ノヴァーリスノート

11-19


11●万物の救済

12●自然の救済

13●人と自然の調和

14●内的複数性

15●自然に対する感受性

16●まことの魔術と「単なる魔術」

17●未来のシェーマとしての魔術

18●「神」は「物質」として自らを顕現する

19●存在の連鎖の再創造 

 

ノヴァーリス・ノート 11

万物の救済


1998.6.20

 

神が人間になりうるのであるならば、石や植物や動物やエレメントにもなることができる。そしてこのようにして、自然のなかで救済がつづけられているのかもしれない。

自然のなかの個性は無限である。この見方は、森羅万象の人格性についての私たちの希望をなんと強く励ましてくれることか。

 

キリスト教によれば、神はイエス・キリストにおいて人間となり、十字架におけるイエスの贖罪死によって、人間の救済が果たされた。ノヴァーリスにとってこのことは、人間の救済であるにとどまらず、自然の救済のはじまりともなっている。

 キリスト教の、とくに東方教会に伝わる、自然を含む万物の救済という思想が、ノヴァーリスにもある。自然、つまり被造物も救いを求めている。錬金術にも、物質を高貴にするという考え、物質の救済の思想があり、ノヴァーリスの「自然の救済」の考えも、ヨーロッパのそのような流れに関わる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P151-152)

 日本では、「供養」ということで、フグなどのように生きている存在だけではなく、針や人形などのように、生命を持たないとされている存在にも「供養」が行なわれている。これは、いったいどういう意味をもっているのだろうか。

 少し前までなら、いや今でもそうなのだろうけれども、アニミズム的な、万物が生きているというようなとらえ方は、迷信的なものとされている。しかし、そうした、迷信だと思っていることこそが、迷信そのものだということなのかもしれない。

 物質は、植物や動物が生きているという意味で生きているのではないのかもしれないけれど、物質がなぜ物質として現出しているのかということが考えられなければならないのではないだろうか。

 今では、すでに、物質が極小の粒子で存在していて、それがさまざまに集まってこの世界をつくっている、という素朴な考え方はあまりにも素朴なものとされているが、多くの人のイメージしている物質というのは、おそらくはそうしたきわめて素朴にとらえられたものだし、それを加工していくというか、それを技術的に処理することで、科学は進歩していくというようにとらえているように思う。

 そうした素朴で即物的な見方からすれば、物質の救済ということは、問題にさえなるものではない。人間の救済ということさえ、多くは問題にならないのだから。

 キリストのゴルゴタの秘儀が、人間の救済のためのものだけではなく、物質の救済のためでもあった、ということは、深い意味を持っている。

 物質がなぜ物質として現われているのか。そしてそれはいったいどういうことなのか、ということが探究されなければならない。

 シュタイナーのいうように、物質は霊的なものなのだ。霊的なものだというふうにイメージされているものだけが霊的なのではない。シュタイナーが医学や農学などで残している営為は、そこから出発している。

 人間は、物質を即物的にとらえるのではなく、霊的なものの現われとしてとらえるとこから始めなければならない。

 

 

ノヴァーリス・ノート 12

自然の救済


1998.7.1

 

 自然は救いを求めている。現在の自然は、本来の姿からかけ離れたものとなっている。

[植物や動物や鉱物やエレメントなどは]過去の歴史的存在vergangene,geschichitliche Wesen である。自然は、魔法にかけられて石と化した魔法の都市eine versteinerte Zauberstadtだ。

自然は、まったくの過去にほかならない−−かつての自由ehemalige Freiheitだ。

 ノヴァーリスの連想では、「自然」と「古代」はつながっている。古代の芸術作品が芸術家の精神の表現であるのと同じく、自然もガイストの表現である。ところが現在、表現の結果である形のみが残っていて、「ガイスト」のほうはわからなくなっている。古代の作品は、だれにでもわかるものとして、客観的に存在しているわけではなく、心なき人が見ればただの石ころにすぎない。つまりみずから「精神(ガイスト)」である存在、みずからも芸術家であるような人が見てはじめて、古典古代は「芸術家の眼と魂のもとで生成する。古代の遺物は、古典古代を形成するための特別な刺激なのである」。自然もおなじである。「自然と自然認識は同時に生まれる」といわれるが、自然も、認識する者の能動的な認識行為によって、生成するのである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P152-153)

