風の音楽室 5

1998/4.4-1998/8.6


■音の後進国日本

■純正律、ピタゴラス音律、平均律

■武久源造・鍵盤音楽の領域 Vol.3

■内田光子・シューベルト・ピアノソナタ D.958&599

■BCJ・バッハカンタータシリーズ7

■ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」

■ブクステフーデのカンタータ

■メジューエワ・バッハ・ベートーヴェン&シューマン

■ヒリアードアンサンブル/ラッソ・死者のためのミサ曲

■五嶋みどり・聞こえない音に耳をすます

 

風の音楽室

音の後進国日本


(1998.4.4)

 

 

■玉木宏樹「音の後進国日本/純正律のすすめ」

 (文化創作出版/1998.1.15)

 少し前に「絶対音感」という本をご紹介しました。本書のなかでは、それが(半ば誤解で)批判されているところがあるのですが大きなテーマとしては共通したテーマを取り上げているといえるように思うし、ある意味では、その内容の誤解されがちなところや筆が走りすぎているところなどにスポットを当てることにもなっていて、本書は、さらにテーマが明確にされ、具体的な提言がなされているといえます。「絶対音感」の著者は、「絶対音感」といわれていることを最近知り、それをめぐってあれこれと調べたものをルポとして書いたものであるのに対し本書は、やはりプロの音楽家としてずっと問題意識をもって切実な問題として取り組んでいるだけ、内容的にいってより具体的でどうしていくのが望ましいのかといった部分まで掘り下げているといえます。

 しかし、この玉木宏樹という方は、けっこう毒づくのがお好きなようで、そのあまり節操のない書きぶりや極端さで誤解されやすい人なのではないかと読んでいるこちらのほうが心配になってくるくらいになっています。そのあまりに軽く、アジっている感じの書き方になっているにもかかわらず、本書に盛られている内容は極めて重要なことであり、また深く認識することが求められていることだといえます。

 では、本書では何が主張されているかというと、基本的に、「平均律」という1オクターブを12等分した音律は、すべての完全5度の音を100分の2狭くすることで、0.8秒に一回ワンワンといううなりが生じるような無理な音律なので、そうではない「純正なドミソ」である「純正律」が体にもいい音律だということが叫ばれています。シュタイナーが、「平均律」を体現したピアノのことを俗物だというふうに形容したのもそうしたところがあるわけです。(ピアノについては、以前「シュタイナーノート」で書いたことがあると思いますので、それをご参照ください)

 本書には、8センチCDが付録としてつけられていて、「平均律」と「純正律」とが比較されていたりもするので、その違いを実際に耳で実感することができます。また、そのCDには、著者おすすめの、かの「ヒカシュー」の「巻上公一」のホーミーなども収められていて、なんだか得した感じがしました。実はぼくは、かつて「ヒカシュー」及び「巻上公一」のあの不思議な声を愛聴していたのです。

 最近はあまり聴かなくなっていたのですが、本書には、その巻上公一の「「口の葉」というアルバムが紹介されていたのでさっそく探してみることにしようと思っています。

 それから、著者も注目しているホーミーですけど、ぼくが、こうして「風の音楽室」やシュタイナーの音楽論などについてホームページで少しずつ書くようになった最初のネタのひとつにホーミーという倍音唱法のテーマがあったので、それと「音律」の問題などが正面からとりあげられている本書に出会えたのも何かの縁かもしれないなとか思っています。

 しかし、最後に付け加えておきますと、上記にも少しふれた「ピアノについて」でも書いたことがあるように、最も俗物的な在り方のものであるがゆえの可能性という視点をなくしてはいけないのだと思う。つまり、この世界は、「純粋」な「正しい」世界ではない。そこには、不純なもの、「悪」などが満ちているわけで、そうした不純さや悪を排除するのではなく、それらの底をぶち抜いていき、それらを変容させていくような在り方を模索することを忘れてはならないということです。

 そういう視点を持ちながら、「純正律」についてアプローチするならば、単なる純粋な美しさだけではない、高次の意味での素晴らしい響きが可能になるのではないかと思います。

 

 

風の音楽室

純正律、ピタゴラス音律、平均律


(1998.4.6)

 

■「オフィチウム」

 ヒリアード・アンサンブル&

ヤン・ガルバレク(ソプラノ&テナー・サックス)

 (ECM POCC-1022 1994.2.24)

 これは、ずっと前にECMからでていたものなのですけど、先日ご紹介した玉木宏樹「音の後進国日本/純正律のすすめ」のなかに、「これぞ神髄」として紹介されていたので、早速聴いてみました。

 ヒリアード・アンサンブルというと、少し前にもこの「風の音楽室」でそのコンサートに出かけたときのことをご紹介してありますので省略しますが、玉木宏樹が「完全無欠の純正律コーラスグループ」として紹介しているほどの素晴らしいグループなので、まだ聴かれたことのない方は、ぜひ一度は聴いて損のないCDです。もちろん、このCDでなくても、どれもすばらしいと思います。

