風の音楽室8

 

1999.10.27-2000.6.1


■音体験の可能性の拡張について

■武久源造「オルガンの銘器を訪ねて Vol.1」

■パトリシア・カース「パスワード」

■キース・ジャレット「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」

■ペルゴレージ「スターバト・マーテル」

■レコード

■music for 陰陽師

■長谷川きよし

■創造性の復活へ

■中村雄二郎「精神のフーガ」

 

 

風の音楽室

音体験の可能性の拡張について


1999.10.27

 

個々の音は、状況次第でそれぞれひとつのメロディーとして感じ取ることができるということ、それを感じ取るには、自らの深みに沈潜し、音の内から部分を、いわば部分的な音を取り出すのだということ、するとその部分的な音同士の割合、その調和が、そのまま既に一種のメロディーとして感じられるのだと言った場合、その言っていることの何であるかをまともに想像することがおできになるでしょうか。 (…)

今私は、音の体験の可能性そのものを拡張することを専ら念頭に置いているのです。すなわち、いわば音を体験する際、音の深みへ入り込み、そしてまた、その音の中から何かを取り出して、その結果、音そのものの内に、何かがすでに感じ取られるようになるということなのです。 (…)客観性を帯びた仕方で行なわれる作用とは関係なく、ひとつの音の内部で体験されることなのです。人は音を勝手に分析したり、それを再び統合したりしがちです。私が申し上げているのは、純然たる体験のことなのです。(…)

私が考えているのは、ひとつの音から得られる体験、メロディーとして感じられる体験のことです。ひとつの音が打ち出されると、実際、その音からメロディーが響きだすのです。 (…)

実際、こんにち、音楽的な音の体験として捉えられている音は、いまだ、他の音と関連付けられるような音、いくつか集まってひとつのメロディーになるような音などなど、でしかないと思います。しかし、私は、音には、我々がその深みに入り込む可能性、さらにはまた、おそらく、その背後に何かを探しだす可能性を秘めていると思うのです。そして、このことに目を向けるときに初めて、実りある議論が可能となるのです。 (…)そして私が言いたいのは、音楽の進化にとっても、― 我々が絵画創作において色彩の中に沈潜し、色彩の内から創造しようと試みるのとちょうど同じように― 音の内に沈潜することが今日、進化の始まりとして何らかの意味をもっているということなのです。そして、その端緒があちこちで現われてきた時に、その現われ方に人が共感できないという場合、そのことも私には十分理解できることなのです。共感できないことは問題ではないのです。

(シュタイナー『音楽の本質』 「質疑応答その一」より1920年9月29日、ドルナハ /樋口純明訳(HPより) )

一音のなかに無限を見る。音色そのものにこそこだわる。日本の伝統のなかにも、そうしたありかたへの深い洞察がある。もしくはあったように思う。

音体験を単に線的な流れとしてのメロディーやリズムだけに置き換えてそれらが外からやってくるようなものとしてとらえるのではなく、音そのものの深みへと向かうこと。音の内部へと沈潜すること。聴くということの可能性を、その音の内面へと向かうことに見出すことを思う。

そこに鳴っている音を物理的に聴く音としてしかとらえられないならば、その音はすでに死んでいるなにかなのではないか。多く音楽はすでに死んでいる音になってしまっているように感じる。それらの音たちからなにかが生成し育っていくことはもはやないような音たち。

「あ」という音、その音色そのもののなかに響いているいのちを感じること。あ、い、う、え、お、という母音たちの響き。す〜〜〜〜〜というような子音たちの響き。それらを響かせる大いなる間としての宇宙。その時空に鳴り響く、いや時空そのものを織りなしていく響きたち、そのいのち。

人の声の神秘、そしてその可能性。私が話し、歌う声。そのもののうちにある秘密を聴きとること。私がその声そのものとなって宇宙のなかに響くこと。または私という場で宇宙が響くこと。

 

 

風の音楽室

武久源造「オルガンの銘器を訪ねて Vol.1」


1999.12.5

 

■武久源造「オルガンの銘器を訪ねてVol.1」

 カザルスホール

 オルガン:北ドイツ・バロック様式、ユルゲン・アーレント氏製作

 製造・発売元:コジマ録音 ALCD-1025

武久源造さんによる、<オルガンの銘器を訪ねて>シリーズの第1弾。まだ聴いてないけれど、第2弾の「清春白樺美術館・ルオー礼拝堂」のオルガンによる演奏のものも発売されているということ。

ここ数年、オルガン製造ラッシュともいえる現象があるらしい。ぼくの住んでいるところの近くにある学校でも、この15日、オルガンの完成を記念した武久源造さんによる演奏会が開催される予定になっている。

武久源造さんとはまた直接お会いしてお話したことはないのだけれど、その演奏を聴くほどに、その考え方を知るほどに、共振の度合いが深まっていくのを感じる。同時代に、同い年の、しかもぼくの住んでいるところの出身のこうした敬愛すべき音楽家がいることを喜びたい。