 なぜ自然は、本来の姿を失ってしまっているのだろう。そのことを問わなければならない。いやその前に、自然をただただ素朴なものとしてとらえることをやめなければならないだろう。その自然観こそが、自然を閉じこめてしまっているのだといえるから。

 かつて自由だった存在者が自由を失っている。魔法をかけられて魔法の都市となってしまっている。

 自然に自由を取り戻さなければならない。魔法を解かなければならないのだ。

 人間はある意味では、自然を自分のなかから放逐して、それに魔術をかけ、それを道具としようとしたのだといえる。しかし、そのことで、人間のなかの自然も魔法をかけられてしまい、今や牢獄のなかにいる。

 人間は、自然を能動的に認識しなければならない。自然をスタティックに道具のようにとらえるのではなく、認識することによって、その生成に関わらなければならない。

 たとえば、ここに茶碗がある。それをただの道具だとして対象化することもできる。ただ粘土をこねてやきあげた実用品でしかないと。しかし、みずからが茶碗と化することもできるのではないか。言葉をかえていえば、茶碗として固定化されたものを愛でる、いやその存在の言葉を聞き取り、その言葉を呼吸すること。そのことで、茶碗という魔法にかけられた存在が生成しはじめるのだ。

 我々が目にしているあらゆる自然存在たちも同じだ。それを自分から離れてそこにある存在たちとして傍観することもできよう。しかし、その自然存在たちの言葉を聞き取りそれを呼吸することもできる。

 人間は、みずからが放り出し魔法にかけた存在たちをみずからを契機として解放しなければならない。そのことで、人間の自然存在としての部分もまた解放される。

 

 

ノヴァーリス・ノート 13

人と自然の調和


1998.7.22

 

 ノヴァーリスは、神と人と自然を区別する。しかし、この三者は、関わり合っている。人間は、この三者の関係を知る「道徳的感覚」に基づいて、自然のなかで活動すべきであるとされる。

 ノヴァーリスは、ヘムスタホイスの思想をまとめて、つぎのようなことを書いている。人間はさまざまな能力を発展させて学問や技術を築いてきたが、「こころ」という感覚器官は失ってしまったのではないか。「こころ」を育てることが「未来の存在」の課題であり、これによって人間は「完全性」に近づく。「森羅万象の道徳的側面は、天上空間よりも知られず、計り知れない」。森羅万象の内的空間は、宇宙空間よりも広いのである。人間は、自然を対象として感覚的にとらえるだけでなく、森羅万象の「精神的側面」を感知して、自然の「内」に入って、神と人と自然をつなぐ絆を知って、その認識に立って、活動していくべきである。「自然の道徳化」とは、人間のそのような行為なのである。(略)

 自然に対する人間のこのような行為としての「魔術」は、ほんらい、神と人と自然の調和の関係の認識に基づく実践である。ノヴァーリスにおいては、この調和の関係は失われてしまったのであり、それを回復する行為が「魔術」であった。人と自然の調和の関係は、ノヴァーリスにおいては「愛」と呼ばれる。(略)

「自然」Naturと「わざ」Kunstのあいだにあるべき関係は、「愛」であるとされる。「高次の哲学は、自然と精神の結婚を取り扱う」ともいわれる。「わざ」とは、科学・学問・技術・芸術など広く人間の行為をさす。人間の行為の目ざす方向は、ノヴァーリスにおいては、自然の征服や搾取や支配なのではなく、「愛」であり、「自然」と「人のわざ」とのあいだに、対等な関係が想定される。「自然と人のわざは、高次の学問(道徳的形成学)において−−一つのものとされ、相互に完成させ合う。自然とわざは道徳性によって相互に無限に補強し合う」。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P157-160)

