1998.7.24-1999.10.27

 

●メンデルスゾーン「エリア」

●「わが愛しき女よ」(アントネッロ)

●ペライアのバッハ

●メジューエワ「メトネル作品集」

●音の深みへ

●DAVID SYLVIAN:DEAD BEES ON A CAKE

●スティング:ブラン・ニュー・デイ

●BCJのマタイ受難曲・ヨハネ受難曲

●デヴィッド・ボウイ 'hours… '

●坂本美雨:DAWN PINK

 

 

風の音楽室

メンデルスゾーン「エリア」


1999.7.24

 

■メンデルスゾーン「エリア」

 ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

 録音:1968年 ライプツィヒ

 PHCP20034/5 97.4.9

 

 yuccaがご紹介していたように6月24日は聖ヨハネの祝日。そして、シュタイナーによれば、預言者エリヤー洗礼者ヨハネーラファエローノヴァーリス、という転生が確認されということから「エリア」についての音楽を少し。

 1ヶ月ほど前、CDショップで、このCDを見つけるまで、メンデルスゾーンのオラトリオというのは聴いたことがなかったのですが、メンデルスゾーンといえば、1829年、バッハの死後初めて「マタイ」を公演し、バッハ復興運動の端緒をつくったことでも有名で、バッハやヘンデルの影響から、「聖パウロ」やこの「エリア」などのオラトリオを始め、宗教的声楽曲を手がけています。そして、この「エリア」は、ヘンデルの「メサイア」、ハイドンの「天地創造」とあわせて三大オラトリオとする人もいるほどの傑作だといいます。たしかにこのCDでも演奏時間が2時間を超えるものなのに、その素晴らしさに思わずひきこまれる音楽になっていて、もう何度か聴き直したほどです。

 このCDでの指揮者はヴォルフガング・サヴァリッシュ。NHK交響楽団の桂冠名誉指揮者でもあり、1986年の10月にN響の第1000回定期公演でこの「エリア」が演奏され、素晴らしい演奏を聴かせてくれたそうです。残念ながら、1986年といえばぼくがまだこのクラシックというジャンルについてほとんど無理解だった頃でしたので、当然のごとくまったく知らずにいました。このCDの録音はそのN響の演奏より18年ほど遡るものですが、ソプラノにエリー・アーメリング、テノールにペーター・シュライアー、バスにテオ・アダムなどが起用されています。特に、エリアの役どころのテオ・アダムが素晴らしい重厚さで迫ってきます。

 さて、「エリア」の主な構成について、ドラマチックなシーンを中心にご紹介させていただきます。 

第一部  (1)旱魃に苦しむ民衆(第1〜5曲)

  (2)エリアの荒野への避難とザレバテの寡婦の子の奇跡的蘇生

(第6〜9曲)

  (3)雨を求めて祈るバールの予言者たち〜“火の奇蹟”

(第16〜18曲)

  (4)予言者エリアが神の力をたのみ、ついに待望の雨を降らせる

“雨の奇蹟”(第19〜20曲)

 

第一部  (1)王妃の迫害に苦しむエリア(第23〜29曲)

  (2)ホレブの山におけるエリアの神との出会い(第33〜36曲)

  (3)エリアの昇天(第38曲)

  (4)預言(第40〜42曲)

 さらに、CDの解説から少し。

 メンデルスゾーンは、聖書の物語を新しい技法を用いて詳細にわたって表現した。例えばエリアはバスによって歌われるが、その性格描写は全く比類ない程すぐれたものである。彼は神を信じないものをきびしく糾弾するが、自ら民衆の友であることを示し、最後には絶望のあまり彼自身が人間的な弱ささえあらわす。彼は怒りを慎み、神への信仰においてのみ激しい、バランスのとれた人格であり、メンデルスゾーンはその性格を深い共感をもって音楽に表現している。

 バッハのカンタータや受難曲を聴き始めて以来、すっかりはまっていますが、今こうしてバッハのカンタータを充実したかたちで聴くことができるのも、メンデルスゾーンがバッハを復興させてくれたためだといえますし、さらにこうして素晴らしいオラトリオなどを残してくれたことをとても感謝したい気持ちです。

 聖ヨハネの祝日にあたり、ヨハネに重ねて、預言者エリアに思いを馳せてみるのもいいのではないかと思いご紹介させていただきました。

 

 

風の音楽室

「わが愛しき女よ」(アントネッロ)


1999.7.10

 

