ノヴァーリスノート1-10


ノヴァーリス・ノート1●断章集

ノヴァーリス・ノート2●我と汝

ノヴァーリス・ノート3●個

ノヴァーリスノート4●無垢と無知

ノヴァーリス・ノート5●罪、病気、悪

ノヴァーリス・ノート6●ロマン化

ノヴァーリス・ノート7●創造的想像力

ノヴァーリス・ノート8●魔術的観念論

ノヴァーリス・ノート9●きたるべき自然学

ノヴァーリス・ノート10●マクロコスモスとミクロコスモス

 

 

 

ノヴァーリス・ノート1

断章集


(1998.5.7)

  先日、次の本を見つけ、ノヴァーリスの素晴らしさと同時に、著者の中井章子さんの研究に感嘆し続けています。

 ■中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」(創文社/1998.2.28発行)

 また、この中井章子さんには、この研究書と密接に関係している次の編訳書あります。

 ■キリスト教神秘主義著作集16 近代の自然神秘思想(教文館/1993.9.15)

 これらの内容は、シュタイナーの神秘学を理解するためにも、非常に重要なものではないかと思われますし、ノヴァーリスの構想は、人智学の源流ともなっているようにも思われますので、これから「ノヴァーリス・ノート」ということで、その一端をご紹介してみることにしたいと思います。

 なお、「近代の自然神秘思想」に関しては、「神秘学ノート」でいくつかのテーマをとりあげてみたいと思っています。

 なお、邦訳では、シュタイナーとノヴァーリスなどとを関連づけたものはほとんど見当たらないのですが、幸い、高橋巌さんが、「シュタイナー哲学入門/もう一つの近代思想史入門」(角川選書)を書かれていますので、興味のある方は参照されることをおすすめします。

---------------------------------------------------------------

 

ノヴァーリスノート1●断章集

 

 哲学には、時代に応じてさまざまな文体がある。対話、スコラ哲学の議論や論証、幾何学的体系、エッセイなど、さまざまな表現様式がある。

 ノヴァーリスの「断章集」は、いくつかの「断章」のゆるやかな結合からなる「体系なき体系」をめざす。一つ一つの断章は、論理を飛躍させ、メタファーを多用するという特徴をもつ「アフォリズム」である。ノヴァーリスは「観念のパラダイス」ein Ideen Paradiesこそ「真の体系」であると言う。人工的な体系は、さまざまな思想の「寄せ集め」Aggregatであって、そのなかではただ一つないし少数の観念が栄え、他の観念を抑圧し、支配している。それに対して、「精神的な自然体系」においては、さまざまな観念が共に並び立ち、それぞれ相応しい「土壌」と「気候」と「世話」と「隣人」を与えられる。ノヴァーリスによれば、アフォリズム集、「断章集」Fragmentssammlungこそが、そのような「観念のパラダイス」を作るための表現形式なのである。(略)

 大切なのは、なんらかの哲学や体系や原理を手に入れることではなく、「哲学する」行為である。その行為こそが「私たちに可能な絶対的なもの」であって、それは「絶対的な要請」とも呼ぶことができる。

 ところが多くの哲学者は、「体系の発見」とともに「思想の根底」を問いつづけることをやめてしまう。そしてその体系の叙述は、読者を受動的な存在にする。ノヴァーリスは「フィヒテの哲学は、自ら活動することへの呼びかけである」と述べ、「哲学することを教えること」は、何らかの内容を教え込むことではなく、教えるこ者自身が考えることをやってみせることにより、学ぶ者自身が自分で行為すること考えることを身につけることなのだ、と考えていた。「断章集」という表現形式は、表現者の「根底を求める」という永遠の課題を表現する形式であるとともに、表現を受け止める者の自発的行為を引き出す形式でもある。

 こういうわけで硬直した体系に対して、「断章集」の形式が選択されるのだが、「断章集」はばらばらの「断章」ないし「断片」のたんなる寄せ集めではない。そこには「真の体系」といわれるようなある種の体系性が存在している。

本来的な哲学体系は、自由と無限を、または誇張して言うならば非体系性を、体系へともたらしたものであるべきだ。そのような体系のみが、体系の誤りを避け、不正にも無秩序にも陥らずにいることができる。

哲学の普遍体系は、時間のような、一本の糸であるべきである。それを導きの糸とし、私たちは無限の規定をくぐり抜けることができる−−それは、もっとも多様な統一の体系、無限の拡張の体系であって、自由の羅針盤であらねばならない。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P35-37)

 「断章Fragments」や「アフォリズム」という形式は、ヴィトゲンシュタインやニーチェ、ベンヤミンなど、ぼくが哲学的な思索にめくるめく体験(ほとんど眩暈のような^^;)をしていた頃から、とても馴染み深く、パソコン通信でも、現在「トポス・ノート」といったようなものを書き始めたタイトルの最初が「風のfragments」というもので、HPにもそれが登録してあったりします。