 ここでは、このCDの紹介はともかくとして、「音の後進国日本/純正律のすすめ」のなかで玉木宏樹が、この「オフィチウム」に関連して音律の問題についてべているところを今回はご紹介したいと思います。

 まず、十二音階とは何かということについて。

 ピアノの黒鍵はオクターブの中に五つある。下から、「ド」の「♯」「レ」の「♯」「ファ」の「♯」「ソ」の「♯」「ラ」の「♯」で、これを「♭」に置きかえると、「レ」の「♭」「ミ」の「♭」「ソ」の「♭」「ラ」の「♭」「シ」の「♭」となる。これを同名異音と呼ぶのだが、なぜこんなめんどくさいことになっているのか?黒鍵は五つしかないのだから、呼び方を決めてしまえばよけいな混乱は起きない。(略)

 実は、(略)「ド」の「♯」と「レ」の「♭」の高さは違うのだ。しかしピアノでは同じにしてある。(略)

 「平均律」の本当の意味は、オクターブを、単純に十二等分して、均等に音程を狂わした調律という意味である。

 それでも、今でも呼び名が違うのは、その役割が完全に違うからである。「ド」と「レ」の間にある黒鍵は「ド」から「レ」にあがる時に使うと、「ド」の「♯」になり、「レ」から「ド」に下がるときに使うと「レ」の「♭」になるのである。(P103-104)

 続いて、ピタゴラス音階はどういう音階か、また「純正律」とはどういう音階かについて、少し煩雑にはなりますが、本文の説明から編集してみます。

 ピタゴラスが発見した音階、調律法をピタゴラス音律という。ピタゴラスによってはじめてオクターブは近似値的に十二分割されたのである。

(略)純正律には全音にも大小があり、半音にも大小の差がある。しかし、ピタゴラスでは、ドとレの間の半音は一つだけである。この音は平均律の異名同音より分かり易い。

 東洋音楽とか、スコットランド音階と呼ばれる五音音階、特に明治以降の「四」と「七」度、つまり、「ファ」と「シ」というやっかいな音程を抜いた、ドレミソラという五音音階をヨナ抜きと呼び、世界中で一番使われている五つの音なのである。(略)

 世界中の民族のほとんどがすべて、このピタゴラス五音音階によっている。だから音楽の五要素の内のひとつ、「メロディ」では、このピタゴラスが支配しているし、実際にこの音程でうたったほうが、メロディとしての存在はくっきりと主張できる。

 これに対して、私がうるさいほど「純正律」といっているのは、長三度つまり、「ド」と「ミ」そして完全五度「ド」と「ソ」の関係を完全に美しく調律した、つまるり「ドミソ」のハーモニーを完全無欠にとった調律法のことをいう。

 この「ドミソ」のハーモニーは一つの「ド」の基音の上に沢山使われる倍音を美しく響かせる、基礎の和音である。

 この基礎和音だけで音階を作ることはできるが、ピタゴラスの十二音音階とは全く関係のない世界になる。そこで、純正な「ドミソ」とピタゴラスの融合を計ったのが、いまいう「純正律」である。ピタゴラスの最後の三つの音「ド」「ソ」「レ」の上にそれぞれ、「ドミソ」の純正和音を作り、それを並べ直したのが今の「純正律」である、。「ドソレ」で組み立てると、ト長調になってしまうので、「ド」の完全五度下、いわゆる「下属音(サブドミナント)」の「ファ」の音に対する「ドミソ」をとる。すると、「ファラド」「ドミソ」「シソレ」という基本的な三和音ができる。これを下から順番に並べると。いわゆる「純正律」の「ドレミファソラシド」ができあがる。(P107-111)

 さて、では、この「純正律」の「ドレミファソラシド」が文句なく素晴らしいようですが、そうはいえないというところから、なぜヒリアード・アンサンブルの「オフィチウム」が素晴らしいのかについてのところに入ります。

この音階は、ハーモニーとしてハモる以外のメロディとして歌うには、はっきりいってかなり不自然であり、歌いにくい。(略)

 それにしても、ピタゴラス音律(世界中の五音音階)と純正律のドレミファソラシド」の高さはあまりにも違いすぎる。特に違うのは「ミ」と「ラ」である。

 ピタゴラス音律の「ドミソ」は、平均律より、もっと不純である。「ド」と「ソ」は純正なのだが、「ミ」が異常に高すぎる。この高すぎる「ミ」の音程は、「ド」の倍音系列のどこにもない音なので、ハモりようがないのである。(略)

 いっぽう、純正律の「ラ」はメロディラインとしては低すぎる。(略)

 これは経験則なのだが、ハーモニーは純正律でとり(ハモるというのがこのことである)メロディはピタゴラスでやるのが一番気持ちがよい。(P111-112)

 ということで、「オフィチウム」は、

ヒリアード・アンサンブルの信じられないような天国的純正律の上に乗って、現代ジャズのガルバレクの即興のサックスが、ピタゴラス音律で乗っかっているのである。(P113)