このCDは明記しているように「コジマ録音」というところから録音・発売されていて、なかなな手に入れにくいものとなっているようだ。武久源造さんとわりと親しい友人からCD案内などをいただくのだけれど先日もその在庫がないので、注文しようとすると注文が困難というかいつ入荷できるかわからないというので困ったことがあるくらいだ。その素晴らしいCDは、

■武久源造(チェンバロ)

 鍵盤音楽の領域vol.5 ALCD-1022

なのだけれど(これがまた素晴らしいので機会があればぜひ)、そのCDショップと懇意なその友人から紹介されたということでちょっと無理をいって入荷してもらった。演奏者の地元でそうなのだから、注文するとすれば、送料を払ってコジマ録音まで注文したほうがいいかもしれない。(TEL 03-3375-5811 FAX03-3375-5036)ちなみに、インターネットでのCDショッピングで検索しても、武久源造さんのCDはほとんど検索できなかったりする(^^;)。

さて、CDに添えられている武久源造さんの「解説」はいつもすばらしいものなのだけれど、今回のものもなかなか示唆的なので、CDの紹介を兼ねてご紹介したいと思う。

今からほぼ100年前、今世紀に入った辺りから音楽需要は三つの方向に分裂した。ウィーンでシェーンベルクが調性概念を拡張し、最後には調性そのものを否定する道のりを踏み出したとちょうど機を一にして、パリでランドフスカが、ロンドンでドルメッチらが古楽復興運動の狼煙を上げた。これはドイツを中心に起こったオルガン復興運動とも手をさずさえていた。しかし大半の聴衆は未だなおショパンやリスト、ヴァーグナーやヴェルディの熱狂的ファンであった。新しい動き、つまり古楽と前衛音楽は最初は地下で細々と展開されたが、数十年を待たずに確固たる市民権を得るようになった。その結果どうなったか?19世紀が終わるまで、音楽活動は少なくとも表面的には一枚岩であった。つまり、聴衆は自分たちの要求を満たしてくれるような新作を作曲家に期待し、作曲家は多かれ少なかれそれに応えて曲を書いた。そしてその双方の思惑を結ぶべく、演奏家がその名人芸を尽くして、聖なる場ともなり社交の場ともなる不思議な営み、即ちコンサートを盛り上げたのであった。ところが今世紀に入って状況は徐々に変わった。何者が変えたのか、とても一言では言えない。思想が先行したのか、実利が先だったのか……。が、ともかく、上に述べた分裂を反映して、コンサートのプログラムは大きく三つの方向に分かれた。その一は、現代社会の矛盾を象徴し、現代人の精神状態を投影したと言われる、不協和音と無調性の前衛音楽。その二は、ベートーヴェン以前、モーツァルト以前、バッハ以前、(どこから近代音楽が始まったと考えるかでこの名前は変わってくるが、いずれにせよX以前の)古楽。そして最後は、保守主義者が好むところの、しばしば退嬰的、また、退廃的ともなりかねない<前世紀の>音楽である。別に言えば、音楽家と聴衆の好みは未来派と現状維持派と古典回帰派に分かれたのである。(さらに、自分たちのルーツ探しという意味では、民族音楽への興味をも古典回帰派に含め、これを原初回帰派と呼んで一括できるかもしれない。けだし、古楽や民族音楽が時としてどんな前衛音楽よりも前衛的に響いたというのも、やはり現代ならではの皮肉な状況であったろう)。(中略)

私はこれまでのキャリアの大半を古楽に捧げてきたものであるが、今思うとそれは、忘れ去られた古い音楽を掘り起こし、それを甦らせるという歴史的興味に終始するものでは決してなかった。つまり、古楽をする のは昔の人々のためではない。それは、現代に生きる我々自身のため、やむを得ず鈍磨するに至った耳を活性化し、我々が音楽と呼ぶもののルーツに目覚め、地に根を下ろした、我々の音楽活動を再建するためだった。目指すのは、分裂でも細分化でもない。再統合をこそ、であった。

この「やむを得ず鈍磨するに至った耳」という表現は、現在のようなマス化しルーティーン化した耳にあっては、もはや「鈍磨」する以上の状態になっているようにも思われるのだけれど(^^;)、その「耳」を活性化し、「再統合」を目指すという試みは、まるでシュタイナーの「精神科学」を形容するものでもあるように思う。それは、失われた過去への回帰でも、すでに退嬰的でもある科学主義・実証主義への傾斜でもなく、それらの再統合による新たな試みでもあるのかもしれない。武久源造さんの演奏やその言葉を聞いていると、なぜかいつもシュタイナーの「精神科学」に近いなと感じるのも、決してただのムード的な感覚でもないように思う。「精神科学」を探究するとしたら、その表面的なかたちではなく、その根底に流れている「精神」への視線が必要だと思う。シュタイナーと名前がついていても、「精神科学」からもっとも遠いとしか思えないものもあるように思える。

 

 

風の音楽室

パトリシア・カース「パスワード」


1999.12.28

 

■パトリシア・カース「パスワード」

 Epic Records ESCA8083 99.10.21

「ダン・マ・シェール」に続く、パトリシア・カースの2年半ぶりのアルバム。

あまり新譜情報などを最近は見ないので、見過ごしていて、久しぶりに立ち寄ったCDショップで、ひょっとしたらと見てみたら、なんと、パトリシア・カースの新譜がでているではないか。

