音の神秘ノート

1998.6.20-1998.7.28


ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」について

音の神秘ノート 1●音楽と人間学

音の神秘ノート 2●声

音の神秘ノート3●画一化

音の神秘ノート 4●音楽の治癒力

音の神秘ノート 5●宇宙のハーモニーという視点から

音の神秘ノート 6●二元性と一元性

 

 

ハズラト・イナーヤト・ハーン

「音の神秘」について


(1998.6.20)

 

■ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘/生命は音楽を奏でる」

 (土取利行訳/平河出版社(mind books)/1998.5.25)

 音楽・音についてこれほど深い、限りないポエジー(創造)の込められた著作があるということに驚かされてしまった。翻訳は、敬愛すべき音楽家、土取利行氏。

 訳者プロフィールを見て驚いたのだけれど、¥土取氏は、1996年、北米インディアン、イロクォイ族の音楽調査に出かけたそうだ。イロクォイ族といえば、先日ご紹介した「一万年の旅路」の著者、ポーラ・アンダーウッドも、その遺産を継承している方なので、できればそのイロクォイ族の音楽について知りたいという誘惑に駆られてしまう。

 それはともかく、著者のイナーヤト・ハーンについてはこの訳書を通じてはじめて知ることになった。日本では、イスラムや、ましてスーフィズムへの関心が低いのもあって、今世紀初頭、欧米各地で精力的に活動したというイナーヤト・ハーンについては訳者もいうようにほとんど知られていないというのが実状のようだ。

 その経歴については、訳者あとがきで紹介されているのだけれど、長くなるので、本書の最後に記されている「著者略歴」で、どういう時代にどういう活動をしたのかのアウトラインを見てみたい。

1882年、北インド、バローダの高名な音楽家の末裔として生まれる。祖父の創設したインドで最初の音楽学院(ガーヤン・シャーラー)で学ぶ。インド全土で演奏活動を行ない、各地の宮廷でもヴィーナー奏者、歌手としての名声を得る。

1903年、ハイダラーバードでスーフィーの師マダーニーと出会い、彼のもとで修行を積む。

1910年渡米。欧米各地で演奏と講義を続け、当時の有名なアーティストとも交流。

1914年から20年にかけて、ロンドンでスーフィー・ムーブメントの母体を形成。その後、欧米各地を旅し、12ヶ国にスーフィー・センターを設ける。

1926年、インドに帰国し、よく27年、デリーにて死去。

著書に''The Sufi Message of Hazrat Inayat Khan''全14巻がある。

 本書は、その著書のなかの第二巻(The Mysticism of Sound)の全訳で、このなかには、「音楽」「音の神秘」「ことばの力」「宇宙の言語」が収められている。序文には、次のように本書が紹介されている。

本書は、ハズラト・イナーヤト・ハーンの音と音楽(創造の基礎としての音、霊的発展のために欠かせない媒体としての音楽)に関する神秘的教えのほとんどを一冊にまとめたものである。高名な音楽家だったイナーヤト・ハーンは、彼に託されたスーフィーの教えにひたすら貢献しようと、その芸術活動を断念した。音楽家であったゆえに、彼は難なく、秘教的な真理を音や音楽を通じて表現する、古代の伝統にならうことができたのだった。

 スーフィーについてはそう深く知っているわけではないのだけれど、なぜか、以前からスーフィーについての著作にふれるたびに、深い愛情のようなものを感じてしまう。今回の、音と音楽についてのものは、とくにそれを強く感じさせられた。言葉にならないけれども、音と音楽について半ば直観的に感じ取っているものもしくは、感じ取ろうとしているものについて、本書には、驚くべきといっていいほど、それが言葉になって記されている。おそらく、訳者の土取さんという方の深い洞察があってこそ、こんな素晴らしい言葉になっているようにも思う。

 この内容については、自分なりに言葉にしておきたい衝動にも駆られるところがあるので、「音の神秘ノート」として、紹介方々思いのままに何か書いてみることにしたいと思っている。

 

 

音の神秘ノート 1

音楽と人間学


(1998.6.24)

 

