音楽談義

倍音歌法と言霊

天体の音楽

響きあいの宇宙

エンバー・グランス〜永遠なる記憶〜

宇宙を踊る

古代中国の音楽世界

耳をすます

時空での音の秩序

佐野清彦「音の文化誌」など

音の中心

現在の音楽観

ひとそれぞれがもっている音など

声の来る場所と空としての中心など

有田正広さんの演奏に感動!

離見の見・対数螺旋など

リトミックなど

視覚と聴覚について

ゴルノスターエヴァ

ハイドシェック

ゴルノスターエヴァ「コンサートのあとの二時間」

 

倍音唱法と言霊


(93/05/11作成)

 先日来、「声」というテーマをめぐって、声楽家のOさんなどと、シュタイナー関連の声楽家によるテキストを使って読書会をしているのですが、それに関連したとっても刺激的な本がでました。とっても面白くて、これまで整理されないままにバクゼンと思ってきていたことが、まとめて書いてありましたので、一気に読んでしまいました。ということで、その中からいくつかを、ご紹介してみたいと思います。

●中野純「日本人の鳴き声」(NTT出版)

 というのがその本なのですが、その主な内容は次のようになるでしょうか。

 「声」というものは、わりとなおざりにされがちだが、それは「最強の肉管楽器」でもあり、しかも肉体的条件を越えて、その高さや質は、時代やその文化などと非常に密接にかかわり合っている。シュタイナーが発声器官は未来の生殖器官になるといっているように、「声帯は第二の性器」でもあるのだ(^^;)。

 著者にこうした声に関する著作を書かせるきっかけになったのは、西モンゴルに伝わる「ホーミー」との出会いなのだが、その「ホーミー」というのは、ひとりの人間が同時にふたつの声で歌う、いわば「ひとりコーラス」とでも言える唱法である。(これについては、2年ほど前、デヴィッド・ハイクスなどで話題になりましたよね。僕も早速聴いてみたものです(^^))

人の声に含まれている倍音を、口腔などで共鳴させ、強調する。そうすると、喉の奥から絞り出すような、地を這うような持続的な低い声(基音)と、硬い笛のような高い声(倍音)の両方が一緒に出る。高い方の声は人間の声とは思えないくらい高い。さらに舌などを使って、口腔の形を変えると、倍音にメロディがつく。

 で、これがすごく特別な唱法かというとさにあらずで、日本人の「喉声」といわれる歌声は、基本的にこのホーミーと同じ唱法である。この喉声による唱法は、チベット密教の聲明(しょうみょう)などもそうであり、大勢の僧侶が一斉に倍音で歌い、倍音どうしが共鳴しあう。

 日本の伝統声楽は、すべてホーミー式発声で歌われる「喉声」で、それは「喉自慢」という表現にも如実に現れているようである。で、その「喉声」がどこからやってきたかということなのだが、基本的には仏教伝来とともに伝えられた「聲明」がそうであるらしい。この「聲明」というのが、すべての古来の日本音楽のベースになっていて、たとえば民謡や演歌であなじみにコブシなんていうのも、その技法のひとつだった。

 しかし、そのルーツにはまだルーツがあるようで、「神道」の祝詞は必ず、鼻と喉から出す「鼻音」で奏上されるように、基本的にホーミー的な唱法をとっているという。神道には「警蹕(けいひつ)」という奇妙な声にならない声があり、神道の儀式を始める際には、神殿の扉を開けながら、それで天から神様を呼ぶという。

 で、この「聲明」や「祝詞」などのような唱法の伝統には、なぜ西洋的な斉唱や合唱ではなく、基本的に独唱なのかというと、それは「ひとりの声の中に合唱がある」という考えだからだという。「音のスペクトル自体がハーモニー」であるというように、とっても「倍音」を大切にしてきたのである。

日本の伝統音楽にとって、声の倍音は命なのだ。

日本人は、倍音の美しさを求めて声を出し続けてきた。倍音こそが、日本の声の文化の真髄だったし、これからもそうあり続けるだろう。

で、ここからさらに刺激的に「言葉は倍音から生まれた」ということが述べられる。

こうして、母音も子音も、基本の整数倍、あるいは非整数倍の倍音によってつくられる。その音のスペクトルを瞬時に聞き分けて、人間は言葉を聞き取る。つまり言葉はすべて広い意味での倍音から生まれてきたものなのだ。

だから、言語が誕生したのは、人間が倍音を自由に操れるようになったためだとも言える。

ただし、子音を発声する場合は、母音のように特定倍音を強調することはできない。なぜなら子音は瞬間的な音で、長く引っ張ることがないのと、特に無声音と呼ばれるp、t、k、f、sなどは、声帯を使った発声じゃないから、倍音唱法になりえないのだ。

だからその意味でも、母音が多い言語ほど、倍音唱法に向いている。

・・・

そういうわけで、日本語自体が、特定倍音が強調されやすい言語なのだ。だ から、日本語の倍音の不思議な響きを耳にして、言霊信仰が誕生したんだろうし、密教の真言や聲明の倍音唱法も、すんなり受け入れることができたのだ。

 だいたい以上が、この「日本の鳴き声」の内容なのですが、もちろんいろんなエピソードや文化論的考察(?)もさまざまに織り込まれていて、僕にとってはほんとうに刺激的な本でした。

 もちろん、あくまでもこれらの内容は、神秘学的に考察されたものではありませんので、これらのネタをいかに神秘学と結びつけて考えていくかということが課題になります。

 

 

 天体の音楽


(92/05/12)

 「宇宙に響きわたる魂の歌」でどうしても思い浮かべるのはピュタゴラスやケプラーが語った「天体の音楽」でしょうか。

 J.E.ベーレントの「宇宙電波音楽論」というのがあるそうですが、その著書「世界は音」(1983)の中で、以下のようなゲーテの「ファウスト」のプロローグが引用されています。

 太陽は昔ながらに鳴り響いて

 兄弟の天体たちと歌を競いつつ、

 その定められた旅を

 雷の歩みをもって完遂する。

 その姿を目のあたりにして、理由は

 極めずとも、天使たちは力を与えられる。

 理解を絶する崇高な営みは

 宇宙の開闢と同じに壮麗だ。

 この「世界は音」を含め、「かたち」や「リズム」や「色彩」といったテーマが乱舞しながら繰り広げる世界についての論考を加えているのが、中村雄二郎さんの「ゲーテ自然学の豊かさ/『かたちのオデッセイ』を書き終えて」という論文で、これを収録しているのが、「モルフォロギア/ゲーテと自然科学」という「ゲーテ自然科学の集い」の編集発行している雑誌です。この雑誌、は、ゲーテの自然科学について考察しようというものです。

 ちなみに、ゲーテの自然科学論文の校訂をまかされていたのがシュタイナーで、それが、シュタイナーの神秘学の基礎にもなっているのは興味深いことです。中村雄二郎さんがゲーテやシュタイナーに注目しているのも「かたちのオデッセイ」をふくめた一連の論考をみれば、納得がいきます。

