ユング・ノート


ユング・ノート 1●心理療法

ユング・ノート 2●意識化

ユング・ノート 3●元型

ユング・ノート 4●意識が無意識を認識するために

ユング・ノート 5●対立物の結合

ユング・ノート 6●錬金術のプロセスと心のプロセス

ユング・ノート 7●パラドックス

ユング・ノート 8●最終物質/結合のシンボル

ユング・ノート 9●個性化

ユング・ノート 10●自己

ユング・ノート 11●マンダラ

 

 

 

ユング・ノート 1

心理療法


1998.9.12

 

 治療に心理学をもちこむこと、すなわち患者の心を理解するのを基本にすることによって、心理療法が成立したと言うことができる。心理療法は治療者と患者の対話を基本にしている。対話を通じて治療者は患者の心の中に起きていることを理解して反応することができるし、理解できないときは自分の中の何が原因で患者を理解できないのか、反省しなければならない。同じような体験が不足しているからなのか、または自分の心の構えが偏っているからなのか、教養や知識が不足しているからか、自分の心が狭く硬直化しているからか。その原因次第では、治療者は自分を変える必要が生じてくる。そして理解したらしたで、その内容に対して治療者の心に一定の反応が起こる。患者に対する好き嫌いの感情、尊敬や軽蔑の念、賛成や同情の気持ち、喜びや悲しみや怒り、不安や恐怖、等々の反応が出てくる。治療者はそれらを表現するときもあれば、隠すときもある。いずれにしても、治療者からの反応っが患者に伝わると、両者のあいだに相互作用が働く。両者の関係は治療者が一方的に治し教えるというものではなく、二人の対話であり、対決となる。この対話ないし対決をユングはAuseinandersetzung(アウスアイナンダーゼッツング)と表現している。(中略)

 この状態を表わすためにユングはとくに「弁証法」という言葉を使っている。二人の間のアウスアイナンダーゼッツングを通して、互いに相互作用し合う中から、両者が変わることによって第三のより高次の内容が表われてくるからである。ユングは「一人の人間は一つの心的な体系であり、それは他人に働きかけると相手の心的な体系との間に相互作用を引き起こす」と述べている。相互作用が起きるのは、双方が個性的だからである。双方に個性があって違いがある場合に初めて弁証法的な過程が生じる。(中略)

患者の個性的な発展を共に体験するためには、分析家自身も分析を受けて、自分がどれほど偏見に左右されうるものであるかを体験していなければならない。ユングはそのことについてこう言っている。「私は分析家自身が分析を受けなければならないと要求した最初の人間であるが、しかしそれは主として、分析家自身もコンプレックスをもっていて、そのために一つないしはいくつかの盲点をもっておい、その分だけ偏見にとらわれているというフロイトの卓越した認識のおかげである。」

「分析家自身も分析を受けるべきだとういう要求は、ついには弁証法的手続きの理念に到達する。そこでは療法家は質問者や応答者として、他人の心的体系との関係の中に入り込んでゆき、もはや上位者、知者、裁き手や助言者ではなく、共に体験する者であり、今は患者と呼ばれている人と同じ弁証法的過程の中にいるのである。」

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P65-68)

 ぼくは「心理療法」というとらえ方があまり好きではないのだけれど、それはここでいわれるような「弁証法的過程」ではなく一方通行的な「療法」であることが多いと思われるからだ。これは「教育」についてもいえることで、「教育」というのも多くの場合、その本来の「弁証法的過程」が欠落しているのではないかと思う。

 実際のところ、あらゆる人間関係には、なんらかのアウスアイナンダーゼッツングがあり、それによって常に相互作用が起こっている。その相互作用をどれだけ意識化できるかということが「弁証法的過程」によって「個性化」の道をたどれるかどうかを決めることになる。

 現代人の病は、それを「心理療法」というような閉じた場所で「治療」として行なわなければならなくなっているということではないだろうか。それこそが「病」であるといえる。その「病」はかつては「宗教」が担っていた。しかし宗教にそれが担えなくなったときに、「心理療法」という新しい宗教が誕生した。

 宗教もほんらいはそうした「病」の処理班ではなく、「弁証法的過程」によって「個性化」の道をたどるためのものであった。しかし形骸化すると、それは権威に依存させることによる一方通行の精神安定剤と化していった。

 ユングの提唱した心理療法は、一方通行の精神安定剤ではない。それはまさに、「弁証法的過程」による「個性化」の道のことなのだが、困難なのは、そこにはやはり患者がいて療法家がいるということだ。そこに非常に微妙な問題が生じてくることになる。心理療法には高度な療法家が必要なのだが、それをなくしたところで擬似的な主体性の確立をめざそうとした開発セミナーという病がそこに出現してくることになった。

 それは80年代以降、共同体の解体に伴って数多く出現してきたあらたな「病」だとえいる。そこには高度な療法家としての導師(グル)がいない。従って、「弁証法的過程」による「個性化」の道を辿れるに至る以前の未熟な主体が未熟なままに自らをコントロールするという危険にさらされる。その未熟さは「他者依存」ということによって成立しているにもかかわらずそれが隠されたままで未熟な主体の暴走が起こってしまい、さも主体性を確立したかのような幻想にひたってしまうということにある。従って、そこには真の「弁証法的過程」は存在していない。ただ幻のグルを自分のなかに見出した錯覚に陥るにすぎない。その「病」は、「セミナー」という「他者依存」を基礎にしてその疑似共同体に、高度な療法家としての導師(グル)の役割を担わせようとする方法ゆえのものだといえる。

 「宗教」という制度的な補完システムの崩壊しつつある今、オウム真理教のようなグル付きの開発セミナー形式宗教のような極めて危険な逆行に陥らないために、また「心理療法」というような高度な療法家としての導師(グル)に依存する方向性をとらないようにするために、いったいどういう方向が考えられるのだろうか。

 それはおそらく極めて困難な道、「自己教育」という道ではないだろうか。それはあらゆる人間関係におけるアウスアイナンダーゼッツングにより自らが自らを「弁証法的過程」による「個性化」の道へと導いていく道。それこそが「自由へ」の道だといえる。