 近代は、自然を対象化し、単なる物として扱ってきた歴史だった。単なる物というのは、単なる外的関係を持つ実体としてのいわゆる唯物的なとらえかたであって、そうした物として自然をとらえる限りにおいて、人は自然と調和することはできない。

 自然との調和というのは、単に通常いわれている自然保護のような「自然の征服、搾取、支配」を逆転させただけの姿を変えた唯物論的な考え方なのではなく、自然の「内」に入っていくことにほかならない。

 自然の「内」に入っていくということは、自然の「精神的側面」「霊性」を深くとらえることである。そのことによって、「自然と精神の結婚を取り扱う」こと。それが「愛」という「魔術」にほかならない。

 神と人と自然の関係を知るということが、ノヴァーリスにとっては「道徳的感覚」であり、失われてしまった神と人と自然の絆を再び結ぶために、自然を「道徳化」するという人間の営為が重要だということになる。

 それは、「自然を大切にしよう」というようなムード論的な唯物論ではなく、自然への積極的な働きかけが必要な、「高次の学問(道徳的形成学)なのだ。だが、その積極的な働きかけである「わざ」Kunstは、通常いわれるような科学主義的な技術ではなく、「愛」を機軸として、自然の「精神的側面」「霊性」を深くとらえる芸術を含んだ総合的な意味での人間の営為にほかならない。

 人と自然のつながりを重視する思想にホワイトヘッドの「有機体の哲学」があり、人も自然も「活動的存在(アクチュアル・エンティティー)」の連鎖としてとらえているが、その哲学と比較してみる試みも面白いかもしれない。

 

 

ノヴァーリス・ノート 14

内的複数性


1998.7.23

 

 人間はあるがままの姿では、自然との調和した関係に入ることができない。人間は、自然との調和からすでにはみ出した存在だからである。自然の「教育者」である人間は、「高次の我」と対話し、「高次の我」によって教育される存在でもあった。そのように、次の引用では「内なる汝」をもつ必要が述べられている。

生命なき事物に対するまことの愛が与えられるだろう−−植物や動物や自然に対しての愛も−−もちろん自分自身に対する愛も。真に内的な汝をもつときはじめて−−きわめて精神的でありつつ官能的でもあるような交際ときわめて激しい情熱も可能となる−−天才とは、そのような内的複数inneres Pluralの結果にほかならないのかもしれない−−この交際Umgangの秘密はいまだにまったく明らかにされていない。

 「高次の我」や「内なる汝」と呼ばれる存在は、「内在化された超越者」あるいは「内在化された他者」といえよう。フィヒテの自我が「一切であり、その他には何ものも存」せず、自己同一性を保っているのに対し、ノヴァーリスは「プルラリズム」、「内的複数」、「私たち自身の内的複数性」innere Pluralitaetなどと、「私(自我)」そのものの複数性を主張する。「私の複数性」とは、「高次の我」や「内なる汝」を自分のなかにもつことであると同時に、「いかなる人も、私が考えたり行なったりすることに、固有の関わりをもっているし、私も、他の人の考えに関わっている」という、自分の外なる他者との内的関係性でもある。「生命なき事物に対する愛」や「植物や動物や自然に対しての愛」が、人間の「内的複数性」に基づくという考察は、1800年前後という同時代のヨーロッパ思想界を背景としてみて斬新なものであるし、二十世紀末の現代にも示唆に富む考えであろう。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P160-161)

 「私の複数性」は、「私」の独自性、個性を否定するものではない。「私」が「私」であるということの根拠でもある。「私」が「私」であるためには「あなた」が必要なのだ。

 仏教に「縁起」という考え方がある。いかなる存在も関係しあっているということだ。これは、最近では、量子力学との関係性を云々されるとろこでもあるし、ホワイトヘッドの有機体の哲学の「相依性の原理」とも通じたとらえ方である。