 以上、長々と、説明の編集をしてきましたが、やっとこのアルバムのどこがすばらしいのかということについての音律についての説明をしてみました。

 説明ついでに、「平均律」がどうやってつくられたのかについてのところもこの際、その説明部分も引用しておくことにします。

平均律というのは実はピタゴラス音律の鬼子なのである。先ほどの表記に現われた、上の「シ」の「♯」を「ド」のオクターブ上とみなして、そこで打ち切ったのが、ピタゴラス音律なのだが、そのかなりの巾のある「ド」と「シ」の「♯」(「シ」の「♯」の方が大分高い)を完全なオクターブ(完全八度)にし、それを整合させるために、すべての完全五度を平均して100分の二せまくした調律なのである。だから、本来の平均律のピアノは和音を演奏するよりも、メロディを演奏する方が適しているということにもなる。(P113)

 やっとこさ一通りの説明が終わりましたが、ここで浮かぶ素朴な疑問は、なぜこんなにややこしくなるほどに音律は単純にいかないのかということではないでしょうか。1オクターブが歪めずそのままで12音音階になっていれば、それがそのまま「純正律」になることができるのですが、そうはならないところが不思議というか面白いというか。

 ここで少し神秘学的な視点から少し示唆しておくことにしますと、オクターブというのが、単純に閉じていないということ、つまり、ある意味では、無限に下降し上昇するものとなっているような螺旋状のものになっているということに注目するならば、まさにそこに「時間」、つまり「進化」ということが、表現されているというふうに見ることはできないでしょうか。

 先の説明で、純正律はハーモニーとしてハモる以外のメロディとして歌うには、かなり不自然であり歌いにくい、というのがありましたが、ハモるというのはある意味では空間性であり、メロディというのは時間性だということができます。つまり、この時空は、ある意味でズレているがゆえに、展開が可能になっているということです。

 この点に関しては、またあらためてそのうち「ファンタジー」を広げてみたいと思っています。

 

風の音楽室

武久源造・鍵盤音楽の領域 Vol.3


(1998.4.12)

 

■武久源造「鍵盤音楽の領域Vol.3」

 クラヴィコード・チェンバロ・小型パイプオルガンによる、

 J.S.バッハ 前奏曲・インヴェンションとシンフォニア

 製造・発売元:コジマ録音 ALM RECORDS ALCD-1017

 これまでにも「風の音楽室」でご紹介した武久源造さんの「鍵盤音楽の領域」シリーズの第3弾が出ました。この「鍵盤音楽の領域」シリーズは、Vol.1もVol.2などもレコード芸術特選盤に選ばれているくらいですので、いわば定番のシリーズだといえます。

 武久源造さんの奏でるクラヴィコード、チェンバロ、パイプオルガンなどの音は、まさに生きて輝き踊るものばかりで、今回のVol.3も素晴らしい内容になっています。おそらく、これほどの多彩で生きた音を出せる方もあまりいないのではないかとさえ思えます。

 さて、今回収められている曲は、「バッハの『教育用』の小曲を集めたもの」で、その「多くは長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための<音楽帳>に書き込まれたもの」だということです。そうした前奏曲・インヴェンションとシンフォニアを武久源造さんは、「まずこれらの曲を調性ごとに分類」し、バッハがアルファベット順にしていたのに対し、「続けて聴いたときになだらかに変化するよう工夫した」そうです。全部で46曲に及びますから、今回はそれをご紹介しませんが、「調性」の性格やその多様性からは、コンパクトなCDにもかかわらず、ひとつの宇宙が感じられるほどです。

 さて、この「風の音楽室」では、実際に音楽を聴いていただくことはできませんので、今回は、武久源造さんの書いた「解説」から、その、ある意味では神秘学的なとも思えるところをふたつほどご紹介して、演奏者の基本的な姿勢を理解したいと思います。

中世にあって、教養人たるものが修得すべき学問は【自由7科】と呼ばれた7教科であったが、そのうちでも数理的な4科のほうがより高い位置を占め、大学における研究の主たる関心事でもあった。ここでいう数は、リアルな数にとどまらず、宇宙の法則を理解する鍵であり、象徴的な意味で、人の心に真のハーモニーをもたらす神秘的な[呪文]でもあった。学問としての音楽は、この数理的4科に属し、作曲[コンポーズ]は「「(音)を共に置くこと、つまり諸声部を組み立てることを意味した。(略)

一方、イタリアを皮切りにルネッサンス運動が起こり人文主義が台頭するとともに、事態は一変した。文法、論理学、修辞学などの悟性的分野が再評価され、ヒューマニストたち、つまり、新しい教養人たちの研究心と表現意欲とを刺激し始めたのである。そして今度は音楽は悟性的学問の方が数理的なそれよりも上位に置かれるようになる。こうなると音楽は悟性的分野に数えられ、詩学とともにルネッサンス人の人文主義的教養において重きをなすにいたる。(略)

音楽をめぐるこうした2つの見方、或いは、2つのアプローチ、数理的なものと悟性的なものとは、バッハにおいて稀有な統合にいたる。バッハは、この2つの歴史的潮流の[最後の]合流点、ヨーロッパ音楽史における最もダイナミックな時と場所を生きたのであった。