 つまるところ、音楽とは何なのでしょう。いわゆる音楽とは、耳に聴こえる音の調和のことですが、実は色の中にも、線の中にも、音楽はあるし、種々の草木が繁茂する森にも音楽はあります。そしてそこでは、草や木の共生の仕方にハーモニーがあります。より広く自然を観察すれば、自然はさらに人の魂に訴えかけてきます。どうしてでしょう。そこに音楽があるからです。より広い生命観をもてば、生命への理解が深まり、音楽がもっとよく聴こえるようになります。全宇宙に呼応する音楽が聴こえるようになるのです。でも心の開けた人は、森に出かけるまでもなく、雑踏の中にいても音楽をみいだせます。

 現在、人間の考え方は、物質主義によってひどく変わってしまったので、個性の違いなどほとんどありません。しかし人間の本性を研究すれば、千オクターブのピアノですら再生しえない多彩な人間性に気づくことができます。人はどのように仲良くやっていったり、仲が悪かったりするのか。会ってすぐに友だちになるひともいれば、何年たっても友だちになれない人もいます。さまざまな魂がどのピッチに調律されているのか、さまざまな人がどのオクターブで話しているのか、そしてどんな基準をもっているのか分かりさえすれば……。

(ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」平河出版社/P32-33)

 宇宙には音楽が鳴り響いている。大宇宙の壮大な音楽、惑星たちのめくるめく調和から、多彩な地球上のいのちの大合唱、そしてほんの小さな存在のかすかな歌声まで、宇宙は、共鳴しあう一大シンフォニーなのだ。

 音楽は耳で聴くだけのものではない。それは、あらゆる感覚や感覚ではとらえることのできないものでさえ、聴きとる力さえあれば、聴きとることのできるものだ。

 逆にいえば、物質的に聞き取れる音だけを聞いているのでは、その音楽は平板で魅力のない、生命を失った抜け殻にしかすぎないだろう。現代は、そんな抜け殻、しかもやたらと喧しいだけの騒音以上のものであるような音楽に満ち満ちている。おそらくそれは、聴くことの意味を失ってしまった者たちの、悲しいさまよいなのかもしれないとさえ思えてしまう。しかも、本人たちは、楽しいつもりなのだ。なんという喜劇だろう、そして悲劇だろう。

 人は楽器であり、人それぞれに音色を奏でている。そういう視点で、いや聴き方で、人に接してみると、とても面白いことが聴きとれるようになる。しかも、同じ人のなかでも、たくさんの楽器が演奏されているのだ。そして、多くの場合、それは調和されてはいない。

 自分という楽器に、耳を傾けてみることは、自分を開き、調和させるためにも欠かせないことだ。そして、自分がどんな演奏をしているかを聴きとることで、自分の接する人たちとのセッションの可能性にも新たな視点(聴点)を見出すことができるように思う。

 まさに、それは人間学そのものだ。人間学と音楽とが同じ地平に並ぶとき、そこには大きな実践的な可能性がひらかれてゆく。

 

 

音の神秘ノート 2


(1998.7.1)

 

 声は人の性格をしめすだけでなく、魂を表現します。声は聴こえるだけでなく、見る人が見ると見えるものです。それはエーテルの領域にさまざまな印象をあたえ、その印象は聴こえると同時に見えるといえるでしょう。声はあらゆる次元に痕跡を残します。そして音の実験をして金属板の上に音の痕跡をとらえた科学者たちはいつの日か、他の音よりも声の印象のほうがずっと神秘的で生き生きとし、はるかに影響力をもっているのに気づくでしょう。(略)

 声はワインです。それはこのうえない美酒にもなるし、ひどくまずい酒にもなります。声は人を不快にしたり、高揚させたりもします。インドの偉大な歌手ターンセーンは、歌で奇跡を起こしたといわれています。声を生き生きとさせて、彼は思いどおりのことができたのです。世の中で、声の力によってどれほどの現象が生み出せるかを知る人はごく稀です。もしも奇跡や驚異や不思議の真の痕跡があるとすれば、それは声の中にあります。

 声にはその人独自の特性に関連する、五つの性質があります。声の地の特質は、希望をあたえ勇気づけ、誘惑する。水の性質は、恍惚とさせ、心を静め、癒し、精神を高揚させる。火の特質は、印象的で、刺激し、興奮させ、怖がらせ、と同時に目覚めさせたりもする。しばしば警告は火の特質の声で発せられます。(略)