■ゲアール・マイクによる古楽専門の新シリーズ「ムジカ・フマーナ」第1弾

 フランチェスコ・ランディーニ:バッラータの世界

 「わが愛しき女よ」/アントネッロ

 MH-1063 発売元:マイスター・ミュージック 99.6.24

 まず、古楽専門のこのシリーズ「ムジカ・フマーナ」に寄せた参加者の一人の、わが敬愛する武久源造さんの言葉を。

 Musica Humana<ムジカ・フマーナ>、それは、人間の音楽、或いは、心の音楽の意。中世ヨーロッパでは音楽はまず、宇宙で響いている物と考えられた。星たちの動きには美しいリズムと旋律があり、耳には聴こえなくても、宇宙は完璧な音楽に満ちている、というのが彼ら中世人の音楽観の出発点だった。<宇宙の音楽<ムジカ・ムンダーナ>>が第1の音楽なら、第2の音楽は何か?それが<ムジカ・フマーナ>だった。考えてみれば、人の人生もまた、音楽に似ている。一人一人が個性的な旋律を持って生き、それらが合わさって玄妙な協和音や不協和音を形作る。不協和音は一定の規則に従って解決しうるが、実際には多くの例外的ケースがあってその都度どうなるか分からない。創造と発見の毎日…。<人間の音楽>はある意味で極めてリアルな体験であるが、依然としてこれも耳に聴こえる常識的な音楽ではない。<耳に聴こえる音楽>、それが中世人が考えた第3の音楽ジャンル、最も狭義の音楽観、<道具の音楽>であった。そこでは人声も含めたあらゆる楽器が<宇宙の音楽><人間の音楽>の媒体となる。我々は聴こえる音楽を奏でることによって、聴こえない音楽を、この瞬間にも、この世のあらゆる場所に満ちているはずの妙なる音楽を味わうのである。未来の人間たちが、数々の不協和音を解決して、美しい協和音を作り出すよう願いつつ。

 演奏しているアントネッロは、以下のような古楽界をリードする方々で結成されたグループです。バッハコレギウムジャパンのソプラノを担当している鈴木美登里も参加していてたりします。 

・鈴木美登里(ソプラノ)

・石川かおり(フィーデル)

・西山まりえ(オルガネット&ハープ)

・星野麗(レベック)

・武久源造(オルガネット)

・永田平八(中世リュート)

・濱田芳通(コルネット、リコーダー&スライド・トランペット)

 この第1弾で演奏されているのは、14世紀イタリアを代表する詩人兼音楽家のフランチェスコ・ランディーニ(1325頃〜1397)の声楽曲、バッラータ9曲とカッチャ1曲、そして同時代の器楽曲4曲。バッラータ、カッチャというのは曲の種類のことのようで、バッラータは、「踊る」を意味するバッラーレの過去分詞の女性単数形、カッチャは、「狩り」「追いかける」を意味しているそうです。

 この時代のイタリアの音楽はほとんど不案内なのですけど、このCDはなかなか楽しく聴くことができました。上記の武久源造さんの言葉からも伝わってくるように、中世ヨーロッパにおける音楽観は、現在のような音楽のとらえ方とはかなり異なったものだったのですけど、ぼくにとっては、むしろ、なぜかとても親しみのあるとらえ方です。そこには、つねに、宇宙の音楽という、耳には聴こえないとしても、宇宙に満ちている音楽を聴きとろうという姿勢があったわけです。

 物質的に響いている音だけしか聴きとれない、いや聴こうとしない耳の貧しさを、音楽を聴けば聴くほど思わざるを得なくなりますし、音楽に限らず、見えないものを見、聴こえないものを聴くという姿勢なくしては、人間のことも、宇宙のことも、まるで見えないし聴こえないのではないかと思うのです。

 以前から、武久源造さんの奏でる数々の音楽には、その聴きとっている音楽が、物質的には聴こえないところで、とても豊かに奏でられているという、そんな思いを持っていました。今回の古楽専門の新シリーズ「ムジカ・フマーナ」のシリーズでもそうした豊かさを実感させてくれるのではないかと期待しています。そしてこの第1弾は、それにふさわしいものとなっていると思います。

 ちなみに、このCDに添付されている解説書には、使用されている古楽器の写真も載せられていますけど、古楽器の形というのはとても不思議な形をしていて、現代の楽器よりも、とても宇宙的でありしかも人間味を感じさせてくれます。武久源造さんは、オルガネットという、オルガンとアコーディオンのあいだのようなとても不思議でユーモラスなかたちの楽器をもって写っていますが、こうした楽器が実際に演奏されているのを一度は見てみたいなと思っています。

 

 

風の音楽室

ペライアのバッハ


1999.7.15

 

■マレイ・ペライア(ピアノ)

 バッハ:イギリス組曲第1・3・6番

 SRCR2158 98.3.1

 ペライアといえば、ぼくにはモーツァルトのピアノ協奏曲が浮かぶ。ぼくがクラシックをわりと聴くようになったのは、そのモーツァルトのピアノ協奏曲だったように思う。大学時代からはほとんどジャズ系ばかりを聴くようになっていてそれまではほとんどポップスやロックばかりを聴いていた。あまりクラシックに縁のなかったぼくにとってクラシックはとても敷居の高い、いわゆる「お高くとまっている」人たちの音楽というイメージ(偏見)が強かったのだけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲を聴くようになってからクラシックを聴くということを楽しめるようになった。

 とはいえ、いわゆる「クラシック」として聴いていたのではなかったものの、高校時代、ほとんど壊滅的な精神状態(ほんとうは魂の状態)の頃、ぼくのバランスををかろうじて保ってくれたのがバロック音楽だった。NHKのFMに「朝のバロック」という番組があって、毎朝、ほとんど作曲者や曲名などにもほとんど無関心なまま、そのバロック音楽を聴くと、とても心やすらぐことができた。そんななかで、よく耳にとまっていたのが「バッハ」という名前。ぼくにとって、その「バッハ」という名前はどこか天上から響いてくる天使のような名前に聞こえていた。それにもかかわらず、バッハについてはほとんど無知のままで、yuccaから教えてもらったグレングールドの弾くバッハを知るまでは「バッハ」という名前そのものだけがぼくにとっては特別に響いていた。