 さて、ユングとシュタイナーを対比させて見ていくというのはとても難しいことなのだけれど、このユングノートではその試みをしてみたいと思っている。

 シュタイナーの神秘学は総合的な観点を提示するものであるし、個別科学への応用という点でもすぐれているのだけれど、みずからの魂に向き合うときの、まさに「弁証法的過程」による「個性化」の道を模索しようとしたときに、ユングの思想をシュタイナーの神秘学を補完するものとしてとらえることも可能なところがあるのではないかと思う。もちろん、ユングの思想の射程が限られているがゆえに現われてくる危険性についてはしっかりとおさえておくことが重要である。

 

 

 

ユング・ノート 2

意識化


1998.9.15

 

 ユングが心理療法家は必ず自分でも分析を受けて、自分の無意識を意識化する経験を持たなければならないと要求していることは前述した。そういう経験がないと、無意識のうちに患者と同一化してしまう危険があるからである。心理療法の過程では患者の側からの転移が必ず起こると言ってよいが、逆に治療者の側からも投影が起こることがある。それを逆転移と言うが、それが起こると、治療者と患者とは無意識的に同一化して、治療者は患者から離れた客観的な立場から治療ができなくなってしまう。その事態をユングは感染という言葉で説明している。

 治療者は当然ながら患者に共感しようという姿勢でいるが、それが強くなりすぎると治療者が患者の無意識に触発されて同じようなコンプレックスや原型が動き出し、それに影響されることがある。そうなると治療者と患者の両方に同様の無意識が付置されて、両者は共通の無意識で結ばれることになる。これが「心的に感染した」状態である。これは「無意識的同一性」の状態であり、また「神秘的融即」とも言われる状態である。(中略)

 逆転移の意識化とは、一般化して考えれば「投影の引き戻し」ということになる。

 人間は誰でもいつでも自分の無意識を他人の上に投影していると言える。多くの場合、それは人間関係を悪化させるように作用する。「影」の投影の最悪の例がナチスであった。彼らは悪のイメージをユダヤ人に投影し、迫害した。「ドイツ人は他者のうちにおのれの欠点を根絶しようとした」のである。(中略)

 ユングは一方では臨床経験の中から(略)、そして一方ではナチスとの精神的格闘の中から、無意識の意識化が人類にとって最大の課題だという結論を導き出した。(略)

 この意識化は、個性化の一要素として、重要な役割を演ずることになる。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P75-85)

 意識化というのは、意識についての意識をもつということ。自分が何を意識しているかということについて意識を反射させて、反省的意識を持つということだ。これは、シュタイナーのいう意識魂の働きだともいえる。

 シュタイナーは魂の働きを、感覚魂、悟性魂、意識魂ということでとらえているが、通常の感情や感覚的な側面での働きが感覚魂で、いってみれば喜怒哀楽や快・不快を感じる働きだといえる。それに対し、なにかを理解しようとする側面での働きが悟性魂であり、通常の学問などもこの悟性魂の働きが中心になっている。意識魂の課題は、そうした感覚魂や悟性魂の働きをどれだけ意識化できるかということにあって、これは、外的に「〜について反省しなさい」といわれてするようなものではなく自分の意識との真剣な対峙でるがゆえに、あえて非常な努力をしなければ通常の場合、非常に困難なものだといえる。

 仏陀の教えというのも、この意識魂に関わるものだと思われる。八正道というのがあるが、これは具体的な修行項目として感覚魂や悟性魂についての意識化を含め、心口意という総合的な観点から「行」として修行を体系化したもの。自分の思ったこと行なったことについて意識化していきながら、それによって魂の統合へ向かうということだともいえる。(これについては、「風釈八正道」というのを書いてみたことがありHPに登録させていただいています)

 さて、自我がアストラル体を貫いてそれを変容させるというのはまさにこうした意識魂や反省行ということに関わるように思われるが、自分の感じ、考えている、まさにそのことについてそれを意識化するということは、通常の場合行なわれていることは稀である。

 さて、「人間は誰でもいつでも自分の無意識を他人の上に投影していると言える。多くの場合、それは人間関係を悪化させるように作用する。」ということだが、意識魂が働いていない場合、たしかに人は多くの場合「自分の無意識を他人の上に投影して」生きていて、それは必ずしも「人間関係を悪化させるように作用する」とは限らない。むしろ、通常の人間関係はその「投影」によって成立しているといえる。その「投影」がないとしたら、人は相手に直面しなければならなくなるからだ。

 人は、自分の無意識で働いているものを相手のなかに固定的なかたちで投影することで安心して生きることができる。「そういうものだ」ということで、人間関係やその役割のなかで、自分がどこに位置しているかについて疑う必要がないからだ。「自分はこれこれこういう人である」という思い込みは低次のアイデンティティーという意味では有効であるけれども、そのアイデンティティー形成は、「自分の無意識を他人の上に投影」することで消極的な形で自分の位置を定めているのだということもできるように思う。

 社会は、そういう投影によって形成されていて、あのナチスドイツの時代に、あの風潮に逆らって生きることが非常に困難であったように、現代においても、互いが互いを投影しあっている仕組みのようなものに意識的であろうとすると、多大な苦難がつきまとうことになる。多く人は、自分が無意識の海に浸っている状態に酔っているものだから、その酔いを覚ましてほしいとは思っていないのだから。

 しかし、人は、自分が無意識によって操られるのではなく、何が自分を操っているのかについて、ひとつひとつ「意識魂」を働かせていかなければならない。そしてそれは、仏陀の八正道のように、日々の小さなところから丹念に自分の思ったこと、行なったことについて「反省」的であるようにするところから始める必要がある。

 自分の外的なことに立ち向かうのは、それがいかに困難だとしても、わかりやすいところがあるが、自分に真剣に対峙するというのは、そうたやすいことではない。しかし、おそらく今人類の直面しているさまざまな問題も、そこから一人一人が始めなければ結局は解決できないのではないだろうか。

 

 

ユング・ノート 3

元型


1998.9.20

 