 「私」が「私」にとって「私」であるように、「あなた」の「私」も、「あなた」にとっては「私」なのだ。それは、人間だけではない、あらゆる動物や植物も、(人間のいう「自我」の意味ではないとしても)同じであり、さらに、生命のないとされているものさえ、同じである。

 そうした無限の「私」が「私」としてあるということは、どんな「私」もかけがえのない「私」であるということであり、同時に、どんな「私」のなかにも、他のあらゆる「私」が存在しているということでなければならない。

 「私」のなかには「あなた」が存在しているのだ。あらゆる「あなた」が。

 「私」の可能性は、どれだけ「私」のなかの「あなた」を自覚できるかということからひろがるものである。「あなたがわからない」というのは、「私は私のなかにあるあなたを見出すことができないでいる」ということだ。

 太陽を見るためには、私は私のなかに太陽を持っていなければならない。私は私のなかにあなたを持っていなければ、あなたを理解すことができない。

 人と人とのコミュニケーションから深い意味でのエコロジーまで、常にそこから出発しなければならないのではないだろうか。

 そして、それゆえに「私は私」なのだということを見出すことができる。

 

 

ノヴァーリス・ノート 15

自然に対する感受性


1998.7.28

 

 自然に「汝」として対するためには、人間がただたんに能動的であるだけでなく、受動的でもある必要がある。自然に対する感受性があってはじめて、人間と自然のあいだに相互的な関係がなりたつ。フィヒテが、「私は自然の主人でありたい。私は私の力に応じた影響を自然に及ぼしたい。しかし自然は私にいかなる影響も及ぼしてはならない」と考えるのとは異なっている。

 ノヴァーリスは、自然科学研究にも、自然に対する感受性や愛が必要だとする。「自然科学研究ノート」には、つぎのような考察がのこされている。

実験には自然の天才、すなわち自然の意Sinnを汲み−−自然の精神にかなうように行動する不思議な能力が必要である。まことの観察者は芸術家である−−かれは、意味深いものを予感し、そのときどきに織りなされる珍しい多様な現象のなかから重要なものを感じ、取り出すことができる。

明晰な悟性と落ち着いた感覚とならんで、独特な愛と子どもらしさが、自然の研究には必要である。国全体が自然に対する情熱Leidenschaftを受け取りこの点で市民のあいだに新しいきずなが結ばれ、いかなる場所にも自然研究者と実験室があるようになってはじめて、自然と関係するこの巨大な分野で進歩することができるだろう。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P161-161)

 自然を聴く耳があるということが、自然科学研究の基礎になければならない。まったく聴くことができないままに音楽を研究するようなことを、現代の科学技術主義は行なっているのだといえる。

 実験室で隔離されたなかでくり返されるさまざまな実験。それは決して自然のなかでは存在しえない場所。その結果を自然に対してあてはめようとし、生物に対しても見境なく実験が行なわれる。果ては、クローンや遺伝子組み替えへ。

 ハーモニーを聴くことのできない耳を持つ者が、計測できるものだけを基準にした音楽会をしているのだ。計測できるものとは、カラオケででてくる点数のようなもの。それを音楽性だと思いこんでいる愚かさ。鳥の声が、植物を成長させているのを知るならば、鳥の声から学ぶことを考えないのだろうか。

 ノヴァーリスの「自然科学研究」は、おそらくは多くの自然科学者にとってはたんなるファンタジーにすぎないのかもしれないが、そのファンタジーこそが、見出されなければならないものだ。今はまだ、科学者が芸術を解するというのはまだ特別なことのように受け取られているが、芸術家でない自然科学研究者というのが、矛盾でしかないような、そんな科学の時代こそが望まれる。

 

 

ノヴァーリス・ノート 16

まことの魔術と「単なる魔術」


1998.7.30

 

