シュタイナーの音楽論


シュタイナー●音楽的なものの本質


(92/05/07)

 ルドルフ・シュタイナーの「血はまったく特製のジュースだ」(高橋巌訳・イザラ書房)に所収の「音楽的なものの本質」をご紹介します。

 シュタイナーの芸術をテーマにした業績のなかで、舞踏、絵画、彫刻、建築などにくらべて、理論面でも実際の活動でも音楽に関するものは決して多くはありませんが、音楽を軽視しているわけではないと思われます。

 シュタイナーの芸術観は、リヒャルト・ワーグナーのような総合芸術を指向しているようで、音楽を芸術に固有の空間内で他の芸術と結び付けようとすることに意味があるようにとらえていたのではないでしょうか。

 本論からの引用です。

 音楽に耳を傾けるとき、われわれは自分の霊界の故郷をこの世の現実の中に映し出しているのです。霊的内容のその幻影の中で、魂はこの上ない高揚感を覚え、人間の存在そのものに限りなく近づいていきます。だからこそ音楽はどんな素朴な魂の中にも限りなく深く働きかけてくるのです。どんな素朴な魂も音楽の中に、デヴァカン界で体験したことの余韻を感取します。そして本来の故郷にいる自分を感じます。そのような折りには常に人は、『そうだ、お前は別の世界からこの世に来たのだ』と感じます。

 実際、事物の内奥の部分に生き、働いているものの余韻こそ人間が音楽の中で感じとるところのものなのです。そしてその働きは正に人間の内的ないとなみに親和しているのです。魂のもっとも内る、そして霊界と親和した要素は感情です。そしてそのような感情を担った魂は、音の中でこそ一番自分らしい働きをします。音の世界に生きる魂にとっては、自分の内なる感情を生かすために、感情を仲介する肉体の存在などもはや必要ではありません。音楽の原像は霊的なものの中に、一方その他の諸芸術の原像は物質界にあります。人間が音楽を聴くとき、浄福感をもつのは、その音が人間の霊的故郷の中で体験した事柄と一致しているからなのです。

 本論の中ではいろいろ論じられていますが、概略については以上の内容です。これに加えて、「訳者付記」の中で高橋巌さんが、シュタイナーの「音楽と人類の意識の進化との関係」について紹介しているところがありますので、引用しておくことにします。この箇所は読み方によれば、グルジェフとの関連性を指摘できるように思えますので、なかなかに興味深いところです。

 今日の人間の意識にとって、3度の音程が特別切実に響くように、太古の人間は7度を体験する度に、脱魂状態に襲われた。そしてギリシャ=ローマ時代から中世にかけての人間にとって、5度の響きはまるで天使がわれわれの心の内部で歌っているようであった。3度は近代人の主観的な喜び、悲しみのもっとも適切な表現を可能にしたが、しかしその近代人も1度から7度までの質的変化は理解できるが、8度はまだ1度と共通の質的体験としてしか感じとることができない。やがて音楽鑑賞の中で、オクターブのインターバルを体験する毎に、『私は今、自分の霊我と出会った』という感情が呼び起こされるであろう。そしてそれは巨大な音楽体験になるであろう、というのである。シュタイナーは更に、この未来の音楽体験はわれわれのエーテル体(生命体)が肉体からの拘束を脱して、もっと柔軟になったときに現れてくる、とも述べている。19世紀以来、文化の特質が男性的、理性的な方向に傾く中で、われわれの意識に一種の硬化現象が生じている。固定され、こうちょく化された意識は、自己救済をエーテル体の復活に求めている。そしてこの復活を可能にしてくれる最上の芸術手段もまたふたたび音楽なのである。

 クレーの作品の音楽性についての評論もありますが、芸術行為というのは、神秘学的にみると興味深いところがたくさんあります。

 シュタイナーにとっては、教育も芸術行為としてとらえられていますので、単に、社会論や記号論などで解釈されるような芸術作品のような既成の芸術論ではとらえられるはずもないことが理解されると思います。

 まさに、霊・魂・体という3分節によってとらえられる神秘学的な芸術行為理解は私たちの生きる行為そのものと不断に、そして密接にかかわり合っているからこそ奥深く、意味深いものなのではないでしょうか。

 

星界の音楽


(91/11/22作成)

「星界の音楽」(ジョスリン・ゴドウィン著、斉藤栄一訳、工作舎)から。(P248〜249)