 では、なぜ「断章Fragments」なのか。

 ノヴァーリスは、それによって「体系」の硬直化を避け、「自由の羅針盤」でもあるような「真の体系」を目指しているのだといえます。

 ノヴァーリスの筆名で(本名はハルデンベルク)最初に公表した作品は「花粉」(1797年)であり、これは114の断章からなっていて、その冒頭には、次のような題辞が掲げられています。 

友よ、大地は貧しい。

ささやかな収穫に恵まれんがためにも、

われわれはたくさん種を播かねばならない。

 その「たくさんの種」のひとつひとつが、「断章」として播かれているのだというふうにとらえることもできます。ノヴァーリスNovalisが、新たに開拓された大地を意味することを思うときに、そのそれぞれ中に盛り込まれた深い思想から、わたしたちは多くの収穫を期待しなければなりません。まさに、現代という「貧しい」「大地」ゆえに・・・。

 ちなみに、この「花粉」または「雑録集」の邦訳は、おそらく現在次の二種類ほど手に入れることができます。 

■ノヴァーリス「日記・花粉」(現代思想社)

■ドイツ・ロマン派全集第2巻「ノヴァーリス」(国書刊行会)

 さて、この「断章」という形式の持つアクチュアリティは、上記の引用にもあるように、まさに、「表現を受け止める者の自発的行為を引き出す」ということにあります。硬直化した哲学や体系や原理を得ようとするのではなく、常にその深みを豊かさを展開させ続けるプロセスとして「自由の羅針盤」でもあるような「真の体系」なのです。

 硬直化した真理があることによって、人はそれに呪縛されてしまいます。真理は、真理へ向かう自由としてのプロセスそのものでもなければなりません。哲学や体系や原理も、同じくそれらそのものが、「自由の羅針盤」でなければならないのです。

 さて、それら「断章」がどのような「自由の羅針盤」となりえているのかを次回から見ていくことにしたいと思います。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 2

我と汝


(1998.5.8)

 

ノヴァーリス・ノート2●我と汝

 

 フィヒテとノヴァーリスの相違は、フィヒテにとって認識が、「自我」の「非我」に対する闘いのおもむきを呈するのに対し、ノヴァーリスにとっての認識が、「私」と「あなた」Du、我と汝の出会いであり、「私」とみずから独自な「私」である「あなた」の相互理解、いわば愛であるということに見られる。(略)

大いなる我にとって、普通の我と普通の汝は、補完物Supplementsにしかすぎない。あらゆる汝は、大いなる我の補完物である。私たちはいまだに我になっていないが−−我になることができるし、またなるべきである。私たちは、我になるべき芽生えなのだ。私たちはすべてを汝に−−第二の我に変えなくてはならない−−こうしてはじめて私たちは私たち自身を−−同時に一にして全である−−「大いなる我」へと高めるのである。

 ノヴァーリスはすでに「フィヒテ研究」のはじめ(1795年秋から初冬)に、「フィヒテはあまりにも恣意的にすべてを自我に押し込んでしまったのではないか。どんな資格があるというのか。自我は、他の自我ないしは非我なしに、自己を自己ととして定立できるのか」との疑問を抱いていた。フィヒテの「自我−非我−絶対我」を、「我−自然−神」や、先に引用した「我−汝−大いなる我」で置き換える試みをしているのは、その疑問の故でもある。

 ノヴァーリスにおいては、認識の主体と客体は固定したものではなく、相互に交換できるものである。これは、認識の対象が、人であっても自然であっても同じである。それゆえ、ノヴァーリスにとっては、自然との触れ合いをとおして人間が自己理解に至るばかりでない。自然もまた、人間によって自己を理解するのである。このような考えは、『ザイスの弟子たち』のような作品において現実化している。

 (中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P57-58)

 ブーバーの「我と汝」というのは、とても有名だし、レヴィナスにとっても「他者」をどうとらえるかというのは、きわめて重要な問題をはらんでいるといえるのですが、既に18世紀末において、ノヴァーリスが記した我と汝についての理解は、きわめてダイナミックでアクチュアリティのあるものだといえます。

 私は私なのだけれど、あなたの私も私です。そんな私と私を戦いととらえるか、それとも愛ととらえるか、それがフィヒテとノヴァーリスの違いです。

 私が私であるのは、あなたがいるからだ。私が私を理解するためには、あなたが必要である。乱暴にいうならば、そういう発想からノヴァーリスは出発します。

 そして、そのあなたに、私にとってのあらゆる客体をあてはめようとするのです。だから、自然は、ノヴァーリスにとって、私が私を理解するために欠かせないものとして現われます。

 さらに注目すべきは、ノヴァーリスは、自然をも私の位置に置くことです。だから、自然が自然を理解するために、人間が必要だということにもなります。自然と人間のダイナミックな関係についてのこうしたノヴァーリスの視点は、現代においてこそはじめて認識されはじめようとしているものだといえます。