 ナチスがドイツ国民の心を捕らえたもう一つの秘密は、ドイツ人の心の中に潜む秩序元型に訴えたことにある。人間の心の中には、環境があまりにも急激に変化したり、変転めまぐるしい状況に置かれると確固とした不変性や安定した秩序を求める心理が働くものである。これは人間に生まれながらに備わっている秩序指向であり、安定指向である。これをユングは「秩序元型」と呼んでいる。秩序元型は意識の立場が不安定になっているときに現われやすい。(中略)

 ナチスのもとで、ヴォータン元型と秩序元型が見事に統合され、暴力は正当化されて組織的に整然と展開され、また暴力行為は「正しい」秩序を打ち立てるためだとされた。ヒットラーの天才は、国民の中にともにあって、この二つの対立する元型を結合させたところにあった。

 なんらかの元型が社会的な規模で現われるのは、その社会が一面的になっているからであり、その元型はそうした一面性を補償する意味をもっているというのが、元型にたいするユングの基本的味方である。そういう視点から見ると、ヴォータン元型はキリスト教的平和主義に加えて、第一次大戦後の平和主義に対する補償として現われていたものであり、そのこと自体は、無意識の一面性に対して補償的な元型が動き出していることを意味しており、決してマイナスの意味だけを持つとは限らない現象であった。

 したがってナチス運動が起こったときは、現代文明に批判的な人ほど、そのプラスの可能性に期待したのである。たとえば現代文明の頽廃的な傾向に対して批判的であったコンラート・ローレンツやハイデッガーがナチスにある種の期待を抱いたのは、むしろ彼らなりの正しい直観、すなわち現代文明への危機感の故であったとも言える。ただし、ナチスの悪逆非道な本質をいつまでも見抜けないでいたとすれば、その暗愚や鈍感は非難されても仕方ないであろう。(中略)「元型は、これこそ心的な集団現象の核心をなすものだが、つねに両面性をもっている。つまり肯定的な面と、否定的な面とを併せそなえているのだ。元型が常に表面に浮かんでくるとき、事態はつねに危険をはらんでいる、それがいったいどちらの方向に行くのか、あらかじめ知ることはできない。それは普通、意識がそれに対してどう対処するかによって決まる。」

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P145-148)

 元型というのは、シュタイナー的にいえば集合魂と表現できるかもしれない。

 だから、個人を個人としてだけ見ているだけでは見えてこない。個人を見る場合には、その深いところでその個人を規定している無自覚的な衝動として見ていく必要があるし、それは社会などの集団的な現われとして見ていくことができるが、そうした元型がどういうものであるかを「見抜く」ということは非常に難しい。

 しかも重要なのは、今、どのような元型が働いているのかをどれだけ意識化できるかということだ。そのためには、自分のなかにある衝動に対してはそれがどのような型としてあるのかということを常に意識化しようとしていなければならないだろうし、社会などの集団に対しては、そこに潜在的に、または顕在的にどういう衝動が働いているのかということに常に注意深くなければならないだろう。

 その場合、それを一面的にとらえてはならない。「なんらかの元型が社会的な規模で現われるのは、その社会が一面的になっているからであり、その元型はそうした一面性を補償する意味をもっている」ということをじっくり検討していくことが不可欠となる。もちろん、それは「社会的」なものだけではなく、同時代に生きている自分のなかの側面としても見ていく必要がある。

 不安定さには安定志向がセットとなっているし、平和主義には戦争への衝動がセットとなっている。正しさに対してはそれを破壊しようとする衝動があり、肯定に対してはかならず否定が対となって働く。もちろん、善に対しては悪が。

 そしてその補償関係がどのように自分のなかにまた同時に社会のなかに働いているか、働こうとしているか。そのことに注意深くなければならない。

 だから、何かの問題や事件が起こった場合にも、ただそれをマスコミの報道のような、極めて一面的で表面的な解説だけから見ようとするならば、むしろその無意識の衝動に荷担してしまうことにもなる。マスコミ報道による影響で連鎖的に事件が起こってしまうこともそれだ。しかし連鎖的な事件のほうがまだわかりやすいだけいいのかもしれない。むしろそれによって地中のマグマがそれとしられずに熱をたくわえて、より大きな噴火や地震を引き起こすことのほうが意識化の難しいぶんだけ困難な部分ではないかと思われる。

 まずは、自分のなかで集合的に働いている衝動に目を向けること。たとえば、高校野球やプロ野球、サッカーなどで熱している自分。オリンピックやワールドカップなどで熱している自分。そういう一見小さなところから自分を見ていくことが重要になる。

 もちろんそうしたことを肯定するか否定するかというのではなくそうした衝動が集合的なかたちでどこに向かおうとしているのか。ほかのどういう衝動と深く結びつく可能性があるのか。そしてそれが補償関係としてどういう対極をもつ可能性があるのか。そうしたことに意識的になるということ。

 そういう視点から、マスコミの報道なども見ていくことでそうしたものの全体の見取り図のようなものが見えてくるならば、より深い元型に対する意識化への道が開かれるのではないだろうか。

 

 

 

ユング・ノート 4

意識が無意識を認識するために


1998.9.24

 

 心理学の難しさとは、心が心を認識する難しさである。意識が無意識を認識することは、いわば自分が自分を認識することであり、その営みは他者である対象を認識するときのような第三者たる基準点をもつことができないからでえある。ユングはそのことを「心が心を認識するときにはアルキメデスの点は存在しない」と表現した。しかしその点こそ逆に心理学の利点でもある、すなわち自分のことだからこそ、その心理的過程をもっともよく認識できる可能性があるというのである。

 それでは意識という心的活動が無意識という心的活動を認識するためには、いかなる方法が必要になるのであろうか。(中略)

 人間の認識はア・プリオリな原パターンとしての元型を基礎にして行なわれていると言うことができる。もちろん認識にさいしての原パターンがすべて元型だというのではない。後天的に獲得されたパターンが認識の基準になることも当然ありうる。しかしその後天的なパターンもまた、もとをたどれば元型的なイメージによって多かれ少なかれ影響される。たとえば母親コンプレックスの背後には母元型がひかえているように。(中略)

 元型による元型の認識が可能なのは、元型が非常にしばしばシンボルとして表現されるからである。(中略)

