学」である。

文法。人間だけが語っているのではない−−森羅万象もまた語っている−−無数の言葉。/シグナトゥールの説。

 

 

ノヴァーリス・ノート 22

パラケルスス


1998.10.31

 

 シュプレンゲルによると、パラケルススが目指しているのは、「カバラ」と医学を結びつけることである。パラケルススの考えの根本には、カバラ的な「流出体系」Emanationssystemがある。すべては一つのものから流出するのであるが、この流出は、いくつかの次元を経てなされる。パラケルススは、「天上的知性界」、「星辰界」、「エレメント界」の三層を考える。これらの層は、前の層が後の層の「原像」ないし「雛型」であり、後の層が前の層の「写像」ないし「写し」であるという対応関係、照応関係によってつながっている。この三領域のなかでパラケルススにおいて特に重要な役割を果たしているのは、「星辰界」という中間的世界である。自然の万物は、一つのもとをもつゆえに、相互に関わり合い、調和し合っている。そのなかで特に、天の星辰から地上の万物に対して強い作用が働いているのである。

 この作用により、「天上的知性ないし星のからだastralischer Leibは、あらゆる物体に痕跡と記号を刻印している」。この記号が「シグナトゥール」である。「シグナトゥール」とは、地上の万物の、天上的知性とのつながりを示す「徴」なのである。(中略)

 パラケルススの「シグナトゥール」とは、具体的には何なのだろうか。パラケルススによれば、植物は「星辰の力」によってある「しるし」を帯びている。「植物はすべて、地の星なのである」。「しるし」すなわち「シグナトゥール」は、植物の具体的な形や色となって現われている。聖ヨハネ草を例にとるならば、葉の細かい孔、葉と花、葉脈などの形、また花の色、草の香り、味などが「シグナトゥール」であり、それぞれ聖ヨハネ草の薬草としての「効力」、すなわち「妄想、害虫、創傷に対する効能と鎮痛作用」を表わしている。「神の叡智は、人間の弱い理性をこれらの外なる目印によって認識へと導こうとのぞんでいるのだ」。医者は、植物の外的特徴という「シグナトゥール」を見て、その内的働きという「効能」を認識し、その植物を薬として用い、病気を治療する。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P233-235)

 ここでは、ノヴァーリスがシュプレンゲルの医学史を通じて理解したパラケルススの「シグナトゥール」から自然神秘思想のアクチュアルなものとしてとらえかえした内容について少し見てみることにしたい。

 パラケルススの「聖ヨハネ草について」には、「万物はことごとく神の秩序と御旨のままにつくられているのである。したがって、われわれは、神がわれわれのために創造しその御旨を宿させ給うた万象の中に神の御旨を理解し見出せるように努力することが必要となるのである」(キリスト教神秘主義著作集16/近代の自然神秘思想/教文館/P10)とあるが、「地上の万物の、天上的知性とのつながりを示す「徴」」としての「シグナトゥール」から「神の御旨」を読み取るということを医者のなすべきこととしている。

 こうしたパラケルススの「シグナトゥール」には、外的な特徴が内的な性質を表わす徴候であるということにおいて近代的な科学につながる要素はあるものの、その両者が「アナロジー」によって結びつけられている点は近代科学ではまったく問題外とされる。

 また、パラケルススが、「天上的知性界」、「星辰界」、「エレメント界」の三層を考え、「星辰界」は「天上的知性界」の「写し」であり、「エレメント界」つまり、この地上の自然は「星辰界」の「写し」であり、相互に照応しているという考えも、そうした高次世界等を認めない近代科学の領域ではまったく問題にならない。

 ノヴァーリスは、自然のすべてのものが相互にほかのものの「しるし」となっているという「森羅万象の相互表象」を考えているが、パラケルススはそうした相互に関係し調和しあっている自然万物にそうした高次の世界としての「星辰界」が働いているとしている。「星のからだastralischer Leib」という表現があるようにそれはアストラル界の作用であり、それが「あらゆる物体に痕跡と記号を刻印」しているというわけである。