この表は、この本の著者が、シュタイナーの著作の編纂者&解釈者であるエルネスト・ハーゲマンが編纂したシュタイナーについての講演集に基づいて、ルネサンスの魔術書のスタイルに似せて作成した対照表だそうです。

 

●人智学に基づく対照表

【宮】   【力】  【感覚】  【体の部分】  【子音】  【調】

白羊宮  バランス  言葉     頭      V    ハ長調

            話すこと               イ短調

金牛宮   音の    思考    喉頭      R    ト長調

      イマジネーション                     ホ短調

双子宮   左右対称  自我    下腕      H    ニ長調

                               ロ短調

巨蟹宮   離脱    触覚    肋骨      F    イ長調

                              #ヘ短調

獅子宮   自己分離  生命    (心臓)    D、H  ホ長調

                            #ハ短調

処女宮   身体内存在 運動    身体諸器官   B,P  ロ長調

                            #ト短調

天秤宮   均衡状態  バランス  骨盤      C,Ch #ヘ長調

                            #ニ短調

天蝎宮         嗅覚    再生諸器官   S,Z  変ニ長調

                            変ロ短調

人馬宮         味覚    上腕      G,K  変イ長調

              大腿部           ヘ短調

磨蝎宮         視覚    肘       L    変ホ長調

               膝            ハ短調

宝瓶宮         体温    向こうずね   M    変ロ長調

                      ト短調

双魚宮         聴覚    両手      N    ヘ長調

               両足           ニ短調

 

 この本は、あまりうがった見方はされてなくて、題名の通り「星界の音楽」というテーマに関したさまざまな考え方を紹介しているもので、出版されたのが去年の3月なのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

 さて、シュタイナーの芸術論でいうと、「建築」「彫刻」「絵画」「音楽」「詩」「オイリュトミー」がそれぞれ、「肉体」「エーテル体」「アストラル体」「自我」「霊我」「生命霊」に対応させて説明されています。

 

シュタイナーの音楽論ノート●1


(93/05/29作成)

 

芸術において人間は、

世界のなかに結びつけられた霊を解放する。

音楽芸術において人間は、

自分自身のなかに結びつけられた霊を解放する。

           ルドルフ・シュタイナー

 ルドルフ・シュタイナー「音楽の本質と人間の音体験」(西川隆範訳/イザラ書房)の中から、シュタイナーの音楽についての考え方を何回かに分けて引用紹介してみたいと思います。

 先日、中野純「日本人の鳴き声」(NTT出版)の紹介をしましたが、それと重ねあわせて考えてみるとき、音楽についてのとっても興味深いビジョンが次第に浮上してくるのを理解されるのではないでしょうか。

●建築・彫刻・絵画・音楽

人体の法則を空間内に投影したものが建築です。

エーテル体から彫塑あるいは彫刻が発生します。

絵画はアストラル体の法則を内包します。

自我をもってアストラル体の中に沈潜することをとおして音楽が生まれます。 音楽は自我の法則を含んでいます。けれども、日常生活における自我の法則ではなく、意識下、アストラル体に移行したかたちで自我の法則を内包しているのです。

●音楽の本質(1)

メロディー、ハーモニーのなか、その人間の魂への作用のなかに、神界の影を感じることができます。

人間が眠ると、アストラル体と感受魂は、底次の構成要素から離れます。ベッドの上には、物質体とエーテル体があります。その他の部分はアストラル体と

神界のなかに生きています。神界で、魂は音の世界を自分の内に受け入れます。 人間は実際、朝目覚めるとき、音楽的な領域、音の海を通過していきます。

音楽にとっては、感受魂と感受体の共同が、特別の意味をもっています。あらゆる意識は外界を克服することによって生じる、ということを知らねばなりません。快感、喜びとして人間に意識されるものは、精神的なものが身体的−生 命的なものに打ち勝ったこと、感受魂が感受体に打ち勝ったことを意味しています。内的な震動をもって眠りから戻ってきた人間には、気分が高まり、感受魂が感受体に打ち勝つのを知覚できる可能性があります。魂がみずからを体よりも強く感じることができるのです。人間は短調の作用において、いかに感受体の震動が強いかを知覚することができ、長調において、感受魂がより強く震 動して、感受体を圧倒しているかを知覚できます。単三度だと、魂の痛み、感 受体の優勢が感じられます。長三度では、魂の勝利が感じられます。

