2003

 

能オペラ


2003.2.23

         幾つかの音楽祭からオペラの依頼があり、新しいオペラを構想中である。
        私は西洋のオペラの愛好者ではない。オペラ音楽は好きなのだが、歌手た
        ちの紋切り型の演技にはついていけない。(…)
         私の頭のどこかに、音楽、言葉、所作等が様式的に統一されている能の
        イメージがあり、それが西洋オペラを遠ざけさせるのだろう。(…)
         私が歌手の声に感動するのは、その声から人間の奥に眠っている「身体
        の声」ーー人間という小宇宙から大宇宙の声ーーが聴こえてくる時だ。三
        大テノールなどは、滑稽でとても見てはいられない。
        (…)
        台本は、現代作家に書いてもらい、音楽は能楽で使う楽器は一切使わない。
        そして能楽師に指導を受けながら、新しい演出をする。衣装も舞台も現代
        のアーティストによってつくっていく。すでにある能を模倣するのではな
        く、能のすぐれた抽象性と精神を学びながら、現代に生きる斬新な「能オ
        ペラ」を生み出してみたい。
        (細川俊夫「能オペラ」 2003.2.22付朝日新聞「時のかたち」より)
 
武満徹の大江健三郎とのオペラをめぐる対話がある。
1990年に刊行された岩波新書「オペラをつくる」である。
 
        私は、これまで、オペラというものに対して、殆ど、無知といっていいほ
        どなにも知らず、また、無関心であった。むしろ、表現形式としてのオペ
        ラには、否定的な感想しかもちえなかった。そうした私が、オペラ的なる
        ものへ強い関心をもつようになったのは、既成のオペラ作品からの影響で
        はなく、むしろ他の芸術分野、文学や映画、演劇の今日の状況からの刺激
        によると思う。私の裡に生じた変化については、このなかで、少しずつ、
        明らかにされたように思うが、それでもなお、私のオペラは、未だに、プ
        ラズマ状のままであり、肉化されるには、時間がかかりそうだ。
 
結局、武満徹のオペラは、その死によって、
肉化されることはなかったのだが、
この対話を読むまで、ぼくもまたオペラに対して無関心どころか、
否定的なイメージしかもてないでいた。
この対話を読んでから後にも、何度かオペラ作品にふれようとはしたのだが、
それでもぼくのなかにはその表現形式に対する否定的なイメージしか持てないでいる。
 
先週、朝日新聞の「時のかたち」というコーナーに
細川俊夫が5回に渡り音楽についてのエッセイを書いていたが、
土曜日にこの「能オペラ」のことを読み、
武満徹の「肉化」されることのなかったオペラのことを思い出した。
 
現代の能オペラ、その構想。
伝統的な能を模倣するのではなく、
音楽は能楽の楽器は使わず、台本は現代作家に。
そして能楽師の指導で能のすぐれた抽象性と精神によってつくられる作品。
 
数年前から、謡曲を読んでみるようになった。
実際の能を観たことは数えるほどしかないのだけれど、
その表現形式にはぼくのなかのなにかを打ち振るわせるものが確かにある。
少し前にも、古書店にあった「観世流・声の百番集」という
レコードのシリーズを見つけ、謡曲を声で聴いてみたりもしていたところ、
この細川俊夫の構想を知り、それがどのような作品になるのかを思い、
そのイメージをぼくなりに(貧しいながらも)広げてみている。
 
能は現代にも生きているといっても、
やはり室町時代に作り出された表現形式の延長上にある。
おそらくオペラという表現形式も、
近代のヨーロッパにおけるある種の枠のなかにある。
その両者の理念や声に対する新たな可能性を創出させるためには、
おそらく新たな様式が必要とされる。
それがどのようなものになるのか。
またそれは果たして次代へと継承されていくに値するものになるのか、
興味は尽きない。
 
 


■「風の音楽室」メニューに戻る
■「風の音楽室2003」に戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る