音楽は数理的ともいえる法則を内包している。そしてしばしば神秘的なまでにそうであるという点で上にふれた中世人の見方は正しい。しかし音楽は同時に「詩」でもある。しかもしれは人間のから新たに生み直さなければならない、つまりそのつど演奏されなければならない「詩」なのである。音楽は従って、世界に投げ出されたきわめて客観的な存在であるとともに、一方ではどこまでも主観的な営みなのだと言わざるをえない。この矛盾が矛盾でなくなるのは、我々が「愛の状態」にあるときのみである。そしてそのとき音楽は鑑賞されるのではなく、ただ生きられるものとなるだろう。

 神秘学も、「我々が「愛の状態」にあるとき」、主観−客観という二元的な在り方、その矛盾を超えたものとなります。それは、まさにあらゆるものごとに対して、それから離れて「鑑賞」「観察」するという態度ではなく、「生きられる」ものであるときにこそ成立するのだといえます。逆にいえば、それが「生きられた」もの、そのものでないときに、神秘学は神秘学ではなくなってしまうのだといえます。

 音楽を聴くときも、それを「愛の状態」においてそれを受け取り、「生きられた」ものとなるときに、矛盾を超え、私たちは音楽と「神秘的合一」の体験を持つことができます。

 武久源造さんは、ぼくの今住んでいる町で生まれ、ぼくと同い年だということですが、同時代、同世代にこうした方々がいるということはとても誇りを感じますし、大きな可能性も感じます。

 

風の音楽室

内田光子・シューベルト・ピアノソナタ D.958&599


(1998.4.21)

 先日の日曜日、NHKの教育テレビで、内田光子のシューベルトがあった。演奏されたのは、ピアノソナタD690と即興曲。D.690は、シューベルト最後のピアノソナタ。CD化もされている。CDで聴いたときよりも、映像があるせいか、さらにその音楽の「理念」とでもいえるものがとても強く伝わってくる。素晴らしい演奏というのは、そうした「理念」に耳を澄ませながら、それをほとばしらせるような演奏なのだなとあらためて感動をおぼえた。

 耳を澄ますということ。それは受け入れるということ。受け入れ、それをみずからに満たしていくこと。しかしそれはただ受け身の行為ではない。

 それはある意味では、解読作業だともいえる。解読するためには、その文字について知らなければならないし、文字と文字の関係なども知っておかなければならない。

 読むということ。それは受け身の行為ではなく、アクティブな参加行為だ。たとえば人は文字を書き連ねながら、それを自らが読んでいる。また、たとえ自分が書いたものだとしても、それを時間を経て読んだときには、書いたときとは、まったく別の読み方の成立する可能性さえある。

 読むためには、耳を澄まさなければならない。そしてその耳を澄ますということは、限りなく創造的な行為なのだ。ある意味では、話すより聴くほうが難しいのだともいえる。

 さて、先日、内田光子のシューベルト演奏の第4枚目が発売された。最後の3つのピアノソナタのうち、D.690を除いたD.958とD.599。

■内田光子

 シューベルト ピアノ・ソナタ第19番(D.958)、第20番(D.599)

 PHCP-11092 (98.4.1)

 シューベルトの最後の3つのピアノソナタは、シューベルトの死のわずか数週間前に続けて作曲されたという。なぜかベートーベンの最後の3つのピアノソナタを思わせる。人は、死を前にし、そこでなにかを感じ取るのかもしれない。そしてそれはかぎりなくアクティブな受け入れる行為、耳をかぎりなく透明にしながら、聞き取る極限の行為なのかもしれない。

 これで内田光子のシューベルト・チクルスは4枚となった。これらの演奏を前にすると、まさに耳を澄ますということを深く感じ取ることができるように思う。

 

 

風の音楽室

BCJ・バッハカンタータシリーズ7


(1998.5.2)

 恒例のバッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハの教会カンタータシリーズの第7枚目、〜ヴァイマール5〜が発売されました。ただし残念ながら、これは輸入盤で、国内盤はかなり後になるようです。

 

■Bach Collegium Japan BIS-CD-881

 Johan Sebastian Bach:Cantatas

 Cantana No63 'Christen,aetzet Tag',BWV63

 「キリスト者よ,この日を刻み込め」

 Cantana No61 'Nun komm,der Heiland',BWV61

「来たれ、異邦人の救い主よ」BWV61

 Cantana No132 'Bereitet die Wege,bereitet die Bahn',BWV132

「道を備え,大路を備えよ」 BWV132

 Cantana No172 'Erschallet,ihr Lieder,BWV172

「鳴り響け、汝らの歌声」 BWV172

 今回のソリストは、次のようにソプラノが鈴木美土里さんではないほかは、基本的にベーシックなメンバー。

 ソプラノ:イングリッド・シュミットヒューゼン

 カウンターテナー:米良美一

 テノール:桜田亮

 バス:ペーター・コーイ

 個人的な趣味でいえば、ソプラノがもうひとつという感じのほかは、米良美一、桜田亮、ペーター・コーイとどれも相変わらず素晴らしい。特に、あらためて思うのは桜田亮の高らかな声の張り。少し前に、シューベルトの冬の旅でも有名になったプレガルディエンのミサ曲ロ短調(ヘレベッヘのもの)を聞いたのだけれど、これはもうひとつだったのに対して、桜田亮のテナーは絶品です。