 さて、話を天体の音楽に戻しますが、中村雄二郎さんが上記のベーレントが出している惑星の奏でる音楽を聞いた後で、室岡一(日本医大教授、故人)氏が録音された胎児の聞く母親の胎内音を聞き、その両者がよく似ていたそうで、宇宙に響きわたる音楽というのは、ひょっとしたら私たちが母の胎内に宿る前にも聞いていた音楽なのかもしれないと思わせるものがあります。占星術というのもはるかなる惑星の音楽を理解しようとする試みでもあるのかもしれません。

 

 

響きあいの宇宙


(92/05/21)

 先日、「天体の音楽」というお話をしましたが、この音楽というのは全宇宙に響きわたる大きな調べのようなものであり、その調べが、「大宇宙のひな型」、つまりミクロコスモスとしての人間の中にも響きわたっているということこそ、ヘルメス・トリスメギストスが「上なる如く下にも」と表現しているようなミクロコスモスとマクロコスモスの照応関係に他なりません。

 先日も簡単にふれたJ.E.ベーレントの「宇宙電波音楽論」を展開している「世界は音ーーーーナーダ・ブラフマー」(大島かおり訳、人文書院、1983年)のカセット版には、「カシオペアからのパルス音」(5億光年の彼方からのもの。マックス・プランク研究所の録音)、「水星、金星、地球、火星、木星、土星の音」「冥王星、海王星、天王星などの音」などが収録されているそうですが、それらの音について、中村雄二郎さんは次のような印象を述べています。(中村雄二郎「かたちのオデッセイ」(岩波書店)より)

 まずカシオペアの音を聴いてみる。その音は、機関銃のように間断なく速射される規則正しいパルス音がいくつも重なりあうなかにゆっくり唸る低い音、太鼓のような連打音などが加わって、なかなかににぎやかであり、聴いていて愉しい。ケプラーの時代までに発見されていたいわゆる古典的な惑星群(水星から土星まで)では、水星はひゅうひゅうと循環的な唸り声を挙げ、金星は甲高いサイレンの音を鳴り響かせる。地球はモワーッとした穏やかな音を聞かせ、火星は遠くをとぶ飛行機のエンジン音を思わせる。木星は低いオルガン風の音を出せば、土星は不気味な響きを立てる。そして全体がまざり合って、ミュージック・コンクレートのような効果を挙げている。新しい三つの惑星の方は(古典的諸惑星の前述の順序とは反対方向に、外側から)ゆっくりした心臓の鼓動のような冥王星、ポンポン蒸気のような音を立てる海王星、そしてカタカタとせわしない音を刻む天王星というふうに、三つの比較的似た音から成っている。

 内側から外側へ水星・金星・地球・火星・木星・土星という太陽の六つの惑星はーーケプラーによれば--それぞれ楕円軌道をめぐりながら、<六声のモテット曲>(聖書、詩編などを歌詞にした声楽曲)を奏でている。それに対し、その外側の三つの惑星は(中略)<リズム・セクション>をなし、いちばん外側の冥王星が<バス・ドラム>を打ち鳴らしている、ともベーレントは言っている。」

 なんだか、宮沢賢治に聞かせたいような気もしますが、この「天球の音楽」と実によく似ているというのが、胎児聞く母親の胎内音で、

 それは、絶え間なく響く母親の血潮のさわめき、潮騒である。子宮の壁をザーザーと打つ大動脈の搏動音、小川のせせらぎのような大動脈の摩擦音、そしてそれらのかなたに高らかに鳴り響く心臓の鼓動。それは何か宇宙空間の遠い彼方に消えていくような深い響きだ。

(三木成夫「胎児の世界/人類の生命記憶」(中公新書、1983年)

 この宇宙レベルの響きと胎内での響きの類似性というのは、なかなかに魅力的なイマジネーションを提示してくれるように思えます。

 この響きについて、空海は、「五大(地・水・火・風・空)にみな響きあり。十界に言語を具す。六塵ことごとく文字なり。法身は実相なり。」といい、「声字実相義」で説いたこの五大説を発展させて、「即身成仏義」では、この「五大」に「識」を加えた「六大説」としています。「識」とは、唯識でいう「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」の六識、およびそれに「末那識」「阿頼耶識」を加えた八識のことですが、これらの「六大」が宇宙に響いているというわけです。

 このように、私たちの意識までふくみこんだ「響き」という発想というのはとっても大切なことであると思われます。

 マクロコスモスとミクロコスモスが響きあうということ。また、ミクロコスモスとミクロコスモスが、響きあうということ。この響きあうということに鈍感になりすぎているのが、現代に生きている私たちであって、この世紀末にさしかかっている今こそ、この響きわたっている調べに気づかなければならない時期なのではないでしょうか。

 今、この世紀末に訪れようとしている変化というのは、この響きあいのオクターブを一気に上げるということでもあり、そのオクターブ上昇の仕掛というのが「カミシクミ」でもあるのでしょうか。私たちは宇宙進化の音楽のひな型として、それぞれが深く深く響きあっているはずですが、その響きあいをさらに大きな響きあいにするための仕掛ともいえるでしょう。

 カルマの法則というのも、この響きあいを調和あふれる仕方でしかも、発展的なものとして実現しようとする大きな「愛」であると思うのです。

 

 

エンバー・グランス〜永遠なる記憶〜


(92/05/22)

 今月でている「へるめす」(第37号/岩波書店)には、このデヴィッド・シルヴィアンと武満徹の「音楽のカテゴライズに逆らって」という対談が掲載されています。

 その主な内容は、

●音楽と視覚のコラボレーション

●タルコフスキーをめぐって

●作品タイトルの意味

●美と現実について

●鏡としてのインスピレーション

●日本は不思議か

●一緒に仕事がしたい

 という内容ですが、この中からいくつか興味深いところをピックアップしてみることにします。

 シルヴィアン/ぼく自身も子供時代はとても不幸で、ぼくは自分の頭のなかで自分の世界をつくってしまいました。存在はしないけれども、自分の世界ではこうあるべきだという世界をつくってしまったんです。現実のなかにあるほんとうの美の源を見つけるのにかなり時間がかかってしまいました。それまでは現実に自分が落胆すると、頭の中にある美を追求して逃避をしていたのです。僕の作品を聴いた人からよく手紙がくるのですが、彼らはどちらかというと、ぼくの作品を現実逃避として見ているんです。ぼくがつくった世界を自分たちの逃避のために利用し、その作品も現実逃避であると解釈するのですが、ぼくはこのように誤解されるのは大変不満です。ぼくは決して現実から逃避しようというのではなくて、現実のなかに存在する美をあらわそうとしているにすぎないんです。

 シルヴィアン/人生というのは若いときにいろいろなことを学んで、どんどん外的世界からいろいろ学んでいくのですけど、ある時期から外的世界から離れたところに自分の感情とか夢を投影させて、そして幻想的な世界の中に入っていくことがあると思います。そして、小さな事件とか出来事とか体験によって、人生がまったく変わってしまうとか、自分のものの見方がまったく変わってしまうことがあります。いつも現実、自分の実際に住んでいる世界、あるいは自分の外にある外的世界と自分の内面世界との間を自問自答して、意識して、その自問自答をを繰り返すことによって、自己意識というものに到達すると思うのですが、芸術が社会に何らかの役割をもつとすれば、人々に自分の内面的な自己の存在を意識させ、自分の内面的なものを変えることを示唆できるのではないかと思います。もし個々の人間が社会の小宇宙だとすれば、個々の人間が変わらなければ社会も変わらない。個人が変わることから社会も変わると思います。もっと簡単な言い方をすれば、現実というのは自分が何物であり、自分が誰であるかということを完全に受け入れることだと思います。ほとんどの人間はそれを認めることができず、拒絶し、そして恐怖する生活を繰り返していると思います。