パトリシア・カースのデビュー盤「マドモアゼル・シャントゥ」が出たのが1987年。はじめて「マドモアゼル・シャントゥ・ブルース」を聴いたときの感動は今でも忘れない。それはまさに、こんな歌が聴きたかった!という歌だった。歌そのものが、ぼくのなかを駆けめぐってくれるようなそんな歌。ぼくの垣根を軽々と貫いて響き抜けていくその声と響き。最高だった。

その後、アルバムとしては、「セーヌ・ドゥ・ヴィ」、「永遠に愛する人へ」、「ダン・マ・シェール」と続いて、今回のアルバム。そう、あれからもう12年も経ってるんだ。しかし、最初のとてもフレンチなアルバムに比べて、アルバムごとに、その色合いが薄れていくのが残念な気がしていたのだけれど、今回のアルバムは、最初のデビューアルバムをきめ細やかな表現力でパワーアップしたようなとてもぼく好みのアルバムになっていて、とてもうれしい。

そういえば、女性ボーカルで、主なアルバムを全部持っているのはパトリシア・カースだけのような気がする。男性ボーカルでは、デビッド・シルヴィアンくらい。パトリシア・カースとデビッド・シルヴィアン・・・。ぼくのなかでのナンバー1シンガーは、この二人かなという感じ。日本の女性ボーカルでは、たとえば矢野顕子なども好きなのだけれど、ともすればその母性的すぎてあまり色気のないところに疲れてしまったりする。それに比べて、パトリシア・カースのあのちょっと抜けた色気、そして渋い余韻のある響きは、もうなかなか比較できないなという感じがする。

1999年を飾るのにふさわしいポップスアルバムが、今年は、パトリシア・カースとデビッド・シルヴィアンのふたりとも発売されたのは、ぼくにとってはとてもうれしい。

しかし、人の声というのは、ほんとうに不思議だと思う。だから、歌を聴くのはやめられないし、語る声を聴くのもやめられない。そしてときおり、出会える素晴らしい声に、魂をふるわせる喜びは何者にもかえがたいと思う。できれば、一生に一度でいいから、そういう声を自分でもだせるようになれればいいと願う。

 

 

風の音楽室

Keith Jarrett:The Melody At Night,With You


1999.12.30

 

■キース・ジャレット「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」

 ECM POCJ-1464 99.10.14.

こんなふうにシンプルに話せたらいいな。久しぶりのキースのアルバムを聴いてそう思った。

ソロとしては初のスタンダード曲集だというのは意外。けれどもたしかに、ソロでのスタンダード集を聴くのははじめてのような。

キースのアルバムをはじめて聴いたのは、あれはたしか「ザ・ケルン・コンサート」。あの2枚組のレコードは、かなりすり切れてしまったけれど、今もちゃんと持っていたりする。大学に入ってしばらく経った頃のこと。それがきっかけでジャズばかり聴くようになっていった。

チック・コリア、コルトレーン、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、MJQ、デューク・ジョーダン、ビリー・ホリデイ、ビル・エヴァンス・・・・、毎日毎日、その頃はまだ何軒もあったジャズ喫茶に座りながら、お気に入りのアルバムを聴いて、そしてヴィトゲンシュタインを読んでいたり…。

その後、ジャズはあまり聴かなくなっていったけれど、キース・ジャレットのアルバムだけはわりとよく聴いていた。あの「○○○・コンサート」と題された即興のライブは、とくに魅力的だったし、グルジェフの音楽を奏でたアルバム、民族楽器を演奏したアルバム、そしてバッハなどクラシックの演奏を収めたたくさんのアルバム、そしてジャズ・ライブ。どれをとっても、とても心惹かれてきたのは、キースのあの音への自由さと真摯さゆえだったのではないか。

今回のアルバムは、スタンダードをソロで演奏したものといえばそういえてしまうのだけれど、この自由さはなんなのだろうと思う。もっともシンプルな音がこれほどに響いてくるとは。

聴きながら思うのは、これは思考ということとも似ているな、ということ。よく、「頭で考える」とかいうことで、思考に否定的な感情をもっている方がいたりもするのだけれど、それはおそらく、生きて創造していくような思考ということを体験できていないがゆえの偏見なのではないかと思う。

生きた思考は、決して恣意的なものでも、冷たいものでもなく、とてもシンプルで深い創造的表現そのものなのだけれど、その生きた思考の響きを聴くことのできない耳にとって、それは音楽として響いていないのだなという気がしてならない。

とはいえ、ぼくもかつてはおそらく死んだ思考しか聴くことができなかったのではないかと思う。今でもほとんどがそうなのかもしれないけれど、何かを考えようとしはじめてから、20年以上暗中模索して、そうしてはじめて聴くことのできる思考の音楽があることに気づくことができたような気がしている。そしてそれは、このキースのシンプルなピアノのようなそんな音楽。

このアルバムは、「風の音楽室」でご紹介する1999年の最後を飾るにふさわしいものだという気がして、こうしてご紹介させていただくことにしたいと思う。

 

 

風の音楽室

ペルゴレージ:スターバト・マーテル


2000.1.9

 

