武満徹レゾナンス PARTII 1-10

(2001.5.17-5.26)


 半年ほどまえに、ふと思いついて、武満徹の言葉を読みながら、それに「レゾナンス(共振)」していくという遊びをしたことがあった。(これについては、「風遊戯」のコーナーに登録してあります)

 その後、しばらく武満徹の言葉から離れていたのだけれど、先日から、ぼくのまわりで武満徹の響きが前よりもずっと大きく広がってきたようで、今度は以前とは少しちがったかたちで、「レゾナンス(共振)」してみようと思い立った。とはいえ、とくになにか準備しているわけでもないし、これだけは言っておきたいということがあるわけでもないので、レゾナンスの続いている間、それによってつくりだされる形を思いのままに、自分なりに楽しんでみることにしたい。

 

1 歌う木

2 ジョン・ケージと耳

3 即興

4 サウンドスケープ

5 ギター

6 好奇心

7 知性と火

8 芸術と現代

9 型

10 音楽の文盲

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-1

歌う木


2001.5.17

 このところ、武満徹の音楽をいろいろ集中的に聴いていて、「弦楽のためのレクイエム」などに涙しているのだけれど(^^;)、そういえば、ぼくが武満徹のCDをはじめて買ったのは、なぜか石川セリの「翼/武満徹ポップソングス」(COCY-78624)で、それまでは武満徹の音楽をほとんどちゃんと聴いたことがなかった。購入したのは新譜なので、1995年の11月の終わりか12月の初めの頃だったようだ。武満徹の亡くなったのは1996年の2月20日のことらしいから、亡くなるすぐ前の頃のことだ。

 先ほどから久しぶりにこのアルバムを聴いている。最初にきこえてきたのは、「小さな空」。

青空みたら

綿のような雲が

悲しみをのせて

飛んでいった

・・・

 サックスの音がきこえてきて、セリの声が響き、なぜか胸がじーんときて、涙がにじんできた。この歌詞も武満徹のものだ。武満徹ののこした「ポップソングス」には、いくつか武満徹自身の書いた詞のものがある。このアルバムでも、この「小さな空」のほかに、「明日ハ晴レカナ曇リカナ」「翼」「○と△の歌」がそうだ。

 このアルバムに寄せた武満徹のことばがあって、とてもじーんとくるものなので、それを。

 以前、偶々、石川セリのアルバムを聴いて、自分が少しずつ、機にふれて書き溜めて来た小さな歌を、彼女にうたってもらって、なにか楽しいアルバムをつくてみたいな、と空想したことがあった。 

 コロムビアの川口さんの提案で、思いがけなく、私の夢は実現することになった。

 大衆歌謡としてはいかにも不器用で面白みに欠けるうたかもしれないが、編曲者の方々の今日的感覚が、それぞれのうたの特徴を生かして、面白いものに仕上げてくださった。

 心からお礼申しあげたい。

 きっと多くの方が、なぜクラシックの、しかもこむずかしい現代音楽を書いている作曲家がこんなアルバムをつくったりするのか、不思議に思われただろう。

『翼』といううたも書いたように、私にとってこうした営為は、「自由」への査証を得るためのもので、精神を固く閉ざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしておきたいという希いに他ならない。

 おわりに、私のわがままを聞いてくださった川口さんをはじめとするスタッフの方々、いろいろ知恵をかしてくれた娘の眞樹に、心からアリガトウを申しあげます。

 そして、なによりも石川セリさん、楽しい仕事をご一緒できたことに感謝します。

 ご主人の井上陽水さんもこのアルバムを聴いて、たぶん喜んでくださるに違いないと思います。

 そういえば、武満徹著作集5の「月報」に、岸田今日子の「いろんな武満さん」という文章が寄せられていて、そのなかにこういうところがあった。

武満さんの最近の作品が、とてもメロディアスで美しくて、わたしなんかにも聞きやすくなっているような気がした・・・。

そう言うと武満さんは、「でも、ダラクしたっていう人もいるの」と 言った。わたしかかなりムキになって、「そんなことないわよ。後戻りしたわけじゃないもの。途中にいろんな経過があったから、今の音楽があるんじゃない」と、釈迦に説法みたいなことを言ったりしたのだ。