 シルヴィアン/日本の文化というと、外国にはない日本の文化の起源ではなくて、外来の文化が日本に来てからなぜ様式化して、日本人のひとつの審美的な価値観で決まっていったのかということには興味があります。非常に審美的な要素が強いし、はっきりしていますね。それが何世紀も維持されている。それが仏教の影響なのか神道の影響なのか、神話的なものなのか、私も昔から興味をもっていました。なにか日本人が理想主義というか、審美的な基準をもっていて、入ってきたものにそれを適用しているのでないかという気がするのですが。

 

 たしかに水とか火とか、そういった元素は、どの文化にとっても、とくに原始文化にとっては大切なもので、火とか水とかはそれぞれの民族にとって同じ意味をもってもしようがないし、民族特有の意味をもつということもありますね。私はもっと日本にこだわりたいのですが、ほかの文化に見られないような、まさにこだわりですね。そういうものを日本に見るんです。それも日本にしか見られない変なこだわりがあるんです。

 そのこだわりが武士道の文化であったり、男性的な文化であるというのはわかりますけど、女性的な要素も強いと想うんですけども・・・。

 なかなか興味深いテーマが語られていると思います。まず、「美」と「現実」の問題、そしてそれに絡めた「自己認識」について。つまり、自己認識と世界認識というテーマにつながること。それから、日本精神というテーマ。

 JAPANを解散してからのデヴィッド・シルヴィアンの作品群というのは、このように、「美」を発見することによって、それを自己認識と世界認識をつないでいこうとする姿勢が感じられます。そして、日本精神の核にあるものとの神秘的で、また激しく現実的な出会い。

 今回の対談で、武満徹さんが、「つい最近、デヴィッドと、ラッセル・ミルズのコラボレーションで完成した新しいアルバムが出ましたね。ヴァージンレコードから出た『エンバー・グランス』はすばらしい出来で、大変感動しました。」と語ってもいるこのアルバムを、かなり遅くなったけどやっと僕も手にいれたとこなのですが、なかなかです。

 このアルバムについて、デヴィッド・シルヴィアン、ラッセル・ミルズのコメントをご紹介しておきましょう。

デヴィッド・シルヴィアン

 自分自身への問いかけの行為を経て、より高レベルの意識の開発に続く道へと、少なくともある部分に於いて、到達することができた。自己への問いかけは、時として答えよりも重要な意味を持つ。社会における芸術の主だった機能のひとつは、我々の発する問いかけの中身をも左右しかねない知覚に、微妙な変化をもたらすものであると私は考えている。あらゆる出来事が自分と無関係と受け取る、無自覚な外部客観視状態から、それらを自分ごとと受けとめ、より深く関わっていく意識的状態へと移行することは、きわめて重要である。それは価値の大転換を経て実現されるため、個人の中に、ひいては社会全体に、真に本質的な変化をもたらす可能性を秘めている。

 こうした考えは、長年にわたる私の音楽活動にも込められている。今回のプロジェクトに於けるそもそもの魅力は、雄弁で力強い作品を三次元空間の中に創り上げ、それ実際に体験しようという試みだったところにある。

ラッセル・ミルズ

 Ember Glance:The Permanence of Memoryでは、空間、時間、そして記憶とは何か、ということが検討されている。正常な状況から切り離され、連想されるものも何もない劇場のようなスペースにセットされた音と光と物体(発見され、創造され、変形されている)を使って、我々は記憶というものはその最も貴重な意味において、我々の日常生活の中心であるべきなのだと提案したかった。

 記憶というものは小さな出来事によって誘発される。例えば全体的なものよりもむしろ細かいものによって、もしくは、勇壮なものによりむしろ平凡さへの驚きのようなものによって、色、音、匂い、感触、雰囲気、会話の断片、そのような刺激の小片が無意識のうちに統合し、創造力をかきたてる。

 音楽、詩、映画と同じく記憶においても確固たるものは一つとしてない。時間はどこへでも流れていく。空間的な時と思考的な時は解け合って一体となる。過去は現在と共存し、瞬間は永遠と共存し、空想はは現実と共存する。記憶は物理的であれ時間的であれ限界を知らない。既知のものには形を与え、未知のものには本質を与えながら記憶は継続していく。それは我々と個々の根源とを結ぶエネルギーのためのフィルターである。

 

 このアルバムを聴きながら、こんな昔の記憶が滲み出してきました・・・。

 幼いころ、熱を出し、うなされたときなどには必ずといっていいほどあらわれてきた夢のシーンがありました。それは、ひどく暗い、形而上的な灰色の湿った世界で、灰色の空のヴェールがかぶさるように滴り落ちてくるようなシーンでした。そして、その灰色の荒野には、一本の道が地平線の彼方に続いていました。

 こんな夢も、12〜13際の頃までには、すっかり見なくなってしまいました。そういえば、この夢が現れてきていたころには、熱を出すと、この確固としてみえていた現実世界が、奇妙な歪んだものに見えていました。遠いものが近くみえ、近いものが恐ろしく遠くみえ、この3次元の現実がいろんなところでねじ曲がったり、変なところでつながったり、という感じでした。

 僕という存在が抱えている記憶があるときふっと別の世界の記憶とつながってしまうようなそんなイマジネーションに襲われるときがあります。

 ときには、そんな不思議な記憶の中に迷い込んでみることで自己認識から世界認識への通路を見つけることもあるのでは・・・

 新しい変化への予兆、そして永遠を妙に懐かしい記憶からも拾いだしたような・・・そんな気がしています。

 

 

宇宙を踊る


(93/03/17) 

 「声」というのは、「振動」であり、それが形成する「かたち」だと思います。言語形成やオイリュトミーというのも、つまるところ、宇宙の根源的なあり方でもあるそうした「声」を「かたち」そのものとしてダイナミックに表現することを通じて、宇宙の秘密を体験することではないかという気がしています。

 ここらへんのことに関連しそうな宇宙のシンフォニーなどについて、ゲーテの形態学やL.クラーゲスのリズム論などの関係で、三木成夫さんは「生命形態学序説」(うぶすな書院)の中でこのように述べています。

・・・無数の天体からなるこのかたまりは、悠久の時をかけて渦を巻きながら自らはさらに大きな渦巻きの一員となり、そしてこの渦がもうひとつ上の渦に入り、やがてこうした渦巻きのまた渦巻きのひとつの極限にかの「宇宙 球が成立しているという。われわれの視界からしだいに遠ざかりついに類推されるよりなくなったこの大宇宙の成り立ちも、しかし自転しながら太陽の周りを公転する、この地球の軌跡----ラセンの形そのもの----をひとつの「原形」として考察することが可能であろう。一方また、この極大の世界の“ 相似象”として極微の世界が開かれてゆく。そこでは電子がふたたび自転しながら原始核のいわば微星雲の周囲を無限の速度で周行するものと思われ、これらの実証は今後の課題として残されるとしても、しかし、この宇宙の根源現象としての「渦巻」は、ますますその姿を明らかにしてくることであろう。