■ペルゴレージ:スターバト・マーテル

サルヴェ・レジナ

 アンドレアス・ショル(カウンターテナー)

 バーバラ・ボニー(ソプラノ)

 レ・タラン・リリク

 クリストフ・リセ(指揮)

 録音:1999年2月 パリ

 1999.10.1 DECCA POCL1900

以前、ショルによるヴィヴァルディ(1678-1741)のスターバト・マーテルをご紹介したことがありますが、このペルゴレージ(1710-1736)のスターバト・マーテルのほうが、ずっと有名のようで、ルネッサンス及びバロックの名曲・名盤の紹介などをみても、こちらのほうがよく紹介されていますし、CDなどもたくさんでているようです。

とはいうものの、クラシック通ではないぼくは、今回初めて聴きましたし、ペルゴレージがわずか26年の生涯であったことや、この作品が、その生涯の最後に書き残されたものだということなど、今回始めて知ることができました。また、クリストフ・リセという指揮者のこと、その率いる古楽アンサンブル「レ・タラン・リリク」についても、これまではまったく知りませんでした。また、バーバラ・ボニーというソプラノですが、ずっと以前から気にはなっていたものの、この演奏を聴いてすっかりファンになってしまいました。ショルの透明感のあるカウンターテナーとほんとうによく合っています。

ショルについてはこれまでに何度もご紹介していますので、あえて繰り返しませんし、発売されるCDなども、繰り返しになるのもあってあまりくどくご紹介したりはしていないのですが、どの演奏を聴いてもほんとうに素晴らしいの一言です。そして、今回の演奏がまた素晴らしい。おそらくまだご紹介していないと思いますが、少し前に、ヘンデルのアリア集(harmonia mundi HMC 901685)もでていて、これも素晴らしい演奏でした。素晴らしいとばかり言って能のないご紹介になっていますね(^^;)。しかし、ほんとうにこのスターバト・マーテルのアルバムは、買い!です。スターバト・マーテル以外に収められている「サルヴェ・レジナ ヘ短調」(ショル)「サルヴェ・レジナ イ短調」(ボニー)もまたなかなかの演奏です。

さて、この「スターバト・マーテル」。ペルゴレージのものだけではなく、ヴィヴァルディのものもあり、聴きくらべてみるというのもなかなか面白いと思います。

そういえば、昨年、バッハ・コレギウム・ジャパンの「マニフィカト」が発売されていましたが、このアルバムは「マニフィカト」のヨハン・クーナウ(1660-1722)、ヤン・ディスマス・ゼレンカ(1679-1745)、J.S.バッハ(1685-1750)の作品が演奏されたもので、このように同じテーマを別の作曲家によるものでくらべて聴いてみるのもかなり楽しめます。そうそう、J.S.バッハとほぼ同時代のゼレンカの作品の演奏が最近少しずつでていて、要注目だと思っています。

なんだか、あまりまとまりませんが(^^;)、日々いろんな素晴らしい音楽演奏を聴くというのは、得難い体験だなあ、ということがいいたいわけです(^^)。今、転勤のための引越の準備の最中なのですけど、そういうときに聴いても、魂の奥底にまでしみてきて、その調和を奏でてくれるというのは、ほんとうにいいです。最近よくヒーリング・ミュージックとかいうのがでてますけど、ほんとうのヒーリングという意味では、なんでもα波のような類のものではなく、やはり、こうした魂に働きかけて、調和を共創造することを通じて、その働きを高めてくれるようなものがいいのではないかと思います。

 

 

風の音楽室

レコード


2000.2.2

 

引越のおかげで、長らく壊れていたレコードプレーヤーを廃棄し、新しいレコードプレーヤーを購入することになった。もう何年もレコードを聴いたことがなかったのに改めて驚く。

中学生の頃から80年代の中旬、レコードが発売されなくなる頃までに購入した数々のレコードたちの顔。やはりこれらのレコードたちが聴けないままなのはもったいない。

最初に聴きたいと思ったのは、70年代のロックアルバムたち。これらの多くは、なぜかyuccaがかつて購入したものが多い。とりあえず、ピックアップしながら聴いたのが、ローリング・ストーンズの「山羊の頭のスープ」、ディープ・パープルの「バーン」、アリス・クーパーの「ビリオン・ダラー・ベイビーズ」「キラー」、レッド・ツェッペリンの「フィジカル・グラフィティ」。

価格は1枚組で2300円、2枚組で3400円。シングルだと400円くらいだったと思う。物価のことを考えたら、子どもが買うにはかなり高価なものになる。そういえば、中学、高校とお小遣いを少しずつためながら、欲しいレコードを手に入れて、それこそすり切れるまで聴いていたその後、そこまで聴きこんだ音楽はほとんどないように思う。

感覚も常に創造されていくのだ、ということを思ったりもする広告表現などを見てみればわかるけれど、かつては新鮮でカッコ良くみえていたものをかなりあとで見直してみると、決してそうは見えなかったりする。タイポグラフィなどをみても、かつてそれに対して感じていたものとは異なっていることに気付くこともよくある。商品のデザインなどを見てみれば、そのことがよくわかるかもしれない。