 武満徹の「でも、ダラクしたっていう人もいるの」という言葉には、どんな思いが込められていたのだろう。

 武満徹の死後出版された『サイレント・ガーデン 滞院報告・キャロティンの祭典』(新潮社)には、奥さんの武満浅香さんによるこんな印象的な文章がある。武満徹が亡くなる前日のことである。

 昨夜は降りしきる雪を窓越しに眺めながらベッドで横になったまま、ラジオのFM放送でバッハの『マタイ受難曲』を聴いたというのです。そして、「バッハはほんとうにすごいね。なんだか心身ともに癒やされたような気がする」と呟きました。武満はかねてから新しい作品にとりかかる前に、『マタイ受難曲』のなかの好きなコラールや、最終曲などをピアノで弾くというのが長年の儀式のようになっていたのでした。

 武満徹は「歌」のひとだ、というイメージがこのところぼくなかでひろがってきている。そういえば、細川俊夫に、「歌う木」ーー武満徹へのレクイエムーーという曲がある。そう、武満徹は「歌う木」だったのかもしれない。武満徹の作品を聴いていて、そう感じるときが度々ある。

 しばらくのあいだ、武満徹がどのように歌っていたのか。その歌のことを思い浮かべながら、レゾナンスしてみたいと思う。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-2

ジョン・ケージと耳


2001.5.18

 

 ジョン・ケージの音楽的発明のなかでも、最も素晴らしいことは、聴くという行為に対してなされた革新であろう。ともすると私たちは、表面的な楽音の、因襲に汚された、限られた範囲で音楽をとらえて、聴くという、単純で、本質的な行為を忘れてしまっている。発展性を喪った、音楽形式という形骸。それは、紙のうえに起きた事件でしかない。そこでは、時間は死んだよう停滞して、音のなかにある多くの変化の相は、限られた、ありふれたものになってしまう。ジョン・ケージはあらゆる手段を使って、私たちに、無垢の、幸福な耳ーーA Happy New Ears(耳)ーーの所在を知らしめる。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P25-26/武満徹+ジョン・ケージ「すべての因襲から逃れるために」より)

 はじめて聴くときのように、いつも音を、声を、聴くことができているだろうか。そうすることができたならば、まさにA Happy New Earsだ。

 はじめて聴くことのできた、あの喜びが常に味わえるのだから。あのときの耳は、全身が耳になっていたときの耳だったはず。

 その響きとともに育っていく喜び。その音、その声の、その次にくるものにじっと耳を傾ける、その、まるで神秘的なまでの期待感。

 それらは、やがて、ルーティーン化され、そうして、人は何も聴こうとはしなくなってしまう。自分の勝手に決めた檻のなかで、自分の色で染めた音を声をきくだけ。

 考える、ということも、ほんとうは聴くことなのだ。それは、いつも、いま成長している生命の響き。それを死んだものにしてしまって、思考をまるで冷たいもののように思い込んでしまうとすれば、その思考の音楽はすでに死んでいる。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-3

即興


2001.5.18

 

武満 …一般的に言われているように、ジャズでは、私たちの音楽と違って時に書かれてない音楽をやる。つまり即興、インプロヴィゼーションです。優れた即興演奏からぼくたちは多くのものを学ぶのだけれども、うっかりするとその即興が単に自分を繰り返し模倣する自己模倣におちいってしまって、そこに何ら新しい自分を発見するということがないようなことになってしまう。…

ジャレット …これは即興をする側から見た場合だけれど、即興をやっていると思っている人の中には、今ちょうど武満さんが言ったようなことをやっている人が多すぎるのですね。つまり同じ素材を別のキーで演奏したりテンポを変えたりしているだけで、即興の中に本当の成長がない。作曲家というものは、自分の作曲したものが、前のと同じか、違っているかを知りたければ、紙を見てその音符を読めばわかるし、もしそれが充分良くなければ、紙を破ってしまって、違ったものができるまで新しく書けばよいわけです。しかし、即興者というものは演奏するたびにそれをしなければならない。そういう意味で、本当の即興者というのは少ないですね。機械的なイミテーションなかりで、内容は同じまま。私にとってはそれはもはや音楽とは言えないんです。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P29-30/武満徹+キース・ジャレット「即興のエクスタシー」より)