・・・

ゲーテの“蔓”からクラーゲスの“波”へ、われわれは宇宙の原形を求めて視線を移してきた。前者が、より空間的な“ラセン”の渦であるとすれば、後者はより時間的な“リズム”の流れということになる。そこでいま、この後者を見る眼で、あらためてこの宇宙の森羅万象を眺めると、ここでもまたわれわれは百花繚乱のリズムのシンフォニーに接することになるであろう。しかもそこには大きな“二つの流れ”の交錯が見られる。そのひとつは四大すなわち地・水・火・風の奏でる壮大な自然リズムのハーモニーである。すでに述べたように、それは宇宙の無数の天体が描き出すラセンの渦巻模様からなる。・・・

さて宇宙リズムのひとつが、このような四大のリズムであるとすれば、他のひとつは、いうまでもなく植物・動物・人間の奏でる生物のリズムでなければならない。われわれはそこでもまた、これらの膨大なハーモニーに接することになろう。・・・

 「声の秘密」を明らかにするには、こうしたマクロコスモスからミクロコスモスまでを貫いて見られる宇宙リズムとしての「かたち」を明らかにしなければならないのではないでしょうか。そこには、「言霊とは何か」という興味深いテーマも当然絡んできます。ですから、声を「かたち」として表現することは、まさにみずからが宇宙のひながたとなってそのリズムを踊ることであるともいえるような気がします。

 

 

古代中国の音楽世界


(93/04/27)

 古代中国の音楽について手ごろな資料を探してましたら、ちょうど、

●孫玄齢:中国の音楽世界(岩波新書)

 というのが見つかりました。

 中国は古代から「礼・楽の邦」と称されていて、「弦楽地にあまねく、楽の音天に響く国」であったといい、豊かな音楽と音楽理論が生み出されていたようですね。

 孔子が「礼」としての「楽」を重視していたことや、大の音楽ファンだった話は有名ですが、上記の本には、音楽上の制度としての「礼楽制度」が厳しく定められていたようです。

礼楽制度の核心は、君臣、父子、上下、親疎、尊卑の規範を守ること。「礼」は礼儀、「楽」は音楽で、つまり礼儀と音楽の実践において上述の原則を表現せねばならず、いささかも違反を許さぬということだ。その意味で、礼とは実際は宗法制度にほかならず、この宗法制度は天子を頂点とし、諸候、志大夫に到るピラミッドをなしていた。また、ピラミッドをなす階層はすべて世襲で、天子、諸候、志大夫それぞれが代々その地位をうけついだ。上下のヒエラルキーは、日常生活のあらゆる活動に及んだ。音楽のなかに貫徹された「礼」が、礼楽制度である。

 おそらくこうした儒者の音楽観というのは、音楽の持つ大きな力をできるだけその危険な部分を排除した上でコントロールしようというものではないかと思われます。

 当初はその意味が理解されてたものの、よくあるように、その真の意味が見失われ、やがて形骸化していくことになったのでしょう。孔子はおそらく、そうした音楽の力についてよく知っていたのでしょうね。

 こうした儒者による「礼楽」としての音楽という考え方に対して、「兼愛」というキリスト教のような教義をもった墨子は、「非楽」というように、音楽に対しては否定的だったようですが、その背景には、一般庶民の負担を増す「礼楽」への批判というのがあったようです。

 では「道家」はどうだったかというと、彼らは人為的な音楽に反対し、純主観的な音楽芸術を提唱していたようです。

道家の代表的人物の老子は、こんなふうに語っている。「大方に隅無し、大器は晩成す、大音に音稀なり、大象に形なし」この意味は、本当の四角とは、頭の中にあるだけだ、それは大きくて、角などは見えない。大きな仕事をやるものは、そんなに早くはできぬものだ。本当の音楽は神韻のうちにあり、自然に発する「天籟(てんらい)」の音そのもので、耳で聞くのではなく、微妙な精神の共鳴によって一体感を得るものだ。そして真の形とは。外形上似た形に描かれた図形ではなく、精神の姿、描き手のうち なる心をあらわしたものだ。

 老子や荘子の音楽観は、すごく宇宙論的で、魅力的ですよね。宇宙の音楽を想像させるものがあります。

 

 

耳をすます


(93/04/27)

 そのテーマは考え始めたばかりでもあって、まだうまくイメージできてないのですが、要するに自分が楽器のような状態になって、神の演奏できるような状態になるということが、「私」に閉じ込められた「声」を解放することになるのだと思います。つまり、「声」というのは、単に声帯を使って「私」が出すのが本来的なのではなくてもっと自らが「虚」となっておのずから放たれるものだということです。「私が声を出す」というのは、声を閉じ込めることになって、結局、自縄自縛の状態に他ならないと思うのです。

 こうしたことについては、いまひとつまだ説明しきれないのですが、参考になりそうなのが、中村雄二郎さんが「かたちのオデッセイ」の第VIII章「場所とリズム振動」で、空海の「声字実相義」に関連して、声明マンダラについて述べられている次のようなところです。

国立劇場の第一八回<声明>公演(1983年11月)は、新作の「虚階理 趣三昧」を上演した。そのとき、公演パンフレットのなかで、荒井弘順師は、空海の「声字実相義」を援用しつつ、虚階について次のように述べている。『声字実相義』には、<五大にみな響きあり。十界に言語を具す。六塵ことごとく文字なり。法身はこれ実相なり>という偈がある。その最初の句を空海はみずから注釈されて、<一切の音響は五大(地・水・火・風・空)を離れず、五大はこれ声の本体、音響はすなわち用なり>と言われた。そして、五大のうち空大は虚空であり、そこには大日如来が当てられている。あたかも沈黙から 一切の音が生まれてくるように、虚空こそ一切の音の根源である、と。

このように、同じく形象マンダラのうち、図像マンダラよりも、声明マンダラの方に、空白と充満のダイナミズムがいっそうよくあらわれている。その上、先に私が仏教のマンダラの祖型たるヒンドゥのヤントラのうちに見た宇宙リズムの遍在性も、声明のうちに具体化されている生命的なリズム振動と共振によ って、裏付けられることになったのである。

 本来宇宙に遍在している言霊を「空白と充満のダイナミズム」によって、自らが宇宙の「楽器」となって、解き放つというのが、「声のしばりを解放」することなのだという気がします。そのためには、自らが「虚」になることが必要であり、限りなく「耳をすます」ということが必要になります。「耳をすます」ことで、自らを「空白(虚)」即「充満」の状態にするのです。

 上記の「耳をすます」ということに関連して、自分の音楽観をいうとすれば、そうした「フラストレーション」というのは、自らをどこまでも「充満」させるような、「我」を高める行為で、それがある極点にまで達したときに、その中心に「虚」が生まれたとき、はじめてクリエイティブな音楽が生まれるのだという気がします。最近の音楽というのは、そこまでボルテージが高まらないままに、コピー&編集音楽のようなものをめざしているようで、だからこそ、うるさく「我」がつきまとう感じがして聞くに耐えないのではないでしょうか。いい音楽は、どこか「抜けた」ところが欲しいのはそういうところかも。

 

 

時空での音の秩序


(93/06/26)