さて、久しぶりに体験したレコード。まずレコードジャケットのあのサイズとデザインのインパクトが新鮮である。しかも、CDとはちょっと異質ともいえる音色が身体全体に染み渡ってくる。やはり、CDのクリアーなデジタル音とは、どこか違っているような気がする。それになんといっても針がノイズを拾うあたりがなかなかに味わい深い。そういえば、もう30年ほどまえ、はじめてステレオセットを買ってもらって、針をおそるおそるレコードに落としたときのことを思い出す。まだやっとカセットテープが普及しはじめた頃のこと。

しかし、あの頃のロックの音を聴くと、今も決して古びていないどころか、驚くほどヴィヴィッドで決してコピー的ではない音たちであることがわかる。あの時代のロックのあのパワーはいったい何だったのだろうと思う。その後、あのパワーを体験できないまま今に至っている。むしろ、バッハのカンタータを聴いたほうが、それに近いような何かを感じる。

さてさて、レコードを眺めていて、あ、これこれ、という懐かしいレコードをみつけた。戸川純の「玉姫様」。ゲルニカでの活動後の最初のソロアルバムである。ううん、このパワーも、いったい何だったのだろうと考えさせられる。説明のつかない声、音楽というのが、最近はほとんど聴かれなくなってしまっているように思う。かつて「すり切れる」ほどに聴いていたレコードたちは、やはりそこに説明できない何かを持っていたのではないかと思う。ぼくが最初に惚れ込んだポップス、ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」などというのも、いまだに、ううん、これはいったい何だと思わせるものを持っているように感じる。レコードの時代からCDの時代へというのは、アナログからデジタルへということなのだけれど、その変化のなかで切り捨てられてしまいがちなものときおりはしっかりと耳を傾けてみるものいいのではないだろうか。

 

 

風の音楽室

music for 陰陽師


2000.3.24

 

■伶楽舎・ブライアンイーノ

 「music for 陰陽師」

 ビクターエンタテイメント vicp-60980〜1

陰陽師の音楽版、登場。岡野玲子もここまでこだわるか!という一品。ジャケットを見るだけでも、価値あり。このCDを聴きながら、『陰陽師』を読み直してみるのも一興かも。

『陰陽師』の9巻に、このCDの絢爛とした紹介のチラシが入っていて、2月29日発売ということなので、CDショップにあるだろうと思い、タワーレコードやヴァージンレコード、HMVなどに出かけたのだが、どこも発売されたはずなのだが、未入荷ということ。さては、広告が先行して製作が間に合わなかったのかと思ったのだが、さにあらずで、本屋さんと併設してある郊外店には、しっかりと「ブライアン・イーノ」のコーナーに、さりげなく(?)置かれて、ぼくを待っていた(^^)。おそらく、新譜の入荷の際、この「music for 陰陽師」をどこに位置づけたものかわからなかったのではないか。そんなことを考えたりもした。

「ブライアン・イーノ」のコーナーにあるといえば、何のことやらわからないかもしれないが、この「music for 陰陽師」には、2枚のCDが収められていて、1枚が、1300年続く家系の芝祐靖が率いる伶楽舎による雅楽の演奏を収めたもので、そしてもう1枚が、なんとブライアン・イーノのCDになっている。

なぜブライアン・イーノなのか。CDには、ブライアン・イーノの文章が収められている。

岡野玲子から陰陽師の音楽の依頼があったとき、私は彼女の仕事について知らなかったし、平安時代の歴史についてもほとんどわからなかった。唯一、平安時代で知っているものといえば、何年か前に読んだ清少納言の「枕草子」くらいで、それはその時代の香りを感じさせるのに十分な深い印象を与えてくれていたと思う。岡野玲子の本はもっと入りこみやすいものだった。私には直接読むことはできなかったけれども(私の義妹のチャーミアンがいくつかの章を翻訳してくれる手伝いをしてくれた)、描画や空間表現がーー魔的で、神秘的、そして時には恐ろしく気味の悪い雰囲気を持っていてーー強烈な感覚を与えてくれた。そしてこの音楽世界には、月並みな「音楽的」サウンドよりは、より金属的で、液体的で、気体的な、より基本元素にもとづいたものがよいと感じたのだ。

聴く前は、なぜブライアン・イーノかと思ったのだけれど、聴いた後は、だからブライアン・イーノなんだなと感じた。ブライアン・イーノのいうように、「金属的で、液体的で、気体的な、より基本元素にもとづいたもの」という感じが、もう一枚の伶楽舎による雅楽演奏と不思議な照応関係にあるようなそんなことを感じることができた。

さて、陰陽師、安倍晴明が静かなブームになっているが、いろんなかたちで、今、「日本」が噴出してきている。もちろん、ほとんどがカオスのようなものなのだけれど、そのなかに、ひとにぎりの「清水」がわき出ているようにも思う。この陰陽師もそのわずかな「清水」のひとつかもしれず、「雅楽」が見直されてきているというのもそうかもしれない。聴いてみると、なかなかに奥が深い。

yuccaの弟が笙などをしている関係もあって、少し前から、雅楽に少なからず興味がでてきているのだけれど、なかなかに奥が深そうだし、聴くにつけ、ぼくのなかの何かが蠢いているのも感じたりする。