 それに声の空気の特質、これは人を地のレベルからはるかに上昇させます。声のエーテルの特質は、震撼をあたえ、癒し、平安を与え、調和させ、納得させ、心に訴え、同時にとても恍惚とさせるものです。(略)

 声の研究でとりわけ素晴らしいのは、声からその人独自の進化や、その段階が分かることです。相手を見なくても、まさにその人の声が進化の度合いを教えてくれるでしょう。人の性質は間違いなくその声でわかります。

(ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」平河出版社/P74-77)

 自分の声に耳をすませているとその声が毎日刻々と変化しているのに気づく。

 今日はお腹のしたのほうから響いてくるな、とかどうも今日は胸のあたりでつっかえているような感じがする、とかありゃりゃ、今日は頭のてっぺんからしか声がでてないな、とか。

 相手にしっかりと届く声の出せるときもあれば、それがまったくできないで、声をだしたとたんに、その場で雲散霧消してしまうような声しかだせないときもある。

 そんなふうに、自分の声を意識するようになって、もう長くなるが、そうしていると、まさに「声は人の性格をしめすだけでなく、魂を表現します。声は聴こえるだけでなく、見る人が見ると見えるものです。」ということが、身にしみて感じられるようになってくる。

 自分の声は、どんなふうに見えるのだろう。そんなことを考えたりもしてみる。ブルーグリーンの透明でしなやかな風のような声でありたい、とか憂鬱質のぼくにはまったく不可能に近いのだけれども、ときには、灼熱の炎のような声がだせればいいな、とか思ったりもする。

 自分の声に限りなく意識的であろうとするならば、人の声に対してももちろん敏感にならざるをえない。「声からその人独自の進化や、その段階が分かる」とまではいかなくても、少なくとも、相手と話すとき、その人の声で、その人の関心事や魂の質のようなものがなんとなく伝わってくる。そしてそれが、ある種の形のようなイメージで伝わってくる。とっても不思議なのだけれど、やはり声は形でもあるのかもしれない。

 声ほどに微妙ではないのだけれど、書き言葉にも自ずと「形」は反映されてくるようにも思う。ほとんど同じ内容の言葉なのに、どこが違うんだろう・・・とかいろいろ考えたりもする。

 ぼくはパソ通〜インターネットで、この7年間ほど毎日のように自分でこうして書くことと書き込んでいただいた方の書いたものを読ませていただきながら、いつも思うのは、その書かれた言葉から浮かび上がってくる形があるということ。それは、内容以前の形。とってもおもしろいなと思う。

 それはともかく、声に興味を持ち始めると、やはり、音楽でも、野放図な声にはほとほど嫌気がさしたり、逆に、バッハのカンタータを歌う至上の声に震撼させられるほどの体験を持てるようになったりもする。

 声というのは、ほんとうに興味が尽きない。

 

 

音の神秘ノート3

画一化


(1998.7.15)

 

 今日の私たちの生活を調べてみると、科学が飛躍的に進歩し、ラジオ、電話、蓄音機など、この時代のあらゆる驚異を生み出したにもかかわらず、音楽、詩、絵画などの心理的な側面にはしかるべき進展が見られないように思えます。それどころか、それは後戻りしている感すらあります。ではどうしてなのかというと、それは、まず第一に今日の人類の進歩は総じて機械的進歩であり、これが個性の発展を妨げているということでしょう。(略)

私たちは画一化に規制され、自由をなくしているような気がしてなりません。医学や科学の世界でも同じことが見られるでしょう。しかし、こと芸術においては、最高に自由が必要なところで、人は画一化によって制限されてしまうのです。画家や音楽家たちは、彼らの仕事を認めてもらえない。そこで彼らは、偉大な魂にではなく、大衆に従わざるを得ません。そして大衆は高度に洗練されているわけではないので、どの作品も一般的で、ありふれたものになるのです。美しく味わい深い作品は、ごくわずかの人が親しみ鑑賞するだけです。そして芸術家にとって、このような少数の人と接触をもつのは容易ではありません。いわゆる画一化は、こんなふうにして個性の発展の障害となってきたのです。

(ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」平河出版社/P105-106)

 この本の書かれたのは、シュタイナーの生前の頃のことですから、もう四分の三世紀以上昔のことになるのですが、その頃から、すでに「画一化」の問題というのは、それを理解する者にとってはかなり深刻なものとなっていたのだということがわかります。