 先日放送されたNHKのナイトジャーナルで、「再現・平安京の音世界/鐘の音に隠された宇宙観は?」という特集がありましたが、これがなかなか興味深いものでした。

 平安の都にある鐘の音が、中国の陰陽五行説に関係した時空の秩序に則っているというのです。雅楽では音の高さを、「双調(そうじょう)」「黄鐘(おうしき)調」「平調」「盤渉(ばんしき)調」などで表すのだそうですが、それが方角や季節、色などとともに厳しく定められていたそうなのです。参考までに、それをまとめておくことにしたいと思います。おそらくこれは、シュタイナーの音楽論などとも、密接に関ってくるように思われますし、おそらくは孔子が厳しく定めていた「礼楽」というのは、こうした時空の秩序をきちんと守ろうとするものでなかったのか、と推測されます。

「双調」   東 春 木 青

「黄鐘調」  南 夏 火 赤

「平調」 西 秋 金 白

「盤渉調」 北 冬 水 黒

 こうした音楽を軸とした宇宙論は、今後も考察を加えていきたいテーマです。

 

 

佐野清彦「音の文化誌」など


(93/11/25)

●佐野清彦「音の文化誌/東西比較文化考」(雄山閣)

 この本は、「文化誌」というように神秘学的な音楽考察ではないのですが、なかに二度ほどシュタイナーがでてくるように、内容的には、僕がずっと音楽に対して考えてきたことを代弁していただいた(^^)という感じの内容になっています。

 ちなみに、帯にはこうありました。

ゆららに鳴り響く鈴の音に魂の波動を感じとった古代の人々。地球的規模で広がる音の洪水の中で磨滅しかかっている現代人の音感覚に生命の躍動を見、現代の音をめぐる状況を検証する。

 

 

音の中心


(93/12/08)

 音楽はいわゆる音楽だけで音楽なのではないという当然のことです。そこには時間と空間の問題や、「音」っていったい何だろうなどという当然の疑問が起こってきてしかるべきなのですが、多くが単なる音楽「マニア」になってしまうんです。

 音楽をちゃんとやろうとすると、唯物論的な前提というのは崩れざるを得ないということなのですが、それがまかり通っているのは、みんな自分で感じ・考えようとしないという一番情けない状態が正当化されてしまっているということでしょう。「みんな、ドグマが好き!」ということでしょうか。

 結局、音楽も「生」と切り放して考えることができないということで、どれだけ「生」を理解できるかが音楽の営為でもあるということです。つまり、音楽という入口を通して、「生」を「宇宙」を理解するということです。ですから、早い話「人生から逃げちゃだめ!」という単純なことです。

 シュタイナーの音楽論ですが、結局これも宇宙論のひとつの切り口なんだと思います。シュタイナーの膨大な思想の中では、音楽というのはごくごく小さな部分で、そんなに資料が残っているわけではありませんが、神秘学の根本的な考え方からすれば、それを自分なりに応用拡大させていくことは十二分に可能だと僕は感じています。

 キース・ジャレットの演奏は僕もいろいろ聴きましたが、確かにあの自在さというのは驚嘆に値するものだと思います。アルヴォ・ペルトのCD録音にも参加しているんですよね。あの、ジャズとクラシックというまったく違うリズムを自分のなかで完全に消化し昇華しているのは特にすごいと思います。民族楽器をつかったインプロヴィゼーションというのも好きなもののひとつです。ただ、相棒に言わせると、「どこかが違う気がする」、とも言っていまして、僕もそのことからいろいろ考え、じっくり聞き直してみたのですが、キースジャレットのひとつひとつの音の中心というのがバッハにしてもジャズ的にスウィングしているのが感じられました(^^)。もちろん、それが「キースジャレット節」ということだと思います。

 この「音の中心」ということはとっても大切なことだと最近感じていましてそのあり方のなかにその演奏者の「宇宙」があるような気がしてきました。あのOさんの素晴らしい声というのも、あの声には空としての中心があってそこに「音」が流れ込んできているように僕には感じられます。

 「耳をひらく」ということも、自分を空なる中心とするということで、そうでなければ音楽は中心を失った「我」の表現になってしまいます。音楽は決して「自我表現」であってはならないと僕は思っていて、現在の音楽シーンのひどさもそこらあたりを勘違いしてしまっているのが一番の原因ではないのかなとも感じています。

 

 

現在の音楽観


(93/12/09)

 今日は、先日からキース・ジャレットの話がでてましたので、ちょうどこのところわりと聴いているバロックに関連した部分もある「スフィアーズ」という教会オルガンのインプロヴィゼーションを久しぶりに聴いてみました。

 以前に聴いたイメージよりも、こちらの耳が広がったのか、ものすごくいろんなイメージが広がってきてとっても圧倒されました。

 なぜか最初に思い出したのが、チベットの聲明で、意外に、オルガンと聲明というのは通じるところがあるな、と感じました。

 そういえば、先日、武久源造さんの「鍵盤音楽の領域」vol.2という、17世紀ドイツのオルガン音楽を代表するシャイデマン、ブクスフーデなどの世界を、「全曲手動送風」、つまりはふいごを手で押しながらの昔の奏法でのとっても澄んだ響きを展開したものを聴きました。それを聴いていて思ったのが、このふいごというのは「息」で、これはオルガンという声楽家が歌ってるんだということでした。

 スフィアーズを聴きながら感じたのも、その「息」ということで、そこには、それにともなった豊穣なノイズが星座のようにちりばめられ、それが予測のできない、でも確実な創造の予感のようなものを見せながらある次元を越えた拡がりで展開しているのを感じたわけです。

 それとともに感じたのが、ある根源的な波動が発され、それがあるカタチをとりながら、時空を展開していき、さまなまに乱反射し、そのつど確実な創造を行うシーンで、先日の母音と子音の反射のイメージにもつながるものでした。これに関連したことは、ちょっと前に、FFORTUNEのカズタマの部屋でいろいろ勝手なイメージを拡げてみたことがあります。

 で、何がいいたいかというと、音楽を聴くということは、そうした宇宙的な営為へと確実につながらなければ結局のところ、音楽オタク、単なるマニアの世界にしかならないのだろうなということなのです。

 日本人は、たとえば平安の雅楽演奏が、虫の音と競演しようとしたように非常にすぐれた音の感覚を、言霊の咲きわう国にふさわしく、本来もっているのに、それを生かさない手はないなとも思うのです。有名な左脳と右脳による音の聞き方を研究した角田テストというのがあって日本人は、虫の音をはじめとした自然音までも左脳という言語脳で処理しているということを興味深く思ったことがありますが、西洋人の脳は、虫の音などの音を有意味なものとして聞き取れないのに比べ日本人の脳は、森羅万象を有意味なものとして感じるということです。そういう意味でも、音に対してもっと感受性を磨かなければというのが、最近の僕の音楽を聴く上での基本姿勢になっています。

 ついでにいうと、僕が非常に勉強させられたのは、聴覚障害があるにもかかわらず、「確実に耳が開いている」方がいらっしゃることでむしろ、物理的にならない本来の音というのを聴きとっているということでそれを感じるたびごとに、僕も本当の音を聴けるようにならなくちゃ、ということを切に思うようになったのです。

