新・ロマン主義


2002.5.18

         僕は「時代が求めるもの」という切り口があると思っています。僕たちが
        生きているこの時代に必要なものですね。もうしばらくすると意識するよう
        になる人が増えると思いますが、僕は、今僕らが欲しいのは「ロマンティッ
        クなもの」だと思っているんです。もちろんいろんな「ロマンティック」が
        ありますが。(…)
         ーーなぜ今、ロマンティックでファンタスティックなものに惹かれるので
           しょうか。
         時代そのものがそれを欲しているからでしょう。僕は戦後から一九八〇年
        くらいまでは、皆が現実主義を好んだ時代だったように思います。科学が発
        達し、その先には幸せがあると信じられた時代。そういう時代には、僕の言
        う意味でのロマンティックなものは必要なかった。音楽でも現実的で合理的
        な方向性が求められていたように思います。ところが現在は、科学が発展す
        れば全てが良くなるというものでもないということが分かってきた。お金だ
        ってただ稼げばいいというものでもない。つまり価値そのものが非常に揺ら
        いでいる時代です。これまでも、価値観が揺らいでいる時代の芸術表現には
        「現実を超えようとする」ものが出てくることが多かった。ただ、この「超
        える」ということには現実逃避、つまり「退行」の方向と、「現実を超越」
        する、つまり先へ進むという二つの方向があるように思います。「退行」と
        「超越」、この二つがロマンティックの中にはある。(…)
         ぼくらは今、そういうことを感覚的に感じていて、ロマンティックでファ
        ンタスティックな、つまり合理主義的でない音楽に惹かれているように思い
        ます。(…)
         ーー問題は、そういった方向で今後どのようなアプローチが生まれるかで
          しょうか。
         結局ぼくたちの仕事というのは、今みんなが音楽だと思っているものとは
        違うところに目をつけて、それを音楽の中に取り込んでいくことだと思うん
        です。(…)
        つまり僕らは、自分が持って生まれた音楽性や、自分が本当にやりたいこと
        とは別なところで、今の時代はこれだろうとはっきり意識してやる必要が時
        にはあると思うんです。そこには自己矛盾も起こってくるでしょう。しかし、
        その矛盾の中でまた面白いものが出てくると思います。(…)
         ーー武久さんの活動が、いわゆる「年齢とともに成熟してゆく」というこ
           とだけでは捉え切れない印象を与えるのは、そんな姿勢にも理由があ
           るのでしょうか。
         僕は成熟を拒否しているといってもいい(笑)。ただ、成熟という言葉に
        は両面の意味がある。一つはあるところに入り込んで、そこを磨き込めば、
        そこはきれいになるという成熟。理想的な箱庭を目指すような成熟ですね。
        もうひとつの成熟は、どんどん自由自在になっていく成熟。
        (武久源造『新しい人は新しい音楽をする』
         ARCアルク出版企画/P107-110)
 
電子音楽が無限の可能性を持っているかのように
夢見られていた時代があった。
しかしそれは多分に科学信仰的なところがあって、
どんな音でもデジタルにつくりだせる可能性という視点と
音楽のもつ可能性という視点とは必ずしも同じものではない。
 
複製技術時代の芸術においては、
とりわけデジタル化がますます進められている現代においては、
芸術作品の唯一性のようなものが揺らいでいるのは確かであるが、
複製可能なのは、アウトプットとしての固定した作品であって、
芸術をそのような固定化した関係のなかでとらえることそのものが
もはや芸術をとらえそこなっているともいえる。
 
芸術はプロセスであって、
「はい、これが芸術(作品)です」と
お盆に乗って出されたときには、
芸術はすでに死体になっていると見ることができる。
しかし、それが死体であるからといって意味を失ってしまうのではなく、
その死体を復活させるものこそが生きた「受容」であるといえる。
少し古風な表現をするとするならば、
「芸術鑑賞」ということもできるかもしれない。
しかし、その「芸術鑑賞」なるものも、
ともすれば死せる芸術を愛でる、いわば死体愛好者のようになってしまう。
 
ところで、電子音楽に可能性はないのかといえば、もちろんそうではなく、
電子音楽は芸術ではないというようなとらえ方をする
退行的な人たちの思い込みに反して、
ある意味で、ここまでデジタル化している環境のなかで、
そのデジタル世界を変容に導くものとしても
可能性を持ち得るのではないかと個人的にはとらえている。
電子音楽は、ひとまわりねじれたかたちではあるが、
それゆえにこそ可能な、それでしか可能でない
「ロマンティック」な表現たりうるのではないかと思うのである。
 
電子音を使って即物的で安易でルーティーンな表現をすることはできるし、
それは多くある種の退行的な「現実逃避」にもなるのではあるが、
それはまた、「現実を超越」しようとする可能性に向かう可能性をも
有しているように思う。
それは「現実」を虚に反射させるような、
いわばホメオパシー的な働きによってではあるが…。
 
ここで言いたいのは電子音楽のことではなく、
「ロマンティック」なものを求めている私たちのことである。
昨今は、それが大衆化されたかたちで、
さまざまなファンタジーブームがでてきたりもしているが、
要は、どのようにして 「現実を超えようとする」か、である。
ともすれはそれは退行的になってしまう。
ナショナリズムの問題もそこに関わってきたりもする。
しかしそれは人を自由にさせるものではない。
過去に向かって人を呪縛するものとしてそれは多く現われる。
人は過去向きに自分のアイデンティティさがしをしがちなのだ。
その個人バージョンが「自分さがし」になる。
 
今常に注意深くなければならないのは、
「ロマンティック」なものへの視線が
過去を向いていはしないか、と自問することだろう。
多く精神世界も多く過去を向いたものでしかない。
そこでは芸術も死体愛好者の集まりのようなものになってしまう。
ワークと称して行なわれる芸術であるかのような作業もしかり。
それは「このようにするといいですよ、すばらしいでしょう」というような
マニュアル化されたパターンの踏襲であるにすぎない。
 
しかし芸術が創造的な今ここにおいての創造生成を失わないためには、
今ここにある矛盾と相対するところから始める必要があるように思う。
その衝動に関わろうとすることを「新・ロマン主義」と表現できるかもしれない。
キーワードは、やはり「ポエジー」である。
 


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