 グレングールドの弾くバッハ…。平均律クラヴィーア曲集はもちろんのこと、ゴールドベルク変奏曲、イギリス組曲、フランス組曲、トッカータ、パルティータなどなど。こうした曲を、ほとんどの場合、ぼくはグレングールドとyuccaの弾くピアノ以外ではほとんど聴かない。先日、yuccaの弾くバッハのトッカータを聴きながら、バッハの音楽の素晴らしさの謎のようなものを思っていた。そして、yuccaからそのトッカータの曲の構成などについてきいていてその音楽の、カンタータや受難曲などとの共通性に合点がいった。

 今回、ペライアのバッハを聴きながら、ペライア自身の書いているライナー・ノーツのなかに、「バッハは弟子たちに対位法の基本を理解させるために、コラールの4声の和声づけを徹底的に行わせていた。それらコラールに見られるような大規模な和声進行は、<イギリス組曲>をはじめとするバッハの他の諸作品でも基本的な枠組みになっているように思う」というところがあって、とても納得させられた。

 ちなみに、そのライナー・ノーツの最初には、バッハの次のような言葉が最初に引かれている。 

通奏低音の究極の目的は、神を讃え、精神を再創造することにあるはずだ。そのような視点がない限り、真の音楽はあり得ない。ただおぞましい物音とうなり声があるだけだ。

 「精神の再創造」としてのバッハ。最近は、バッハのカンタータや受難曲を聴く機会がかなり多いのだけれどその「精神の再創造」という言葉がとてもしっくりとくる。

 さて、ペライアのバッハ。どうもモーツァルトのピアノ協奏曲のイメージが強すぎるせいか、モーツァルトの透明感に近いバッハ、とても素直なバッハ。とはいえ、このイギリス組曲も聴き始めると時間の経つのを忘れてしまう。忙しさのなかで、心の平衡を保つためというのもあって、最近は朝早く起きて音楽を聴いたり本を読んだりすることが多いのだけれど、かつて高校時代に「朝のバロック」を聴いていた頃のことを思い出した。

 ちなみに、このCDは昨年発売されたもので、今年には「イギリス組曲」の残りの第2番・第4番・第5番が出ている。それはまだ聴いていないけれど、それも聴いてみたいと思っている。

 それから、あらためて平均律クラヴィーア曲集、ゴールドベルク変奏曲、イギリス組曲、フランス組曲、トッカータ、パルティータなどを聴き直してみたいとも思っている。「和声進行」をイメージしながら。「精神の再創造」のためにも。

 そういえば、「ゴールドベルク変奏曲」だけれど、武久源造さんのそれはまさに「精神の再創造」という言葉にふさわしい感動的なまでの演奏だった。

 

 

風の音楽室

メジューエワ「メトネル作品集」


1999.7.20

 

■イリーナ・メジューエワ(ピアノ)

 おとぎ話・忘れられた調べ〜メトネル作品集

 DENON COCQ-83112 99.4.21

 1975年ロシア生まれの注目すべき若きピアニスト、メジューエワによるニコライ・カルロヴィチ・メトネル(1880-1951)の作品集。メトネルは早くからこのメトネルの作品に取り組んできていて、デビュー版のCDにもとりあげられていましたが、今回はメトネルだけのプログラムになっています。何度も聴きかえしてみて、聴きかえすごとに、愛着のわいてくる曲、そして演奏なので、ご紹介させていただくことにしました。

 メトネルは日本ではあまり知られていない作曲家のようでぼく自身、メジューエワのもので聴くまでまったく知りませんでした。ライナーノーツにある作曲家のプロフィールから少しご紹介しておきたいと思います。 

近年世界的に急速な再評価の進むニコライ・カルロヴィチ・メトネルは、今世紀前半に活躍したロシアの作曲家・ピアニストである。モスクワ音楽院に学び、ピアニストとして活躍、母校でもピアノを教えたが、1921年に出国、以来、英国で没するまで西欧で演奏・作曲活動を行なう。作曲家としてのメトネルは「遅れてきたロマン主義者」で、いわゆるモダニズム的な前衛に背を向け、古典派的な様式を重んじ、またドイツの後期ロマン派の書法に影響を受けた「ロシアのブラームス」であった。しかしその作品は決して凡庸ではなく、独自の実験性があり、前衛的である。彼は、そうした形式に、ロシア人ならではの濃厚な感情表現を盛り込むことに成功した稀有な作曲家と言え、20世紀のロシア音楽とその想像力を語る際に無視できない存在となりつつある。

ジャンル的にみれば、メトネルは「ロシアのショパン」で、若干の歌曲と室内楽曲を除けば、ピアノ曲しか残さなかった。14曲のソナタ、3つのピアノ協奏曲など、多作であったが、最も個性的なのは本人の命名による性格的小品「おとぎ話(スカースカ)」である。その多くはロシア民話を題材に匂わせるが、必ずしも具体的な表題は付されておらず、むしろこれらは作曲者本人の心の内面を映し出しつつ、ロシア人の豊かな情緒の世界を独特の語り口で歌い上げたものと言えよう。本盤の前半はこの「おとぎ話」を7曲取り上げている。

 ちょうど、CDショップなどで(実質的には)無料配布されている月刊モーストリー・クラシックの7月号には、このCDについての内容を含んだメジューエワのインタビューが掲載されていますので、メトネルに関するところから。

●…デビュー以来、可能な限りメトネルの作品を取り上げるようにしているとか。

 メトネルはクラシック音楽ファンの間でも長い間、一般的には知られざる名前でした。今でも充分に知られているとはいえません。彼が無名に終わったのはなぜか、私なりに分析すると、作曲家としての音楽言語が極めて複雑だったからです。でも、私は、その難しさに虜になっているんです(笑い)。

●…難しいからこそファイトがでると?