 いわゆる十二星座による西洋占星術というのも、アストラル界からの作用がこの地上世界に「痕跡と記号を刻印」しているということから来ているのだけれど、これは今ではほとんどの場合、単なる占い以外のものではなくなっていて近代科学の領域でアカデミックに議論されるものではなくなっているし、占星術に関して深くアプローチをしている少数の方々にしても、いかにその照応関係を詳細に展開しているにしても、そこには、「森羅万象の相互表象」が検討されることはまれであるし、ましてノヴァーリスのいう「ポエジー」が積極的に問題にされているようには思えない。

 さて、ノヴァーリスは、自然神秘思想における「シグナトゥール」のように「しるし」と「しるされるもの」とが「共感」によって結びついているという在り方が、同時代においてはもはや失われていて記号と記されるものとの人為的で恣意的な関係になっているということからそうした在り方を批判的に乗り越えることを模索していく。

 

 

ノヴァーリス・ノート 23

水平と垂直


1998.11.6

 

 星辰と地上の万物、すなわち天上界のものと月下界のものとは、自然神秘思想において、存在の次元を異にしている。天上界は、神の領域に近い世界で、地上界とは質的に異なる。天上界も地上界も同一の宇宙空間と考える、自然科学的な宇宙観とは異なる存在理解がある。星辰の領域は、天上的知性界と物質的エレメント界のあいだの中間世界なのである。そのため、地上の自然という「しるし」と天上の星という「しるされるもの」とのあいだの表象関係は、水平と垂直とでもいうべき二つの相異なる方向に転換していく可能性をもつ。(中略)

 水平的表象関係は、自然的なものであり、垂直的表象関係は超越的なものである。自然神秘思想において、水平的表象関係と垂直的表象関係は、相関的に成り立つ。ありとしあらゆるものが互いに関わり合い、互いが互いの「しるし」でありうるのは、すべてが「神的なもの」とつながっているからである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P237-239)

 水平的表象関係とは、自然のあらゆるものが互いに他のものの「しるし」となっているということである。それは、地上のすべてのもの同士が互いに関係しあっているというのではなく、たとえば水星や金星のような「星辰界」との関係を媒介としながら、互いに「水平的」に関係しあっているということ。

 その表象関係は垂直にとらえることもできる。「星辰界」は、地上だけではなく、「究極の一者」としての神性へと至る「高次の天上的知性界」にもつながっている。そういう意味で、地上のすべてのものは、「天上的知性界」を指し示す「しるし」であるということができる。それが、超越的な「垂直的表象関係」である。

 そのように地上のありとあらゆるものは、水平的表象関係と垂直的表象関係によって相互に関わり合い、相互に「しるし」であるという関係にある。そしてその根本にあるのは「神的なもの」なのだといえる。ノヴァーリスのいう「森羅万象の相互表象の説」はそのことを意味している。

 その観点によって、私たちを含め、私たちの関わるありとあらゆるものが、「しるし」であるという気づきがもたらされる。木の葉一枚落ちるのも、宇宙的にかけがえのない事象だといえるのである。人も動物も植物も鉱物も、すべてが無意味に存在しているのではない。これは意味があるが、これは意味がないというようなことはできない。

 人間も自然もすべてをその観点からとらえなおすことで、差別という考えはなくなるだろうし、環境問題にしてもそれに対する姿勢は異なってくるし、「地球を守ろう」というような対象化したきれいごとの関係ではなくなるだろう。

 

 

ノヴァーリス・ノート 24

記号


1998.11.6

 

 「カバラ」やパラケルススにおいては、「しるし」と「しるされたもの」とは、「共感」という自然のなかに働く力によって、本質的に結びついていた。「しるし」は、「しるされるもの」を指し示す「象徴」であった。このような「しるし」に対し、ノヴァーリスが同時代の思想のなかに見出したのは、「記号」である。「記号」とそれによって「記されるもの」のつながりは、「共感」のような自然的なきずなではなく、人為的で恣意的な関係である。「しるし」を成り立たせるものが、「自然」であり、さらには「神」であるのに対し、「記号」を成り立たせるのは、あくまでも人間の恣意性なのである。ノヴァーリスは、「シグナトゥールの説」という伝統的な理論を対比することにより、「対象と表象」という十八世紀末の認識論的構図を批判的に眺め、乗り越えることを考えている。(略)