 また、ノヴァーリスの引用の部分には、「第二の我」というのがでてきています。「私たちはいまだに我になっていない」というわけです。ですから、私たちは「我」にならなければなりません。そのために、「汝」が必要になるのです。「汝」がいなければ、私は「第二の我」へと変容することができません。

 そこでは、我と汝の相互性というのが弁証法的にとらえられ、フィヒテにあっては戦いでしかなかったものが、相互変容によって統合されるべきものとなっています。

 私はあなたがいるから、私です。あなたがいるから、私はもっと私になることができます。あなたと私の魔術的な関係がそこに深くとらえられています。まさに愛にほかならない魔術としての関係。

 しかし、その前提として重要なのが「個」であることです。「個」がなければ、その愛の魔術の前提が成立しなくなるのです。それについては、「ノヴァーリス・ノート3」でとりあげたいと思います。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 3


(1998.5.12)

 

ノヴァーリス・ノート3●個

 フィヒテには、精神的な存在としての人間を確立させようという情熱があり、そのため、環境や体験や性質によって影響を受けた具体的存在としての個々の人間、個性としての人間は、精神としての人間に至る手段であり、認識の発展の過程でいずれ消えていくものと考えられた。人間は、生まれ、環境、体験などの外的条件によって規定されない自由な存在だからである。

 ノヴァーリスは、そのような自由な存在としての「人間の尊厳」の考えをフィヒテから引き継ぎつつも、「個」については違った考えをもつ。人間が個性をもった人格であるということ、一人ひとりがかけがえのない個人であるということは、理性をもつこと以上に、人間の尊厳にとって本質的に大切なことなのである。そして人の、個性をもった人格としての実在は、他人にもつかみきれない謎である。だから、私たちが反省を重ね、哲学的に思考するということは、私たちが個性を消滅させ、抽象的人間になっていくこととは異なるはずなのである。

 ノヴァーリスは、人間について「個」としての存在を重視するばかりでない。人間でないすべてのものについても、「個」ということを考える。(略)

 自然の万物は、概念として存在してうるのではなく、それぞれ「個」として、「自己」として存在している。それぞれが「中心」である。ノヴァーリスとフィヒテの相違は、「個」をどう位置づけるかという点にもある。そして、個の重視ということは、哲学が「ポエジー」にならねばならないという要請にも関わってくる。哲学は、普遍的なものや一般的なものを語るに適しているが、「個」を語るには向いていないからである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P65-66)

 私がかけがえのない存在であるということは、あなたがかけがえのない存在であるということだ。そして、それは一般化、抽象化して語ることはできない。私は「個」として存在しており、あなたも「個」として存在している。一般化、抽象化されてしまうことで、私もあなたも消えてしまう。

 私とあなたは異なっている。だから、私にとってあなたは謎である。あなたは謎だからこそあなたである。また、私にとって私こそが謎であるが、あなたの存在しない私は謎にまで至っていない。あなたが存在するからこそ、私は私にとって謎となる。

 私が私であるということは、あなたがいるということだ。あなたにとっても「私が私である」ということは、あなたにとってのあなたがいるということだ。つまり、それぞれの「個」が常に「私」という中心になる。「個」としての「私」と「私」の関係において「愛」が成り立つ。つまり、「個」としての「私」のないところに、「愛」はない。「隣人を愛せよ」というのは、「隣人」をまず「個」として認めるということが前提となっている。

 ノヴァーリスは、森羅万象も「個」としてとらえる。そして「個」としての森羅万象も「中心」となる。ということは、「私」と森羅万象との「愛」も成り立つということになる。そしてそれによって、「私」と森羅万象とは「愛」によって相互に変容しあう関係となる。「ポエジー」ということがそこで重要となる。「ポエジー」という創造は、一般化、抽象化によっては行なわれない。「愛」も一般化、抽象化することができないように。

 

 

 

ノヴァーリスノート 4

無垢と無知


(1998.5.14)

 

ノヴァーリスノート4●無垢と無知

 

 子どもは、世界と自分の分裂を知らない。ただし、子どもは、ひとつの理念型としての「子ども」、限りなく赤ん坊に近い「子ども」である。実際の子どもはどんどん成長し、世界と自分の分裂を知る。人間は、いつまでも子どもでいるわけにはいかない。ノヴァーリスは、「子どもっぽさ」や「未熟さ」をセンチメンタルに賛美しない。(略)

無垢と無知は姉妹である。だが、高貴な姉妹と低俗な姉妹がいる。低俗な無垢と無知は死すべきものである−−綺麗な顔をしている−−しかしいかなる深みもなく、永続的なものでもない。高貴な姉妹は不滅で−−その尊い顔はパラダイスの陽によって永遠に輝く。高貴な姉妹は天に住み、幾多の試練を乗り越えたもっとも気高い人々のところにのみ訪れる。

 人間は、知識の苦い実を食べ、経験を積み、子どもとは別の次元で無知と無垢を再び獲得しなくてはならない。(略)ノヴァーリスが求めるのは、このような「啓蒙」を経た次元での高次の「無知と無垢」なのである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P81-82)