 生のすべてを音楽、しかも即興としてとらえてみる。

 すると、その生が、いかに「単に自分を繰り返し模倣する自己模倣におちいってしま」いがちか、ということに否応なく気づかされてしまう。イミテーションの自分。

 まるで舞台の上で、あるギャグがうけたのを、何度も何度も繰り返し続けるようでもあり、また自己憐憫に陥った自分を際限なく繰り返しているようでもある。

 過去からくる自分とだけつきあっていたほうが、まだ見ぬ自分を見ようとするよりも安心できるからかもしれない。新たな動きを拒んでしまう静への固着。

 しかし、ほんらいの生の流れは、決してとどまることはない。川の流れに浮かんでいる小舟が、自分は流れていないんだと思い込もうとしているだけなのだけれど。

 新しい自分を展開していくためには、自分という意識を新たな場に展開させていかなければならない。限りない恐れとそして未知への期待感との間で揺れながら。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-4

サウンドスケープ


2001.5.19

 

シェーファー …従来の音楽というのは、何とか存在感のある音楽をつくろうとか、はっきりと形がわかるような、定義できる音楽をつくろうとか、西洋の音楽伝統というのは特にそうなんですけれども、音楽をつくるとその音楽だけを聴かなくちゃいけない。その周りにある音は無視して、それだけ聴けという伝統があったわけですね。音楽だけが何か彫刻の浮き彫りのようにして出てきている。そして周りの環境というものは無視される。そういうものに私は抵抗して、サウンドスケープという概念をつくりました。

武満 …私が日本の庭園に興味があるというのは、まず、日本の庭は人を拒まない。それからもう一つ大事なのは、庭にあるすべてのもの、水とか石とか木とか岩とか砂とか花とか、そういうものはどれも協調し、どれも主張し合わない。音楽をやっていく上でそれが一番大事な一つのテーマなんです。もしかして、視覚的なビジュアルなタイトルをつけたりするのも、ビジュアルなタイトルによって、方向づけるかもしれないけど、ぼくは庭のように、それによって逆にある自由を与えたいと思うんですね。一つのものだけを主張して説得したくないという気持ちがあるんですね。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P55-56/武満徹+マリー・シェーファー「サウンドスケープ」より)

 サウンドスケープという概念はかなりポピュラーになった感もあるが、実際のところをいえば、とくにこの日本では、サウンドスケープの概念に反してというか、それがあまりにも顧みられないまま、音環境は発狂しているとしか見えないときがあまりにも多い。

 街ではいたるところで流行の音楽をはじめとしたかぎりなく雑多な音楽が流され、携帯電話からは着メロが垂れ流される。ときおり、信号機の前で、街角で、目を瞑って、耳を澄ませてみることがある。とくに特定の音ではなく、耳に入ってくるさまざまな音空間のようなものを感じてみると、その恐ろしいまでの混乱のなかにいるのだ、ということに否応なく気づかされてしまう。また、無神経で過剰なサービスとしてのBGMも随所に置かれている。ことさらな鳥の声さえが機械的に流されていたりもする。

 音だけではなく、香りについてもそれはいえることだし、(いわゆるオジサンのポマード式のあの臭いやオバサンの香水の臭い、若い女性の判で押したような香水の臭い、さらにはときには若い男性のつけている鼻をつくような香水の臭いさえ)視覚的に見ても、ほとんど発狂しそうな景観がいたるところにある。

 おそらくこうした現状というのは、感覚があまりにも鈍化し、パターン化・機械的になってしまっていて、今自分のいるところで感じ取れる総合感覚とでもいうものを捨て去ってしまっているからこそ可能になっているのではないかと思える。

 現在の音楽受容のあり方にしても、聴くことを育てていく方向ではなく、いかにそれを売れる可能性に向けて、豊かさを捨て去った刺激ー反応図式に向かっているとした思えないところがある。

 かつての時代のように、いわゆる上層階級のための音楽というのではなく、すべての人のための音楽でありうるということは重要なのだけれども、創造性があまりにも失われることによって、ますます消費のための安易な道具になってしまうことは、あまりにも悲しいことではないかと思える。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-5

ギター


2001.5.19

 

バルエコ …私はまず、「フォリオス」でその音楽性の豊かさに感心しました。時にはジャズのように聴こえ、時には日本の音楽のようにも聴こえ、とても幅が広い。それらがとてもうまく合わさっている。それが私には小さな世界のように思える。それらのものが同居している世界、に。