 ユングはシンボルについて「たとえば、プラトンが自分の認識論の全体系を洞窟の比喩で語ったり、キリストが神の国のことをさまざまな比喩で説明したりするばあい、これこそが純粋の本当の意味でのシンボル。つまりまだどう呼んだらよいかわからないものをなんとか表現しようとする試みなのです」述べている。

 したがってこのシンボルがいかなる元型に対応するかを突き止めることが、元型による認識の基礎になる。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P173-183)

 心が心を認識するということは、自分がどういう意識を持っているかを意識するということにほかならない。「反省」という、自分の意識についてのリフレクションはその基本であり、それができなければなにも始まらない。意識についての意識、メタ意識、つまり意識魂である。意識魂は霊性の滴のようなものだともいえる。

 仏教において、反省行ということが重視されるのは、それが、霊性の獲得のための重要な基礎になるからにほかならない。自分の思ったこと、行なったことについて、意識的になること。そのことによって、通常の意識より高次の意識が育成される。

 心が心を認識するという、前者の心と後者の心とでは、認識の場所が異なっていて、前者の心は後者の心よりも高次になければならない。だからこそ、「反省」ということは難しく、最初から簡単にできるような行ではない。前者の心を少しずつ少しずつ育成していかなければならない。そのことで、自分の意識について明確に意識できるようになっていく。

 そしてその育成された高次の意識こそが、無意識といわれている心的活動を認識するための有力な道具になる。また、反省的意識の可能な意識によって、探究された霊学的事実やシュタイナーの記述し語っている霊学的内容もその極めて重要なガイドとなる。

 それをユングは、「元型」と「シンボル」との対応ということからアプローチしようとする。シュタイナーに比べ、霊学という観点からいえば不明瞭であるためにその応用の可能性が開かれているとはいえないもののその基礎は、自分の意識についての認識を深めようとするということにおいて魂の学として多くの可能性を持っているのではないかと思う。

 

 

 

ユング・ノート 5

対立物の結合


1998.9.29

 

 ユングの思想は認識論と存在論とから成っている。元型論は主として存在論であるが、しかしそれは認識論に支えられている。学問方法論は認識論であるが、その認識を支えているのは人間の心の特殊な性質に関する存在論である。

 こうしてユングにおいては存在論と認識論が密接に絡まり合っているが、その両者の見事な結婚によってユング思想のアルファでありオメガ、中核の中の中核である「対立物の結合」という心の弁証法的な過程が発見された。彼は「対立物の結合」の過程を錬金術研究と無意識心理学研究との並行的研究の中で発見していくが、その集大成が『結合の神秘』であった。(中略)

 無意識の中の諸傾向の存在意義を認めて、それを人生の中で救い出す道はどこにあるのであろうか。その道をユングは「対立物の結合」という方法に見出した。その方法はじつはすでに遠く中世の錬金術の中で発見されていたのである。

 錬金術の秘密が分かったときユングの思想は成立したと言っても過言ではない。ユングの無意識心理学と錬金術の内的世界とは、驚くほどの符合を示している。ユング全集のほとんど三分の一は錬金術研究である。(中略)

 ユングは多くの錬金術の書物が共通の特徴をもっていることに気づいた。その特徴とは、第一に錬金術師は決まったプロセスまたは段階を追って彼らの作業を進めるべきだとしている点、第二は奇妙なパラドックスが出てくること、そして第三に作業の最後に必ず理想とする物質を作り出すことが目的とされている点である。

 これらは人間のこころの発達の重要な特徴を表わしており、いずれもユングにとって重要な心理学的意味をもつものであった。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P204-213)

 ユング心理学についての著作はたくさんあるのだけれど、錬金術研究をその中心においているものはあまりないように思う。しかし、「ユング全集のほとんど三分の一は錬金術研究である。」

 フロイトやラカンなどがアカデミックな世界にも比較的とりあげられやすいがユングは敬遠されがちだというのもそこらへんにも原因がある。それは、「存在論と認識論が密接に絡まり合っている」ということとも深く関係している。

 シュタイナーの思想が、アカデミックには敬遠される傾向にあるのも、また、とりあげられたとしても霊学の部分がごっそり無視されるのも、そうしたユングの受容のされ方ともよく似ているように思う。

 「ユング思想のアルファでありオメガ、中核の中の中核である「対立物の結合」という心の弁証法的な過程」とあるが、シュタイナーにおいては、「心の」という限定はない。霊魂体というすべてにおいて、ある意味で「弁証法的な過程」が探究されているといえる。だからこそ、農業にも医学にも、認識論でも存在論でもある霊学が応用されることになる。しかも、その「弁証法的な過程」は、宇宙全体としての「弁証法的な過程」との照応という形で宇宙進化論と個人の霊性の進化が射程に置かれている。その点において、シュタイナーの思想とユングの思想は異なった射程をもっているのだといえるのだが、ユングの思想は、まさに「心の弁証法的な過程」をとらえるためには格好の指標を与えてくれるものだといえるように思う。

 さて、そのユングの「対立物の結合」についての錬金術との関連についての三つの観点を次回より随時とりあげていくことにする。

 

 

 

ユング・ノート 6

錬金術のプロセスと心のプロセス


1998.10.3

 

 第一に注目しなければならないのは、錬金術のプロセスと、ユングが明らかにしつつあった人間のこころのプロセスが不思議なほど一致するということである。錬金術師は作業に入る前になすべきこととして瞑想をあげている。人間は瞑想によって現実の世界から離れ、無意識の世界に降りていく。瞑想の中で人間は無意識のさまざまなイメージと出会いそれらと対決を余儀なくされる。

 彼が最初に出会う無意識は「影」である。「影との出会い」は錬金術ではニグレド(黒化)と名づけられ、「死」や「腐敗」に喩えられる。(略)この段階は神話学では「夜の航海」と呼ばれるメランコリアの状態である。主人公は鯨や怪魚に呑み込まれ、その腹の中で地獄の火に焼かれたり、ばらばらに引き裂かれたりしながら、死ぬほどの苦しみを味わう。