 ちなみに、ヘレベッヘのバッハ・ミサ曲ロ短調(HMC 9016415)を少し前に聞いたのですが、これが音としてはとてもきれいなのですが、少しもこちらに響いてくるものがありませんでした。リヒターのものを聴きなおすと、これはやはりとても衝撃的なまでにいい。このリヒターのものの解説を磯山雅が次のように書いているのですが、やはり「精神性」の問題だと思います。(「精神性」というと、嫌がる方々も多いのですけど^^;)

私に言わせれば、全身全霊のかかった表現をうっとうしがり、日常的な心安いものに傾斜するというのは、聴き手の精神の衰退、音楽への畏敬の不足である。リヒターの張り詰めた精神からほとばしる魂のこもった音……それは、ちょうどアルプスの鋭鋒に立ったときのように、われわれの視界をバッハの本質に向けて、大きく開かせてくれるのではないか。

 さて、BCJ情報を少し。

 この4月10日に東京オペラシティで行なわれた「ヨハネ受難曲」第4稿の演奏がNHKによりテレビ収録され、5月3日、NHK-FM[15:00〜])、7月31日にはBS(衛星第2放送)でTV放送されるということです。

 また、次のバッハ/教会カンタータ全曲シリーズ第8集(BWV22,23,75番)、’97年 9月収録のものは、’98/6に発売予定だということです(輸入盤)。

 

 

風の音楽室

ハズラト・イナーヤト・ハーン「音の神秘」


(1998.6.20)

 

■ハズラト・イナーヤト・ハーン

 「音の神秘/生命は音楽を奏でる」

 (土取利行訳/平河出版社(mind books)/1998.5.25)

 音楽・音についてこれほど深い、限りないポエジー(創造)の込められた著作があるということに驚かされてしまった。翻訳は、敬愛すべき音楽家、土取利行氏。

 訳者プロフィールを見て驚いたのだけれど、土取氏は、1996年、北米インディアン、イロクォイ族の音楽調査に出かけたそうだ。イロクォイ族といえば、先日ここでご紹介した「一万年の旅路」の著者、ポーラ・アンダーウッドも、その遺産を継承している方なので、できればそのイロクォイ族の音楽について知りたいという誘惑に駆られてしまう。

 それはともかく、著者のイナーヤト・ハーンについてはこの訳書を通じてはじめて知ることになった。日本では、イスラムや、ましてスーフィズムへの関心が低いのもあって、今世紀初頭、欧米各地で精力的に活動したというイナーヤト・ハーンについては訳者もいうようにほとんど知られていないというのが実状のようだ。

 その経歴については、訳者あとがきで紹介されているのだけれど、長くなるので、本書の最後に記されている「著者略歴」で、どういう時代にどういう活動をしたのかのアウトラインを見てみたい。

1882年、北インド、バローダの高名な音楽家の末裔として生まれる。祖父の創設したインドで最初の音楽学院(ガーヤン・シャーラー)で学ぶ。インド全土で演奏活動を行ない、各地の宮廷でもヴィーナー奏者、歌手としての名声を得る。

1903年、ハイダラーバードでスーフィーの師マダーニーと出会い、彼のもとで修行を積む。

1910年渡米。欧米各地で演奏と講義を続け、当時の有名なアーティストとも交流。

1914年から20年にかけて、ロンドンでスーフィー・ムーブメントの母体を形成。その後、欧米各地を旅し、12ヶ国にスーフィー・センターを設ける。

1926年、インドに帰国し、よく27年、デリーにて死去。

著書に''The Sufi Message of Hazrat Inayat Khan''全14巻がある。

 本書は、その著書のなかの第二巻(The Mysticism of Sound)の全訳で、このなかには、「音楽」「音の神秘」「ことばの力」「宇宙の言語」が収められている。

 序文には、次のように本書が紹介されている。

本書は、ハズラト・イナーヤト・ハーンの音と音楽(創造の基礎としての音、霊的発展のために欠かせない媒体としての音楽)に関する神秘的教えのほとんどを一冊にまとめたものである。高名な音楽家だったイナーヤト・ハーンは、彼に託されたスーフィーの教えにひたすら貢献しようと、その芸術活動を断念した。音楽家であったゆえに、彼は難なく、秘教的な真理を音や音楽を通じて表現する、古代の伝統にならうことができたのだった。

 スーフィーについてはそう深く知っているわけではないのだけれど、なぜか、以前からスーフィーについての著作にふれるたびに、深い愛情のようなものを感じてしまう。今回の、音と音楽についてのものは、とくにそれを強く感じさせられた。言葉にならないけれども、音と音楽について半ば直観的に感じ取っているものもしくは、感じ取ろうとしているものについて、本書には、驚くべきといっていいほど、それが言葉になって記されている。おそらく、訳者の土取さんという方の深い洞察があってこそ、こんな素晴らしい言葉になっているようにも思う。

