越境へ


2002.5.11

         面白いことに僕らがバッハとかをやってすごくノリのいい演奏をすると、
        必ずと言っていいほど「ジャズみたいですね」なんて言われるんです。全然
        ジャズとは無関係にやっているときでも、ノリがいいということイコール
        「ジャズみたい」ということになるわけ。この一言をもってしても、我々の
        時代はジャズの時代だと言ってもいいと思うほどです。一方で今度は、ジャ
        ズのミュージシャンと付き合ってると、例えば彼らがすごくいい音を出した
        ときなどに、「クラシックの演奏家にも負けない」という言い方をしたりす
        る。それは互いに全然意識しないで使っているんだけど、我々の時代の弱さ
        がそこにあるという気もする。つまり一枚岩じゃないんです。これがバッハ
        の時代なら、クラシック、ポピュラー、ジャズ、真面目な音楽と軽音楽とい
        うような区別はなかったですからね。バッハやヘンデルは、民族楽器でも、
        当時発明されたばかりの新鋭楽器でも、カストラートでも、音の出るものな
        ら何でも使った。
         ところが現代の作曲家は、世の中にこれだけたくさん素材があるのに、す
        ごく限定された範囲でしか仕事をしていない。例えば東京には全ての邦楽ジ
        ャンルはもとより、アイリッシュ・ミュージックから、アフリカのあらゆる
        音楽まで、フラメンコ、インド音楽、南米の民族音楽、あらゆる時代のヨー
        ロッパ音楽、デキシーランドジャズから前衛ジャズ、さまざまなロック・ミ
        ュージック、環境音楽……それこそいろんなものをやっている人がいるわけ
        でしょ。そういうのをどんどん引っ張ってきて、自分の作品の中に登場させ
        ればいいじゃないですか。ところがそれがなかなかやりにくい。お互いの境
        界が非常にはっきりしている。今もしバッハの精神をもって考えたら、何で
        も使いたくなると思う。十二音でフラメンコを作るとかね(笑)。そういう
        ことをぼんぼん実験してみるだろうと思う。それをやれないのが僕らの時代
        の弱さなんですよ。みんながそれぞれの壁の中でしかやれないから、エネル
        ギーは細分化されざるを得ないし、どんな天才が出てきても、その天才を発
        揮する蛇口が小さいんですよ。だから、そこに凄いものをドーンと流し込む
        ことができない。
         グレングールドや古楽のリーダーたちは、少しそこからはみ出したんだけ    
        れど、それでもあれだけのエネルギーが出せるわけです。グールドがカナダ
        の自分の母校の生徒に贈る言葉の中で書いていたけど、「音楽家にとって大
        事なことは、音楽じゃないものに片足を突っ込むことだ」と。例えばクラシ
        ックを純粋にやろうとしている人たちには、ジャズというのは真面目な音楽
        に見えないとしますね。バッハにジャズを持ち込むということは、やってい
        る人はやっているけれども、ふつうに音楽大学で勉強している人には考えら
        れない。(…)
         だけど大きな時間のなかで見れば、彼がやったことといったって、それは
        ほんのわずかですよ。僕などが大きなことを言うようですけれど、「そのく
        らいしかできなかったの?」と言いたいくらいわずかなことです。しかも、
        ものすごく慎重に準備して、理論武装して、やっとあそこまでしか行けなか
        った。でも、それ自体すごいことで、他の誰にもできなかったことなわけで
        す。そのくらい僕らの時代というのは窮屈だし、相対的に弱いエネルギーし
        か出せない状況になっていると思います。
        (武久源造『新しい人は新しい音楽をする』
         ARCアルク出版企画/P89-91)
 
好きな音楽がたくさんある。
なぜ好きなのかそれぞれにそれぞれの理由があるのだけれど、
それを言葉にするのは難しい。
少なくとも、クラシックだから好きだとか、
ジャズだから好きだということはない。
その音楽が好きなのであって、ジャンルが好きだというのではない。
 
それは、異性が好きだとか、日本が好きだとかいうときにも、
特定の異性だとか、具体的な日本のこれが好きだということであって、
それらすべてが好きだというのではないのと同じである。
 
けれども、世の中には不思議な現象がたくさんあって、
クラシックは駄目とか、ジャズはあまりとか、
そういうことのほうが多いように見える。
 
なぜなのか考えてみると、
あるものを否定的にとらえるというときには、
その多くがいわば食わず嫌いだということがあるように思う。
まるで納豆を食べたことのない人が納豆を大嫌いというように。
 
食わず嫌いというのは、最初からなにかを受け容れる仕方を
自分で決めてそのフィルターでそれをとらえているわけで、
もし実際に受容するときにも、そのフィルターをかけたままで
それを享受してしまうものだから、やっぱりそうだ、ということになる。
 
それらのフィルターを少しなりとも薄くするためには、
あの人がいうのだから、とか、みんながそうだ、とか、
科学的にそうだ、とか、すごい賞を受けているとか、
そうした権威がそこに必要になったりもする。
 
それらは大きくとらえれば、パラダイムということでもある。
つまり、「そういうものだ」という常識、
世間様はそうだ、ということに従って、
人は、さまざまな垣根をこしらえて、
いろんなことをあらかじめいろんな枠のなかに閉じこめ、
そうすることで、自分を納得させているということである。
 
それは、音楽のジャンルもそうだろうし、
学問の専門というのもそうで、
国境のようなそれらの「境」は
「そういうものだ」とされてしまうと、
それを超えるためには、それなりのパスポートが必要だということ。
そのパスポートは、ジャンルとジャンル、専門と専門の
互いのとり決めのものとにしか機能しない。
国境はさまざまなものを悲しく遠ざけてしまう。
 
しかし、地球外から見たときに、
地球の上に国境線が存在しないように、
音楽や学問の境目を引いているのも、
それらを少し俯瞰して見たとするならば、それらの境界が
国境線のようなイデオロギー的なものにすぎないことが多いことがわかる。
 
だから、今必要なのは、おそらく
俯瞰して見ることのできる視点なのだろう。
それと、自分が食わず嫌いをしていることにちゃんと気づくか、
もしくは、自分をなんらかの形で守ろうとするあまり、
自分の「囲い」を「これだけ」と決めることで、
人の「囲い」も侵さないで済むというような
相互不可侵条約を暗黙の上に締結していることになっていることに気づくか、
そうしたことなのだろうという気がする。
 
ぼくがシュタイナーの精神科学をとても気に入っているのも、
それがあらゆるものをやすやすと「越境」させることのできる
まるで魔法のような認識方法だからである。
もし、逆にそれがなにかをセクトかさせたりすることで、
人を認識的に何か狭いところに閉じこめたりするものであるとすれば、
それは、キリストの愛の名のもとに排他的になるようなもので、
もはや精神科学ということはできないだろう。
 
ともあれ、いい音楽をできるだけ耳を自由に開いて聴きたいと思う。
最初から「そういうのはダメ」という姿勢というのは、
悲しいことにただ自分をどこかに閉じこめてしまうことになるから。
 


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