人間は神界に属するものを、自分の故郷、自分特有のものと感じます。神界を流れるヴァイブレーションが、人間のもっとも深く、内的な本質を通して感じられます。アストラル的なもの、物質的なものは、たんなる覆いのように感じられます。神界のなかに人間の本来の故郷はあります。そして、この故郷、神的−霊的世界からの残響が、物質界のハーモニーとメロディーのなかに響いて います。ハーモニーとメロディーは、この低次の世界を、崇高で素晴らしい存在の予感で貫きます。ハーモニーとメロディーは、人間の最奥の本質をゆさぶり、この世が与えることのできない純粋な喜びと崇高な精神性の震動で人間の最奥の本質を震わせます。絵画はアストラル体に語りかけます。音の世界は人 間のもっとも内面に語りかけます。

音楽は、時の流れのなかで受肉をしては、つねに新たな体験をしなければならない魂の模像です。人間の魂は生成中のものです。音楽は地上で流れゆくものであることによって、人間の魂の模像になっているのです。

●音楽の本質(2)

人間は耳をとおして音を外界から受け取り、周囲に返します。耳はもっとも古い器官のひとつであり、喉頭はもっとも新しい器官のひとつです。耳と喉頭の関係は独特のものです。耳は一種のピアノのように、震動します。耳の中には多数の繊維があり、それぞれが一定の音に合っています。外で生起しているもの、外から入ってくるものを耳は変化させないか、あるいは、ごくわずかしか 変化させません。ほかの感覚器官、たとえば耳は、周囲の印象を変化させます。ほかの感覚は、将来になってはじめて耳の段階へと進化します。耳というのは最高の進化段階にある物質器官なのです。

耳は、さらに古い感覚と関係をもっています。空間内での位置測定のための感 覚、すなわち、3次元空間を感じ取る能力です。この感覚が自分のなかにあることを、人間はもはや意識してはいません。この感覚は、耳と内密に結び付いています。耳のなかに、注目すべき湾曲があります。たがいに垂直に交わっている三半器官です。この器官が損傷すると、人間は方向を知る能力を失います。この器官は、聴覚よりもなるかに古い空間感覚の名残なのです。今日、音を知 覚するように、人間は昔、空間を知覚していたのです。耳は音、すなわち、空間から時間のなかに移るものを知覚します。

こうして、音楽的感覚と数学的感覚に類似性があるのが理解できます。数学的感覚は三半器官に結び付いています。音楽的な家族は、音楽的な耳という特徴をもっています。数学的な家族には、空間的才能が結び付いた三半器官が、とくに形成されています。

 

シュタイナーの音楽論ノート●2


(93/05/30 作成)

●人間の音体験−音楽教育の基礎(1)

現代と古代とを比較してみると、音楽に関して現代という時代の特徴を、「現代は、二つの音楽感受のあいだに立っている」と述べることができます。ひと つの感受はすでにあり、もうひとつの感受はまだありません。現代、多かれ少なかれ高度に達成されているのは3度の感覚です。音楽的感性において、5度感覚から3度感覚への移行がいかになされたのかを、歴史的に追っていくことができます。3度感覚は新しいものです。現在、オクターブ感覚はまだ存在していません。この感覚は将来、現れます。7度までの音の感覚を、私たちは区別できると思います。1度と7度の違いを感じることができるのに対して、オクターブを聞くとまったく異なった体験が現れます。1度と区 別することができないのです。オクターブは1度と傘なります。5度や3度には区別がありますが、オクターブにはそのような区別がありません。たしかに 私たちはオクターブの感覚を持っています。しかし、その感覚はまだ形成されておらず、将来達成されるものです。将来、オクターブ感覚は音楽体験を非常に深めることになるでしょう。音楽作品においてオクターブを通用させるに際して、人間は「私は新たに私の自我を見いだした。私はオクターブ感覚を通して高まった」と、感じることができます。

音やメロディーやハーモニーは人間全体で体験される。私たちが通常考える音は、空気を媒体とします。しかし、私たちが音の中に体験するものは、まったく空気と関係ありません。耳は、音体験のまえに、空気を音から分離する器官なのです。ですから、音を体験するとき、私たちは反響を受け取っているのです。耳は、空気の中に生きる音を人間の内面に反響させる器官なのです。私たち聴く音はエーテル要素の中に生きるのです。

音楽体験については、「神経人間、律動人間、四肢人間」といわねばなりませ ん。感覚知覚は付随現象として除外されます。

アトランティス時代の本質的な音楽体験は7度でした。まだ5度は知られていませんでした。7度の体験において、人間は地上との結びつきから解放されるのを感じました。当時の人間は、「私は自分が霊的世界の中にいるのを感じる」という意味で、「私は音楽を体験する」ということができたのです。