武満 私は昔からギターが好きで、オーケストラ曲を書く時でもギターのパートを入れてるんです。『フォリオス』は私にとって初めてのギター曲でした。ギターの美しい音色は調性の音楽にぴったりだと思います。私にとって、ギターに調性のシステムを使うのは冒険的な試みでしたが、あの場合トーナリティーを使ったのは良かったと思います。想像力も広がりましたし。『フォリオス』の後は、オーケストラ曲にもためらわずにトーナリティーを使えるようになりました。ギターは素朴だが素晴らしい楽器だと思うんです。私はギターのパーソナルなところが好きですね。 …

バルエコ ギターはうまく弾けば本当に美しい楽器ですね。残念ながら私は自分の耳に聴こえてくるものが何であるかを説明することができません。うまく弾くとギターの音というのは土の香りがするというか、非常に人間的な音を出します。楽器の個性を人間にたとえるなら私はきっとこの(ギターという)人間が好きになると思う。その人は穏やかな口調で話し、いろいろ感じやすい、とても人間的なひとだと思う。あなたの言う素朴さというのもそういうことではありませんか。とても人間的なんです。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P72-73/武満徹+マヌエル・バルエコ「ギターの音は土の香り」より)

 この対談を読むまで、バルエコというギタリストの存在を知らなかった。(この本は、以前yuccaが買っていたもので、ぼくはずっと読まないままだったのを、やっと今回読んで見ることにしたものだ)知ったとたんに、この広島でもうすぐバルエコのギター・リサイタルがあるのがわかった。いつものごとくのシンクロニシティ。テーマは「照応する魂ーーバッハとラテン」。

 で、ニューアルバムの存在も知った。

 

■バルエコ&アル・ディ・メオラ、スティーブ・モース、アンディ・サマーズ

 ギター・デュエット集 TOCE-55294 01.5.16

 おお!アル・ディ・メオラ。アル・ディ・メオラといえば、あのチック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエヴァー」のときのなんと20歳のギタリスト!以前、このアル・ディ・メオラにパコ・デ・ルシア、そしてジョン・マクラフリンのいわゆるフラメンコ・ギターなどには、かなりはまっていたことがある。そういえば、アル・ディ・メオラにはピアソラのいい演奏があるらしい。ピアソラといえば、この対談でも、武満徹はピアソラの話をだしていたりする。1983年のことだ。しかし、武満徹の、なんと関心のの広く、深いこと!だからこそ、あの音楽が可能になったというところがあるんだろうと思う。

 そういえば、最近、あまりギター演奏を聴かなくなってしまっていた。この対談でも、武満徹はこう述べている。

現在、クラシック・ギターには、世界的に、かなりの逸材がそろっているだが、個人の技を磨くことだけに充足して、狭い袋小路でどんくりの背くらべをしているという印象を拭えない。マヌエル・バルエコは、そうしたギター音楽(界)の閉鎖性を飽き足らないものに感じて、つねに、外の世界に眼を向けている。幾度か一緒に仕事をする機会があったが、自分の演奏に満足しているかれを、私は、未だいちども見たことはない。

 ギターは、武満徹にとってもっとも愛する楽器のひとつらしい。そういうなかから、『フォリオス』も作曲された。ギタリストの荘村清志に献呈されている。

 ぼくが聴いているCDの演奏も荘村清志によるもの。ギターのイメージがこの演奏を聴くことで、はるかに広がっていくのを感じさせるものである。ちなみに、フォリオスIIIには、「マタイ受難曲」のコラールの冒頭が引用されていたりもする。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-6

好奇心


2001.5.21

 

ベロフ 先ほどおっしゃったように、残念ながら若過ぎたかどうか自分でわかりませんけれども、非常に早い時期に音楽の道に入ってしまいましたけれども、それまでには天文学に興味があったり、植物に興味があったり、いろいろなものに興味がありました。ひょっとしたら別のものになっていたかもしれなお。ただ、いまでもそれに興味があるんですけれども、二十年近く音楽家としての道を歩んでしまったので、いま別なことをやりたいと思ったら、やはり二十年前に戻って、またスタートからなり直さねばならないので、ちょっと不可能なことじゃないかと残念に思っているんです。

武満 もちろん音楽をやっていただきたいですけれども、音楽をやりながら、やはり映画にしても、絵画にしても、植物にしても、天文学にしても、何ていうんだろう、ぼくら人間の周りにあるものに、常に好奇心を持ち続けないと音楽というのは本当には生きてこないんじゃないですか。