 この内容については、自分なりに言葉にしておきたい衝動にも駆られるところがあるので、「音の神秘ノート」とでもして、紹介方々思いのままに何か書いてみることにしたいと思っている。

 

風の音楽室

ブクステフーデのカンタータ


(1998.7.26)

 

■カントゥス・ケルン CANTUS COELN

 ブクステフーデ「教会カンタータ」BUXTEHUDE Geistliche Kantaten

 harmonia mundi HMC 901629

 バッハ・コレギウム・ジャパンによる次のようなブクステフーデのカンタータが輸入盤で発売されていると先日知り、早速注文したのですが、シュッツのものを注文して4カ月ほどかかっているので今度も年内くらいかなとか思っていたところ、輸入盤のなかにブクステフーデのカンタータを見つけました。

 

■D.ブクステフーデ/《われらがイエスの四肢》 BIS CD-871

 鈴木雅明/BCJ チェリス(ガンバ・コンソート)

 (S)緋田芳江、鈴木美登里、柳沢亜紀(A)穴澤ゆう子

 (CT)米良美一(T)桜田亮(B)小笠原美敬

 よくみれば、このカントゥス・ケルンのメンバーにBCJのバッハ・カンタータシリーズに参加しているテノールのゲルト・チュルクやバスのシュテファン・シュレッケンベルガーも参加しているのがわかりました。

 ちなみに、これは10月下旬に日本版も発売されるということです。

 それはともかく、ブクステフーデのカンタータは、シュッツと同じくバッハのカンタータに深く影響しているということなので、これまでに聴いていた武久源造さんによるオルガン曲以外に残っているというカンタータも聴いてみたいと思っていたところなので、とてもタイムリーでしたし、演奏もなかなか良いものだったように思います。

 ブクステフーデのことをぼくはほとんど知らなかったので、音楽之友社からでている「標準音楽事典」で調べてみたところ1637年オルデスローエで生まれ、1707年リューベックで亡くなっている方でJ.S.バッハが1685-1750なので、J.S.バッハの半世紀ほど前の方です。

 その辞典には、次のようなバッハへの影響が述べられています。

ブクステフーデはトッカータ、プレリュードとフーガ、シャコンヌ、コラール編曲などのオルガン音楽では、内面的な情緒をひめた劇的な作風によって、若い時代のバッハに大きな影響を与えた。<夕べの音楽>については、今日重要な記録の大半が失われ、わずかに数曲の作品が、印刷された歌詞によってその規模を推察させるにすぎないが、その中には聖書に取材し、5回の日曜日に連続して演奏するために作られたオラトリオふうの作品がふくまれている。しかし、この損失を補って余りあるのは、今日100曲以上の作品が現存し、しだいに大きな注目をひくようになったカンタータ、ミサ・ブレヴィス、マニフィカトなどの作品である。とくにカンタータでは、かれはイタリアふうのカンタータの影響を受けて類型化する以前のあらゆる形態を示し、その形式の多様さと内面的な情緒の深さによって、中期バロックのドイツ・プロテスタント芸術の頂に立っている。

 このなかにある<夕べの音楽>というのは、クリスマス前の5回の日曜日に開催されていたという当時ドイツでもっとも有名な音楽イベントだったということです。「〜音楽祭」とでもいう感じでしょうか。

 バッハは、ブクステフーデの演奏を聴くために中央ドイツから徒歩旅行でリューベックにやってきてその演奏を聴き感激のあまり、自分のアルンシュタットでのオルガニストの仕事を4カ月も放り出して顰蹙を買ったという話ですが、それほどブクステフーデの音楽がバッハに影響を与えたということでしょう。

 

 

風の音楽室

メジューエワ「バッハ・ベートーヴェン&シューマン」


(1998.7.27)

 

■イリーナ・メジューエワ(ピアノ)

 バッハ・ベートーヴェン&シューマン

 DENON COCO 80872 98.7.18

 J.S.バッハ:パルティータ第2番

 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番

 シューマン:幻想曲ハ長調作品17

  これまでも2度ほどご紹介したメジューエワの最新アルバム。「著しい精神の深まりを見せる気鋭の若手」とあるが、まさに。メジューエワは1975年生まれのまだやっと23歳になったばかり。この5月に、ロシアのグネーシン音楽院を卒業したそうである。知人の話によると、メジューエワは、日本人と結婚したそうで、それが知人の知人ということのようで、はなはだ日本は狭い(^^;)。

 さて、今回特に注目は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番。ベートーヴェンのピアノソナタの最後の3曲である、30番、31番、32番は、どれも特にすばらしく、シューベルトの最後の3つのピアノソナタと合わせ、ぼくの今まで聴いたピアノ曲のなかで最高の部類に属している。(聴いたのが限られているので、最高というのも極めて主観的だけれど(^^;))