人間が肉体の中に入り込み、自分の肉体の中に座を占めようとするに従って、7 度体験が苦痛なものと感じられはじめたのです。そして、5度体験に大きな満悦を感じはじめました。音階は当時、ニ音、ホ音、ト音、イ音、ロ音、そし満悦を感じはじめました。音階は当時、ニ音、ホ音、ト音、イ音、ロ音、そして、ふたたびニ音、ホ音というふうで、ヘ音とハ音感覚はなかったのです。

3度への体験の移行は、アトランティス時代後の第4文化期まで待たねばなりません。3度体験はまだ完全にはなく、5度体験があるのです。中国人は現在でも5度体験を有しています。3度体験への移行は、音楽が自分の肉体組織と 結びつくのを人間が感じ、3度を体験できることによって自分を地上の人間、 音楽家と感じるということを意味しています。それ以前は、5度体験に際して、「天使が私の中で音楽家になり始めた。ミューズが私の中で語る。」といわね ばなりませんでした。

「私は歌う」といえるようになるためには、3度体験が必要だったのです。3度体験は音楽感受全体を内面化するのです。3度体験が現れたことによって、主観は自分の中に安らうのを感じ、人間は自分の通常の生活の運命感受を音楽と結びつけはじめたのです。5度の時代には、長調、短調は、まだ意味を持っていませんでした。長調と短調は人間の主観、地上的身体と結合した人間の感 情のいとなみと結びついています。

オクターブに関して、私たちは内面−自我、物質的に生きる内面−自我から出発しました。そして、エーテル体とアストラル体を通って、7度まで上昇しました。いまや、オクターブにいたることによって、感受する自我に直接移行し なければなりません。

「7つの音の中に人間は生きている。しかし、私たちはそのことについて何も知らない。ハ音、嬰ハ音において、私たちは揺さぶられる。ヘ音あるいは嬰ヘ音を聴いたとき、ハ音、嬰ハ音から人間はエーテル体、アストラル体に突き当たるのである。エーテル体は震動し、アストラル体にむかって突進する。ついで、私たちは7度までの音にいたり、アストラル体験を有する。しかし、私たちはそのように正確には知らない。私たちは、それをい感じるだけである。オ クターブ感覚は、高次の段階における自己発見をもたらす。3度は私たちを内 面に導く。オクターブは私たち自身を、もう一度感じさせるのである」といわねばなりません。

 

●人間の音体験−音楽教育の基礎(2)

5度体験は広い宇宙に出ていくことであり、3度体験は自己組織の中への帰還であり、その中間に4度の体験がある。

4度体験は、まさに人体の境界に存在します。しかし、人間は4度において物質的な外界ではなく、霊的世界を感じるのです。4度体験において、人間は外から自分自身を見、神々の下に自分を感じるのです。

人間の原初の歌にさかのぼると、人類の原初の歌は神々の語りであり、神々の下の経過を語るものでした。7つの音階の中に12の5度があるということは、5度のインターバルによって、人間の外に音楽による動きの可能性が存在するということを照明しています。人間は音楽とともに、4度とともにはじめて自 分にいたるのである。

今日、人間は5度に際して空虚を感じ、その空虚を楽器の素材で満たさねばなりません。古代の音楽的人間と楽器とは高度に一体のものであった、と考えねばなりません。古代には、人間は自分の中に音の輪を持っていると感じていました。その輪の下方は最低音域の音には達せず、上方は二重加線の付いた音にはいたりません。ひとつの閉じられた輪です。

今日、音楽(歌が器楽ではなく、音楽全体)にとって中心にあるのは、ハーモニーです。ハーモニーは、人間の感情を直接把握します。感情は人間の体験全体の中心にあるものです。感情は、一方では意志に伝わり、他方では表象の中に伝わります。

メロディーは音楽を、感情の領域から表象の領域の中へと導きます。メロディーの主題の中には、私たちが表象の中に有するものはありませんが、表象が存在する領域に少々するものがあるのです。人間の頭を感情に到達させるものが人間の本性の中にあるというのが、メロディー体験の大きな意味なのです。メロディーを通して、頭は感情にいたることができるのです。

ハーモニー表象への傾向を有しうるように、意志への傾向も持ちえます。しかし、ハーモニーは意志に下降することはできず、意志の領域に絡まります。リズムによってそのようなことが生じるのです。メロディーがハーモニーを上方にもたらす、リズムがハーモニーを意志にもたらすのです。