ベロフ いま武満さんがおっしゃったように、音楽の演奏、それから芸術の創造というようなものは、そのものだけではなく、その人間性というものが出て初めて価値があるものなので、欠点も長所も同時に出てしまう。ある種の演奏家、芸術家は、それを逆に、隠して別のものに見せようと努力している人たちがいるけれども、結局のところそれは聴いている人には見通されてしまうのではないか。自分の人間性を深めていくということは、音楽が豊かになることではないかと思います。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P103-104/武満徹+ミシェル・ベロフ「音楽の色彩」より)

 井上陽水のCMソング『花の首飾り』が印象的なキリンの「聞茶」が発売されていて、個人的にはこの「聞茶」を気に入ってたりするのだけれど、「お茶を聞く」というように、歴史的に見ても、日本人は五感を分離させてとらえるのではなく、かなり横断的にとらえる傾向があるようである。

 この「聞茶」というネーミングが受け入れられているのも、そうしたあり方が日本人の「共通感覚」としてまだ存在しているということなのだろう。日本人の右脳と左脳の特殊性で示唆されてもいるように、虫の音と合奏するような、また「さわり」を重視するようなあり方が「共通感覚」として形成されてきたといえる。このことは教育などにおいてももっと強調されてしかるべきではないかと思う。しかし、すでに現代の日本人の多くは、音に対する乏しい感受性を見てもそうした共通感覚を失いかけているだろうから、難しいところではある。

 さて、日本人は多くいわば自分の専門を横断していく方向性に対して、あまりいい評価を与えないというところがあるのだけれど、何かを深めていく際には、やはり、氷山の上の部分だけではなく、見えないその下の部分こそが必要なのではないかと思える。そうした際に、日本人的な専門だけへの指向性というのは、その専門部分の貧しさに繋がってくるように思えてならない。せっかく、「お茶を聞く」という感受性の可能性が開かれているにもかかわらず、「お茶は飲むものであって、聞くというのは間違っている、真面目ではない」というようなものである。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-7

知性と火


2001.5.21

 

 ヤニス・クセナキスは作曲家であると同時に、建築家でもあり、また数学者としても著名である。かれの音楽は実に知的に組みたてられているのだが、それはけっして冷たい印象を与えない。かれの方法は、かれの内実と深く関わるものであり、たんなる数的操作として自己完結してしまうものではない。でなければ、あのように 激しい火のように燃える感情を、私たちは、かれの音楽から聴くことは無い筈だ。

 「音楽は音によって知性を表現することだ」とかれは言うが、その言葉が、ギリシャ軍事政権に対するレジスタンス活動や、他の社会的運動に参加する、モラリストとしてのクセナキスから発せられたものであることを考えるとき、その意味はいっそう深いものに思われる。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P128/武満徹+ヤニス・クセナキス「場所(トポス)の音楽化」より)

 思考は冷たくて、感情は温かい。そうした固定的なイメージからは自由になったほうがいい。火でてきた思考もあれば、氷のような感情もある。重要なのは、その、思考、感情、そして意志がどのようなあり方をしているかをしっかりと見るということだ。

 さて、とくに西欧のきわめて数学的な音楽などを聴くと、日本ではめずらしいような火のような思考の結晶がいたるところにみられる。もっとも、まったく熱を感じられないような結晶もあるのは確かだが、西洋哲学にみられるきわめて理屈っぽい構築物が、その内にいかに灼熱の火を湛えているかということを感じることがよくある。

 新ウィーン楽派と呼ばれるシェーンベルク、アルバン・ベルク、ウェーベルンなどの音楽も、ポピュラーソングのようには聴くことはできないのは確かだけれども、その音のなかでたぎっている何かを聴くことはできる。なぜ彼らはあの無調音楽とされている音楽に情熱を傾けたのか・・・。

 今年亡くなったクセナキスの音楽も、その知性によって際だった印象を与えるが、シュトックハウゼンとは異なった知性の質を持っているように思う。熱を内包しそれを結晶化させた知性とそうでない知性の違い。もしくは、本来火である知性が結晶化はしているものの火を感じさせるものと、すでにその火の要素を感じさせないものとしているかの違い。その近さと遠さによって両者は相容れなくなっているのだろう。

 

武満徹レゾナンス PARTII-8

芸術と現代


2001.5.24

 