 メトネルのリズムにおけるファンタジーの豊かさ、声部と声部のポリフォニックな絡み合いが私をとらえて離さないのです。彼の音楽は、情緒的な原理と知性的な原理とが素晴らしいバランスで共存しています。情緒は極めて熱く満たされていますが、それは音楽の内側に秘められていて外側には表れません。そして、外側に表れている知性は極めて厳粛に抑制されています。 

●…メトネルの旋律はメランコリックで、親しみやすい印象です。でも、ラフマニノフやスクリャービンほど広く知られてはいません。 

 いくつかの小さな原因があって、その一つ一つが積み重なったんだと思います。メトネルの音楽は演奏者のみならず聴き手にとっても難しいですね。彼の音楽を感じ取ることは容易ではありません。とくにメトネルが生きた今世紀初頭の時代においては難解だったと思います。

 たしかに、メトネルをこうして聴いていても、とても親しみやすいような感じを受けながら、その音楽はとても「抑制」されていて、単純なものではないことがわかります。聴けば聴くほどに、その複雑微妙なファンタジーの深みを楽しめる…。

 メジューエワは、ショパン没後150年の今年、7月23日に東京のムジカーサでオールショパンプログラムでリサイタルを開くということなのですけど、ショパンとメトネルを興味深く比較して次のように語っています。 

 私にとってショパンは詩情性のエッセンスです。ショパンは非常に神秘的で謎めいた個性の持ち主。メトネルとショパン二人に共通するのは、自分の創作のすべてをピアノという楽器に捧げた作曲家だったことです。しかし、そこには決定的な違いがあります。ショパンはピアニストが非常に大きな愛をもって接してもその愛は片思いに終わっていまい、決して相思相愛になってくれない。それに対してメトネルは弾き手が彼の音楽に惚れ込んでしまうと、必ずそのピアニストの愛にこたえてくれる作曲家なのです。

 ショパンは「つれない作曲家」だというのですけど、なんとなくわかる気もします。日本人にはとてもショパンが人気があるようですし、その叙情性・詩情性ゆえにそうなのだろうと思うのですけど、ぼくにとっても、どこか跳ね返されてしまうようなものを感じたりもすることがあるからです。

 とても感情豊かに見える人とつきあってみると、その底に、深い謎のような冷厳さが見えるような感じを感じるのに対して、いっけんクールで冷たそうに見える方が、じつはそこにふかい友愛をたたえているのがわかる・・・というのともちょっと違いますけど(^^;)、ま、外見だけ、ちょっと見だけではよくわからないということでしょうね。

 バッハの音楽にしても、たとえばバッハの研究家としての有名な磯山雅さんは、高校の頃までは、クラシック音楽は「マニアックなくらい好きだった」ものの、バッハにはあまり興味がなく、「私がバロック音楽が好きでないのは、心がないと思うからです」というように綴ったりもしているようなのですけど、それが一転して「バッハの音楽が人間の「生きる」ということといかに密接にかかわっているか」を直観されたというのです。宇野功芳さんなども、3大Bは、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーでバッハは入らないとかいうことを言っているようですけど、おそらく、バッハの音楽のかぎりない「人間的」なところを聴き取っていないのかもしれないとも思ったりします。ま、趣味はそれぞれですけど(^^;)。

 ともあれ、今後とも要注目のメジューエワとメトネルでした。

 

 

 

風の音楽室

音の深みへ


1999.7.28

 

 坂本龍一の新作オペラ「LIFE」が話題になっている。7月27日付の朝日新聞でも、それがとりあげられていた。

 僕は若い頃、バッハ以来二百五十年の音楽の歴史を駆け足で勉強した。そしてやっと追いついてみたら、追いかける対象自体が消えてしまっていました。

「LIFE」の第一部では、各年代の特徴的なスタイルの作品をモチーフに、私がすべて書き下ろした曲で、この歩みを振り返ります。ただし、現代音楽の歩みは、いってみれば西欧のローカルな出来事に過ぎない。そこで第二部では空間的な広がりに進みます。「共生系としての地球」をテーマに、北欧、モンゴル、アフリカ、沖縄などの歌手たちが客席を包み込むように立って歌い交わし、地球の広がりを象徴的に表現します。また、インターネットを使って世界各地の音や波の音、クジラ。イルカの声までをアンビエント・サウンドとして取り込みます。

そして第三部では、ここまで破壊された地球をどう救済するかが語られます。とはいっても、明解な答えがあるわけではない。二つの祈りを音楽で表現します。一つは救済への祈り。もう一つは、戦争で死んだ多くの人々と、人間が絶滅させてきた多くの種への祈りです。絶滅した種へのレクイエムが、そのまま祈りになります。

 ここには、おそらくきわめて現代的であり、かつ朝日新聞に掲載するのにふさわしいものがそのまま如実に表現されていると思う。そして、こういう試みこそが、おそらく20世紀の最後を飾る「象徴的」な試みになるのではないだろうか。

 坂本龍一は、「バッハ以来二百五十年の音楽の歴史を駆け足で勉強」し、「追いついて」みたら、「追いかける対象自体が消えてしまって」いたという。いったい何を追いかけてきたというのか。それは音楽の何だったのかということが問われなければならないと思う。