リズムは意志の本質に類縁であり、人間は意志するとき、まだ内的に意志を活動させねばならないので、リズムは本来、音楽を解放するものなのです。

人間全体を人間精神として音楽的に体験しつつ表彰してみてください。旋律的に体験することができるために、みなさまは精神的な頭を有しています。和声的に体験できるために、みなさまは精神の中央器官でありう胸をもっています。律動的に体験できるために、みなさまは手足を持っています。こういうことによって、私はみなさまになにを叙述したのでしょうか。人間のエーテル体を叙述したのです。音楽的体験を正しく持てば、人間のエーテル体を生き写しのように自分の前に有することになります。ただ、頭というかわりにメロディー、律動体験というかわりにハーモニー、四肢人間というかわりにリズムというのです。こうして、人間全体をエーテル的に目の前にします。そして4度体験において、人間は自分をエーテル体として、その合成として形成するのです。4度体験においては、メロディー、ハーモニー、リズムのすべて がたがいに織り合わさっており、もはや区別できません。

「7度、6度、5度という3つの段階を人間は忘我の状態で聴いた。4度において、人間は自分の中に入る。3度において、人間は自分の中にいる「ということがわかります。オクターブの音楽的意味を、人間は将来になってはじめて完全に体験することになります。今日の人間は、2度の力強い体験にまだ達していません。それは、未来に可能になるものです。さらに人間が強く内面化すると、2度が感受され、最終的には個々の音が感受されるようになります。

5度は真正なイマジネーション体験です。5度を正しく体験する人は、なにが主観的にイマジネーションであるかを、すでに知っています。6度を体験する人は、なにがインスピレーションかを知っています。7度を体験する人は、なにがイントゥイションなのかを知ります。7度体験における魂の状態は、イントゥイションのように霊視的なものだ、と私は考えています。ですから、古代の秘境の学院で受け継がれている伝統の中で、霊視的認識は音楽的認識、霊的−音楽的認識と名づけられたのです。

人間の音楽的発展は、そもそもどのようなものでしょうか。霊的なものの体験から発するものです。楽音の中に霊的なものが現存することから発するのです。のちに人間は音を、霊的なものの名残りとしての言葉と結びつけ、かつてイマジネーションとして有した楽器を物質的素材から作ります。楽器は、すべて霊的世界から取って来られたものです。楽器を作るとき人間は、もはや霊的なものが見えなくなったことによって空になった場所を満たしたのです。その空の場所に楽器を据えたのです。

 

シュタイナーの音楽論ノート●3


(93/05/31 作成)

●霊的存在の世界と音の世界

アトランティス人は3度、5度を体験することがありませんでした。7度を感じるときに音楽体験をもったのです。彼らにとっては、インターヴァルのもっとも狭いものが7度であり、彼らは7度以上のインターヴァルを有していたのです。そして、3度、5度を彼らは聴き落としました。3度、5度は彼らには存在しなかったのです。

7どの中に自然に生きると、人間は音楽を自分の中に経過するものとして知覚することがありません。自分の身体から外に出て、宇宙の中で音楽を知覚したのです。

ポスト・アトランティスの時代になっても、5度の音程に際して人間は、5度の中に神々が生きていると体験しました。5度の時代には、人間は音楽とともに、忘我の状態に陥りました。のちにやってきた3度の時代において、人間は音楽体験に際して自分の中にあるようになりました。音楽を自分の身体に受け取るのです。音楽を自分の身体に織り込むのです。3度体験とともに、長調と短調の区別が生じたのです。

さらに時代をはるかな過去、アトランティス時代よりもさらに遠い昔にさかのぼってみると、非常に興味深いことがわかってきます。レムリア時代です。そもそもレムリア時代には、人間はオクターブの中で音と音の隔たりを意識しうるというように音楽を知覚することはできませんでした。インターヴァルがオクターブを越えて広がっているときにのみ、レムリア人は音程差を知覚したのです。たとえば、ドと次のオクターブのレの、ド−レのインターヴァルのみを知覚したのです。今日の私たちにとって「あるオクターブの中の1度、次のオクターブの中の2度、その次のオクターブの中の3度」であるものの中に、古代の人間は客観的な長調、客観的な短調を知覚したのです。自分の中で体験される長調と短調ではなく、神々の魂的体験の表現として感じられる長調と短調です。今日私たちが内的な長調体験と呼ばねばならないものを、人間は自分の肉体から分離した状態において、宇宙の歓喜、宇宙創造の喜びの表現のごとき神々の歓喜の音楽として、外に知覚したのです。そして、今日内的な短調体験として存在するものを、レムリア時代に人間は、聖書に堕罪として語られている、神的−霊的な諸力からの人間の落下、よき力からの落下の可能性についての非常な嘆きとして知覚したのです。