 近世の哲学は、ルネサンスの「しるしの学」を否定する。近世哲学は、「物」とその「しるし」のあいだの「共感」を認めない。「しるし」の世界は、「物」とのつながりを失って、抽象的な「記号」の世界と変わる。哲学の、抽象的概念によって構成された世界は、このような「記号の世界」なのである。ノヴァーリスは、近世哲学における「物」と「記号」の断絶を時代の状況として受け容れる。この点でノヴァーリスは、カント以前に逆戻りすることはない。しかしノヴァーリスは、時代の現状の認識で終わってしまわない。ノヴァーリスにとっては、そのような現状は、「世界の意味の喪失」と関わっていたのであり、この現状を克服し、「記号」をふたたび「しるし」となし、「物」と「しるし」の「シンパシー」を回復することが課題となる。この課題を実現するために、かつては自然的なものとしてあった「しるし」は、近世の「記号」の恣意性を経て、その恣意性をさらに高めた「創造」されるものとしての「象徴」になる。「哲学」は「ポエジー」となる。「ポエジー」の世界では、ルネサンス的な「しるしの学」が、認識の方法としてではなく、むしろ創造の方法としてふたたび生かされることになる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P242-254)

 ルネサンスの「しるしの学」においては、「物(しるされるもの)」とその「しるし」の間には「共感」が存在していた。その「共感」は近代になって失われた。「しるし」は、「物」を表象する人為的恣意的な「記号」となったのである。近代以降の自然科学の「記号の学」は、かつての「しるしの学」の一部だけを引継ぎ抽象化し、抽象化の操作を経た自然を対象とすることになる。

 かつての「言霊」であった言葉は、「言霊」そのものが「共感」によって世界と深く関わっていた。「言挙げ」するということは、世界に働きかけるということでもあった。「名前」というのものも、その本来の名前を知るということは、その本人への強力な働きかけを可能にするということだった。

 やがて、言葉から言霊が失われてしまう。言葉を発することはただそれだけのことでしかない。言葉を発することそのもののも、その言葉そのものとその指示対象の関係性も特に意味を持つものではなくなってしまった。Aという言葉とその指示対象はまったく恣意的なものだということになった。だから、ある指示対象をXと呼ぼうがYと呼ぼうが、そのXなりYなりとその指示対象とがコミュニケーション的に有効であれば、それでOKだというわけである。

 ノヴァーリスは、まずはそこから出発するが、そこに立ち止まってはいない。そこに立ち止まることは、「世界の意味の喪失」を意味しているからである。

 「まずはそこから出発する」というのは、記号の恣意性を否定しないということである。記号の恣意性を認めた上で、「記号の学」からはみ出てしまった部分を再生させるためにその恣意性をさらに高めていき、「創造」されるものとしての「象徴」にする。近代において失われてしまった対象と表象、物としるしとのあいだの「きずな」を新たに創造していかなければならないというのである。つまり、そのきずなを再創造する「ポエジー」、言語記号を創造的に用いる活動が重要となる。

 さて、現在のようにさまざまな音や文字の組み合わせイメージによってさまざまな商品などのネーミングがなされるようになる時代において、その名前は単なる記号であるというわけではなく、そこにある種の「象徴」を関係させようとしている。そのことでイメージ上の付加価値を持たせようとしているのである。しかし、それをノヴァーリスのいう意味での「ポエジー」としてとらえることはできないだろう。その「象徴」は、複製技術時代の「象徴」なのだから。

 広告の文章を「コピー」と呼ぶように、その「記号」は、神話性を演出しようとすることがあるとしても、「複製」でしかなく、「消費」されるものでしかない。それは、言語を創造的に用いる活動だとはいえないだろう。経済活動において消費されてゆく疑似ポエジーによって「世界の意味の喪失」を補うことはできない。かりそめでつかのまの「世界の意味」というドラッグの果てにあるものは、さらなる虚無感でしかないだろう。

 

 

ノヴァーリス・ノート 25

実践的=ポエティッシュ


1998.11.19

 

 カントは『純粋理性批判』において、理性が「自然そのもの」を直接的に認識できないことを、理論的理性(思弁的理性)の限界として明らかにした。限界を明らかにすることは、同時に、その限界の外があるのだということを指摘することになる。ただ、カントにとって問題なのは、理性の限界の外に何があるかではなく、理性の限界の外に、人間の自由な生の場を空けておくことであった。理論や学問が、場違いにでしゃばらないように封じ込め、行為や実践のために、自由な生の場を空けたままにしておくことが、カントの関心だった。ノヴァーリスは、カントの引いた理性の限界の線を認める。ただ、理性の限界の外を空けたままにしておかない。(中略)