 昨年から今年にかけて内田光子の出したシューベルトのピアノソナタはとても素晴らしい演奏だったし、ベートーヴェンのピアノ・ソナタではヴェデルニコフやバックハウスやケンプなど、どれも素晴らしいのだけれど今回、メジューエワの弾いているベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番はぼくのなかでその音G共振するという意味では最高の演奏になっている。ちなみに、第32番は、やはりヴェデルニコフ。とはいえ、メジューエワが弾いたならば、逆転するかもしれない・・・。

 ほかのバッハもシューマンも素晴らしい演奏で、またこの3曲を今回まとめて弾いたのも、聴いてみてとてもよくわかるように思った。バッハからはじめて、ベートーヴェン、シューマンという順なのも、この順序である必然性を感じた。そして、その必然性と演奏の深みと力強さ、繊細さに大きなスケールのようなものを感じさせられたのは、おそらくぼくだけではないように思う。今後も期待◎のピアニストで、目が離せない存在である。

 しかし、若く才能のある存在というのは、とてもうらやましいなと思ってしまう。

 

 

風の音楽室

ヒリアードアンサンブル「ラッソ・死者のためのミサ曲」


(1998.8.2)

 

■ヒリアード・アンサンブル

 オルランド・ディ・ラッソ(1532-1594)

 「死者のためのミサ曲」「巫女の予言」

 ECM NEW SERIES POCC-1048 98.7.1

 ヒリアード・アンサンブルの話題の新譜登場です。今回は、16世紀のイタリアの作曲家オルランド・ディ・ラッソの作品。

 ラッソ(ラッスス)については、まったく知らなかったのですが、二千曲にも及ぶ教会音楽や世俗音楽を作曲した有名な作曲家だそうです。そのなかから、「死者のためのミサ曲」と「巫女の予言」の2曲が収録されています。

 相変わらず素晴らしい、ヒリアード・アンサンブルにしか演奏できない声の宇宙がここに展開されているのですが、今回は、「巫女の予言」という曲名にも表われているように、「巫女」というテーマにも興味深いものがるように思います。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの音楽などもひょっとしたらテーマ的につながるところもあるのかもしれない、などと、素人ならではの勝手な憶測なども楽しみがら聞いていたのですがヒリアード・アンサンブルのメンバーのジョン・ポッターの記している「ラッソと巫女」というタイトルのライナーノーツは、こんな言葉で始まっています。

キリスト教による古代多神教文化の流用は、言うまでもなく、西洋文化に内在する途方もない逆説のひとつである。

 たしかに、その逆説というか矛盾によってこそ、キリスト教には、常に二つの推進力があったともいえるような気もしますし、その逆説、矛盾に対する教義による隠蔽の歴史がキリスト教であったとしてもそれゆえにこそ、そこにはさまざまな可能性があったともいえるように思います。

 それはともかく、ライナーノーツからさらに。

もともとは、あちらこちらを旅する「元の」巫女がひとりだけいて、おそらく、早くも紀元前8世紀頃には、地中海地方と小アジアにそれぞれの土地柄に合った教団が成立したように思われる。結局それらの教団が、それぞれ独自の巫女となった。「巫女」という言葉は、その起源は不明であるが、特定の教団に属する女性の予言者を意味するようになり、そこで彼女はギリシャ語の六歩格(hexameters)によるお告げを発したのである。それらの詩文はほとんど残っていない。およそ紀元前3世紀頃から、ヘレニズム化されたアレキサンドリアのユダヤ人たちが、これをローマに抗するため借用しはじめた。それが今度は初期キリスト教徒によって改変、補足され、キリストの誕生を予言する疑似「巫女の託宣」となり、これはアウグスティヌスなどによって賞賛された。巫女に対する関心は、預言の言葉が記された数点の絵画や木版画によって例証されるように、15世紀末に再び高まった。ラッソによって使われたラテン語の詩文が最初に現われたのは1481年のヴェニスの版画の中であり、彼はおそらく、1545年あるいは1555年の版画に記されたテクストを使ったのであろう。中世末期からルネサンスにかけて、巫女は宗教彫刻や宗教絵画に好んで用いられた題材であり、ミケランジェロが、システィナ礼拝堂の天井に、7人の旧約聖書の預言者に並べて5人の巫女を配置したとき、多神教時代の逍遥からキリスト教の象徴主義へ至る巫女の旅はその頂点に達した。

 ちなみに、収められている「巫女の預言」は、「プロローグ〜半音階的カルミナ」ではじまり、「ペルシャの巫女」「リビアの巫女」「デルフィの巫女」「キンメリアの巫女」「サモスの巫女」「クーメの巫女」「ヘレスポントの巫女」「フリギアの巫女」「ヨーロッパの巫女」「ティブルの巫女」「エリトリアの巫女」「アグリッパの巫女」という12人の巫女の詩文に曲がつけられています。

 という感じで、そういう興味で聴くこともできますが、とにかく、ヒリアード・アンサンブルの透明な声がそうした神秘を開示してくれるのは素晴らしい体験になると思います。

 

 

風の音楽室

五嶋みどり・聞こえない音に耳をすます


(1998.8.6)

 