「意識魂の時代に生きている人間は、いま内的になっているものが、ふたたび外なる神的−霊的なものへと向かう道を見いださねばならない」といいたいと思います。メロディーの中で体験される感受の内的な富が個々の音に移行し、人間が単一の音の秘密を理解することによって、そのようなことが生じます。 いいかえれば、単にインターヴァルを体験するのではなく、内的な豊かさをもって、内的な体験の多様性をもって、単一のひとつのメロディーのように体験できると、そのようなことが生じます。

●音と言葉を通しての人間表明

地上の人間組織は、霊的なものの模造です。人間が内に担っているものだけではなく、外的な自然のなかにあるものも、すべて霊的なものの模造です。言語によって自分を表明し、歌によって自分を表明することによって、人間は身体、心魂、精神という自分の有機体全体を、外と内に向けて表明するのです。人間は、音声と音の中に開示するものの中に存在するのです。

人類の歴史の中で、言語は本来、歌から発生したものです。歴史以前の時代にさかのぼるに従って、言語は歌に似ていきます。非常な過去にさかのぼると、歌と言語の区別はなく、両者はひとつのものでした。人間の原言語についてはよく語られますが、「人間の原言語は原歌謡であった」ということもできます。

音楽の観点から見ると、人体は楽器なのです。ヴァイオリンやその他の一般の楽器も、なんらかの子音から組み立てられたものとして把握することができます。子音について語るとき、楽器を思い出させるものがいつも感情の中にあります。そして、あらゆる子音の全体的調和が人体の姿を示すのです。

母音は、人体という楽器の上に演奏される魂です。人間の話す言語の中に子音と母音を追っていくと、おのおのの言語表現のなかで人間が自己を表現するのがわかります。人間の魂は、人体の子音的構成の上に母音的に躍動します。 静かな恒星領域があり、その背後に運行する諸惑星があります。ある惑星がある恒星を通過すると、音の世界全体が鳴り響きます。恒星天の中に、素晴らしい宇宙の楽器があるのです。その背後で、惑星の神々が黄道12宮−恒星天の楽器を演奏するのです。

人間から子音を取り出すと、彫塑的に形成しなければならない形態が発生します。母音を人間から取り出すと、歌わねばならない音楽、歌が発生します。このように、地上に立つ人間は二つの宇宙芸術の成果なのです。一方から、彫塑的な宇宙芸術が到来し、もう一方から、歌唱的、音楽的な宇宙芸術が到来します。二重に、霊的諸存在が活動を結合します。ある存在が楽器を構築し、べつの存在がその楽器で演奏します。

 

シュタイナーの音楽論ノート●4


(93/05/31作成)

●楽音体系の拡張(1)

「呼吸過程は、律動組織の中でおこなわれる経過である」ということを忘れてはなりません。この人体の中央の組織は、一方では神経−感覚組織、脳組織に接しています。律動組織と神経−感覚組織のあいだで相互作用がおこなわれています。他方では、律動組織は四肢−新陳代謝組織に接しています。その両者の合流も、物質的経過の中に表現されています。私たちは息を吸うとき、横隔膜を圧迫します。脳水を頭に下げます。呼吸プロセスは、脳水の絶えざる上昇、下降を圧迫します。脳水のリズミカルな動きと、表象器官との絶えざる共同がおこなわれているのです。他方では、ふたたび下降する脳水と、血液、新陳代謝組織の中に経過するものとが、絶え間なくぶつかっています。この内的な体験が、人が考えているよりも、音楽に関連しているのです。呼吸が頭、神経−感覚組織に接近し、共同することによって、メロディーの要素が現れます。律動組織が四肢組織に接近することによって、リズムの要素が現れます。

音楽的形態は人間全体、すなわち思考、感情、意志の総合的共鳴に相応します。

メロディーは表象に相応する。ハーモニーは感情に相当する。リズムは意志に相当する。音の形態は人間全体に相当する。

 

●楽音体系の拡張(2)

母音と音と色彩の関係。

暗い母音であるウとオが、音としてはもっとも明瞭に作用します。反対に、エとイという母音は、音としては雑音を含んだもののように作用します。その中間にアがあります。ただ、暗い母音は暗い色に対応します。明るい母音であるイとエは明るい色に対応しまが、音としてはむしろ雑音に近いものです。