 カントにおいて、思弁的理性の限界を超えた存在のあり方と関わる実践行為は、倫理的なものであった。ノヴァーリスは、『純粋理性批判』「序文」をまとめて、「制約されていないものの合理的概念を規定することは、ただ実践的理性にまかされている」と記し、その下につぎのような自分のコメントを付け加えている。

私たちが、それ[制約されていないもの]を認識erkennenできるのは、それを実現realisierenする限りにおいてである。

(中略)

 ノヴァーリスによれば、「可能的経験」の範囲を超える「超越的なもの」は、「ポエティッシュ」に、すなわちそれを創造することによって、認識できるものとなる。ノヴァーリスにおいて、実践は、倫理的なことである以上に、芸術的で創造的なことなのである。

 「経験」や「現象」の範囲を超えるものと関わるカントの「実践的理性」を、ノヴァーリスは「ポエティッシュな理性」と解釈する。この飛躍的解釈の背景には、ノヴァーリスが、「言葉」や「記号」の問題に注目しつつ、哲学的思索にたずさわっているということがある。「ポエジー」は、記号の恣意性をさらに強めた、「記号」を創造する行為である。「ポエジー」と理論的哲学とでは、言葉の位置づけが異なってくる。言葉は「ポエジー」において、認識のたんなる道具であることをやめ、創造的に用いられるようになる。言葉は創造的に用いられ、「記号」も創造されるべきものとなる。ノヴァーリスにおいて、そのような創造された記号は、「象徴」と呼ばれる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P247-249)

 カントが『純粋理性批判』において、理論や学問の領域を限定したことによって、「行為や実践のために、自由な生の場を空けたま まにしておく」ことが可能になったということもできますが、それは逆にいえば、理論や学問が「行為や実践」から切り離されてしまったということもできます。

 もっといえば、理論や学問はそれを探究する者の「行為や実践」についてあえて問わないというところまできてしまうことになります。つまり、自分の探究の根拠を問わないことによって、探究が可能になるというおかしなことになってしまうわけです。ある意味では、それは意識のリフレクションとしての反省行為をスポイルしてしまうことでもあります。

 自分が探究していることについて常に反省的であること、自分が思い、行なっていることについて常に意識的であること、それが欠落してしまうのがいわば近代的理性なのかもしれません。

 ノヴァーリスは、「実践的理性」を「ポエティッシュな理性」と解釈します。つまり、限界づけられたものを超えていくための創造的認識を「ポエジー」によって可能にしようとしています。「ポエジー」にとって、言葉は単なる道具であることをやめ、創造的に用いられるようになります。そのなかでは、言葉を使うことそのもの、さらに言葉そのものが問題になってくるといえます。言葉を使う行為や実践、そして言葉そのものが根拠を問われ、自分の探究していることそのものの根拠が切実に問われることになります。

 ある意味では、道具としての言葉は死んだ言葉、創造としての言葉は生きた言葉であるといえます。死んだ言葉を復活させるためのポエジー。理論や学問の領域にも、創造的な言葉が復活しなければ、死んだ言葉による死んだ世界しか探求されないのかもしれません。そのためには、まず理論や学問における探求において、なによりも自らの根拠を問うことから始めなければなりません。哲学の復活というのも、おそらくそこに求められるように思います。

 

 

ノヴァーリス・ノート 26

表現の問題と自由


1998.11.20

 

 ノヴァーリスにとって哲学は、知識として教えたり、説明したりできるものではない。ただみずからやってみせて、君もそのようにやりたまえ、と言いうるだけなのである。ノヴァーリスが、フィヒテ哲学の言語表現を問題にするのは、このような哲学理解からきている。

 フィヒテにとって、言語表現は、修飾的な飾りである。何を語るかが問題であって、いかに語るかは、二次的なことになる。「精神」や「内容」が大切で、表現の形式は、単に「機械的」な技術的なものとして、無視される。また「精神は、一つであり、理性の本質からしてすべての理性的個人において同一である」という信念のもとに哲学する個々の人の、個性や歴史性や風土は、切り捨てられる。