 人は、だれでも最初は子ども。「世界と自分の分裂を知らない」。しかし、それは獲得されたものではない。人は、いつまでも子どものままでいることはできない。

 大人は、子どもを見て、未熟だと思うこともできるし、子どもは天才だ!と、逆にそのとらわれのなさを感嘆することもできる。けれど、誰でも子どもだったことがあるのだから、それはまず自分に向けられるものでなければならないだろう。子どものように未熟であってはならない、というのも確かだろうし、子どもの頃のようなとらわれのない自分でありたいと思うこともまた必要なことなのだと思う。

 どちらにしても、子どものようでありたいかどうかは別として、いつまでも子どものままでいることはできない。子どもの「無知と無垢」がほしければ、失われた後で、それは高次の意味で再獲得されなければならない。

 無我ということが悟りには必要なこととされたりもするが、それは最初から自我が要らないということではない。低次の自我から出発するとしても、一度はその道を通らなければならない。無我といっても、低次の自我を克服し高次の自我を得るということなのだから。低次の自我と高次の自我といってもわからないものだから、低次の自我を基準としてその修行目標として示されたのが無我なのだ。

 無為ということにしても同じ。最初からなにもしないでいいというのではない。それは行為の果てにあるものとしての無為でなければならない。無為がある意味で逆説的なのも、そこには低次の意味での行為というプロセスが前提とされているということである。

 高次の「無知と無垢」は、獲得されなければならない。自分が知らないということを知らなければならない。自分がとらわれているということを知らなければならない。思考の罠から自由になるためには、思考できなければならない。感情に溺れないためには、感情を豊かにしなければならない。

 そこに必要な発想は、プレから脱し、ポストへの道を歩むことだ。螺旋階段を上から見て同じ地点にいるとしても、一巡りしているかどうかは、大きな違いなのだから。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 5

罪、病気、悪


(1998.5.17)

 

ノヴァーリス・ノート5●罪、病気、悪

 

 ノヴァーリスは、「罪」や「病気」を「高次の総合」に至る契機であると考えているが、それは「悪」についても同様である。

悪は−−善を強め、発展させるために−−必要不可欠な錯覚である−−真理のために誤謬が[必要不可欠で]あるように−−痛み−−醜さ−−不調和もしかり。これらの錯覚は、想像力の魔術Magie der Einbildungskraftからのみ、説明することができる。

嘘の父である悪魔というものは、必要不可欠な幽霊Gespenstにしか過ぎないのではないか?欺瞞と錯覚のみが、真理や徳や宗教に対立している。[…]悪魔は、神にとっては存在しないが−−私たちにとっては、残念ながらきわめて強力に働く妄想である。

「悪」も実在ではなく、「錯覚」であり、「善」にいたるための「フィクション」だというのである。「悪」は善なる全体を成り立たせる一つの契機に過ぎない。「悪」は、あくまでも「悪」であるが、神に近い高次の意識からみると、意味を変えるというわけなのである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P89)

 「罪」、「病気」、「悪」を否定的にとらえるのではなく、それを「高次の総合」のために「必要不可欠な錯覚である」ととらえること。その重要性はいくら強調してもしすぎることはないのではないか。

 「罪」、「病気」、「悪」がなければ、人は、人としての存在意義を持ちうるのだろうかとさえ問わなければならない。つまり、否定的契機というのは、大いなる道案内とでもいえる。その道案内は、錯覚を示してる道案内故の危険性を有してはいるが、逆にその道案内によって否定的な形で大いなる道が示されているのだ。

 人は、ただ生まれ、死に、同じところへ帰還するのではない。それであれば、生まれる必要などはないのだから。たとえ堕落の可能性を有しているとしても生まれてくること。そのことの意味を深く洞察する必要がある。そのプロセスによってどんな可能性があるのかに注目する必要がある。

 ある意味では、人間は堕天使だともいえる。しかし、天から堕ちることによって、この地上から天への自由な上昇のための営為が始まるのだといえる。その営為は、天から地上を眺めているのでは得られない何かがある。そして、天から地上へ、そして地上から天へというプロセスによって獲得されるものが、天に付け加わるのだと考える必要がある。

 つまり、単なる回帰の円運動ではなく、螺旋状の運動ということが考えられなければならない。

 「罪」、「病気」、「悪」は、円運動であれば必要のなかったものだ。螺旋状の運動であるがゆえに、必要不可欠な否定的契機なのだ。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 6

ロマン化


(1998.5.19)

 

ノヴァーリス・ノート6●ロマン化

 