 なぜこの状態が暗黒によって象徴されるメランコリアなのかというと、そこで人は自分の否定面に出会い、マイナス面を認識させられるからである。それゆえこの段階は「分離」とも名づけられ、心理学的には本当の自分を認識する段階である。つまり投影を引き戻すことによって投影していたものを自分の中の部分として区別し認識して、自分のマイナス面についての自己認識を強いられる。

 次に現われるのがアルベド(白化)の段階である。英雄神話では、怪魚に呑み込まれた英雄が暗黒の世界から地上に甦った瞬間の、光にあふれたすがすがしい感じを表わしている。(略)この段階は肉体や情念から解放された純粋に精神的(霊的)な心の状態であり、多くの宗教において最高の状態と考えられている。

 (略)しかしこの状態はじつは人間のこころが最も分裂している状態である。光と善と霊が、闇と悪と身体とを否定しており、両者は最も鋭く対立している。(略)

 しかしその次に、その次に、その光と闇、善と悪などの対立を止揚して、高次の総合または結合を表わすルベド(赤化)の段階が現われる。これは中天に昇った太陽によって象徴される最高の段階である。その太陽は月に対立する太陽ではなく、太陽と月の結合、男性性と女性性の結合(王と女王の結婚)、ヘルマフロディテ(両性具有)、または皇帝(世俗の最高権力)と法王(宗教界の最高権威)の結合などとして描かれる。これらはさまざまな対立を統一した、新しい調和の世界としての「一なる世界」を表わしている。

 この状態を象徴的に表わしているのが、「哲学の石」、「永遠の水」、「生命の霊薬」、「チンキ」等々である。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P213-215)

 錬金術的な「黒化−白化−赤化」というプロセス。ユングは、このプロセスを個性化に向かうプロセスと一致しているものととらえている。

 まずは、自分の無意識の世界にある「影」に気づき、自分のマイナス面に関する自己認識を得ること。

 続いて、そうした自分の否定面から最も離れた「肉体や情念から解放された純粋に精神的(霊的)な心の状態」へ。しかし、それは、「闇と悪と身体とを否定」した「光と善と霊」。闇を排除した光、悪を排除した善、身体を否定した霊。

 そうしていわば、闇・悪・身体と光・善・霊が統合された対立の統一、止揚された段階に至る。

 このいわば弁証法的なプロセスは非常に重要なプロセスで、たとえば、儒教で中庸、仏教で中道といったことで表現されているのもその対立の統一、止揚された段階のことを認識及び実践面で示唆しているものだといえる。

 たとえば、ばかばかしいほどの単純な例になるけれど、「俺は男だ!」としか思えない方がいるとすると、そうした方は往々にして、自分のなかの女性性を抑圧している。だから、まずは「自分は肉体としては男だけれども、心のなかには女性性ももっている」ということに気づかなければならない。気づくことによって、無意識にある内なる女性性が投影されることでいろんな現実の女性に無闇に振り回されることについて意識化する可能性を得ることになる。しかしそのことで、あらためて自分のなかの男性性にも気づくことができやがては内なる女性性と男性性の統合される可能性が開かれる。

 また、身体性を拒否している宗教者なども、拒否することによって無意識から作用している「影」について認識し、霊性と身体性の統合というプロセスが必要だというのもそれだとえいる。逆に、身体性しかないと思いこんでいる方にしても、自分の拒否している霊性について認識することで統合への道が開かれる。脳しかないと思っている方の「影」などを、その言動から見ていくというのもそういう観点からするとけっこう興味深い。

 しかし、こうして単純化してみると、なんということもなさそうではあるけれど、このことは、自己認識の深化プロセスとして見てみても非常に困難なものだということは容易にわかる。自分のなかの「影」。その「影」について多面的に観察してみることさえできれば、たとえ長いプロセスが必要だとしても、一歩一歩進んでいくことができるのだけど自分のなかの「影」を認めるということが実際のところ最も困難なことだ。たとえば、先の例でもあったような「男であること」を至上価値にしている方に「あなたのなかの女性を見つめてみること」を示唆したところで、そう簡単に認めるところにさえ至ることは少ないと思われる。そんなに簡単なテーマでさえそうなのだから、もっともっと困難なテーマについてはなおさらのこと。

 さて、自己認識の深化プロセスを社会及び世界全体の進化のプロセスとして見てみるという試みも興味深い作業かもしれない。たとえば、フェミニズムという、ときによってばかばかしいまでの偏向のあるような運動などに注目した場合にも、それがなぜ必要とされてきたのか、そしてそれがどういう方向へと止揚されなければならないのか。そうしたことについてもある明確な観点を提供してくれるのではないだろうか。ニューエイジや新宗教などの展開についてもまた似た見方も可能ではないかと思う。

 

 

 

ユング・ノート 7

パラドックス


1998.10.10

 

 ユングが次に注目したのは、錬金術師の文章が、合理的な理性から見たら絶対にありえない、あまりに多くのパラドックスをはらんでいたことである。たとえば「白くて黒い」とか「四角で丸い」といったたぐいの文章がたくさんでてくる。(略)

 錬金術師たちは心の中に対立を発見した。彼らは心の中に「意識的な肯定的なイメージ」に対して「否定的な影」が実在しており、両者が対立しているという「独特の心理学的事実をすでに発見していた。」しかも彼らが発見したのは、単に対立が実在するという事実だけではなく、悪や毒であるものが同時に善や薬にもなりうるという事実であった。一つのものが毒にも薬にもなりうる。つまりAかBかのどちらかしかありえないのではなく、AでありBでもあるというものがありうると言いたいのである。(略)

「諸対立とその結合が演ずる絶大な役割にてらしてはじめて、錬金術の言語がなぜかくもパラドックスを好むのか、その理由も納得される。錬金術は結合を達成するために、対立するものを視覚的に一つに結びつけて表わそうとするばかりか、言葉の上でも対立を一息で言い表わそうとする。特徴的なのはアルカヌム(秘密物質)を言い表わす場合に、集中的にパラドックスが多用されていることである。アルカヌムは、プリマ・マテリア(第一質料)としては諸対立を統一されないかたちで、『哲学者の石』としては結合統一されたかたちで内に含んでいると考えられていた。」