 「各年代の特徴的なスタイルの作品をモチーフに」というところが坂本龍一の音楽に対する姿勢をそのまま表していると思う。話題のBTTBを聴けば、そこに表現されているのものも、おそらくそのなかで生まれてきたものだというふうに思われる。

 もちろん、西欧で生み出された音楽だけでなく、世界中の音楽、そして通常は音楽とされているものだけではない、クジラやイルカの声などの音までもが交響されているというのはそれはそれでとても魅力的な演出なのだけれど、ここでも問わなければならないのは、地球のなかでの音をすべて集めたとしても、それが果たして「祈り」になるのだろうかと。さらにいえば、「祈り」とは何かというところまで問いを進めてみなければならないようにも思う。

 音楽の歴史をたどり、西欧の枠を超え、人間の音楽という枠をも超え、そうしたたどりついたともとらえられる「LIFE」というオペラ。「空間的な広がり」のなかでさまざまに奏でられるオペラが、20世紀の最後を飾る「象徴」となるだろうというのは、このオペラの試みが終焉した後の時空のなかで、それが「広がり」ということでしか表現しえなかったものを「音の深み」という垂直軸で奏でられる、そして歌われる音楽がはじめて生まれてくるだろうということだ。

 「空間的な広がり」からではなく、聴こえないものにまで広がった、ある意味では直線的な時間という次元をも超えて広がった「音の深み」という新しい次元へと展開である。

 シュタイナーは、音楽についての講義のなかで、ひとつの音のなかでの無限の豊かさととしての音楽について示唆していた。ちなみに、シュタイナーへの批判として、それが西欧近代の枠組みのなかでしか有効でないというのがあるが、シュタイナーが生きて活動した時空が西欧近代であるということとその示唆したものがその枠組みのなかでしか成立しないといこととはまったく異なったものだと思う。

 今、ここで歌われた声が、あらゆる次元で響いている可能性のことを想像してみることができる。物理的には耳に聴こえない音が、その響きが、多次元的な時空の「LIFE」のなかで、響き渡っているのを。そして、それこそが「祈り」にふさわしい音楽なのではないか、ということがいえるのではないかと思う。

 地球上のすべての音楽を聴いたとしても、その「量」は決して「質」へと転化することはないだろう。音の深みへと耳を深化させることではじめて、それは可能となるように思う。

 

 

 

風の音楽室

DAVID SYLVIAN:DEAD BEES ON A CAKE


1999.8.6

 

■デヴィッド・シルヴィアン

 「デッド・ビーズ・オン・ア・ケイク」

 VJCP-68012 99.4.9

 ここ十数年で最も繰り返し聴いたアルバムは?といえば、「シークレット・オブ・ザ・ビーハイブ」だと答えるだろう。そのアルバムが出たのがすでに12年前のことになる。

 ジャパンの頃のデヴィッド・シルヴィアンをぼくはあまり聴いていない。聴きはじめたのは、「ブリリアント・ツリーズ」から。輝く樹々のイメージがどこでもない場所からぼくのなかに立ち上がり延びてくるのをとても不思議に感じた。そしてその声を、声のむこうにある何かを見たいと思った。

 そして、「シークレット・オブ・ザ・ビーハイブ」。デヴィッド・シルヴィアンの声はぼくのなかで常に響いてくる声となった。ぼくがシュタイナーを読み始めた頃のこと。しかしそれ以来、ソロアルバムはでてこなかった。そして、12年を経て届けられた「デッド・ビーズ・オン・ア・ケイク」。

 その間に、レイントゥリー・クロウやロバートフリップとのアルバムや「アンバーグランス」のようなラッセル・ミルズとの試みなどもあったが、やはり聴きたかったのは、今回のようなソロ・アルバム。

 この声のむこうから響いてくるものはいったい何なのだろうと思う。その声はぼくをとらえてはなさない。「デッド・ビーズ・オン・ア・ケイク」は「シークレット・オブ・ザ・ビーハイブ」と並び、ぼくのかけがえのない宝物になるだろう。

 ライナー・ノーツ(小田島久恵)の最後にこうある。 

生と死の一瞬のまばたきを生きる私たちを安らかにし、覚醒させるのは、さまざまな所有物や地位や権力なのではなく、心を明るく照らす花のような一音なのだ。一冊の書物にも似たこのアルバムの中で、聴き手はまた更なる心の旅を続けることになるだろう。

 「心を明るく照らす花のような一音」・・・。おそらくぼくはそれを求めているのだろう。

 そうした「一音」に無限を聴きとることのできるのが日本の霊性の深みにあったようにも思うのだが、その深みはいったいどこにいってしまったのだろう。その直観にはおそらく、大事なプロセスが、決定的なプロセスが欠けていたのではないかと思う。高みに、そして深みにあるにもかかわらず、それはおそらく自由によって獲得されたものではないということ。自我という大いなる迂回路を通って獲得されてはじめて、その「一音」に到達できるのではないか。シュタイナーの『音楽の本質』 のなかにある「質疑応答」でもその音の深みについての示唆がなされているが、そういう「一音」をかぎりなき自由のなかで再び獲得すること。花のような「一音」を。まさに、祝祭として。

 

 

 

風の音楽室

スティング「ブラン・ニュー・デイ」


1999.9.23

 

■スティング「ブラン・ニュー・デイ」

 POCM1280 1999.9.22

 スティングはいい。ポリスのときもよかったけれど、「ブルータートルの夢」以降のソロで失望させられたことがない。今回の「ブラン・ニュー・デイ」は3年ぶりの新譜。少し前にスティングの映画音楽関連を集めたものもあったがこれもなかなかよかった。「レオン」のエンディングテーマの入っているやつ。