 ノヴァーリスは、まことの魔術と「単なる魔術」を区別する。

人間は、無気力のゆえに、単なる機械論や単なる魔術を求める。活動的であろうとしない−−自分の創造的想像力を用いようとしないのだ。

 ここでは、「単なる機械論」blosser Mechanismと「単なる魔術」blosse Magieとが同列に置かれている。「機械論」と「魔術」は、一見すると正反対のもののようである。しかし、すべてを一種の機械として説明する世界観としての機械論と、運命としてすべてをただ甘受する方向へ導く占星術や現世的な富をもたらす黄金を求めるざわとしての錬金術は、人間の自由、すなわち人間が状況に対して積極的に立ち向かう活動の可能性を否定するという点で、通じ合っている。両者とも、物質的な結果しか見ない決定論者である。通俗的な意味での科学的世界観とオカルティズムは、その意味で同じ穴のむじなであり、似ているがゆえに憎み合う兄弟なのである。

 科学や論理や魔術が、真のものから偽りのものへと堕落してしまう原因は、ノヴァーリスによれば、「活動的」であろうとしないことにあり、このことは「創造的想像力」を用いないということである。そして、創造的想像力を用いない人間によって堕落するのは、魔術ばかりでなく、科学や論理もなのである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P171-172)

 問いがあり、それに対応した答えがある。その関係を固定化させることで、問いと答えの関係は死んでしまう。問いと答えは弁証法的でなければならない。

 答えを得ることが重要ではない。答えを得ようとすること、いやむしろ問うことそのものが重要なのだ。こう言ってもいいだろう。その答えは、どんな問いに対する答えの可能性があるのか。そしてさらに、その問いに対してどんな答えの可能性があるのか。

 「そういうものだ」が、すべてを死滅させる。「そういうものだ」は、問いと答えを一義的な一対一対応に貶めてしまう。

 自由の哲学がその根底にあるかどうか。それが、科学や論理や魔術やその他あらゆるものが、死んだものになるか、生きたものになるかの差を決める。シュタイナーが、図式化することや、スタティックな定義付をしないことを常に明言していたのは、そうすることで、自由が死んでしまうからだ。

 「創造的想像力」が必要である。そしてその根底には「自由」が必要である。そのためには、「問うこと」を怠ってはならない。ある答えが与えられたときには、「なぜそうなのだろう」と問いへと遡らなければならない。

 人は、すべては自分が決めているということに耐えられない。だから、自分でないあらゆるものが決めているということにしたい。けれど、都合のいいときには、その決定に進んで従い、都合の悪いときには、「被害者」になろうとする。自分を「弱者」であると公言する。しかし、それも本質的には、自分を「被害者」「弱者」という存在に決めているのは、自分なのだ。

 キリストが磔刑にあったとき、キリストは「被害者」でも「弱者」でもなかった。そしてもちろん「敗者」でもなく、「成就者」だった。それは、キリストが最高の意味で「自由」であったがゆえの「成就」だった。そして、成就は、決して「結果」ではなく、常なるプロセスだ。

 

 

ノヴァーリス・ノート 17

未来のシェーマとしての魔術


1998.8.24

 

 ノヴァーリスの「魔術」は、過去の伝統のなかの魔術と無関係ではないが、基本的には、過去のものではなく、「未来」のものであるとされる。

 ノヴァーリスによると、伝統的な「魔術」が主張するような、「万物の調和的関連」は、現在は存在しないが、「あるべきであり」、「魔術や占星術」は、「絶対的現在」としての「未来のシェーマ」である。(略)

 「魔術」は、万物のあいだの調和的な関連をあらしめる学として、この世では実現しない目的をはるかかなたに仰ぐことを忘れない学として、「未来のシェーマ」なのであった。ノヴァーリスにとっては、自然を対象とする自然学も、ほんらいこのような意味で、「魔術」なのである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P176-179)

 現代社会が行き詰まっているように見えるのは、人類の共有できる「未来のシェーマ」がないからではないかと思う。

「未来のシェーマ」があるならば、それに基づいて今何をしなければならないかということが明確になる。

 「未来のシェーマ」は、種であり、まずその種を蒔かなければ、その「未来のシェーマ」は現実化されることはありえない。種を蒔き、適切に水と肥料をやり、光を与えることでその種からは葉が茂り、やがて花が咲き、実りを得ることができる。