「精神と物質、意識と無意識、明と暗といった対立の結合がどのような形で実現しようとも、それは第三のものとして出現し、それは妥協ではなく新しいものを表わしている。それはパラドックスによってしか特徴づけることのできない超越的な存在である。」

 要するに錬金術におけるパラドックスの多用は、対立物を結合したいという強い願いと深い関係があった。彼らは対立するものの一方を単純に否定して事足れりとするのではなく、否定されたものをも救い出して統合したいという発想をもっていた。その結合の理想を表現するものこそ、彼らが作業の最後に作り出したいと思っていた「新しい第三のもの」としての最終物質にほかならない。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P215-218)

 おそらく、正−反−合という弁証法は、ここに述べられているような錬金術的な対立物の結合という理想からのものであるように思う。

 肯定と否定の結合。善と悪の結合。光と闇の結合。精神と物質の結合。男性性と女性性の結合。

 一見矛盾するようなパラドックス的な現われ方をしているものが、結合されることで演じられるドラマを錬金術師たちは重要視していたといえる。

 通常は、「賛成の反対!」という戯画的な表現があるように、「賛成」と「反対」はただただ対立していて、どちらかかが正しければ片方は間違っている、だからその両者は闘争するしかない、という発想ばかりが露呈される。

 しかし、「単に対立が実在するという事実だけではなく、悪や毒であるものが同時に善や薬にもなりうるという事実」「一つのものが毒にも薬にもなりうる。つまりAかBかのどちらかしかありえないのではなく、AでありBでもあるというものがありうる」ということが極めて重要なことである。

 ユングはそのことを魂のレベルで見ていこうとしているが、おそらくシュタイナーは、それをあらゆる宇宙事象において、極めて具体的に見ていこうとしているのだといえる。シュタイナーのいう「悪」、つまりルシファーやアーリマンにしても、「悪の解放」ということが重要テーマとなるというのはそうした錬金術的な視点から見ていけば比較的理解しやすい。

 つまり、「悪」と「善」との対立が「実在」するという「事実」だけではなく「悪」であるものが「同時に善や薬にもなりうるという事実」であり、「善」か「悪」かもどちらかしかありえないのではなく、「善」であり「悪」であるものがありうるということ。

 それをシュタイナーは宇宙進化のレベルでも見ていこうとしている。たとえば、古代において「善」であったあり方をそのまま現代に持ってきてしまうとそれは「悪」になりうる。たとえば、同じものでもTPOが変わってしまえば、まったく逆の働きをしてしまうことにもなるわけである。

 たとえば、歌を歌うということをとってみても、それを音楽の授業で適切なときに歌ったり、カラオケボックスで歌ったりするのは、(趣味の問題はあるとしても^^;)それはそれで間違ったことだとはいえないのだけれど、数学の授業中に歌ってみたり、仕事の最中に人の迷惑を考えず、歌ってしまったりすることはやはり問題ではないかと思う。

 だから、常に同じ事柄も、その全体的な布置と時間のなかにおいてとらえてみなければならないわけだし、一見対立的に見えるものも、その対立物の結合の可能性について常に認識しようとする態度を持たなければならないということがいえる。

 ある意味では、私たちが日々、対立的に見えることに出くわした場合、その対立物の結合という視点でそれをとらえかえしてみるならば、通常は自分がその片方の視点しか持ち得ず苦悶することでも、その錬金術的な「新しい第三のもの」の可能性を見出すことができるのではないだろうか。

 その出発点は、自らの魂においてはまず無意識にある「影」を認識するということであり、そして「影」は「影」だというのではなく、それに対立する「光」の部分との対立の結合ということを常に模索する必要があるということになる。

 

 

 

ユング・ノート 8

最終物質/結合のシンボル


1998.10.14

 

錬金術師たちはキリスト教の公認の教義によって引き裂かれてしまった霊と身体とを架橋しようとしていたのである。彼らは「身体との再結合」を果たそうとしたのであり、彼らが求めた「秘密の実体」とは、「天上の実体」「不死である超越的な何か」であった。「マリア被昇天の教義と、錬金術師の結合の神秘とは、同一の根本思想に立っていた。」結合の神秘」の思想は、キリスト教において「マリア被昇天」の教義が否定されていたがゆえに、錬金術師たちの心に補償として浮かび上がってきたのである。したがって彼らの最高物質のシンボルはまさにユングのいわゆる「自己」Selbstのシンボルと言うことができる。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P220)

 ぼくの知るかぎりでは、ユングは「霊と身体とを架橋」ではなく、魂における影との統合による個性化を「自己」ということで目指していたにとどまっているように思います。

 シュタイナーは、キリストの復活の意味を人間の身体性の理想としてのキリストの「ファントム」を人間が獲得するということに見ていました。パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とされ見なされます。」ということで述べようとしたことです。

 錬金術士たちのいう「結合の神秘」であり、「最高物質のシンボル」は、復活したキリストそのものだといえます。

 シュタイナーは眼に見えない肉体形式のことを、「ファントム」と呼びました。人体には現実の人体と理想の人体の二つがあり、現実の人体は遡るとアダムにまで行き着くのに対して、理想の人体はキリストに行き着く。この二つを併せ持っていることが、われわれの肉体の意味であるというのです。パウロが、「自然の体で朽ち果てて、霊の体で甦る」と書いたのはそのことを指しています。

 シュタイナーの宇宙進化論では、人の肉体の起源を「土星紀」に見ています。人間は、土星紀における肉体からはじまり、太陽紀、月紀、地球紀とエーテル体、アストラル体、自我を形成してきました。人間にとって重要なのは自我なのですが、その自我を発達させるためには、肉体がどうしても必要になります。その自我がアストラル体に働きかけて霊我を形成し、自我がエーテル体に働きかけて生命霊を形成、自我が肉体に働きかけて霊人を形成するというのです。

 さて、ユングのいう「自己」は、いわば魂の領域に属します。それは、生命や肉体の変容ということまでは示唆できていませんし、ユングの射程もそこまでは至っていないと思われます。

 しかし、人間学を追求していくならば、魂の領域に限定するのではなくシュタイナーのように生命そのもののことや肉体そのものの秘密に迫っていくことが必要ではないかと思われるのです。