さて、伶楽舎の演奏に関しては、ALMから発売されている「循環するシルクロード実行委員会編:甦る古代の響き」のシリーズがあって、なかなかいいので、ご紹介しておきたい。

■天平琵琶「番か祟」(bANKASO」 ALCD-2001 ALM RECORDS

■箜篌 ALCD-2002 ALM RECORDS

■方響 ALCD-2003 ALM RECORDS

また、伶楽全般に関しては、次のものがけっこう参考になるように思う。以前、「箜篌」がどんなものなのか知りたいと思って、いろいろ探した際にやっと見つけることができたもの。

■伶楽(日本音楽叢書2)

 編集:木戸敏郎 協力:国立劇場 音楽之友社 1990.11.10発行

また、雅楽をビジュアル的に楽しめたもので、最近買ったものでは、次のものもけっこういいし、このなかには、伶楽舎の芝祐靖のインタビューも収められている。

■監修:東儀俊美

 「雅楽への招待」(小学館/1999.11.10発行)

 

 

風の音楽室

長谷川きよし


2000.3.30

 

「上質」とは、こういうライブを指すのだろう。大阪・千日前のトリイホールでこのほど、シンガー・ソングライター、長谷川きよしの歌を聴いて、圧倒された。「死者のカルナヴァル」から始まり、「別れのサンバ」や「黒の舟唄」、中原中也の詩に曲をつけた「湖上」、中山千夏の詩に基づく組曲「ふるいみらい」などを抜群の歌唱力とギターで披露。よく伸びる声は澄み渡り、しかも声量がある。(・・・)

今、レコード業界は「メガヒット」の時代。CDが何百万枚も売れるアーティストに人気が集中し、レコード店には、売れ筋のCDが山と積まれている。だが、長谷川きよしのCDを置いている店は少ない。七年前に出たアルバム「アコンテッシ」(日本フォノグラム」を大阪や京都で探したが見つからず、ライブ当日に会場で買った。大変な名盤だと思う。ライブはもっとすごい。「上質」の世界を、ぜひ知ってほしい。

(朝日新聞大阪本社版 2000年3月30日 19面「幕のうちそと」より)

一枚1700円のLPレコード「一人ぼっちの詩」。長谷川きよしのデビューアルバムを、中学生のぼくは小遣いをためてようやく買った。最初のヒット曲「別れのサンバ」も収められている。

先日、ひさしぶりにレコードを聴くようになって、あらためてこのアルバムを聴き直した。何十回となく聴き、細部まで覚えているほどなのだけれど、まだ十代だった長谷川きよしの声は、「澄み渡り」「よく伸びる」。

「アコンテッシ」というアルバムは知らなかったが、そのデビュー盤以降も、長谷川きよしのアルバムはいくつか聴いていて、数年前も、リバイバル盤のCDも何枚か買い求めた。この声にはやはり郷愁だけではない、「上質」があるように思う。

久しぶりで、今日の新聞で「長谷川きよし」の名前を見つけ、「アコンテッシ」というアルバムの存在を知ったので、早速探してみたいと思っている。しかし、上記にもあるように、おそらくはなかなか見つからないのではないだろうか。

たしかに、大きなCDショップはたくさんあるが、「売れ筋のCD」でないものは、見つかりにくいことが多い。先日の「陰陽師」でさえ、なかなか見つかりにくかったくらいだから。

このところ、オリビアニュートンジョンの「アメリカンパイ」をよく耳にすることが多いのだけれど、ちょっと前に、その原曲のドン・マクリーンのものを探して、結局見つからなかったことがある。ポール・ウィリアムスのCDもそうだし、97年にでた「SONGS FROM A PARENT TO A CHILD」を先日買い求めたのだが、アート・ガーファンクルのアルバムでさえ、簡単に見つからなかったりする。

ジャンルを超えて、「上質」の声を聴きたい。あらためて、そう思う。とりあえず、「アコンテッシ」探索を始めてみようと思う。

 

 

風の音楽室

創造性の復活へ


2000.4.21

 

エンリーコ・カスティリオーネ(以下ーーと略す) 近年、いずれにせよ、ここ半世紀を通じて、音楽の危機はあらゆる予想を越えて深刻化したように思われます。たとえば、最近、私は何番目かの音楽の死亡証明書を読みました。

レナード・バーンスタイン(以下L・Bと略す) ああ、「危機」ね……あなたはこの世に創造性の危機が存在すると本当に信じているのですか?

ーー 実際のところ、モーツァルトの時代以来、音楽は危機に瀕しているとつねに考えられてきました。

L・B その通り。毎日、誰かが、この世のどこかで、音楽は死んだと断言しているんです。ずっと前からそうですよ。まるで、毎朝、立派な葬式を出す時がつねにやってきたと決めつけでもするかのように!

ーーあなたはお認めにはならないわけですね……なぜですか?