武満 実際に私たちがやっている芸術というのは、それほどすべての人間が必要としているものではないかもしれない。しかしぼくたちの音楽の存在の意味はもう無いのかといえば、いま、ますます必要なのではないでしょうか。これだけ技術が高度に進んできているときに、われわれがそのために文明によって損ない、失っていくものが多いときに、それはまことに微々たる力かもしれないけれども、それでも自分の生涯をかけて燃焼できるような精神的な何かを残す、というと、おおげさで気負っているように聞こえるかもしれないけれども、でも、そういうことがなかったら芸術の意味はないんじゃないでしょうか。

尹 そうですね。いまおっしゃったように、われわれは人類の多数を代表する音楽は書けないかもしれないけれども、人類多数の良心を代表する態度で芸術をつくる、という態度は必要だと思います。それがなければ、芸術家として生きる中身もなければ意味もない。

武満 そうでなければ、本当に政治や何にも打ち勝つことはできないのではないかと思います。

尹 そうです。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P141-142/武満徹+尹伊桑「音楽における陰陽」より)

 現代の芸術は、非常に困難になっている。安易にアーティストと自称する人が多いのが、まるで皮肉のようにさえ響いてしまうほどに。

 かつて芸術は一部の人のためにあったところがある。そして、現代ではそれがいきなり大衆化されてしまっている。

 理想的には、すべての人があらゆる営為を芸術化していくということが求められるようにも思うのだけれど、大衆化ということは卑小化と裏腹でもあるし、その卑小化から飛翔!するためには、今度は非常に難解なものになってしまう。「現代音楽」という名称が、聴衆を拒否した音楽の名称にもなりかねないように。

 そうした課題はあらゆる分野に及んでいて、たとえば、現代物理学は素朴実在論とはかけ離れているにもかかわらず、一般の人々の世界観は、素朴実在論的な唯物論的科学主義色濃く支配されているように、あらゆるところで分裂現象が起こっているように見える。

 私見ではあるが、現代における芸術は、あらゆる困難にもかかわらず、ある種の全体性、総合性へと向かいながら、現実そのものを変容させる契機として、その役割を見出そうとしているように見える。

 「現代音楽」と称する営為が、(おそらく、重要な音楽家はその名称を、その否定的響きによって拒もうとするだろうが)安易なポピュラー化と相容れない様相を呈しているのは、現実そのものの堅固な制度性から自由になろうとしているからだろう。(アーティストと自称するいわゆるミュージシャンのなんと制度的なことか!)そして、新たな現実創造に向かって困難な一歩を踏み出ささなければならない。しかもそのなかには過去のあらゆる営為が踏まえられていなければならないのだ!

 そうした困難さのなかに現代の芸術はありながら、しかもあらゆる人々の営為を芸術家しなければならないという未来に向けての課題を背負っているともいえる。そうした意味で、芸術と政治ということも見られなければならないのだろう。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-9


2001.5.25

 

武満 …6月にイギリスで私のオーケストラ曲が演奏されて、ロンドン・タイムスのかなり有名な批評家が新聞に批評をかいたわけです。そしたら、美しいとは認めているんだけれども、「この形式観のなさというのについていかれない。全くわからない。形式がまるでない。形式観に欠けている」ということを言っていたんです。音楽の形式とは何なのか、その美しいと感じた、一つの音にだって構造がある。僕の音楽にはそれなりの一つの形というものがあって、それはほとんど西洋音楽から 学んできたものなんですね。…

ゼルキン 残念ながらフォームが鋳型として考えられてしまっている点ですが、フォームは鋳型ではなくて、もっと連続する、遮られない過程だと思うんです。それ自身がみずからの形をもって存在することができるし、必ずしも古いものに似たような形にならなくても、初めてつくられた新しい音から新しい形でフォームをつくっていくということがあるんですけれども、それは最近の新しい作品だけではなく、より古い音楽でも同じことが言えるかもしれない。例えばソナタ・アレグロという形式を例にとると、ベートーヴェンが作品90の第一楽章などをかいたときにはソナタ・アレグロというフォームはなかったわけですね。後でこういった全く新しい概念、新しい創造物から新しい形ができてきたと言えると思うんです。

武満 ぼく自身は、フォームという概念、しかも、私たちの中でも培われているヨーロッパ的な音楽のフォームの概念というものと、自分自身のつくる音楽のフォームというのはやはり違う。何て言うんでしょう、音響によって造形していくヨーロッパ音楽のあり方と、どうも僕の音楽は表面は似てくるんだけれども、作曲のプロセスにおいてはずいぶん違いがあるんじゃないかと思うんですね。それが先ほどのイギリスの批評家なんかを戸惑わせることなんじゃないかと思います。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』 音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P158-160/武満徹+ピーター・ゼルキン「形式について」より)