 シュタイナーが、「オカルト生理学」や「精神科学と医学」などで示唆していることは、ユングの射程を大きく超えた人間理解です。たとえば、シュタイナーはいわゆる精神病の治療のためには、心魂的なものを探るよりも、生体組織の欠陥を探らなければならないといい逆に、生体組織の病の原因を見ていく際には、心魂的なものに目を向けていく必要があるといいます。

 ユングについて見ていく場合、その心理療法的側面に関しては、シュタイナーのそうした示唆をあわせて検討していくことが必要ではないかと思われるのです。

 

 

 

ユング・ノート 9

個性化


1998.10.15

 

 ユングは「個性化」を次のように定義している。「私は個性化という表現を、心理的な個体を、すなわち他から分離しえない単位を、一つの全体を、作り出す過程という意味で使っている。」

 非常に短いこの定義の中には、無限に豊富な内容がこめられている。ここには個性化について四つの意味が含まれている。第一は個性化とは「個体を作り出すこと」だと言われている。個体とはもちろん物質的なものではなく、心をもった人間としての個体、心の個体であるから、「心理的な個体」と言われている。次にその個体は他人から「分離している」と言われている。つまり他人から独立し、自立している者でなければならない。もちろん自立とは心理的な自立である。第三にその個体は「分割しえない単位」だと言われている。個体としての個人は、それ以上には分割しえない、最小の単位として考えられている。そして最後にその個体は「一つの全体」だと言われている。「全体」だと言うからには、それはいろいろな部分から成り立っているはずである。(中略)

 Individuationの中に含まれる「個性」という意味をよく考えないままに、それを「無意識の統合」としての「全体化」と理解すると、「個性化」した人が皆同じになるように思えるという悲劇的なことになりかねない。そうならないために、私はIndividuationを「個性化」と訳すべきだと考えているのである。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P221-224)

 ストーリーは忘れてしまったが、ずっと以前、「がきデカ」よりずっと前に書かれた山上たつひこの漫画に、悟ってお釈迦さんのような顔をして区別が付かなくなってしまった人たちが出てくる話があったように記憶している。

 この話は、ぼくにいつまでも不気味な感じを残し続けている。みんな同じ顔をした笑みを湛えている信仰者というイメージ。個を超えた悟りを得るということが、みんな同じになることならば、そんな者には決してなりたくないという拒否感。

 その頃のぼくにとっては、悟りというのは「諦」ということばを「あきらめる」とも読むように、「個」を「あきらめる」ということでしかなかった。宗教というのは、「個」でいられないがゆえの逃避だった。それは、ある意味ではファシズムとセットで理解されていたところがある。

 もちろんそれは非常に浅薄な理解でしかなかったのだけれど、今でもそういう側面についてはぼくは同じ様な拒否感を持ち続けている。それはもちろん宗教団体的な側面に関してなのだけれど、なぜ悟ったり救われたりするために、自らを特権化することによる「排他」が常態化するということも、みんな同じ顔をしたファシズムのイメージに通じてくる。

 けれど、歴史を見てみるならば、仏陀、イエスなどをはじめ日本の空海や最澄、道元、親鸞なども、みんな同じ顔をしていることはなく、きわめて「個性的」なイメージがある。だとすれば、やはりそこで何かが取り違えられているがゆえに、「全体性」ということが「個性」の消失へと向かうことになり、「他人から独立し、自立している者でなければならない」ということが欠如することになる。

 なにが取り違えられているのだろうか。明らかに取り違えられているのだけれど、そこには簡単にこれだと言えないような非常に難しい問題がある。

 私とあなたが違う個性を持っているとはどういうことなのだろうか。それぞれが「個性化」を目指しているということが私があなたになり、あなたがわたしになるということとは違う。そういうことがいえるということはどういうことなのだろうか。

 なかなか答えにならないとしても、「個」を「あきらめる」ことによる安易な集合魂化ではなく、あくまでも「個」が「個」であることによる「個性化」を果たすということについて考え続けていくことが必要ではないかと思う。その「個」であるということが、ただのエゴの主張であるのではなく、真の「個性」と呼べるものである可能性について。

  

 

 

ユング・ノート 10

自己


1998.10.24

 

 「全体を作り出す」という表現は説明を要する。正確には、全体はそれまでも存在していたからである。存在していたが、しかし全体としては機能していなかった。無意識が意識と対立し、意識を妨害したり、意識に反抗していた。それに対して、心の中のさまざまな部分が調和的に働くようになった状態が「全体的になった」と表現されるのである。したがって、この新しい全体には、全体としての主体的な判断や行動を統括する新しい中心が必要になる。この役割を果たすことはもちろんいままでの意識では不可能である。新しい主体が誕生しなければならない。その新しい主体をユングは「自己」Selbstと呼んだ。

 「自己」が生まれるためには、意識と無意識の両方が変容しなければならない。(略)

 意識が無意識と結合できるためには、何よりもまず自分自身について知り、正しい自己認識をもたなければならない。そして無意識を否定したり軽蔑したりするのではなく、その価値を認めるようにならなければならない。そのうえでさらに重要なのは、意識が無意識の内容によって豊かになることである。意識は無意識の内容を取り入れることで、いままでの意識とは別のものとなる。

 無意識もまた意識化されることによって別の性質になる。それまでの太古的・神話的・情動的な性質が薄れて、より美しく、より洗練され、より安定した性質になる。荒々しい自然現象のような冷酷な性質から、より人間的で情感のある性質となる。そればかりか、思いもよらない智恵や知識を示してくれることもある。無意識に対して正しく向き合い、正しい評価をするなら、無意識は無限の力を与えてくれるとユングは言っている。しかしそのためには意識が無意識を正しく意識化することが絶対の前提になる。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P227-228)

 意識化するということの重要性をユングは強調しています。そのために無意識に対して正しく向き合うことが必要だといいます。その無意識に向き合うために、「影」「アニマ」「アニムス」「元型」などがそのガイドとなるというわけです。そうしたプロセスを通じて、無意識を意識化し、意識と無意識が統合されることで、意識も無意識もともに変容し、意識が「全体」として働くようになるというのです。そしてその「全体」の主体として誕生した新しい主体を「自己」Selbstと呼んでいます。