 なにより、スティングの声が最高にいい。それにジャケットに写っている顔が相変わらずいい。もちろん、音楽がまたいい。音づくり、歌詞づくりに決して手を抜いていない。常に新たなものをそこに加えようとしている。しかもそこにあるのは常に、スティングなのだ。

 以前、デヴィッド・シルヴィアンのアルバムを紹介して以来、このところあまり聴く気のしなくなっていたロック・ポッポス関連をひさびさ少しずつ物色するようになっている。

 先日発見したのは、2年近く前にでていたポール・サイモンの「ザ・ケープマン」。なんだ、ポール・サイモンも健在だったんじゃないか、と大喜び。このアルバムは、90年の「リズム・オブ・ザ・セインツ」以来のもので、ミュージカルの「ザ・ケープマン」からの主要曲を集めたものだという。サイモンとガーファンクル以来のポール・サイモンがみんなつまっていながらここにもあらたなトライを忘れないポール・サイモンがある。

 もちろん日々耳に入ってくる多くの日本の音楽は実にひどいものが多い(^^;)。声がひどい、顔が悪い、音楽がよくない、音づくりは手抜き、歌詞はもっともひどい、新たなものがそこに感じられない、そしてそこにあるのは常にアーティストと言いたがる学芸会的ノリ。

 さて、スティングの新しいアルバムである。ライナーノーツに紹介されているスティングのコメントがいいので、それをご紹介しておきたい。

 音楽を階層ごとに分類すること、すなわちストラティフィケイションを少しでも取り除いていくこと、それがぼくのクルセイド、改革運動なんだ。階層、これは流動的なものなんだ。音楽において進歩していく唯一の道は、そのバリアを取り払ってハイブリッドなものを作ること。そこにこそ本物のきらめきがある。

 ジャズでもフォークでも、ピュアな音楽にはぼくはまったく興味がない。ぼくが興味を惹かれるのは、ジャズ・ミーツ・ポップ、ポップ・ミーツ・クラシックといったようなハイブリッドな世界なんだ。ハイブリッドは時にはひどくかっこ悪くて、醜くて、不愉快でどうしようもないこともある。だけどうまくいった時には素晴らしいものが作れる。

 音楽は境界線のないひとつの宇宙。ぼくのイマジネーションの中にはバリアなんてひとつもない。あらゆる音楽の間を自由に行き来したい。

 今回の新譜のために、スティングは「一年以上かけて作曲し、それを編集整理して一時間分の音楽に纏め、それを毎日聴いて歌詞をつくりあげていった」ということだけれど、そうした音づくりへの姿勢が伝わってくるアルバム。

 上記の引用は、先日ここで少しだけふれた「組織なきネットワーク」という理念と通じるものがあるのではないかと、とてもうれしくなった。ハイブリッドで自由で、境界線のない在り方は、ときに顰蹙をかったり、「専門」というこだわりにとっては安易にとられたりもするかもしれないが、最初はなかった垣根のなかにいては、どこにも行けないのではないかと思う。もちろん、深みを追求することでその底をぶちやぶっていく方向性もそのハイブリッドに通ずるものだ。

 いいものは少ないかもしれないが、ときにこうしたアルバムを手にできると、ぼくのなかでなにかが踊り出そうとするのがわかる。そして、「ブラン・ニュー・デイ」、新しい一日が迎えられる。

 

 

 

風の音楽室

BCJのマタイ受難曲・ヨハネ受難曲


1999.10.24

 

■BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)

 指揮:鈴木雅明

 ・J.S.バッハ ヨハネ受難曲 BWV245(1749年第4版)

  KKCC-2279 1999.6.25

 ・J.S.バッハ マタイ受難曲 BWV244

  KICC-293/5 1999.10.22

 BCJのマタイ受難曲が、いよいよ発売になりました。6月に発売になったヨハネ受難曲と併せ、この世紀末、1999年に2曲とも出そろったことになります。ヨハネ受難曲も発売後、もう何度聴きなおしたことでしょう。バッハの没後250年を来年に控えているということもあるのでしょうが、この世紀末において、日本の演奏として発売されたということはとても象徴的な感じがします。

 ヨハネ受難曲に関しては、3年ほど前にライブ版として発売されていましたが、今回は、主に別な版を使って演奏されたまったく新しいもの。マタイ受難曲については始めてのものです。また、現在バッハのカンタータシリーズも10集目が出ていて、これでひとつのくぎりになったような、そんな印象もあります。

 ちなみに、カウンターテナーの米良美一は、カンタータシリーズの第8集まででメンバーから去り、第9集からは、注目のロビン・ブレイズが参加していて、今回のマタイ受難曲でも、ショルのような透明感あふれるところもある素晴らしい声を聴かせてくれています。米良美一は、つい先日もはじめてカウンターテナーではない声でのポップス・アルバムなども出していて、いろんなことがやりたくて仕方がないようですけど(^^;、正直いって、あまり出来がいいとはいえませんし、たとえばカンタータシリーズの3集や日本歌曲集の「うぐいす」などで聴かせてくれたような鬼気迫るほどの深みはなくなり、声も荒れてきているような印象があります。しかしおそらくずっと後になってみれば、そうしたことをも生かしたような声の深みに迫ってくれるのではないかと期待はできるのではないかと思います。