 「世界の意味」をふたたびもたらす活動は、「ロマン化」と呼ばれる。

世界はロマン化romantisierenされねばならない。そうすれば、原初の意味がふたたび見出される。ロマン化とは質的相乗eine qualitativePotenzierungにほかならない。この操作Operationにおいて、低次の自己がより良き自己と同一視される。私たち自身そのような質的相乗の数列なのである。この操作はまだまったく知られていない。平凡なものに高い意味を、ありふれたものに神秘的な外見を、知られたものに知られざるものの尊厳を、限りあるものに限りなき相貌を与えることにより私はロマン化する−−高いもの、未知のもの、神秘的なもの、限りなきものに対する操作はこの逆である−−これはこのような結合により、対数化されるlogarithmisiert−−それはありふれた表現を得る。ロマン的哲学。ロマン語。相互的な引き上げと引き下げWechselerhoehung und Erniederung。

 「ロマン化」という操作は、二つの運動からなる。一つには、「低次の自己がより良き自己と同一視される」運動。これは、フィヒテ哲学の「自我」の運動、すなわち「非我」によって影響を受け限定される存在である。「自我」が、認識の働きの根底にある、外的なものにまったく依存せず限定されない「私」の意識に目覚め、そのような「絶対的な自我」を実現していこうとすることに重なる。(略)

 自己の高次化という「ロマン化」の第一の操作に裏付けられて成り立つ、第二の「操作」は、「ありふれたものに神秘的な外面を与える」という表現」行為である。この「表現」という活動には、「神秘的なものにありふれた外観を与える」という表現も含まれている。これは、先の「相乗」Potenzierungとは逆の「対数化」Logarithmisierungにたとえられる。ノヴァーリスのイメージでは、複雑なものや不規則なものを、単純なものや規則的なものに還元する方法である。(略)

 失われた意味をふたたび見出す方法である「ロマン化」とは、このように「自我」の反省の運動と表現行為の組み合わせによって、平凡なものと高貴なもの、有限と無限、ありふれたものと神秘的なもの、既知のものと未知のもの、この世と別世界、此岸と彼岸、物と精神を結びつける、「相互的な引き上げと引き下げ」の操作、計算法を指す。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P102-104)

 現代の我々には、「世界の意味」が失われている。

 かつて、「世界」は「意味」に満ちていた。立ち現われる「世界」そのものが「意味」であった。そこに分裂はなかった。「私」と「世界」の間にも分裂はなかった。

 しかし、「世界」は「私」にとって、見知らぬものとなった。「世界」は「私」ではもはやなかった。

 かつて仏陀は「天上天下唯我独尊」と言った。「世界」には、「私」しか存在しないというのだ。そう言わなければならなかったということは、すでに「世界」は、「私」ではないものに化していたということでもある。

 「ロマン化」は、「世界の意味」を再び取り戻す作業だといえる。ただ、ここで注意が必要なのは、それは、かつての未分化の状態への帰還なのではないということだ。再獲得ということは、過去に戻ることではない。それは、子供のようになるということが、子供に戻ることではないことと同じだ。

 「ロマン化」は、失われたもの、かつて「私」であったものと、再び「結ぶ」ということにほかならない。原初一つであったものが、分かたれ、そして再び結ぶ。その「結ぶ」という再統合のプロセスにこそ大いなる意味が見出されなければならないだろう。

 その「ロマン化」の操作は、二つの運動から成るという。「低次の自己がより良き自己と同一視される」運動と、「ありふれたものに神秘的な外面を与える」という表現」行為である。この「自我」の反省の運動と表現行為という二つの運動によって、「世界」に「意味」を取り戻そうというのである。

 この「二つの運動から成る」ということの重要性を忘れないようにしよう。「ロマン化」は、単に「高次の自己」を獲得することではないのだ。ある意味では、「高次の自己」を獲得することを「解脱」だということもできようが、それでは、この今ある世界、無常の世界から脱出するだけになりかねない。それだけでは、「世界の意味」を取り戻すのではなく、むしろ「世界の意味」を取り戻す可能性をなくすることになりかねない。

 だから、この今ある世界、無常の世界そのもののなかの限りなさ、意味深さをこそ見なければならないのだ。しかしそれは、無常の世界に埋没していてはわからない作業であるがゆえに、「高次の自己」を必要としているといえる。

 たとえば、それは、物質の真の意味を見出すということでもある。唯物論は、物質そのものの意味を失わせるものでしかない。物質の意味を見出すためには、高次の作業が必要となる。それによって、物質そのものへとアプローチが可能となるのだ。

 「ロマン化」によって、物質界と霊界との「不二」が可能となる。「世界」が統合されて現出してくる。たとえば、天台密教は、そうした「ロマン化」を壮大に描き出しているものだといえないだろうか。つまり、この世のあらゆる存在は、そのままで悟っているといえるのだ。しかし、肝心なのは、その「ロマン化」というプロセスであって、プロセスなしで、子供に戻ってしまってはならない。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 7

創造的想像力


(1998.5.21)

 

■ノヴァーリス・ノート7

 

 精神の領域と感覚できるこの世界をふたたび結びつけることを課題とするノヴァーリスにとっては、「想像力」が、人間のあらゆる活動の根源、「最大の財産」である。

 「創造的想像力」は、感覚をとおしての外界の認識において働くばかりではない。これは、外からの刺激なしに、まったく外界から独立して私たちの意志のみにしたがって働くこともできる。