L・B 作曲家として答えたくはありません。あまりにも安易だからです。そうではなく、音楽家として答えます。そして、まさに音楽家として、音楽は息絶えたと主張する人々に私は同意しないし、またそれに類する馬鹿げた死刑判決は、けっして受け入れられません。たとえ、音楽の特殊な形式としての交響曲に関してのように、それが部分的には真実を含んでいようとも。たしかに、マーラーやショスタコーヴィチの交響曲以来、十九世紀から受け継いだ、とにかくロマン主義から受け継いだ交響曲形式はもはや使い物になりません。形式は変化し、言語は発展しました。けれども、だからといって、交響曲形式を放棄する理由にはなりません。私たちはむしろ新しい言語を見つけ、音楽という永遠のジャンルに属する新しい形式をそれに与える必要があります。形式が変化しても、それが属するジャンルが消滅することは決してあり得ません!というわけで、私は先のような理由を認めないのです。音楽は、芸術としても、そして、ですから、人間の表現としても、けっして存在するのをやめはしないでしょう。それは、人間が存在する限り、けっして死に絶えません。私がその一例です。

(L.バーンスタイン×E.カスティリオーネ「バーンスタイン 音楽を生きる」青土社 1999.2.1発行/P74-75)

現代は、人間的なあらゆるものに「死」が宣言されているような気がする。

ぼくがはじめて哲学書を読むようになった二十歳前後の頃には、すでに哲学に対して、死が宣言されていたようだし、哲学ではなく、「反哲学」だとかいうことが看板に掲げられていたようにさえ思う。音楽を聴き始め、いろいろ感動していた矢先に、音楽にも死が宣言されていた。詩を読もうとすれば、詩に死が宣言され、小説を読もうとすれば、小説の詩が叫ばれていた。

二十歳前後の頃は、なにもわからず、そうした「死の宣言」とかが、ちょっとかっこいいことであるかのように感じられていたりもしたのだけれど、そのうちに、そうした「死の宣言」の不毛性を感じるようになった。

つまり、「死の宣言」をして何がうれしいのだろう、ということ。しかも、よくよく考えてみれば、その「死」の意味がよくわからない。それはただ、それまでの既成の尺度がある部分、無効になったということに過ぎない。パラダイムの変革とかいう言葉を使ってもいいかもしれない。

おそらくそうした「死の宣言」というのは、いわば知識人ゆえの誇示であることもあるだろうし、人間の創造性への絶望であり(つまりは自分の創造性の放棄)、かつまた自分が人間であることへの絶望(つまりは人間性の放棄)であるといってもよいのかもしれない。

「死」という言葉はとても使いやすい。それが「生」の充実を意味していないときにはとくに。「死」が終わりであると考えたときに、その「死」は人間であることの、そして人間であるがゆえの創造性の終焉となる。しかし、「死」と「生」が別物ではないととらえるときに、人間であることにも、その創造性にも決して終焉はないのだということがわかる。

だから、キリストは復活した。復活しなければならなかった。そうして、現代においてもなお。音楽に、哲学に、詩に、小説に、芸術に、そして人間の創造性すべてに、「死」を越えた復活が「生」そのものとして生きられねばならないと思う。

今のこの肉体性は肉体の死とともに形を変えるとしても、その根源的な人間としての霊性は死ぬことはないように、人間の創造の形式は変わるとしても、その霊性は決して終焉することはないのだから。

 

 

風の音楽室

中村雄二郎「精神のフーガ」


2000.6.1

■中村雄二郎「精神のフーガ/音楽の相のもとに」

 (小学館/2000.6.20発行)

1995年〜1999年にかけて刊行されてきた世界初の全作品完全収録の『バッハ全集』(全15巻、小学館版)に連載されていた『精神のフーガ』を一冊にまとめたもの。ずっと気になっていたバッハ全集で、中村雄二郎の連載があるのも知っていて読みたいとずっと思っていたのですが、なにしろ全巻で約37万円もする全集で、その連載だけを読むわけにもいかず・・・と思っていたところ、今回の刊行ということで、ひさしぶりにどきどきするような喜びで本を買い求めた。

 最初、編集部から連載の依頼があったとき、「バッハの時代」つまり、「バロック時代の哲学・思想的なエッセーを書いてほしい」というのが、編集部の意向のようであった。このテーマは、私にとってさして難しいものではなかった。が、それだけに、いま自分のもっとも書きたいものだとは言えなかった。

 では、自分の一番書きたいものはなにか。それは、「精神のフーガ」つまり、<音楽の観点から見た思想史>のようなものであった。いうまでもなく、<フーガ>というのは、次々に主題が重なり合って全体として一つの緊密な世界あるいは宇宙を形づくるものであり、<フーガの技法>(1947年)を書いたバッハにおいて特別な意味を持っている。それに、ここ十数年来、私のなかで、「音楽」とくに「リズム」の問題が次第に重要な意味をもってきていた。ただし、心配な点もないわけではなかった。というのは、私は早くから自分を<視覚型>人間と思い込んできたのと、音楽については、素養の点で、摘み食いの知識しかなかったからである。(…)