 ところで、今回の「マタイ受難曲」のライナーノーツの最初に指揮者の鈴木雅明によるとても深みのある内容のコメントがありますので、それをご紹介してみたいと思います。

 マタイ受難曲は、バッハの愛好家のみならず、すべての音楽ファンにとって、ほとんど至高の存在になっている、といっても過言ではないでしょう。演奏に直面する時、この未曾有の作品を一体どのようにして捉えるべきか、いつもその大きさに圧倒される思いです。

 そもそも、バッハの受難曲の演奏に際しては、作品の基礎をなす3つの異なった層をどのように捉えるか、がまず第一の課題でしょう。エヴァンゲリストとイエス、そして群衆(Turba)が担う客観的な事実描写としての聖書記事、個人的な信仰を歌う自由詞によるアリア(と一部の合唱)、そして教会的信仰告白としてのコラール、というこの3つの要素が、異なった時間と空間からこの作品を立体的に構成しているのです。なかでもコラールの選択と配置には、バッハ自身の強い意思が反映しているように思われ、会衆歌としての機能を超えて、作品の深化に大きく貢献しています。

 しかしこれらの3つの層は、決して3つの演奏者群に分担されたのではありませんでした。バッハが残したオリジナルのパート譜を見ると、上記のテキストの機能とは無関係に、全体が第1と第2のグループに分かれ、それぞれがこれらの重奏構造を持つように設計されているのです。その上、合唱はもちろん、エヴァンゲリストやイエス役でさえ、決してそれらの役に徹するのではなく、同時に合唱部分もアリアやコラールをも歌っていたことがわかるのです。これは、考えてみると非常に滑稽なことです。なぜなら、ある時は信仰を告白し、ある時はイエスの愛のわざを称えるアリア役がががこぞイエスを嘲り、断罪するユダヤ人の叫びにも加わることになり、イエス役に至っては、自分自身を「十字架につけよ」と叫ばねばならないからです。

 実はこの不思議な構造にこそ、本質が宿っているのかもしれません。つまり、この作品の本来の姿は決して、オペラのように登場人物が別々の役を担い、物語を追って劇を演ずるのではなく、演奏者のすべてが、ある時はユダヤ人であり、ある時は忠実な(つもりの)弟子であり、またある時は、イエスへの信仰を告白するシオンの娘ともなるのです。(・・・)

 バッハの受難曲演奏の構造は、イエスの弟子が「(裏切るのは)私ですか、私ですか」と問うた直後に、その同じ合唱の口をもって、「私です」という罪の告白をなさしめる一方で、一瞬のうちに「バラバ!!」と叫び、「十字架につけよ」と罵るユダヤ人にもなりうる自分を体験させてくれます。(・・・)

 幾たびペテロのように悔い改めても、また裏切りの言葉を吐く、正に罪の魂である私たちひとりひとりが、このマタイ受難曲の3時間半の間、イエスの弟子となり、敵となり、そして信仰の決意を新たにしては砕け散る弱い人間としての姿を見尽くすことができますように。そしてその後、魂の罪からの解放、真の喜びへと、この音楽が導いてくれることを願いつつ…。

 「罪」とか「信仰」という言葉を使わずに、これらの言葉を理解することももちろん可能です(^^)。人間として生きている私たちの、そしてその人間であるがゆえの意識の重層構造、存在の重層構造、そしてその深みを体験すること。自分を単なる善人にしてしまうのでもなく、逆に悪人にしてしまうのでもなく、またたんなる傍観者にしてしまうのでもなく、かぎりなく人間的な、まさに人間であるがゆえの魂の、存在の深みへ、バッハの受難曲は、受難曲にかぎらずバッハの音楽の総体は、私たちを導いてくれているかのようです。

 

 

 

風の音楽室

デヴィッド・ボウイ 'hours・・・ '


1999.10.26

 

■デヴィッド・ボウイ 'hours・・・'

 VJCP-68160 1999.9.29

 70年代の最初の頃、憑かれたようにポップスやロックばかりを聴いていた。デヴィッド・ボウイといえば、グラム・ロック、そしてスター・マン、スペイス・オディティ、ジギー・スターダスト・・・。とっても変なスタイルだったけど、それがカッコ良かったし、あの不思議に歪みながら美しくゆれるようなボーカルが魅力だった。

 その後、ロウやヒーローズ頃まではかろうじて聴いていたが、レッツ・ダンス以降はどうもあまり聴く気がしなくなり、ティン・マシーンを聴いてからはほとんど聴かなくなっていた。70年代の最初の頃のポップスやロックへ傾けた、あの新鮮な感覚が次第になくなってきていたのもあったように思う。

 先日、ひょんなことからCATVで見たビデオ・クリップにデヴィッド・ボウイがでていて、50歳を過ぎても相変わらず美しい姿と相変わらず不思議に歪みながら美しくゆれるようなボーカルにしばらく見とれながら見入っていた。ティン・マシーン以降のデヴィッド・ボウイというよりも、どこかはじめてデヴィッド・ボウイを聴いた頃のボウイの感じがよみがえってきたような、そんな印象が残った。

 そして、この 'hours・・・'。デヴィッド・ボウイを聴きこんでいるというわけでもなく、最近のポップス、ロックのシーンにもそう関心があるわけでもないからあくまでもぼくだけの個人的な感想に過ぎないのだけれど、そのアルバムを聴きながら、はじめてポップス、ロックを全身に浴びていた頃の、妙にピュアでシンプルな音の粒子の感覚が久しぶりに降り注いでいるのを感じた。もちろん、かつての感じそのままではなく、デヴィッド・ボウイもかつてのデヴィッド・ボウイではないのだけれど、「この感じ」というのがとても素直に入ってきた。