 そして、そうこうするうちに、声楽家のOさんとお会いして、シュタイナーの音楽論などの話をするうちに、本当に聴くということ、耳を開くということ、音は多次元的な場であること声を出すということは宇宙的な解放であるということ、声は出すものではなく「来る」ものであること、などなどについてお互いの考えがほとんど同じなのに驚き、そうした考え方を少しずつもっとちゃんと感じ・考えてみようという方向性にあるのが今の僕のスタンスというわけです(^^)。

 

 

ひとそれぞれがもっている音など


(93/12/12)

 Mさんの言葉を読んでいると、とっても繊細でまっすぐで張りつめた透き通った糸が思い浮かびます。その弦がふるえながらある音を紡ぎだします。

 ひとはさまざまな糸をもっていて、その糸がそのひとでなければ出せない音を紡ぎながら、それぞれの音楽を演奏しているのですが、Mさんの音楽はとってもまっすぐで繊細なだけに、とっても壊れやすいものを感じてしまいます。できれば、その繊細さと透明感を大切にされることを願っています。

 ・・・なんて変な出だしでレスを書き始めてしまいましたが^^;、最近、人に会ったり、人の言葉を聞いたり読んだりしていると、それがある音とイメージで僕に「やってくる」ことが多くなりました。特にMさんの言葉には、あるイメージがあって、あえてそれを言葉にするとそういう感じがするのでした^^;。別の言葉にすると、とっても純粋だけどその純粋さがとっても壊れやすそうな純粋さでちょっと不安な感じがするのだけれど、その糸の中心のあたりで何かしなやかなものが少しずつ生成している、っていうことにもなります(^^)。

 結局のところ、日々の積み重ね意外のなにものも、真に自分の血肉には決してならないということですよね。問題はそのひとそれぞれが魂の底にまで届く仕方で得るものをあせらずさわがず確実に自分のものにしていくということでしょうか。そして、そのことが自分のまわりの誰かにさりげなく伝わっていければその共振によって生み出されるものこそが芸術なのかもしれません。

 シュタイナーは「教育芸術」という表現を好んだようですが、教育に限らずすべては宇宙的共振という芸術に至るように思えます。そのもっとも基本的な音が、ひとりひとりの魂の表現なんです。ひとりひとりがその音を疎かにすることで、宇宙のシンフォニーは台無しになってしまうことになります。「宇宙の」といわなくても、「わたしとあなたの」でもいいですが。

 「演奏する」とか「聴く」とかいうことは、その「器(^^)」の状態や「場所」で、そのあり方を千変万化させます。ときおり、その善し悪しは別として、その主体的なありようがぽっかり穴があいたようになることも確かにあるようですね。それが空虚な穴ではなく、働きの中心としての穴、主体的でありながら自我などということから離れたような穴であるときに、素晴らしい演奏ができたり、感動的な聴取ができるのかもしれません。

 僕は演奏することに関しては、他の人からいろいろ聞くしかありませんが、聴くときの体験としていえば、やはり自我で立ち向かうことは止したいという気がしてます。あるとき、ふっとなにかのきっかけで自我がぽっかりと空になるときに、なにげなく聴いた音や音楽は、かけがえのないものとなることが多いです。なかなか普段は、はからい心が多くてそうはいきませんが、ときおり偶然のように訪れるそうした「場」を大切にしたいものですね。

 

 

声の来る場所と空としての中心など


(93/12/16)

 

 たぶん、既成の枠にとわられない科学や新に探求された神秘学であれば、また他の分野のものであっても、そのイメージは浮かんでくると思うんです。FFORTUNEのカズタマ会議室では、そのイメージを「数と形のダイナミクス」ということで運命学というラインに沿って拡げてみたものでした。その「カズタマ」というのは、その理念の「具体化(数理化)」でしょうからおそらくそのプロジェクトと重ね合わせてみれば、面白いかもしれません。

 たとえほんの短い音であっても、そこには無限の世界が秘められていると言えることはとっても大切なことで、結局、マクロコスモスとミクロコスモスの照応ということにもあるように、一音には、宇宙が内包されているといってもいいと思います。そして、一音の中に空としての働きの中心がなければ、そこには全体から切り放された死骸しか残らないということです。

 「7」の中心は「4」です。

 「一」の多様性をとらえるあり方に加えて、こんな見方もあります。

(1)2=1

(11)2=121

(111)2=12321

(111)2=1234321

 これは、「一」が、常に中心を作り出しながら展開していくイメージです。つまり、常にそこには働きの中心があるということなんです。

 「声が来る」ということは、おそらくこれから最も重視されていかなければならないことだと思うのですが、まだまだなかなか注目されていないようですね。そこにも、働きの中心としての「空」ということが現れます。別の角度からいうと一種の「場所論」的観点でもあります。

 これは、中村雄二郎さんなんかも注目されているように、哲学や物理学言語学などなどでクローズアップされてきている視点です。これにつては、「かたちのオデッセイ」(岩波書店)や「場所」(弘文堂)などをご参照いただければ、豊かな視点が得られます。

 それと同じ「場所論」で欠かせないのが西田幾多郎の哲学ですが、その後継者のひとりの上田閑照さんのものも、上記の中村雄二郎さんの「場所論」と同じ出版社の同じシリーズ、同じタイトルで出ています。

 この「声が来る」ということで非常に難しいのが、自我というか「私」という中心があってはじめてそれはその場を持ち、しかもその中心を「空」にしなければ流れ込んでこないということです。これについては、シュタイナー関連の文献を今後もそっと探ってみようと思ってますがそうしたことで大切なのは、聞くこと、演奏することを含んで、すべてのキーになるのが「耳をひらく」ということではないかと僕は感じています。

 つまり、「解放」ということということですね。いろんなものを後生大事に抱えてなんかいないで、思いきって両手を、両足を、五感などなどを、はなしてみることです。そういう意味では、「話す」というのも、本来「解放」でなければならないんですよね。

 

 

有田正広さんの演奏に感動!


(93/12/19)

 キース・ジャレットの新録音でバッハのフランス組曲の全6曲を買って、昨日ずっと聴いてたのですが、有田正広さんの、テレマンの無伴奏フルートのための12のファンタジーを探していて、それが見つからなかったかわりに、見つけたのでした。グールドのそれも、ずっと繰り返し繰り返し聴きながら、その度ごとにその素晴らしさには感嘆するしかなかったのですが、このキースジャレットの分もなかなかのものですね。

 で、さっそく聴き比べてみたのですが、やっぱりグールドのもすごい。ひとつひとつの音の内的リズムがダンス!につながっているんですね。そのリズムというのが、内なる中心のまわりで螺旋状に展開しているかのようです。ま、キース・ジャレットのはハープシコードだから比べても仕方ありませんが。 

 それはそれとしまして、有田正広さんの演奏はまだ聴いたことがなかったので、別のCDを探してると、「ドイツ・バロックのフルート音楽」というのがあったのでそれを買ってきいてみると、本当に有田さんの演奏はスゴイんですね。その中に、エマヌエル・バッハの「無伴奏フルートのためのソナタ・イ短調」というのがあったのですが、ご紹介いただいたテレマンのも、こういう演奏なのかなあ、とますます聴いてみたくなりました。