ゲーテの色彩論のように円環状にならべると、

  紫 青

赤     緑

  橙 黄

というようになりますが、これによって色と色彩の関係が意識されます。ウとオは青の側にあります。アにいたり、そこから明るい赤と黄に入っていきます。

個々の音に付随する色があります。青から進むと、私たちは色の要素から出ていき、後ろをまわって、色の要素に触れます。そこでは、音と色とまったく明らかに重なる領域におけるのと同様の方法では、もはや対応していません。色環の青と紫の側では、私たちは色とともに、私たちから出ていくのです。感受とともに外界に現れるのです。しかし、そこでは色の攻撃を体験します。赤と黄が私たちに押し寄せてきます。私たちは色彩の中に行きます。そうして、本来の私たちは、音の本質から現れ出るのです。

母音の音を身体に感じることができます。イは頭の中、エは喉の中、アは胸の中、オは腹の中、ウはもっと下です。

古代には、歌すなわち音楽と、吟詠あるいは朗唱と、律動的な動きである舞踏は、たがいにひとつに結ばれていました。それらはひとつのものとして共鳴していたのです。

舞踏芸術はオイリュトミーんぽ古い形態です。オイリュトミーが、ギリシアにおけるように、歌と朗唱芸術に結びついていることが、精神科学の探求から明らかになります。オイリュトミーは、古代の音楽体験を示すものです。オイリュトミーにとって、芸術の古い形に戻ることが問題なのです。もちろん、今日の非常に前進した芸術の色合いを考慮しなければなりません。

中国の音階について。

中国人においては、物質体とエーテル体」、エーテル体と感受魂、感受魂と悟性魂が結合しているのです。今日のヨーロッパ人には、そのような結びつきはまったく消滅しています。このような中国人の構成が、中国の音階に相応しているのです。音楽の歴史を研究し、音階システムの発展に理性的に取り組み、人間の組織と外的な音楽との関連を理解すると、音階やその他の音楽的要素から、人間集団、人種の構成を知ることができます。

ひとつの音の中に入り込むことについて。

人類進化に関連して、いままで多くの人がひとつの音として体験してきたものが分節しはじめているのです。音の中に深く入っていき、音の下に下り、音を越えて、別の音に移っていくのです。そのようにして変化した音は両隣の音とともに、つまりその3つの音によって、変化した主音(根音)を表現することができます。その主音は、いくらか異なった音です。このようにして新たに発生した音は小さなメロディーを与え、それらの音のひとつを下方に、もうひとつを上方に押しやらねばならないのに気づきます。その音を押しやると、慣用の音ではなく、今日の楽音体系の中に存在しない音に出会います。このような方法で、楽音体系の拡張がおこなわれるにちがいない、と私は思っています。

●音を通しての霊界体験

音の世界を通して、人間の魂の営みは深化し、活気づけられます。人間は音そのものを体験し、その音と別の音との関係を体験するのです。将来、人間は音の背後を体験できるようになるでしょう。人間は音を霊的世界へ入っていく窓のように考察するようになるでしょう。音を通して、個々の音の背後に、魂は道徳的−霊的な体験をするのです。個々の音の秘密が、音の背後の個々の音の 体験の中で明らかにされるのです。

1度を通して、感覚界から霊的世界に、危険に満ちた方法で上昇していくのを感じるようになります。1度は恐ろしい吸引力をもって、私たちを音の窓を通して霊的席に取り込み、霊的世界の中に消滅させようとします。

2度という窓を通して物質界から霊的世界に上昇すると、彼方の精神的−霊的世界に、私たちの弱さを哀れむ力があるのを感じます。そのとき特徴的なのは、あたかも多数の音の総体が私たちに向かって響いてきて、その音が人間を受け入れることです。

3度を通して霊的世界に入ると、もっと大きな弱さの感情を持ちます。物質的−感覚的世界において、霊的なことがらに関して虚弱であったことが感じられます。今や自分が音になり、自分が3度になります。彼方では、3度ではない友人がこちらにやってくるのを感じます。3度を通して霊的世界に入っていくと、親しい音がやってきます。作曲家になろうとする人は、特に3度を通して入っていく霊的世界で、芸術的創造を刺激する旋律が生じるからです。