想像力はすべての感覚に代わることのできる摩訶不思議な感覚であって−−そのためにすでにかなりの程度私たちの意志の支配Willkuerのもとにある。外的な感覚はまったく機械的な法則のもとにあるように見えるとしても、想像力は、あきらかに、外的刺激の存在や外的刺激との接触にしばりつけられていない。

 この意味での「創造的想像力」は、芸術創造に関わる「ポエティッシュな感覚」、すなわち創造的な感覚となる。この「創造的想像力」は芸術理論と結びつく。(略)

 芸術創造において働く「想像力」は、また「空想(ファンタジー)」とも呼ばれる。「空想」と「想像力」は等置されることもある。しかし、この両者はほんらい同じではなく、「想像力」は、「思考力」と「空想」を合わせたものとされてもいた。この意味でノヴァーリスの「想像力」は、カントやフィヒテの「構想力」を十八世紀ヨーロッパの文学や芸術の「想像力(イマジネーション)」によって拡大したものと理解することができる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P111-112)

 シュタイナーのいう道徳的ファンタジーとの類似をこのノヴァーリスの「創造的想像力」に見ることができる。

 まず、重要なひとつの観点は、「想像力」が、「外的刺激の存在や外的刺激との接触にしばりつけられていない」ということである。つまり、ある意味でメカニカルになりがちな外界を認識するための感覚ではなく、まさに「精神の領域」に関わるものであるがゆえに、それによって外界との新たな関係を構築することが可能になるということだ。

 人はほとんど外界に支配される機械になってしまっていることが多い。だから、外界に対象のないものを思考しようとすると、人は眠り込んでしまうことになる。シュタイナーの著書などが読まれにくいのは、それが人の「創造的想像力」によって読まれなければならないからだ。読書そのものが行になるということはまさにそういうこと。「想像力」が欠如しているということは、そういう意味で、「対象のない思考」ができないということにほかならない。

 次に重要な観点は、「創造的想像力」が、芸術創造と深く結びついているということ、つまり「ポエティッシュな感覚」であるということである。

 シュタイナーが、教育は芸術である、ということを言うことにも、この「創造的想像力」が深く関わっているといえないだろうか。「自由への教育」ということの、「自由へ」というのは、メカニカルに外界と関わりそれに支配されているのではなく、外界から自由であることによって可能になるものである。そして、それによって、自由と芸術が密接に関わっているということに思い至る。

 人は自由を獲得しようとするのでなければ、芸術的であるということはできないのである。ポエジーというのも、そうした自由を基盤とした芸術的な創造と深く関わっているといえる。ポエジーはポイエーシスそのものなのだ。

 ノヴァーリスが「最大の財産」だというこの「想像力」、「創造的想像力」の重要性はどれだけ強調しても強調しすぎることはないだろう。これはまさに「自由の哲学」の花の部分だともいえるのだから。つまり、「想像力」、「創造的想像力」のないところに「自由」はありえないということなのである。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 8

魔術的観念論


(1998.5.25)

 

ノヴァーリス・ノート8●魔術的観念論

 

 ノヴァーリスの「創造的想像力」は、フィヒテの「創造的想像力」をふまえつつ拡張したものである。ノヴァーリスはみずからの哲学をカントやフィヒテをふまえつつ越えたものと考え、それを「魔術的観念論」magi-scher Idealismusと呼んだ。

 「魔術的観念論者」は、「想像力」を働かせて物質の領域と精神の領域を結びつけるとされる。

観念を外なる物にすることができないのであれば、外なる物を観念にせよ。[…]この二つの操作を完全に思いのままになす者は、魔術的観念論者である。

抽象的なものは感覚できるものとされ、感覚的なものは抽象的にならねばならない。−−(反対方向の操作−−一方は他方によって成り立ち、完成させられる。観念論と実在論についての新しい見解。)

 ここでは「抽象的なもの」の「具象化」と、「感覚的なもの」の「抽象化」という二つの逆方向の「操作」が問題になっている。ノヴァーリスはこの二つを相補うものと理解する。これらは、反対の方向をもつ運動であるが、一方がなくては他方が成り立たず、一方の完成は他方の完成ともなる。それゆえ、「具象化」の操作ができなければ「抽象化」の操作をせよと言われる。そして、「抽象化」と「具象化」の操作にともに習熟したものが「魔術的観念論者」であり、これは「観念論者」であると同時に「実在論者」である。(略)

 フィヒテにとっては「観念論」と「実在論」は相い容れぬ二つの「体系」であった。ノヴァーリスの「魔術的観念論」は、この二つの体系の両立を目指す。この点で、「魔術的観念論」には、フィヒテのような「知性」の専横に対し、「物」の復権を図るという面がある。これは、認識の対象が「非我」としてではなく、「汝」Duとして扱われるということにもつながる。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P114-117)