 でも、まるで尺八のような音の豊かさを併せ持つっている演奏で、Mさんがフラウト・トラヴェルソに魅せられた気持ちがわかる気がしました。 

 さて、このCDの最初には、バッハのフルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタロ短調BWV1030の演奏が収録されているのですが、この曲を、キースジャレットのチェンバロと、ミカラ・ペトリのリコーダーで演奏してるCDを持ってましたので、これも聴き比べできて楽しめました。 

 有田さんの先の「無伴奏フルート・・・」を聴いていて思ったのは、有田さんのように中心をしっかりともった演奏でないと、かなりトリップしかねない楽器かもしれないな、ということでした。沈潜すると同時に、しっかりと腹を据えてないと危ないな、とも^^;。やはり、笛は、特にこのフラウト・トラヴェルソのような古楽器は、魔力のようなものをもっているような、そんな気もします。

 先日、赤井逸「笛ものがたり」(音楽之友社)というのを買ったのですが、あらためていうでもなく、ハメルンの笛ふき男の話や魔笛の話もあるように、やはり、笛というのはそれだけの神秘性をもった楽器なのだろうなとも思いました。

  

 

離見の見・対数螺旋など


(93/12/20)

 

 有田さんのフラウト・トラヴェルソ(バロック・フルート)は、いわゆる「音楽」を超えている、いやむしろ真の音楽なのかもしれません。多くの音楽を自称するものが、音楽を偽っているような気もします。音楽は、型にはまるものでも、コピーして刹那的に喜ぶものでもないのですから。音楽というのは、人が息をすること、もっと遡れば、宇宙が息をしていることから始まる、なんて考えたりもします。 

 あの「音」に到達する道は、「イメージする」ことと共に「歩まねば」ならないですししかも、おそらく何かを創造することの根底に、「空」がなければならないのでしょう。 

 先日、「世阿弥」(中公バックス)を買って読んでましたら、

無心の位にて、我が心をわれにも隠す安心にて、せぬひまの前後をつなぐべし。是即、万能を一心にてつなぐ感力なり。

 というのが「花鏡」の「万能を一心につなぐこと」のなかにあるそうで、この「我が心をわれにも隠す」ような精神状態というのを興味深く感じました。

 また、これに関連して「花鏡」のなかには、演技者が自分の行動を支配する意識としての「我見」と観客がその行動を外から見たイメージとしての「離見」ということ、そしてその「離見の見」に演技者の自由を見るというところがあるようです。 

・・・したがって、われわれは他人のまなざしをわがものとし、観客の眼に映った自分を同じ眼で眺め、肉眼の及ばない身体のすみずみまで見とどけて、五体均衡のとれた優美な舞姿を保たねばならない。これはとりもなおさず、心の眼を背後において自分自身を見つめるということではないのだろうか。かえすがえすも、他人のまなざしをわがものとして自分の姿を見る技術を体得し、肉眼は肉眼自身を見ることはできないという仏教の箴言を肝に銘じ、心眼を開いて前後左右をくまなく見とどける工夫をこらすべきである。そのようにして自分自身の姿が見えてくるようになれば、それはまぎれもなく、玉や花にも比べるべき優美このうえない表現ができていることの、疑うべくもない証拠だといえるであろう。

 おそらく、「イメージする」ことと共に「歩まねば」」というのは、このような「離見の見」であり、そのことで「いわゆる音楽」から自由になる、ということでもあるのかもしれませんね。 

「息を吹き込んではいけない。楽器が鳴るのだ。」

「私は声は出さない。声から手を離す。」

 この最も重要なことが、なかなか理解されないのは悲しいですね。結局、そのことは音楽の自由に関わるテーマでもあるのですね。

 さっきの「花鏡」のような表現でいうと、「無息の息」「無声の声」とでもいえるのかもしれません。 

 「オクターヴ」という概念を一度捨てる必要がある可能性、・・・地上で「閉じる」必要がないと考えたら螺旋状に上下に天と地とに無限に続くものになるという考え方をお聞きしたのですが、これはすごい考え方ですね。 

 それでピンときたのが、「対数螺旋」という、隣り合う曲線の距離が指数関数的に拡がっていく螺旋で、それは自然界にひろく見られる成長のプロセスです。銀河の渦巻きのようでもありますね。また、それを3次元的に表現すると「円錐螺旋」になるのです。

 ちなみに、オクターブという概念に近いと思われるのが、隣り合う曲線の間の距離が一定である「アルキメデス螺旋」です。それと、ちょっと思い出したのが自然界にある左と右の不均衡で、そのズレというのは、オクターブという概念からはずれたものですよね。おそらくそのズレこそが、この宇宙のダイナミズムの根源なのかもしれません。それが音律ということのなかにちゃんと示されているということでもあるような、そんな考えもよぎったりします。 

  

 

リトミックなど


(94/06/19)

 ダルクローズの始めた「リトミック」というのは、かなり有名になってきましたが、シュタイナー的な幼児音楽教育でもあるようで、モンテッソーリなんかの幼児教育の考え方とも通じるところがあるようです。簡単にご紹介しておくことにします。

 引用は、岩崎光弘「リトミックってなあに」(ドレミ楽譜出版社)より。

 リトミックは、スイスの作曲家・音楽教育家エミール・ジャック・ダルクローズ(1865〜1950)によって考え出された音楽教育法です。

 音楽教育は、人間の心とからだの発達段階を考慮して行うべきだと提唱したダルクローズは、いろいろな研究を重ねた結果、音楽教育にリズム運動をとり入れました。すなわち「からだで覚える」ということです。音楽を聞く、歌う、演奏する、作るといった音楽教育で学ぶすべてのことを、からだを動かす経験を通して感じとっていくのがリトミックの教育法です。

 リトミックはリズムという素材を生かし、音楽に反応して動くことにより、感じる心、想像力や創造力を養います。また、心で感じたものを、からだを使って自分なりに表現する(自己表現)ことで心とからだの協調・調和を作り出そうとするものです。

 学習には直接的学習[Direct Study]と間接的学習[Indirect Study]があります。リトミックは間接的学習です。リトミックは心身の調和を図り、それをもとに感覚を磨き、知性の基礎を作り、より発展的能力を身につける教育、つまり人の成長の可能性を大きくする教育なのです。

 

 

視覚と聴覚について


(94/06/27) 

 昨日は、ひさしぶりにコンサートにでかけた。ウィーンフィルの若きコンサートマスター「ライナー・ホーネック」のバイオリンリサイタルである。前回行ったコンサートといえば、4月の最初の有田正広さんのフラウトトラヴェルソの小規模のもの。このときの有田正広さんの神技も筆舌に尽くしがたい「共振」を感じたが、今回のホーネックさんのヴァイオリンも、そのウィーンならではのノリと繊細には、おもわず身体が波打ってくるような「共振」を感じた。やはり、音楽は「共振」だなと深く感じたコンサートだった。 

 バイオリン・リサイタルといえば、もう数年も前に、東京で、モスクワに旅立つ前の諏訪内晶子さんの50人ほどの規模のものを聴いたのに続き2度目。

 プログラムは、シューベルトのソナチネ、モーツァルトの「フランスの歌」、ブラームスとベートーヴェンのバイオリンソナタと、かなり渋めのものだった。ちなみに、ピアノはコルデリア・ヘーファーというモーツァルト一家を祖先としているというたくましき女性ピアニスト。このコンビのCDはキャニオンから発売されたということで、今回のプログラムのシューベルトもその中には含まれている。 