 種を鋳型としてとらえてしまうと、生命は閉じこめられたままそこから芽を出し成長していくことはできなくなってしまう。成長するプロセスの型としてそれはとらえなければならない。

 人もまた個性を外から与えられる鋳型のようにとらえてしまうとき、創造的変容が封じられてしまうことになる。おそらく芸術はその鋳型のように固化したものを開く継起になる必要があるのではないだろうか。

 守ー破ー離のようなとらえかたも、それは実は直線的なプロセスなのではなくて、その三つのプロセスを内包した型としてとらえるのがいい。

 構築されて動かし難くみえる構造物にしても、それを静的なものとしてとらえるとき、その「破」は、変容の継起ではなく、破壊となってしまう。

 社会有機体三分節というシュタイナーの社会構造についての考え方も、また、頭部ー胸部ー四肢といった人間の三分節にしても、たとえば頭部にも頭部ー胸部ー四肢という要素が内包されているように、そのダイナミズムとしての型への視点が必要となる。

 過去ー現在ー未来という時間の流れのように見えるものも、「現在」という永遠の展開としてみるときに、その時間のダイナミズムへの視点が開かれてゆくのではないか。常に現在という永遠なのだけれども、それが展開していくために、だからそのプロセスとしての型が創造され続けているということである。つまり、永遠が自分を展開させるための型。

 一音のなかに永遠を聴くというのは、その一音のなかに響き渡っている展開の幾何学模様を聴き取るということなのかもしれない。

 

 

武満徹レゾナンス PARTII-10

音楽の文盲


2001.5.26

 

ジェフスキー 現在起こっている現象というものは、音楽の文盲というふうに言ってもいいんじゃないかと思います。ほかの芸術世界のことはわかりませんけれども、芸術の産業化というものが非常に進んでくることによって、逆に無知が広がっていると思います。…

そして、今日やはりラジオとかテレビが、この社会を非常に支配していると思います。例えば何百万もの人たちが、マイケル・ジャクソンとか、プリンスとか、そういう音楽しか聴けないというような状況に、むしろ現在ではなってきているんで、私は、今はまだ、何か変化の兆候というものが感じられません。

(武満徹対談集『すべての因襲から逃れるために』音楽之友社/昭和62年3月20日発行/P202/武満徹+フレデリック・ジェフスキー「悪魔的ロボット社会に息を吹き込む」より)

 現代では、お金を中心にしてあらゆることが動くようになっている。お金そのものが商品になること、お金を投資し運営するということへの抵抗感さえもはやないように見える。

 経済活動は、それが「精神活動」をどれほど生産的に生み出し得るか、ということが基準になってしかるべきだとも思うのだけれど、その豊かな余剰であるはずのものが、ほとんど精神活動とは無縁のようにさえ見えるさまざまなロボット的行動に人を駆り立てる。

 CDがクオリティとは無縁のところで何百万枚も平気で売れ、だれもが行くから私も生きたいとばかり、テーマパークに急ぎ、みんなで同じ格好をし、みんなで同じものを食べる。おそらく、「自分がなにをしているのか知らない」にもかかわらず、自分はそうしたいと思いこんでいる、というか、自分は何をしていいかわからないから、みんながしていることを自分はしたいはずなんだと思うことで、安心しておきたいということがあるんだろうと思う。

 新聞ですぐにアンケート調査の結果がでて、小泉内閣の支持率が云々というのを発表していて、そういうことを変だとか思わないのも、「みんながどう思っているのか」によって自分の態度をどうするかを決めたいと思っているからだろう。

 新聞などのマスコミはいわば「国民の声」とかいうのが好きで、それに迎合するような論を出すことでみずからの使命にしているところがある。「客観的」を装うには、アンケート結果というのが効果的な見せ方だからなのだろう。実は戦前の戦争賛美も、同じ流れの中にあった。それは結局のところ、無意識のところでうごめいている何かの働きに無自覚に迎合してしまう危険性を常に持っているはずなのだ。

 それは、日本語を使っているから日本語が読めると思い込んだり、音楽とされているものを聴いているから音楽を聴いていると思い込んだりするような、そういう「無知の知」の欠如ということなのではないだろうか。


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