 「聞く」と言うと、私たちは具体的な音を思う。しかし、五嶋さんは、「沈黙の音」や音のない「間」を聞くことの大切さを説く。

 「音楽でもずっと音が鳴っているわけではないですよね。たとえば、曲の真ん中の間。あるいは、ゆっくりした曲が静かに終わってから、拍手が始まるまでの時間。これも単なる休みではなく、音楽の一部なのだと思います。」

 ニューヨーク・マンハッタンの自宅では、好んで声楽のCDを聴く。どこで息をするか。音と音をどうつなげるのか。歌手の「間」を聞き逃さない。

 ここ数年、五嶋さんはもうひとつの「聞こえない音」に耳を傾けてきた。「自分の素直な気持ち」である。

 「演奏でいかに素直な自分を出すか、ということを今いちばん心がけています。自分がその曲に対して感じていること、聴衆に伝えたいことそれを素直に表現するためには、自分は本当はどう思っているのか、何をしたいのか、たえず自分に聞いてみなければわからないのです」

 聴衆にしても、自分の気持ちをどこまで聞けるのかによって、音楽の聞き方は違ってくる。(略)

 「神童」「天才少女」と言われ、多い年は年百回のコンサートをしてきた。もてはやされ、期待される一方で、「神童は大人になるとだめになる」というイメージにずっと苦しめられてきた。常に成功者であらねばならなかったために、聞くまいとし、聞けなかった。「自分の素直な気持ち」。それに耳ふさぐことのつらさを、十分に味わった。

 今、五嶋さんは自分の病気のことを、笑顔でオープンに話せるようになった。音楽家として、二十六歳の女性として、「聞こえない」音に静かに耳を澄ます。

(朝日新聞 1998年8月6日付)

 今、話題の「絶対音感」という賛否両論の本の最後のところに、この五嶋みどりのルポが載っていた。

 「絶対音感」については、そのドレミの音当てゲームとしての「絶対音感」を肯定したようにとっている音楽マニアの方もいたりするのだけれど、ぼくが読んだときは、「絶対音感」という「現象」に対するルポであって、むしろそういうゲーム的な訓練の弊害について書いていた印象があるのだけれど音楽マニアという存在は、やはり「絶対音感」とかいう弊害の多い考え方への批判から、そういう読み方をする傾向にあるらしい。もっとも、音律のことについて、この本では深く掘り下げてはいないし、いくつか根本的な錯誤をしている部分もあるのだけれど、それはともかく、その本の最後にある五嶋みどりのルポは光っていた。まさに、「聞くこと」について考えさせられるとても貴重なものだったように思う。

 さて、五嶋みどりはまだ二十六歳。今年は、演奏活動を一切しないで、ニューヨークで、目が不自由で、心の病や知的障害のある人たちのディ・プログラムに通って、ボランティア活動をしているという。

 この歳で、ここまで「聞く」ことのできる人がいるということに驚かされてしまう。とっても大きな人だと思う。時代は、閉塞状況に陥っているのだけれど、こういう人を生み出してくれることは、大きな希望になる。

 人は、耳をふさいで生きている。自分の心にさえも。いや、自分の心に耳をふさいでいるから、何も聞けないのだ。そうしなければ、生きていけないと思っている。ほんとうは、耳をひらかないと、生きていることにならないのに。

 ぼくもずっと耳をふさいで生きていた。自分の感情を表に出すことができなかった。そうすることでとんでもないことになるのではないかと恐かった。この心のなかには、こんなにマグマのような熱があるというのに。そのマグマを小さな頃はどうすることもできなかった。やがて、そのマグマを制御することは覚えたものの、そのエネルギーは表現されることなく、どこかに潜ってしまっていた。

 そのことに気づいたのは、そう昔のことではないし、そのマグマをなんとかしようと思いはじめてもいまだにその制御方法がわからないでいる。しかし、どういう方向でいくのがいいのかという大まかな感触だけはつかみつつあるような気がする。たとえば、こうした場でこうしたことを書くこともその一つだ。

 そのためには、「聞く」ことが大事だ。五嶋みどりは声楽のCDを聞くというが、ぼくにとっても、友人の声楽家から受けた影響は大きい。声楽の表現というのは、メカニカルになりようがないものだし、そこにはある意味ですべてがあるからだ。ぼくは、「声」を聞きはじめたのだといえる。

 そして、ぼくにとっても、「聞こえない音・声」を聞くということがどれだけ大切なことかが少しはわかるようになった。それは、自分を聞くということでもあるのだから。自分を聞けない耳では、人を聞くことはできない。

 音楽を聞くときの耳もそのことで大きく変化した。なんというか、演奏の「内的必然性」を感じとれるかどうか。そのことに敏感になってきたのではないかと思う。だから、どんなに技術的にすばらしくても、ただ演奏しているものには、何も感じることができない。人の言葉でも同じで、どんな言葉でも、その人の「内的必然性」を聞きたいと思うようになった。

 まだまだ聞けているとは思えないけれど、少なくとも、こうした五嶋みどりさんの記事を読んで、とてもうれしくなれる自分にはなれたと思う。


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