 このことを検討するために、シュタイナーの視点を概観してみることにします。

 シュタイナーは、魂は感覚魂、悟性魂、意識魂から成り立ち、体は、肉体、エーテル体、アストラル体から成り立っているといいます。アストラル体に結びついている魂が感覚魂であり、その感覚魂によって自我は知覚対象を意識することができます。対象を意識するだけではなく、直接的な知覚の対象から受け取ったものを自分の内において働くようにできるのが悟性魂です。ごくごく単純にいえば、目の前にあるものを意識するのが感覚魂、それについて考えるのが悟性魂ということになります。

 そのように感覚魂も悟性魂も外界に依存した魂の在り方であるのに対して、「私である」という、いわば神的なものと同じ在り方をしているのが意識魂だといいます。「自我という、みずからあの中の神的なものを通して、自分自身についての内的な意識を獲得する」のが意識魂だというのです。いわば、自分の意識について意識するというメタ意識のような働きで、意識をリフレクションさせるという意味での「反省」ということです。仏教で、八正道などの反省法を重要視するのは、それが魂が高次の在り方へと変容するための重要なキーになるからです。この意識魂のなかではじめて、「私」の本来の性質が明らかになります。

 また、シュタイナーは肉体を通して自らを「私」とみなす自我、輪廻転生を通じてみずからを表現する、アストラル体のなかの「第二の自己」、超霊的世界の中にある「真の自我」というふうに低次の自我と高次の自我を分けてとらえています。

 さらにいえば、「私」が魂の生活をコントロールする、つまり自我がアストラル体を変化させることで「霊我」(東洋では「マナス」と呼ばれています)が形成されます。また、自我が性格や気質の担い手でもあるエーテル体を変化させることで生命霊(東洋では「ブッディ」)が形成され、自我が肉体を変化させることで、「霊人」(東洋では「アートマ」)が形成されます。

 前置きが長くなりましたが、上記に見るようにユングのいう「自己」は、シュタイナーのいう「意識魂」、そして「霊我」に対応しているようですが、ユングの「自己」の射程は、魂的なものだけに限定されているようです。「全体」とはいっても、そこからは捨象されるものがたくさんあります。

 単純に考えたとしても、人は「肉体」をもって「生きて」います。たとえば、恥ずかしくなると顔が真っ赤になったりしますし、驚くと心臓がどきどきします。これは、意識が生命や肉体に深く働きかけていることを示しています。食べるものを帰ることでで体調や意識の状態まで変化します。

 また別の角度からいいますと、ユングのいう自己は、シュタイナーのいう輪廻転生する主体としてのアストラル体のなかの「第二の自己」に対応するのでしょうけど、シュタイナーが「カルマ論」などで詳述しているように、それをとらえるためには、生まれてから死ぬまでの「私」に限定することはできないのです。「「自己」が生まれるためには、意識と無意識の両方が変容しなければならない」のですから、変容するためには、シュタイナーのいうような「カルマ論」を含めアプローチしていく必要があるように思います。

 

 

 

ユング・ノート 11

マンダラ


1998.10.31

 

「個性化」とはもろもろの無意識の諸要素を意識化して統合し、それによって個性的な単位としての全体性を実現することであるが、そのことを一個のシンボルによって表現したのがマンダラである。

 曼荼羅とはサンスクリット語で「円」を意味しており、とくにチベット仏教などにおいて瞑想のために用いられている。それと原理的に同じ模様を現代人も描くことにユングは注目して、それらの絵を「マンダラ」と名づけた。それらは輪郭が円であり、その中に四角や放射状の四のモチーフが描き込まれており、それはたいていさまざまな対立を表現していた。ユングはこの模様が、さまざまな心の対立を一つの全体に統合した「自己」のシンボルであることに気づく。マンダラは「個性化」の結果としての「自己」という理想を表わしているのである。

(林道義「ユング思想の真髄」朝日新聞社/P235-236)

 ナヴァホ族の砂絵を描くプロセス、チベットのマンダラ儀式、ヤントラ。マンダラは、完成、調和、変容を象徴する生きて働く宇宙生成の統合的なプロセスだといえるが、ユングがとらえているマンダラは「個性化」により「全体性」を獲得した「自己」をシンボルとして表現したものである。

 マンダラは「円」を意味している。「円」は、完成した「自己」のフォルム。禅などでも「円相」がフォルムとして使われる。

 しかしそれを諸行無常と諸法無我の果てにある涅槃寂静の悟りの境地ということでイメージされがちなように静的なイメージでとらえてはならない。そのフォルムは、運動の統合ということでもあり、運動統合されるということは、それはあらゆるダイナミズムをそこに内包しているといえるのだから。

 そして、シュタイナーがフォルメンに関して言っているように「フォルムを感ずること」が重要である。しかも、それを魂のレベルにおいてだけではなく、フォルムを形成する身体の運動としてもとらえなければならない。

 たとえば、シュタイナーは「治療教育講義」(角川書店)で円と点ということでつぎのようなことを述べている。

 円が点であり、点が円であることを、まったく内的に理解してください。いいですか、そのとき初めて、皆さんは人間に結びつくことができるのです。私が代謝=肢体人間と頭部人間の図を描いたことを思い出してください。その図は今単純な仕方で瞑想像としてお示ししたものの実現を表わしているのです。「実現」というのは、頭部の自我の点が肢体人間の中で円になるからです。円といってももちろん人間の形をとっておりますが。いずれにせよこのような仕方で人間を内的に理解しようとするとき初めて、人間全体が理解できるようになります。(P189)

 「個性化」の結果としての「自己」ということは、人間を真の意味で統合されたものとするためのフォルム形成の運動としてとらえる必要がある。そして、「私」を「全体」へと統合するための瞑想としてのマンダラは、「自由への道」を歩むためのフォルム形成であり、「人間存在における精神的なものを、宇宙における精神的なものへ導く一つの認識の道」として理解される。その意味でも、自我の運動としてのフォルムと身体の運動としてのフォルムを内的に理解するという観点で、マンダラを見ていくことが重要である。

 


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