 「未来のシェーマ」は、目の前の短期的な目的ではない。特定の技術を開発するということではなく、「万物のあいだの調和的な関連をあらしめる」ためにある。そのことを忘れたときに、それは黒魔術にすり替えられてしまう。科学が技術と結びつくことで、目先の目的に奉仕するもととなるとき、軍事目的での科学研究や興味本位の遺伝子実験などその黒魔術的な花を咲かせてしまうことになりかねない。

 そのことを、「未来への種を蒔くカルマ」としての「縁起」だととらえることもできるだろう。「蒔いた種は刈り取らねばならない」のであるならば、どんな種を蒔くかによって、未来は決定されてゆく。

 今自分が、そして世界がかくあるのは、かつて自分がそういう種を蒔いたのだということができる。だからこそ、「未来のシェーマ」という観点から、今どんな種を蒔かなければならないかということを考えていく必要がある。

 

 

ノヴァーリスノート 18

「神」は「物質」として自らを顕現する


1998.9.23

 

 ノヴァーリスにおいて、宇宙を貫く一つの力は、自然科学的探求の対象となる力であると同時に、「世界霊魂」という自然哲学の概念にも重なっている。「世界霊魂」はさらに自然のなかの「人格的なもの」と重なっている。ここで注意すべきは、この考えが、アニミズムやたんなる汎神論と解されてはならないということである。

 すなわち、ノヴァーリスにおいて、自然の諸力と「世界霊魂」と「人格的なもの」は、同一ではない。「もの」と「こころ」はあくまでも区別される。自然と精神の区別は消えない。東洋的な「物心一如」の考えのように、物と心が「即」の論理により融合されることがない。

 とはいえ、ノヴァーリスの思想は、精神と物質の二元論ではない。ノヴァーリスは、「こころ」と「もの」を、「顕現」(Offenbarung)の論理によってつなげる。「もの」は「こころ」の「あらわれ」であり、「こころ」は「もの」となって「顕れ出る」。

力は、さまざまな物質の物質。魂は、さまざまな力の力。精神はさまざまな魂の魂。神は、さまざまな精神の精神である。

 ここにはノヴァーリスの好みの、「AのA」(哲学の哲学、ポエジーのポエジーなど)という、累乗して(ポテンツを高めて)、次元を高めていくという思考と表現のパターンが用いられている。「物質」と「力」と「魂」と「精神」と「神」は、それぞれ次元を異にし、階層をなして関わり合っている。これらの各階層は、区別されるが、それでいて繋がり、物質は力の現われ、力は魂の顕れ、魂は精神の顕れ、精神は神の顕れとなり、要するに「物質」は「神」の顕れとなっている。「神」は「物質」として自らを顕現する。自己開示する。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P214-215)

 「もの」と「こころ」。

 「もの」が「こころ」を生み出したという考え方があり、さらに、「もの」がすべてであって、「こころ」はただの幻想だという考え方もある。

 「こころ」が「もの」を生み出したという考え方があり、さらに、「こころ」がすべてであって「もの」はただの幻想だという考え方もある。

 「もの」と「こころ」の二元論か、「もの」だけ、または「こころ」だけの一元論か。

 ノヴァーリスは、そういった単純な見方をしない。「もの」と「こころ」を切り離してしまうことなく、「顕現」(Offenbarung)の論理によって、それぞれ違う「次元」にあるものとしてとらえ、そのヒエラルキーの違いを問題にする。「もの」は「こころ」の「あらわれ」なのだ。

 「もの」をただ客体として対象化するのではなく、もちろん「もの」を幻のようにとらえるのでもなく、また、「こころ」と「もの」とを「物心一如」というようにとらえるのでもなく「もの」を「こころ」の「顕現」したものとしてとらえる。