 現代ではそれにさらに拍車がかかり、「画一化」されていないものを探すことのほうが難しいくらいになっています。現代の流行歌のあのメカニカルで暴力としか思えないような画一化、芸術性の欠如というのは言うまでもなく、いまだにブランドものを漁ることを恥ずかしいとさえ思えない人たちやブームがあれば、それだけをまさに気晴らしの道具にするしかないような人たち。そんな人たちの減る傾向さえ見えないわけです。

 広告のコピーは、「あなたらしさ」「個性を大切に」を唱うのだが、それが広告というマスの訴求であることだけでも、それが「個性の発展」を意図するものではなく、むしろ、「自分で考えないほうが楽だよ」ということを意識化に忍び込ませることなのだということはあきらかです。

 個性的に生きたいと思い、人に遅れないように流行を追いかける人たち。その「個性」とはいったい何なのでしょうか。「画一化」しようとすることで「個性」的であろうとする矛盾。おそらくそれは、仲間外れにはなりたくないし、少しは人によく見られたいというだけのことなのだと思います。つまり、自分で感じ、考えることの放棄です。そこにはもはや「自由」はありません。

 みんながこぞって、自由は要らない!の大合唱をしているように、音楽を聴いても、絵画を見ても、ファッションを見ても、何を見ても感じられてしまうのはぼくだけなのでしょうか。

 どんなにささいなことでも、自分で感じること、自分で考えること、そしてそこから自分の足で歩き始めること。そうでなくて、たとえば、「組織」が初めにありき、という発想でいるならばそれはどんな「組織」であれ、そこは自由を放棄した牢獄でしかないことを常に意識していなければならないのではないでしょうか。

 

 

音の神秘ノート 4

音楽の治癒力


(1998.7.19)

 

 音楽を通じて癒すという考えは、実のところ音楽芸術を通した発展の初期の段階に属します。その最終目的は音楽を通じての達成、すなわち、ヴェーダーンタでいうサマーディ(三昧)です。

 まず第一に、癒す目的で使うあらゆる薬の背後にあるものを見るなら、またそれらの中にある何が癒すのかと問うなら、それが肉体を構成するさまざまな元素であることに気がつくでしょう。こうした薬の中には肉体と同じ元素があり、私たちに欠けているものをそれで補ったり、体内で起こるべき作用をそれで引き起こしたりします。私たちの健康に必要な波動が、それらの元素の力によって体内に生み出されます、そして血液循環を一定のリズムや速さにすることによって、私たちの治癒に必要なリズムを生じさせるのです。

 これによって私たちは、健康とはリズムと音調が完全な状態であることを知ります。ところで音楽とは何でしょう。音楽とはリズムと音調です。健康が乱れたときには、まともな状態にするのにハーモニーやリズムの助けが必要です。この治療法は自分自身の生命の音楽を研究したり、脈拍や心臓の鼓動や脳波のリズムを研究することで学べます。リズムに敏感な医者は脈拍、心臓の鼓動、血液循環のリズムを調べて、患者の状態を診断します。そして医者が病気の真の原因をみつけるには、肉体の知識がいくらあろうと、直観や音楽的才能にたよらなければなりません。

(ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」平河出版社/P110-111)

 音楽療法の基本的な考え方がここに述べられています。

 音楽療法や絵画両方といった芸術を通じた癒しということについて最近ではとみに注目されることになっています。たとえば、ニュートンが色彩を光の波長をたんに主観的にとらえたものとして考えるような在り方からは、芸術療法というのは意味を持たないのですが実際のところ、音からも色彩からも、人はさまざまな影響を受けています。人間は、代替可能なパーツとしての器官を組み合わせたものではなく、ひとつのハーモニーやリズムという視点から全体としてとらえなければなならいのです。

 これは、おそらく聴覚や視覚という個別の感覚だけではなく、触覚、嗅覚、味覚を合わせた5つの感覚、いやシュタイナーのいうように12感覚の全体としてのハーモニーやリズムという視点からとらえなければならないように思います。

 ですから、単に治療ということを、病名を特定する作業−それに対応する薬などによる治療というようなまるで自動販売機のようなものとしてとらえることによっては、真の意味での治療にはならないということがいえます。