 (…)今から振り返ると、私自身が自分を<視覚型>だと決め込んだのには、多分に自己合理化したところがある。自分が日本での西洋近代音楽の<教養主義的>な受け取られ方に対して違和感を持ったことや、西洋近代音楽についての素養の乏しいことに後ろめたさを感じて、である。しかし、面白いことに、西洋の近代音楽に対する違和感その故の知識の欠如によって、かえって私は、現代音楽や非西洋音楽にこだわりなく入っていくことができた。いわば<教養主義>に毒されないで、である。(…)

 (…)バッハに座標軸を置くことは、西洋音楽全体を射程に入れながら、西洋音楽全体、さらには人類の音楽全体を考える、またとない手がかりになる。さらにいえば、音楽を通して人類の文化全体や思想を根底から捉えなおす手がかりにも。 (P264-371)

中村雄二郎には、『かたちのオデッセイ』という<汎リズム論>を論じたものがあり、ある意味では、この『精神のフーガ』のプロローグでもあるように思えるが、本書では、その<汎リズム論>が、まさに「音楽」というテーマで真正面からがっぷり四つに組んで展開されているともいえる。しかも、テーマはバッハ。

バッハといえば、ぼくにとっては非常に特別な存在で、高校時代、ほとんど自滅しかかっていた鬱状態から、日々ぼくを救ってくれたのはバッハとバロック音楽だった。とはいえ、まったくのクラシック音痴で、「西洋近代音楽についての素養の乏しい」どころか、まったくの無知だった。ロックやポップスばかりしか聴いてなかったのだけれど、なぜか、FMで「朝のバロック」という番組があり、それを偶然聴いたことがきっかけになって、やみつきになってしまった。しかし、無知はあいかわらずのままで、ただひたすら耳を傾けるだけで、曲名なども、ほとんど知らないままだった。面白いことに、中村雄二郎が、上記引用で「現代音楽や非西洋音楽にこだわりなく入っていくことができた」と述べているように、その頃のぼくのお気に入りの音楽番組が「現代の音楽」というもので、なにがなんだかわからないままに、その響きのなかに自分を置くことが毎週とても楽しみだったのも記憶している。

さて、そうえいば、大学にかろうじて入学して、自己紹介の趣味の欄に、ひとことだけぽつんと書いたのが、「バッハ」という言葉だったように記憶している。なぜ「バッハ」だけぽつんと書いたのか、いまだにわからないのだけれど、そのとき、ぼくのなかで「バッハ」という言葉がひろがってそれ以外がどうしても浮かんでこなかったのだ。

しかし、その後、バッハを聴いたかといえば、どうではなくて、実際のところ、ほとんどジャズばかり聴いていた。その後、バッハに出会うのは、yuccaから教えてもらったグレングールドのバッハでイギリス組曲やフランス組曲、パルティータ、トッカータなど、次々と聴き、やっぱりバッハなんだと思い直したりしていたが、なぜバッハなのかに思い至ったのは、つい最近のことで、カンタータや受難曲などを聴き始めるようになってからのこと。自分の底に響いていた「バッハ」という言葉の意味が、ようやく腑に落ちるようになっている。そういえば、先日読んだ武満徹の語り(マリオ・A「カメラの前のモノローグ」)でも武満徹が、バッハの「マタイ受難曲」の素晴らしさに言及しているのも、とても印象に残っている。

さて、本書で扱われているのは、引用にもあったように、「音楽の観点から見た思想史」であり、次のようなどれも興味津々のテーマばかりである。

1.数・宗教・音楽/ピュタゴラス

2.振動する箕/ソクラテスからプラトンへ

3.魂のリズム論/アウグスティヌス

4.小鳥との対話/アシジのフランチェスコ/メシアン

5.『神曲』の世界像と音楽.ダンテ

6.<眼と手の人>と音楽/レオナルド・ダ・ヴンチ

7.普遍的ハーモニーを超えて/デカルトの音楽論とその周辺

8.旋律と社会契約/ルソーの音楽論とその周辺

9.ラモーと『ラモーの甥』/ディドロの音楽論とその周辺

10.ロマン主義の音楽美学と哲学/ヘーゲル

11.源泉としての音楽/ニーチェ

12.エートス・ラチオ・調性音楽/マックス・ウェーバー

13.楽興の弁証法/テオドール・アドルノ

14.さえずる機械/ドゥルーズ&ガターリ

15.音楽と哲学と数学の一致/ライプニッツとバッハ

今はまだ4章を読み進めているところなのだが、できれば、興味をひかれたものをピックアップしながら、「精神のフーガ」ノートでも書いてみようと思っている。

最後に、「はじめに」から。

この新しい<知の冒険>に際して、全体の表題は、思い切ってこれを、「精神のフーガ」と名づけた。それというのも、表現の形態についても、たとえゆるやかな仕方であるにせよ、バッハの愛する<フーガ>の形式を生かしたいと思うからである。いいかえれば、カノン的な同一主題の重複振興と意外性のある自由な展開とをモデルにしたいと思うからである。(P14)

「同一主題の重複振興と意外性のある自由な展開」をモデルに、ぼくも「精神のフーガ」ノートを書き進めることにしようか。ある意味では、「神秘学遊戯団」の試みは、「神秘学フーガ」でもあったりすることに喜びを感じながら。もちろん、ノートのBGMは「フーガの技法」または「音楽の捧げもの」である。


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