 唯物論の世は、むしろ「物」が忘れ去られている時代だといえないだろうか。唯物論を批判して、心の大切さばかりを訴えるときにも、「物」はあいかわらず置き去りにされてしまっている。「物」が置き去りにされているということは、実のところ「心」さえも忘れ去られているのだということにほかならない。

 物質は、魔法をかけられて呪縛されている供犠の存在となっている。その本来の姿を洞察しなければならない。その洞察のための「想像力」が、切に求められている。

 精神は、すでに探し出すのが困難なまでに至っている。その本来の自由という姿を見出さなければならない。

 「創造的想像力」は、「物」を復権させると同時に、「精神」をも復権させるものである。つまり、物質の領域と精神の領域を結びつけるのだ。それをノヴァーリスは「魔術的観念論」と呼ぶ。

 その魔法は、王子様をカエルに変える魔法でも、人を石に変える魔法でもない。カエルの呪縛を解き、本来の王子様へと変容させ、石化した存在をもとの血の通った存在にする魔法にほかならない。

 その魔法は、人間が本来の人間に、自由な存在になるときにこそ、可能になる魔法のことである。人間は、自由を獲得することによってはじめて愛への道を辿ることができる。そうして人間が真に自由な存在となることによってこそ、「物」は復権することが可能となる。

 中途半端な洞察では、物質と精神は互いを排除するか、どちからがどちらかに還元されることになる。そうであっては、宇宙はいつまでも分裂したまま宙づりにされてしまう。そこに対立の一致、逆方向のものの対応としての変容がおこらなければならない。

 その変容の事件こそが、キリスト事件の意味であったのだといえる。キリストの復活は、物質の領域と精神の領域を結びつけ、相互変容させるための大いなる雛形だったのだといえる。その事件が、個々の人間において起こらなければならないのだ。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 9

きたるべき自然学


(19986.3)

 

ノヴァーリス・ノート9●きたるべき自然学

 

 ノヴァーリスには特有の思考の型があった。「混沌としての一」が、「分離と分裂」を経て、ふたたび「調和としての一」に至るというものである。宗教と自然科学についてもこの型が当てはめられる。宗教と自然科学の分離や分裂は必然的なプロセスである。宗教と自然科学の統合は、この二つを混合したり、付け足したりすることによってではなく、全体を立体的な層をなすものとして構成することによってなされる。自然科学は全体のなかでしかるべき位置を占めることになる。

 宗教と自然科学の統合を支える基盤となる考えをノヴァーリスは、「目に見える森羅万象の宗教」Religion des sichtbaren Weltallsと呼ぶ。これはすでに第二章でみた。「この世界はガイストの顕れである」という「顕現」の考え、また「真の宗教には媒介者が不可欠である」という「表象」の考えにほかならない。

 ノヴァーリスの「きたるべき自然学」は、「顕現」や「表象」という、「目に見えないもの」と「目に見えるもの」のあいだの、いわば「中間世界」を対象とする。「無」と「有」、「混沌」と「形あるもの」、「生命なきもの」と「生命あるもの」、「精神=霊=気」と「物」が、相互に変換する転位のプロセスを問題にする。(略)

 ノヴァーリスは、経験的実証的に研究する自然科学とは異なる道、シェリングの自然哲学とも異なる道、「象徴的」で「ポエティッシュ」な自然学、「自然科学のポエジー化」を構想している。すでにみたように、ノヴァーリスの「ポエジー」は造るということ、すなわち「創造」ということ全体に関わる広い意味をもっていた。ノヴァーリスにとっては、自然そのものも「ポエティッシュ」であり、ベーメのような神秘家・神智学者も「詩人」である。「新たな自然学」は、創造するものとしての自然、すなわち「ポエティッシュな自然」を対象とする「自然のポエーティク」、「創造学=詩学」としての「ポエーティク」である。

 「創造」は、その結果を対象化して眺めたり、利用したりする者によってではなく、みずから創造する者によってのみ理解される。それゆえ自然の認識はその認識の表現と不可欠のものとなる。ノヴァーリスの象徴は、認識と表象をつなげる交点のようなものである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P131-133)

 「宗教」はre-ligion、再び結びつけること。再び結びつけるということは、最初は一つであったということだ。見るものと見られるものが分かれる前の混沌。大いなる「一」としての混沌。

 しかし、その「一」は「分離と分裂」を経なければならなかった。そしてそれをふたたび結びつけようとするプロセスそのものが、宇宙の偉大なる創造行為だといえる。ノヴァーリスが宗教と自然科学の分裂を統合しようとしているのも、その統合のプロセスそのもののの「創造性」に注目しているのだといえる。

 さて、自然科学は対象を「経験的実証的に研究」する。その研究態度においては、研究者は対象とどこまでも交わることはない。

 私が自然を観察するとしても、自然は自然そのものであって、観察する私はその自然に影響しているとはみなされない。もっとも、最近では、「観察行為」そのものが、対象に影響を与えるという観点が重要視されるようになってはいるが、それは量子力学などでそういわれるだけであって、通常の科学においてはそれはほとんど無視されてしまっている。