 「もの」はたんなる「もの」ではない。いわば、「物質は光になろうとしている」のだ。

 シュタイナーは、唯物論は物質のことがわかっていないからこそ唯物論なのだということをいっているけれど、それは、物質は、次元を異にしているものの、霊的なものの「顕現」にほかならないということを意味している。つまり、物質について認識するためには、霊的観点からのアプローチが欠かせないということだ。シュタイナーの医学や農学についての示唆もそのことと深く関わっている。

 「東洋的な「物心一如」の考えのように、物と心が「即」の論理により融合される」ならば、医学や農学についての自然科学をも含んだ観点は生まれない。それは、「「神」は「物質」として 自らを顕現する。自己開示する。」という観点を神秘学的に解明することによってはじめて可能となる。

 現代において、農業も医学も行き詰まりを見せているのは、「もの」にすべてを還元してとらえようとする世界観の行き詰まりにほかならない。

 

 

ノヴァーリスノート 19

存在の連鎖の再創造


1998.9.27

 

 ノヴァーリスにも、プラトンやプロティノスにさかのぼる「存在の連鎖」の考えがある。ノヴァーリスは、「すべては一つの鎖の環」であり、「どのような現象も、無限につづく鎖の一つの環である」と述べ、「物理学において、今までつねに、現象を関連から切り離し、仲間のほかの現象との関係のなかで追求してこなかったこと」を批判している。

 人間・動物・植物・鉱物は、階層をなしつつ、鎖の環としてつながっている。(略)

 ノヴァーリスは、このような階層性のことを「共感の現実性」、「自然界のパラレリズム」と呼んでいる。鉱物界・植物界・動物界・人間はそれぞれ固有の領域をなしつつ、相互に関連し、対応・照応している。

 ノヴァーリスにおいては、自然の階層性は、自然のなかだけで完結していない。存在の連鎖にはさらに、人間の精神という環がつづき、そこからさらに神の方向に延びている。その意味では、天使や神につながる古い伝統的な「存在の連鎖」に近い。(略)

 「存在の連鎖」は、ノヴァーリスにおいては、人間が壊したのだから、人間がふたたび作っていくべきものである。そうなるとき「自然学」は、創造学としての詩学(ポエーティク)につながっていく。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P216-217)

 ノヴァーリスの「存在の連鎖」というとらえ方は、シュタイナーが、この物質界においては、人間はその肉体を鉱物と共有し、植物とはその肉体と生命体(エーテル体)を、動物とは、その肉体と生命体(エーテル体)、アストラル体を共有していると言っているのと基本的に同じだといえる。

 そして、そうした「存在の連鎖」は、天使、大天使・・・と続きそれが神へとつながっている。

 この考え方は、もちろん、この物質世界だけでとらえたものではなく、世界を物質界を超えるレベルの階層性としてとらえたものからきている。

 すべてを物質レベルだけでとらえるとしたら、このとらえ方はまったくのナンセンスになる。それは物質にすべてが還元されてしまうのだから、たとえば、生命という現象も、感覚や感情、思考や意志といった人間の内的世界の現象も当然のごとく、脳の生み出した世界ということになる。そして人間を超える高次存在というのも、単なるヴァーチャルな世界でしかないことになる。理念とか理想とかいったことも、当然のごとく幻想でしかない。

 さて、ノヴァーリスは、人間は「存在の連鎖」を壊したのだという。壊したのだから、人間はそれを再びつくらなければならないのだと。おそらく、そこには、人間の「自由」ということが関わっている。自由ゆえに「存在の連鎖」を壊しえたのだから、ふたたび、自由ゆえにそれを創造しなければならないということだ。

 そして、その創造の学ということが、極めて重要になってくる。それが「詩学(ポエーティク)」だというのだ。「詩学(ポエーティク)」は、いわゆるポエムではない。いわば神が「ことば」によって世界を創造したというように、人間も「ことば」によって創造を行なわなければならないということだ。ノヴァーリスの思想はそこに極まっていく。


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