BCJ・J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズVol.19


2002.9.29

■バッハ・コレギウム・ジャパン
 J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズVol.19
 〜ライプチッヒ1724-3〜
 指揮/鈴木雅明
 
 「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者」BWV37
 「誠に、誠に、あなたがたに告げる」BWV86
 「イスラエルの牧者よ、お聞き下さい」BWV104
 「あなたはどこへ」 BWV166     
 
(S)野々下由香里
(CT) ロビン・ブレイズ
(T)櫻田 亮
(B)ステファン・マクラウド
 
バッハ・コレギウム・ジャパンによる
J.S.バッハ・教会カンタータ全曲シリーズもこれで第19巻目。
とはいえ全部で200曲あるカンタータ。
まだ半ばさえすぎてない。
やれやれ、ではなく、もちろん、なんという幸福!
 
ちょうど読んでいる吉田秀和の古い音楽批評がバッハのところで、
そのなかに、次の箇所があった。
 
        バッハがきける。いや、バッハが楽しめるということが、どんなにか
        かけがえのない幸福であるか。お節介な言い方で大変恐縮であるが、
        音楽が好きだったら、バッハに心から没入できるようになった方が良
        い。いや、私は、むしろゲーテを真似て、<バッハの味を知らない人
        は幸福である。その人には、人生で最大の至福の一つが待っているの
        だから>と言うべきかも知れない。(P61)
        私は言いたいのだ、バッハのカンタータをぜひきいてごらんなさい。
        一度その魅力に開眼させられたら、これまでなんという宝の山を気が
        つかずに通りすごして来たことか!と思わずにいられないだろう、と。
        これもまた、大変な世界なのだ。(P64)
        (吉田秀和『一枚のレコード』中公文庫/昭和53年11月10日発行)
 
ぼくには音楽学のようなことは皆目わからないのだけれど、
バッハを聴く至福感というのは格別なものがある。
とくに、カンタータを聴きはじめてからはその思いを強くしている。
しかもバッハ・コレギウム・ジャパンによる素晴らしい演奏と
こうしてつきあっていくことができる。
 
今回もロビン・ブレイズの透き通ったカウンターテナーには溜息ばかりで、
櫻田亮の溌剌としたテノールは高らかに響き渡り、
今回はペーター・コーイではないけれど、
ステファン・マクラウドのバスも快い響きを伝えてくれる。
 
ところで、ぼくはクラシックも聴いているとはいっても、
まったくその筋の権威だとかいうことには疎くて、
吉田秀和にしてもその文章を読み始めたのはつい最近のことだけれど、
やはりその文章の品格には深い理念を感じてしまう。
今日何気なく生年を見たところ1913年。
なんとほとんど90歳近くだということ。
最近、(すでに故人ではあるが)堀田善衛の文章もよく読んでいて、
その堀田善衛も1918年生まれ。
まだまだ元気な白川静も明治43年生まれで90歳を超えている。
それらの方々の紡ぐ言葉たちのなんと輝かしい品格に満ちていること!
こうした方々の生きた言葉から得られるものの大きさを
最近はとみに感じることが多くなっている。
 
やはり、生きた言葉かそうでないかが、音楽もそうだけれど、
以前は見かけのほうばかり気にとられてわからないことが多かったように思う。
そういう意味で、バッハのカンタータを聴き始めて
その至福を味わうことができるようになったのも、
閉じていた耳や目がほんの少しだけではあるけれど
開いてきたのかもしれない、と自分で勝手に喜んでいたりする。
実際、ぼくがまだ20歳代の頃、カール・リヒター指揮のマタイ受難曲を
録音してくれたCMディレクターがいたのだけれど、その頃は何の感動もなかった。
見えても見えず、聞こえても聞こえずという状態。
そのテープを聴き直して!!!と思ったのはそれから10年近く後のことになる。
ほんとうはちゃんとそこにあるのに、そこにあることがわからなかった。
先の引用のところにあったゲーテの言葉ではないけれど、
待っていた「人生で最大の至福の一つ」にやっと出会えた、
ということなのだろうけれど、
ほんとうは、禅の十牛図ではないけれど、
何も失われてはいなかったのにそれを探していたような状態。
 
それにしても、今度の第19集も、なんという宝の山!
 
 


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