 さて、これを書いているのは、単にコンサートの紹介というのではない。音楽を聴くということがいったいどういうことなのかということを考えたいからである。最近考えることの多いのが、視覚的な人間と聴覚的な人間というのは、多くの場合かなり截然と分かれているというのはなぜかということである。 

 僕の個人的に知る範囲でいえば、音楽家の多くは視覚にうとく、画家の多くは音楽にうとい。そうでない場合もあるが、双方ともに関心が深く、鋭い見識をもっている方というのはほとんどいない。もちろん、両方ともそこそこ関心があるという方はいるが、僕のように、どちらにも大したことがない場合がほとんどである。

 シュタイナーは数学の才能というのは、耳の能力ということが非常に重要になってくるという。数学と物理学というのはきってもきりはなせない関係にあるが、そういえば著名な物理学者の多くは音楽に深い造詣を持っている方が多いようである。ハイゼンベルクしかり、アインシュタインしかり。 

 その反対に、渋澤龍彦のように非常に博物学的であり、ビジュアル感覚にすぐれている方が、ほとんど音楽が音楽として聞こえないという例もある。そういえば、荒俣宏も、その視覚的な部分での仕事に比べて、僕の知る限りでは、音楽などについての著作は見た覚えがない。 

 それに対して、シュタイナーの影響を受けそ竝いうクレーなどは、画家であり、かつまた音楽にも非常に造詣が深かった。クレーの絵画は非常に音楽的であるということにもそれはあらわれている。もちろん、カンディンスキーもそう。そういう視点で画家を見てみると、音楽的な画家とそうでない画家というのもあるのかもしれない。 

 この視覚と聴覚の関係ということについて、今後具体的に考えてみようと思う。何かが見えてきそうである。 

 

 

ゴルノスターエヴァ


(94/10/12)

 この10月にはじまったNHK教育テレビの「ピアノで名曲を」がいい。講師は、ヴェーラ・ゴルノスアーエヴァ、モスクワ音楽院の教授である。 

 この「ピアノで名曲を」という時間は、全回のゲルハルト・オーピッツさんの「ベートーヴェンを弾く」で、毎回楽しみにしていたのだが、あまり期待しないで見た今回のヴェーラ・ゴルノスアーエヴァさんのはあまりの感動に涙が止まらなかったくらいである。

 生徒は、小学生から30歳すぎまでのピアノの学生または講師で、毎回、きわめて有名な名曲をテーマにして指導していくもので、そのこと自体が特別だというのではないが、その教え方がまさになぜ音楽を演奏するのかという根源に常にふれながらほんとうに情熱的にそれを教えていく。 

 ロシアといえば、ギリシャ正教であり、それはキリスト教の本来のものをもっとももっている宗教でもある。その土壌故なのかもしれないが、ヴェーラ・ゴルノスアーエヴァさんの音楽への理解、愛情は深くて温かい。そして、なによりも深く深く人智学的なのだ。もちろんレッテルとしての人智学ではない、その精神を体現しているのだ。本人がそれを語っているわけでは決してないが、その音楽、芸術理解は、そのままシュタイナーの語る芸術論の香りに満ちている。 

 前回はバッハのトッカータホ短調、今週の月曜日はモーツァルトのピアノ協奏曲イ長調K488とまだ2回放送されたばかりであるが、その音楽理解はぼくの理想していた理解をそのまま表現してくれていた。バッハではそのキリストを描いた宗教的高みをモーツァルトではその清らかな魔法の笛としての音楽をまさに生を分かち合うようにして教えていた。 

 この放送は、12月まで毎週続く。この喜びを毎週分かち合えることを深く深く感謝したい。この音楽教育は、まさに祈りそのものでもある。

  

 

ハイドシェック


(94/11/17)

 昨日、知る人ぞ知るハイドシェックのピアノコンサートに出かけた。音楽評論家でもあり、みずからオケを指揮もする宇野功芳氏が偉大なる個性を持った天才ピアニストとして評価するハイドシェックである。 

 日本では、数年前に愛媛県宇和島市でコンサートがあって以来、音楽ジャーナリズムに対抗するように半ばマイナーな活動をしていたが宇野功芳氏のことあるごとの絶賛にもささえられて、数年前までほとんど引退した感のあった、いやもうすでに無名となり果てていたハイドシェックも、その実力にみあっただけの評価が得られるようになってきたようである。

 CDではおなじみのハイドシェックだったが、ライブははじめて。わくわくしながら聞いていたが、ううむ、噂に違わぬオリジナリティ^^;。よく聞く曲がまったくはじめて聞く曲のように聞こえるほどの演奏。なかば自分で作曲したのではないかと思わせるほど。しかし、これほどの<個性>と<遊戯性>に極みにある演奏は希有だろう。演奏の最中に、子供がそもまま大人になったかのような遊び心の化身をみた気がした。特に、「歌」をうたうその洒落っ気とダイナミックさは感動ものである。今回は、前半の演奏にあったベートーヴェンがぼくには気に入った。それと、アンコールのときのフォーレも。 宇野功芳氏が絶賛するのも納得がいった。

 が・・・、である。宇野功芳氏がバッハをほとんど評価しないのと同じ部分が、ハイドシェックにもあるのではないかというのが大きな印象としてあった。 

 それは、現在、NHKの「ピアノで名曲を」の講師をしているゴルノスターエヴァの音楽に対する姿勢への深い共感によってその印象が理解へと浮上したような気がする。それは、まさに精神科学的な探求の深みに関わってくることのようにぼくには思えるのだが・・・。

 

 

ゴルノスターエヴァ/コンサートのあとの二時


(94/11/17)

 ●ゴルノスターエヴァ「コンサートのあとの二時間」

               (ヤマハミュージックメディア)

 NHKの「ピアノで名曲を」の講師であるヴェーラ・ゴルノスターエヴァの著作集である。 

 シュタイナーはピアノを俗物であると評価していたようだが^^;、ぼくにはそうは思えなかった。自我を有している人間だからこそ、ピアノという楽器によってその調律上の制約を超えた、大きな可能性があるのではないか。そういう考えがぼくから去らなかった。 

 そういうなかで、ゴルノスターエヴァが講師をつとめる「ピアノで名曲」がはじまった。 

ゴルノスターエヴァは言う。 

ピアノ演奏とは、謎に満ちた精神の運動にほかならない……。

グランドピアノの造形は美しい。それは見るだけでも喜びを与えてくれる。私が一度ならず感じたのは、シルエットから言って、ピアノとハープは親戚であるということだ。ハープのラインがピアノの蓋にひき移されたのではないだろうか。このラインにはメロディがあり、音楽の響きが宿っている。ここには、その昔ピタゴラスが謎を解こうとした神秘的な数学、数の音楽が潜んでいるかのようだ。

響きをどのようにつくるかではなく、響きをよく聴くこと、このことがきわめて多くのことを左右する。(P6-7) 

 ピアノの可能性を、音楽の可能性を、芸術の可能性を、そして人間の可能性を発見するための大いなる気づきを与えてくれる。そんな著作集だと思う。 


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