 そうした自然科学に対して、ノヴァーリスの自然学は、「自然科学のポエジー化」ということが意図されている。つまり、それはそれそのものが「創造」行為だというのである。自然認識を表現することそのものが「創造」にほかならないということ。自然そのものが「ポエティッシュ」であり、またその自然を認識し表現することそのものも「ポエティッシュ」なのである。

 だから、自然学研究者は、「詩人」でなければならない。「詩人」でない、自然科学研究者はありえないことになる。

 その観点からいうならば、「私はただ研究対象を分析しそれを調べているだけだ」ということはできない。その研究は、対象そのものを創造していることになるのだ。だから、たとえば、「原爆」をつくりだした者も、単に核分裂を研究するだけなのだということはできない。その研究者は、その「原爆」の表現行為をも創造していることになる。つまりは、ヒロシマやナガサキでの原爆投下という「表現」に深く関わっているのだともいえる。なんという「詩人」だろうか。

 現在農作物に使われている農薬の多くは、最初、殺人兵器だった。それが戦争集結にあたり、適用の先が農作物とそれに関わる虫たちになっただけだ。そしてそれは、農作物を経由した隠れた毒薬、殺人兵器として君臨する。その研究者も「詩人」である。現在の「食」のあり方をまさに「創造」しているのだ。

 しかし、研究行為そのものが「創造」であるということから発する「自然学」であれば、そうした「詩作」行為を望む者は少ないだろう。自分の行為が対象を創造していると思わないからこそ、自分の知らないところでとんでもない「詩作」が行なわれることになる。

 

 

 

ノヴァーリス・ノート 10

マクロコスモスとミクロコスモス


(1998.6.12)

 

ノヴァーリス・ノート10●マクロコスモスとミクロコスモス

 

 ノヴァーリスにとって、自然をふくめて他者を理解することは、自己を理解することに基づく。 

我=非我−−これが、すべての学と芸術の最高の命題である。

 

私たちは、自分たち自身を理解するならば、世界を理解するであろう。なぜならば、私たちと世界は、一つの全体を構成すべき半分どうしなのだから。

すべての事物を、自分の自我を眺めるように、観察すべきであろう−−つまり、自分の活動として観察すべきである。

批判主義(あるいは、論じ尽くすための方法Erschoepfungsmethode、これは倒置法Umkehrungsmethodeも共に含む)とは本来、自然を研究するさいには、私たち自身を参照し、内的観察と実験をするように勧め、私たち自身を研究するさいには、外界を参照し、外的観察と実験をするように勧めよという教えであり、哲学的にすべての指示のうちで最も実り多いものである。

その教えは、自然ないし外界が人間的存在であることを私たちに予感させる−−それは、自己自身と愛する者たち、すなわち自分と君たちを理解するようにしてのみ、すべてのものを理解することができるし、またそう理解すべきだということを示している。私たちは、自分が体系のうちにその項として存在しているのを見る−−つまり私たちは、無限に小さなものから無限に大きなものまで上がったり下がったりする線のなかにいる。これらのものは、人間の無限のバリエーションである。

(中井章子「ノヴァーリスと自然神秘思想」1998.2.28発行/P148-149)

 世界認識のためには、自己認識こそが必要である。自己認識のためには、世界認識こそが必要である。

 これは、シュタイナーの神秘学の基本的な命題でもある。もちろん、かぎりなく生きた命題だ。言葉を代えていえば、マクロコスモスとミクロコスモスが照応しているということ。

 ノヴァーリスは、

我=非我−−これが、すべての学と芸術の最高の命題である。

 とまで言い切る。

 「すべての学と芸術の最高の命題」だということは、最重要の命題だということだ。

この重みを実感できなければならない。ここが、すべての事柄の理解の出発点とならなければならない。

 汝自身を知れ。そのことも、汝自身を知るためには世界を知らねばならず、世界を知るためには汝自身を知らねばならない、という我=非我という命題から出発する必要がある。

 わたしはあなたなのだ。あなたはわたしなのだ。

 たとえば、「私はあなたのことがわからない」と嘆いたとする。これは、「私は自分のことがまるでわからない」ということと同じ。

 わたしとあなたは、まるでメビウスの輪のようにねじれながらつながっている連続体としてとらえることができる。わたしの内をのぞこうとするならば、そこには広大な宇宙が広がり広大な宇宙を遠望しようとするならば、そこには内界がある。イメージとしていえば、わたしの内と外をひっくりかえした感じだろうか。

 シュタイナーの神秘学が単なる「心の教え」ではなく、「科学」として位置づけようとする方向にあるというのも、このことから理解することができる。だから、さまざまな応用分野を生み出すことが可能となっているのだ。それらは同時に「自己認識」そのものでもあるということを踏まえておく必要があるのはもちろんである。

 


 ■「ノヴァーリスノート1-10」トップに戻る

 ■「神秘学・宇宙論・芸術」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る