 フィヒテのこのような考えを批判して、ノヴァーリスは、「ただ内容のためにのみ伝達するのは、精神に欠けた粗野なことだ」と書く。ノヴァーリスは、語ったり書いたりするときに、その聞き手や読者の全体を相手にする。フィヒテの「人間」において「理性」という知的なものが他の要素を圧倒しているのに対し、ノヴァーリスの「人間」では、「感情」などとよばれる知的なものに対立する要素が、知的なものとバランスをとっている。そこで、「理性」と「感情」の両方に働きかける「表現」が重要なものとなる。「何を」語るかと、「いかに」語るかは、ノヴァーリスにとっては、密接不可分なのである。

 ノヴァーリスにとって「表現」の問題が大切なのは、「表現」を契機として書き手と読み手それぞれの自立した、自由な精神の運動が動き出すことを目ざすからである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P250-251)

 その人が何を語るかよりも、むしろいかに語るかのほうがずっと興味深いことがあります。

 ある人の言っていることの内容が凡庸でも、その語り方が魅力的であることもあれば、逆に、言っていることがいかにすごそうな内容でも、その語り方からその内容がいかに空疎なものかがわかるときもあります。

 絵画を見るときも、音楽を聴くときも、それを単に表面的な記号のような内容分析をするのと、それがいかに表現されているかに注意深くあるのとでは、こちらに伝わってくるものは違ってきます。

 絵画がわからないというとき、音楽がわからないというとき、それはその記号内容を理解しようとしても理解できないというようなきわめて死んだ理解を指向していることが多いような気がします。そうではなく、いかにそうした理解が得られないとしても、それがいかに表現されているかに注意深くあることでそれらは無限の可能性を持ったものとして伝わってくることもあるのではないでしょうか。

 教養と称するものの多くは、世の中で「そういうものだ」として記号化され権威化され、その内容は死んだものが多いといえます。それらは、教養であること、それが物質的な財産のようなものとして他の多くのひとに認められるということが重要なわけです。ですから、そこには、表現ということへの関心は希薄になります。読むということ、書くということ、見るということ、聴くということなどそうしたことの自由ということがもはや運動していないのです。

 「ただ内容のためにのみ伝達するのは、精神に欠けた粗野なことだ」というのは、とても刺激的な言葉ではないでしょうか。「ノヴァーリスは、語ったり書いたりするときに、その聞き手や読者の全体を相手にする」ということは、語ったり書いたりするということが精神にあふれているということでありそのことでそれを聴き、読むことが精神の可能性にあふれているということをも意味しているといえます。つまり、そこに限りなき自由が運動しているのだということです。

 シュタイナーの神秘学を学ぼうとしていつも思うことは、それを内容として理解しようとしても非常に困難なことが多いということです。おそらく、シュタイナーの神秘学を学ぼうとするならば、シュタイナーがいかに表現しようとしているのかということや、その表現そのものの持っている香りや熱や愛などをしっかり感じとっていうということが重要なのだと思います。そうすることではじめて「何が」語られているかがわかる、と。

 そういう意味で、誰かが語り書くのを聴き読み、同時に、自分がいかに語り書いているのかにもっともっと意識的でなければならない。そう痛切に感じ、反省されられることがよくあります。

 

 

ノヴァーリス・ノート 27

ベーメの「シグナトゥール」


1998.12.2

 

 カントやフィヒテ以前に戻ることなく、しかし、「外なるもの」と「内なるもの」のつながりを探求しようとするノヴァーリスを理解するうえで、ヤコブ・ベーメのバロック的「シグナトゥールの説」が参考になる。ベーメの「シグナトゥール」は、パラケルススのルネッサンス的「シグナトゥール」とは、異なっている。

 ベーメは、神と自然を区別しつつ、結びつける。「内なるもの」と「外なるもの」という異なった次元は、混同されることなく、関わっている。パラケルススが、自然のなかに「神の智恵」の「解剖」を見た「汎智学者」であるとすれば、ベーメは、自然と神をみずからの内に見出した「神智学者」である。バーダーは、「外なるもの」と「内なるもの」を区別しつつ、結びつけるという点に、ベーメの重要な寄与をみている。ベーメは、精神と自然、ないし「内なるもの」と「外なるもの」が分裂していく時代にあって、錬金術や観相学やシグナトゥールの学のようなヘルメス的自然学を生かしていく新たな道を切り開いた。(中略)

