こぶし


2002.10.5

細野晴臣が1987年に、
中島みゆき、大貫妙子、宮田まゆみ、越美晴、銀色夏生、
盛岡夕美子、原谷治美、矢野顕子、都はるみという
9人の女性たちとの対話を通して、音楽をめぐる対話をしている
『音楽少年漂流記』(新潮文庫/昭和63年1月25日発行)を読む機会があり、
いろいろと考えさせられるところが多かった。
(おそらく今はもう絶版じゃないかと思うんだけど、とても面白い)
むしろ15年近く経っているからこそ見えてくるものもあるのかもしれない。
 
細野晴臣が書いている「序文」が「音楽の曲がり角」とされているように
1987年という80年代の後半は、ぼくにとっても、
音楽をほとんどきかなくなっていた時代にあたる。
あれほど浴びるようにきいていた音楽が
なぜかぼくにとってあまり響かないものになってきていた。
ぼくのきいている音楽といっても
ほんの限られたものでしかないのだけれど、
それにしても面白くなかった。
 
それは90年代から現代にも続いているともいえるのだけれど、
少なくともぼくにとってはここ10年ほどは
とくにさまざまな音楽を楽しめるようになった時代だった。
もちろんぼくが音楽を浴びていた70年代の初期のような
ただただうれしいというきき方ではもやはないのかもしれないが、
いろんな音楽をジャンルを越えて楽しみながら
それぞれをぼくなりに受け容れていく準備ができはじめたのかもしれないし、
ひょっとしたら時代の流れもそういうところがあるのかもしれない。
おそらくそのなかで、今年の「カヴァー」ブームや
いわば「復活」のブームもあるのかもしれない。
そういえば、ザ・フォーク・クルセーダースも
35年ほどぶりに期間限定で復活するらしい。
加藤和彦ときたやまおさむに加えて、アルフィーの坂崎がメンバーということ。
かなり気になっている。
 
ところで、『音楽少年漂流記』のなかにある
都はるみとの対話のなかで「こぶし」のことがでてきている。
 
        細野 都さん自身は、いまどんな音楽を聴いていらっしゃるんですか。
        都 私ね、いままでいちばん嫌いだったのが民謡とか浪曲だったんです。
        ところが、浪曲をいま聴きたいと思ってるんですよ。浪曲のレコードなん
        て一枚も持ってないんですけど、ちょっと集めて聴いてみたいと思ってる
        んです。
        細野 へえー、それは面白い。でもまたどうして?
        都 浪曲にはこぶしとか声の出し方に、それぞれものすごく個性があると
        思うんですよ。それと、歯切れですね。歌い終わるときに伸ばすんじゃな
        くて、声をパッと切っちゃう歌い方をするんです。その歯切れのよさと、
        声の不思議な出し方と。こぶしですね・
        細野 浪曲ねえ。久しく聴いてないな。なんかカンが働いているんですか。
        都 ええ、まあカンですね。そこが原点じゃないかと思うんです。
        (…)
        細野 東洋って、すごい不思議な歌がありますよね。いまの若い人、それ
        がほしいと思ってるんだけど、自分で表現できないというジレンマがある
        んです。そういう教育を受けてないし、誰も教えてくれなかったし、下手
        な歌をうたうのがいちばんいいみたいな風潮があるでしょう。危険な状態
        だと思うんですね。
        都 節まわしなんかバカにしちゃうというか。節を回して歌っている人た
        ちが、私もかつてそうだったかもしれないけれど、だんだん隅のほうにや
        られちゃって、居心地が悪いというか。
        (P244-246)
 
興味深いことに、今年流行った元ちとせも
最初は「こぶし」を消そうとしたらしいが、
いろんな実験の結果、こぶしをむしろ出した。
それが脱色された声ばかりの音楽のなかで新しかった。
しかもかつて金沢明子が歌っていたような「イエロー・サブマリン音頭」のような
ちょっと異様な響きの世界とはまったく違う、
確かな大地性を根にもった新しさだった。
 
今年6月号の「SWITCH」に掲載されている
元ちとせの特集のなかにも、この「こぶし」のことがでている。
 
        元ちとせのファースト・リリースとなったミニアルバム『hajime chitose』
        が、すべてカヴァー曲によるアルバムになったのも、既存の音楽とどう繋がっ
        ていくのか、そこで彼女の新しい歌をどう見つけ出していくかの、ある意味、
        実験の結果だったと言ってもいい。
        「カヴァーを取る録る前に、間宮(工)さんのオリジナル曲で録ってみたりは
        したんですよ。でも、歌うことはできても、私らしさが見つからないんです。
        おまけに新しい曲だから、聴いている方も何のイメージも描けないというか。
        それに最初コブシをとろうとして歌っていた時期だったから……。
         だからオリジナルを一回やめて、在る歌のカヴァーをやってみようというこ
        とになったんです。私もこの歌をどうやって歌うんだろうって考えたときに、
        いいじゃないか、コブシを使ったってって思ったというか、とれなくて、やっ
        ぱり。あるところあるところに出てきちゃって。じゃあ、本番ではないしコブ
        シを出してみようと全部出した。そしたら結局歌いやすいし、自分の中に入っ
        てきちゃうんですよね、言葉が息と共に」
 
今、そのファースト・リリースの『hajime chitose』を聴き直してるのだけれど、
最初の英語の「birthday」を聴くと、あのビョークのような不思議な自然さ?と
どこか通じているところもあるように感じた。
とくにあの伸びのある声とか。
 
それはともかく、コブシといえば、
ほとんどの場合、演歌系の物まねギャクのイメージとしてしか
受け取られていないように思われるなかで、
(実際、上記の対談が行なわれて15年ほど経っていても状況は変わっていなかった)
やっとこのところ、新たな動きがでてきているということなのかもしれない。
昨今のカヴァーブームにしても、「オリジナルを一回やめて」みることで、
「言葉が息と共に」「自分の中に入って」くるような声の可能性を
見ようということなのかもしれない。
 
ところで、あらためて思い返しても80年代というのは
個人的にいっても、ほとんど五里霧中だったというか、
自分がなにをしているのか皆目わからない状況が続いていた。
その時代、混迷の音楽状況のなかで、
こうした対話などがなされていたことを知ると、感慨深いところがある。
ちょうど今、武満徹と小沢征爾の対談『音楽』(新潮文庫/昭和59年発行)を
読んでいるのだけれど、その解説を書いているのも細野晴臣だというのも面白い。
 
時代の混迷は経済にしても続いているのだけれど、
その混迷はひょっとしたらかつての混迷以前の混迷なのではなくて、
80年代にすでにそれを感じ取り90年代にさまざまな模索を続けていくことのなかで
何かが見えてきている混迷なのではないかという気がしている。
このところの北朝鮮の拉致事件の問題にしても。
北朝鮮もほとんど食糧のない飢餓状況のなかで瀬戸際に来ているということなのだろう。
アメリカの恐るべき稚拙さも含め、時代の混迷は深まっているように見えながら、
その実、おそらく多くの人の意識のすぐそこに
なにかが見えてきているところがあるのかもしれない。
 
そうして、音楽はそれらを先取りするところがあって、
そういう意味でも耳をどれだけ開くことができるか。
ぼくのなかでもそれこそが最重要課題だといえそうだ。
 
 


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