 そして、おそらく医者は、治療にあたって患者のさまざまなデータを集めさらにそれらを総合し、その奏でている音楽として患者の存在に耳を傾けることができなければらないのではないかと思います。それが、引用部分にもあるように「直観や音楽的才能にたよらなければなりません」ということなのではないかと思われます。

 これは、治療される患者として自分をとらえたり、治療する医者として自分をとらえるというように分けてとらえるのではなく、自分をその双方の総合としてとらえなければならないということでもあります。

 つまり、自分はいまどんな音楽を奏でているのだろうか。その音楽が不調和になっているとしたならば、その不調和を調和させていくために、どんな働きかけが必要なのだろうか。そういう問いかけを自分に常に行なっていくということです。

 そして問いかけるということは、具体的にどうするかということにつながります。不調和な環境から遠ざかり、くつろぐというのもひとつでしょうし、食べ物によって不調和になっているとするならば、調和を得ることのできるような食べ物をとるということでもあります。

 そうしたことは、試みの最初にはなかなか難しいことかもしれませんが、日々そうした自分に耳を傾けることを続けることによって、自分の今奏でている音楽ということを感じとれるようになってくるはずなのです。

 

 

音の神秘ノート 5

宇宙のハーモニーという視点から


1998.7.22

 

 霊性を獲得するということは、全宇宙が一つの交響曲だとはっきり理解することです。その中では、個々人が一つの音となり、その人の幸せは宇宙のハーモニーと完全に同調することにあるのです。それは、人を霊的にするある宗教に従ったり、ある信仰をもったり、一つの思想に熱狂したり、この世で生きるには善良すぎる人になることではありません。霊性という意味すら分からない善良な人は大勢います。彼らはとても善良ですが、究極の善がどういうものなのかまだ分かっていません。究極の善とは調和そのものです。たとえば、世界のさまざまな宗教の教義や信仰は、僧や師らによって布教されていますが、人は必ずしもそれを理解して、話せるというわけではありません。それは宇宙のリズムに同調したある人の心から自然に湧いてくるものです。その人の行動、話すことば、感情、心情、すべてが同調しています。それらはすべてが徳であり、宗教です。宗教を理解するのではなく、宗教を生きるのであり、生を宗教にすることこそが必要なのです。

 音楽は全宇宙のハーモニーの縮図です。なぜかといえば、宇宙のハーモニーは生命そのものであり、宇宙の縮図である人間は脈拍、心臓の鼓動、波動、リズム、音調の中に和音や不協和音を表わすからです。健康・病気、喜び・苦痛、これれはどれも生命における音楽、ないしその欠如を示しています。

 では音楽は私たちに何を教えてくれるのでしょう。音楽はハーモニーの中で自分を鍛えられるよう助けてくれ、これが音楽の背後にある魔術、秘密なのです。楽しい音楽を聴くと、それはあなたを同調させ、生命と調和させる。だから人は音楽を必要とし、音楽を熱望するのです。音楽なんて関心ないと言う人が大勢いますが、そんな人たちは音楽を聴いたことがないのです。本当に音楽を聴けば、それは魂にふれ、きっと愛さずにはいられなくなります。でなければ、それは十分に音楽を聴かなかったということであり、音楽を聴き、楽しみ、味わうために心を平静にしなかったということです。そのうえ、音楽はある能力を発展させてくれ、それによって人は芸術や科学の形をとった善いものや美しいものをすべて味わえるようになります。そして音楽や詩の形で、さらにまた美しさのあらゆる相を味わうことができるのです。

(ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」平河出版社/P120-121)

 いつも自分のなかに流れている音楽に耳を傾けること。自分という音楽そのものを体験すること。

 あるとき、私はかぎりなき調和そのものであり、またあるときには、調和を見出せないままに不協和音となる。

 自分が音楽そのものであるということが「宗教を生きる」ということにほかならない。その「宗教」とは、教義や組織や信仰ではなく、生そのもの。だから、宗教と呼ばず、音楽と呼ぶことがふさわしいのかもしれない。

 自分が音楽そのものになるとき、教義や戒律は存在しない。教義や戒律は、音楽になれない人、音楽を聴けない人のための不協和音矯正ギブスのような歪んだ拘束衣にすぎない。そしてそれはもはや音楽とは似ても似つかないものとなる。それはおのずと流れ出すものであり、決して人を従わせるようなそんなものではありえない。