 ベーメの「シグナトゥール」理論は、人間自身が「神のシグナトゥール」、「神の楽器」として、神に演奏されて語る、ということに結局行き着く。ベーメの記号論において、「しるし」と「しるされるもの」の二元性や、「しるし」と「しるしを読む人間」との二元性はない。この点、ベーメの記号論はノヴァーリスの「ポエジー」の記号に通じる。(中略)

 ベーメの「シグナトゥール」が、最終的には神を指し示す「しるし」であるのに対し、ノヴァーリスの「しるし」は、人間の「精神」を指す。ベーメの「シグナトゥール」理論のかなめの位置に、キリストの存在があるのに対し、ノヴァーリスにおいては、ゾフィーがキリストに並んでいる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」P294-305)

 ベーメにとっては、キリストによる人間の救いということがすべての基本にある。キリストによって人間が新たに生まれ変わり、再生すること。それをベーメは「染め直す」tingierenと表現している。

 自然神秘思想では「神の楽器」としての人間という考えがあるがベーメは、人も森羅万象も本来「神のシグナトゥール」、「神の楽器」であり、それらすべてが「神の喜びの音楽」のハーモニーになるという。ノヴァーリスもそれを受けて「人間は竪琴だ、竪琴になるべきだ」という。

 ベーメの「シグナトゥール・レールム」のテーマは、分裂してしまっている「神の言葉」と「自然の言葉」と「人間の言葉」を結ぶきずなを回復すること。

 ノヴァーリスにとっても「しるし」と「しるされるもの」のきずなが喪失し「しるし」の意味が喪失した時代にあって、それをふたたび回復しようとする。それは通常の学問や科学では不可能だが、「記号」をも「しるし」として創造的に遊ばせる芸術行為である「科学のポエジー化」によって可能なものにしようとする。

 ここで注目すべきは、ベーメとノヴァーリスの違いだろう。ベーメの「シグナトゥール」が神を指し示す「しるし」であるのに対し、ノヴァーリスの「しるし」は、人間の「精神」を指す。キリストとゾフィーの対比というのも興味深い。

 シュタイナーの「マルコ福音書」についての講義のなかでキリスト以前とキリスト以後という違いは「自我」ということにあるということをキリストの以前の「癒し」とキリストの「癒し」との違いということで次のように述べられているが、ノヴァーリスの「しるし」が、人間の「精神」を指すというのもその「自我」の可能性ということに見ることもできるのではないかと思う。

以前はより高き世界から流れ下るものであった力が、今や個人の心の中、個人の魂の中に存在するようになった。そういう事実を告知する一人の人間が現われた。彼において超感覚的諸力が、個人的力になったのである。時は満ちた。人間はこれから以降、超感覚的諸力の水路であることはできない。水路である時代は終わったのであるという事実が示されねばならなかったのである。今までの時代は終わり、これからはすべてが人間的自我、すなわち、人間の神的・内的中心点に位すべきものを通してなされねばならないことが、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた人々にも明らかとなった。(中略)

患者は、悪魔祓いの治療師を介して超感覚的世界から流れ出て来て患者の上に流れ落ちる力を、信じても信じなくてもよかった。しかし人間の自我が問題となった今は、この自我は共に働かねばならなかった。この時、すべてが個性化し人間化したのであった。(中略)

以前においては、聖なるものは超感覚的世界に存在していて、人間の上に漂っていた。今や天の諸国はもっと近くにやって来て、人間の中へ入っていかなければならない時となり、人間の心をその中心的な拠点として、そこに住まなければならない時となったのである。このことが問題なのである。そしてこのような世界観が生まれでた時に、外的な肉体と内的な倫理とが新しい様式の中で一体となって融け合ったのであった。この新しい様式は、キリスト教創立の時代から今日に至るまでは信仰の形を取り得たにすぎなかったが、これから先は知になる得るのである。

(シュタイナー「マルコ伝」人智学出版社/P85-87)

 ちなみに、ノヴァーリスは、シュタイナーによれば、エリア、洗礼のヨハネ、ラファエロの転生ということだが、かつての預言者がラファエロ、そしてこのノヴァーリスというふうな画家、詩人というような個性として顕現したということはとても興味深い。

 かつては預言者として神の言葉を預かった存在が、やがてキリストに洗礼を施し、そうして人間の「精神」を指す「しるし」ということを重要視する。

 


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