4度を通して霊的世界に参入すると、どこからも音は現れず、3度を通して経験したものがかすかな思い出のように心の中に生きているという体験をするのです。音の思い出とともに生きることによって、その音の思い出がいつも異なった色合いを帯び、明るく快活なものなったかと思うと深い悲しみになったり、太陽のように朗らかになったかと思うと墓場のような陰欝さになります。声の加減、音の上昇と下降、つまりある音楽作品の気分の経過が音の思い出を通して生きるのです。

5度はむしろ主観的な体験として生じ、魂的体験を刺激し、拡張します。5度ま魔法の杖のような作用をし、計り知れない深みからの音の秘密を呼び出します。

 

シュタイナーの音楽論ノート●5


(93/05/31 00:04)

シュタイナーの「音楽の本質と人間の音体験」のレジュメ・ノートの最後として、西川隆範さんの「訳者あとがき」から、いくつか、興味深いところなどを。

アポロンは立琴を奏で、ディオニュソスは笛を吹く。オルフェウスが奏でる立琴は獣たちを魅了し、波浪を鎮めた。ダヴィデは竪琴で悪霊に憑かれたサウルを癒し、エリコの城壁は、祭司が吹く角笛と民の声によって崩れ落ちた。雲中供養菩薩は歌舞奏楽し、阿弥陀如来の来迎も音楽を伴っている。ナーガルジュナは四智讃を歌詠することによって、南インドの鉄塔の扉を開いた。

インドの音階は、魂・頭・腕・胸・喉・腰・足の意味を持ち、音は神とされた。わが国の「歌」も呪力を秘めたものであった。声明の五音音階は宮・商・角・微・羽からなり、宮は中央−大日如来、商は西−阿弥陀如来、角は東ー阿しゅく如来、羽は北−釈迦如来に結び付けられている。この五音が三重(十一位)に用いられ、呂と律の旋法が用いられた。中国では黄鐘(壱越)から応鐘(上無)にいたる一二律が用いられてきた。

東洋音楽には五音音階が多いのに対して、西洋音楽は7音音階を基本にしている。

ピュタゴラスが割り出した音階に比べると、バッハ以降決定的になった平均律では転調に問題はなくなったが、響きにやや濁りを生じている。階名は、バッハに700年ほどさかのぼるグィ−ド・ダレッツォの「聖ヨハネ賛歌」によるものであり、ギリシア音階の原理を基にしたグレゴリオ旋法を経て、16世紀にイオニア旋法とエオリア旋法から長音階と短音階が成立した。近代になると、ドビュッシーが半音程を排除した全音音階を創始し、シェーンベルクが12音音階を唱えることになる。

シュタイナーの音楽論は、このような楽典に新しい観点を提示しようとするものである。

シュタイナーは、「音体験そのものを拡大すること、つまり音体験に際して、深みに入っていくこと、あるいは、音から何かを取り出すこと、音そのものの中に何かを体験すること」「一つの音から、メロディーとして現れる体験、音が鳴るときに、その音からメロディーが流れてくる」というユニゾン体験を重 視していた。

武満徹は中村雄二郎との対談で、「日本人ほど一つの音を大事にしているとこ ろはないんです。東洋でも、ほかの国の音楽の場合は、音と音をつなげていくということのほうに独特なおもしろみがあるんだけれども、日本の場合は一つ一つの音というのを非常に大事にする」「一つの音の内側を触るということが音楽を聴くときにいちばん解放された聴き方であるというところがあるわけです」(「イズ」9号、ポーラ文化研究所)と語っている。

 

●母音と子音が天体に対して有する関係。

太陽−AU

金星−E

水星−A

火星−I

木星−O

土星−U

月 −EI

 

牡羊座−W

牡牛座−R

双子座−H

蟹 座−F

獅子座−T

乙女座−B

天秤座−C

蠍 座−Z

射手座−G

山羊座−L

水瓶座−M

魚 座−N

 

●音と惑星の関係。

ド−火星

レ−水星

ミ−木星

ファ−金星

ソ−土星

ラ−太陽

シ−月

風遊戯13●わたしを奏でる


(93/08/12作成)

 

わたしは音楽

からだは楽器

そして宇宙がわたしを奏でる

 

わたしはからっぽにならなければならない

からっぽがいちばんの充実になるから

からっぽに宇宙が流れ込んでくるから

 

みみをひらいてごらん

目も鼻も口もそんなみんな

どこまでもひらいてゆくんだ

 

すべてをひらいてゆくんだ

ひらくだけでいい

それ以外はなにもいらない

 

すべてひらいたときに

わたしは楽器そのものになり

宇宙がわたしを奏ではじめる

 


 ■風の音楽室メニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る