 音楽は、私たちに「ハーモニーの中で自分を鍛えられるよう助けてくれ」る。

 だから、不調和からも学ぶことができる。世界は単に調和しているだけではないのだから。自分の調和・不調和はもちろんのこと、人の調和・不調和にも耳を傾けること。

 自分に耳を傾けてもそうであるように、周囲を見回すとあまりの不調和に耳を覆いたくなるのだが、その不調和を単に排するのであれば、この世界の意味は失われてしまう。

 その不調和に高次の調和をもたらすためにはどのような音楽が必要なのだろうか。そのこともおそらくは、音楽に求められている課題かもしれないと思う。

 ただ美しい音楽には力はない。泥の中から蓮の花が咲くように、不調和という泥のなかから、その泥そのものを変容させるような、そんな音楽が今まさに必要とされているのかもしれない。

 

 

音の神秘ノート 6

二元性と一元性


1998.7.28

 

 すべての「現われ」は二元的で、二元性が私たちを知的にします。そしてこの二元性の背後には一元性があります。二元性を超えて一元性に向かって進まないと、完成に到ることもないし、霊性も達成できません。

 だからとって学ぶことが無駄であるというのではありません。それは大いに役立ちます。識別し、違いを見分ける力を与えてくれます。知性を鋭敏にし、視力を鋭くするので、私たちはものの価値や用途を理解し、判断できるのです。それはみんな人類の進化の一部であり、すべて有効です。ですから、私たちはまず学ばなくてはならない。でもその後に捨てるのです。地上に立っているとき、真っ先に空は見ません。まず地面を見て、そこで学び観察するよう提供されたものを見ます。しかし同時に、地面だけを見て、人生の目的が果たされると思ってはなりません。人生の目的の実現は天に向けることにこそあるのですから。

 音楽の素晴らしさは、それが人を思考から離して、精神集中や瞑想を助けることです。それゆえ、音楽は有形と無形をへだてる湾にかかる橋になると思います。知性にあふれ効果的、しかも形のないものがあるとすれば、それは音楽です。詩は形を示し、線や色彩も形を示しますが、音楽が示すものは形なきものです。それはまた全生命を通じて振動する響きを生みだし、思考を、物質の過密さを超えた高みへと引き上げます。それは物質を精神に変え、その根源的状態に戻し、波動の調和を通じて人の全生命の原子にくまなく触れるのです。

(ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」平河出版社/P124-125)

 分かるということは分けるということだ、とはよく言われることだ。

人ははじめ大いなる一体性のなかにいるが、やがて「分かる」ために、一体性から離れていく。そしてみずからは大いなるものではないと思いこむようになる。そして、大いなるものを求めるようになる。または、大いなるものの代わりとしてのさまざまな幻影を。

 禅の十牛図は、そうしたプロセスを描いている。

 しかし、最初から円相を描いていてもどこにも行けない。重要なのは、まずは、分かろうとすること。二元性であることを通じてしかできないことを試みること。二元性を拒否した母胎のなかから出ようとしないのは、それ以前。重要なのは、二元性から一元性へのプロセスなのだから、地上を這うことを避けてはならない。人には翼がないのだから、天に向かっていきなり飛ぶことはできない。飛ぶためには、飛行船や飛行機や宇宙船が必要だし、そのためには、二元性が不可欠なのだ。

 二元性から一元性へのプロセスを象徴するのは、形のないもの、対象のないものへアプローチすること。音楽がほかの芸術にくらべて素晴らしいのは、そこに具体的なかたちがないということかもしれない。

 目は閉じることで見ないということができるが、耳はみずから閉じるということはできない。そのことはいったい何を表わしているのだろう。おそらく、目は二元性を象徴し、耳は一元性を象徴しているのだ。そしてやがて、声なき声までもが聞き取れるようになる。

 音のなかでやすらうとき、人は大いなるものとともにいる。そして、人はそうしたやすらぎを得るためにこそ、二元性という原理の支配する地上を歩まねばならない。まさに、対象のない音を聞き取るために。そのプロセスそのものが、生だといえるのだから。


 ■「音の神秘ノート」トップに戻る

 ■風の音楽室メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る