 解説(井上貴子)にもあるように、「息子が年老いた父親を抱きかかえるように、50歳を過ぎたボウイを愛しく抱く若き日のボウイ。老いや死を怖れ、自分だけは違うんだと現実から遊離していた20代のボウイと、過去を葬りたいと願っていた50代のボウイが、初めて心開いて出会った瞬間ーーー。」「この『hours・・・』でようやくその華やかすぎる過去を静かに受け入れている」ということかもしれない。

 ぼくには「静かに受け入れ」るような「華やかすぎる過去」はないけれど、かつて自分の魂の栄養のようにしていたピュアでシンプルな音の粒子に、長い時間を超えて、というかいろんな道を経て、もういちど、まっすぐに出会えたという感じがある。

 さらに、解説から。 

映画やテレビといったメディアではなく、なぜ彼がロックンロールを選んだのか?即時性?自由奔放なイマジネーション?いや、そうではなくテーブルの上にそっと置かれた花束のようになにげなく、そして無条件に人をほころばす温かさーー思わず微笑がこぼれ落ちるような、このあったかい“感情”こをがロックンロールの美しさだと、生きていることを豊かに実感させる素晴らしさなのだと、このアルバムは言い放っている。

 そう、「テーブルの上にそっと置かれた花束のようになにげなく、そして無条件に人をほころばす温かさーー思わず微笑がこぼれ落ちるような、このあったかい“感情”」。70年代の初めの頃はそれを激しく求めようとしていたのかもしれないが、やっと今、その「温かさ」が、ほんとうに「なにげなく」あるようなそんな「感情」を得ることができるようになったのかもしれない。

 歳を経るというのは、捨てたもんじゃない。なかなかに素敵なプロセス。感情の熟成のなかで、静かによみがえるピュアな香りのような・・・。

 

 

 

風の音楽室

坂本美雨:DAWN PINK


1999.10.26

 

■坂本美雨:DAWN PINK

 プロデュース:坂本龍一

 WPC6-10037 1999.9.29

 まっすぐな視線はどちらかといえば苦手なのだけれど、このアルバムのジャケットの坂本美雨は、まっすぐこちらを見ている。少しびっくりするけれど、「ああ、この視線なんだ」と妙に納得してしまう。ただ純粋素朴というのではなく、まっすぐにこちらを見ている。

 先日の朝日新聞(1999.10.23)でもこのアルバムが紹介されていて、そのなかに「苦労もしないでやってきて、甘ちゃんだと思うこともある。でも、この立場だからこそ、できることがあると思います」とある。「苦労」も「甘ちゃん」も超えている人の言葉だと思う。すでにそういうものの二元から自由になっている。そういうまっすぐさなのだと妙に納得してしまった。

 アルバムを聴いてみる。最初、母の矢野顕子のような声に似ているとも思ったが、その印象は次第に薄らいできて、坂本美雨が坂本美雨になろうとする声が浮き上がってくるように感じた。まだ荒削りな感じは否めないが、まっすぐこちらに届く声だ。

 その声が、この世紀末に響いているのをイメージしてみる。それは、新しい時代を迎えるための声なのかもしれない。そんなことを感じながら、こちらまでどこかまっすぐになってゆくのを感じる。ずっと忘れていたのかもしれない、そのまっすぐな感覚。

 坂本龍一と矢野顕子というのは、いつも気になるミュージシャンで、できるだけその音楽にふれるようにしているのだけれど、聴きながらどこかぼくのなかでフラストレーションがたまることがよくあった。坂本オペラのCDにしても、とてもよくできたもので、何度も聴きかえしはしたが、どこかで何かがひっかかってしまった。ひょっとしたら浅田彰と村上龍の影響が過剰な何かを付加したのかもしれない。矢野顕子の音楽もまたとても素晴らしいものが多いのだけれど、どこかで過剰な何かを感じてしまう。あの母性的すぎる感じなのかもしれないのだれど(^^;。

 で、坂本美雨。おそらくこれからますます坂本美雨になっていくのだろうし、今回のアルバムには坂本龍一と矢野顕子、そしてその周辺のミュージシャンたちにとても暖かく支えられたものが過剰に流れ込んでいるのだろうけど、そのなかで、それらを超えてまっすぐにこちらに届く声が気持ちいい。過剰ななにかをあまり感じないけれど、ただ純粋素朴なのでもない。不思議な暖かい透明感を感じる。その声は、坂本龍一の音楽をさらにふわっと包み込むなにかがあるように感じる。ひょっとしたら、坂本オペラの次にこういう声の世界が広がりはじめているのかもしれないと思う。

 DAWN PINK。「夜明けの瞬間に空に見えるピンク色」という意味。先の朝日新聞の記事には、「この言葉が、ぱっと浮かびました。出発とか、目覚めとか、私の今の心境も表しています」とある。最近、わりと朝早く起きることが多くなって、そのDAWN PINKを目にすることがよくあるのだけれど、その感じがなぜかよくわかるような気がする。おそらく、この世紀末から新世紀に向けたDAWN PINKの時代に、こんなまっすぐな視線が必要なのかもしれない。そして、そうしたまっすぐな視線のために、これまで錯綜した迷路のような在り方も必要とされたのかもしれない。

  


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