12


2001.10.8〜2001.12.13

 

●小林桂『ミスティK』
●エルトン・ジョン『ソングス・フロム・ザ・ウェスト・コースト』
●Andreas Scholl:wayfaring stranger・folksongs
●The Hilliard Ensemble/Christoph Poppen:Morimur
●神楽
●有元利夫の音楽性から
●日本音楽の再発見
●テルミン
●BCJ/J.S.Bach : Cantatas, volume 15
●小坂忠「People」

 

 

 

風の音楽室

小林桂「ミスティK」


2001.10.8

 
■小林桂「ミスティK」
 TOCJ-68052  01.9.19
 
あえて悪くいえば影がないともいえるのだろうが、
こんなに楽しく聴けるジャズボーカルをあまり知らない。
 
影がないといっても薄っぺらいのではなく、
22歳の若さでこんなにうまいのはどこか納得がいかないというのと、
やはりジミー・スコットのような意味での
「超えた」愛のようなところがないということ。
しかし、ジミー・スコットのような「愛」ではないけれど、
スコーンと気持ちよく抜けているような新鮮な愛が伝わってくる。
 
なにより、40歳を超えたぼくがきいても、
嫉妬というのではない、うらやましいまでのカッコよさがある。
ドラムスやらミュージカルやら声優からなんでもこなすカッコよさ。
やはり、人間の魂の素晴らしい幅のようなものを
あらためて感じさせてくれる意味でも、
こうまで現代的(というより未来的)なタイプというのは、とても新鮮なのだ。
馬鹿な若さじゃなくて、成熟した若さという意味での新鮮さ。
 
おそらく小林桂のような魂は、
過去、さまざまな「経験」のものに生まれてきたのだろうと
確信させられてしまうところがあったりする。
年は若いけれど、魂の成熟度はおそらくかなり深いのだろうという気がする。
人を外見の年齢だけで見ようとするのは世の常だけれど
(たしかに肉体年齢というのはそれなりに意味があるのだけれど)
別の目での年齢を見てみるというのも欠かせないようにも思う。
 
20歳でのデビュー・アルバム「ソー・ナイス」
(まさに、驚きのソー・ナイス!なアルバム)、
セカンドアルバムの「ジャスト・ユー」に続く
今回は3枚目のアルバム。
 
「スイングしなけりゃ意味ないね」の
たのしいかぎりのDoo wah.doo wah,……からはじまり、
ミスティや枯葉のようなスローなバラードまで
歌詞もしっかり楽しみながら聴ける。
そう、ぼくにとって小林桂のアルバムの楽しみのひとつが
歌詞を新鮮なかたちで聴けるというのがあったりする。
ジミー・スコットのような変容されきった味ではないけれど、
とても若々しい言葉がこちらに響いてくる。
 
今月の24日には、クリスマスアルバム、
「ワンダーランド」というのがでるらしい。
ショップの店頭のプロモーションビデオで
クリスマスソングを歌っている小林桂を目にしたが、
なかなかにイカシている。
 
こうして新鮮な音楽を聴ける喜びがあるというのは
'S Wonderfulだなとあらためて実感!
 

 

 

 

風の音楽室

ELTON JOHN:SONGS FROM THE WEST COAST


2001.10.8

 
■エルトン・ジョン『ソングス・フロム・ザ・ウェスト・コースト』
 UICR-1015  01.9.27
 
エルトン・ジョンでいちばん初めにきいた曲は「ロケット・マン」。
そのころは英語もほとんどわからない頃だったけれど、
ディープパープルのそれと同様、
対訳の歌詞のばかばかしさに笑いながらも、
これもディープパープル同様、よく聴いていた。
 
それが30年ほど前のこと。
そのエルトン・ジョンがいまも
こうして前線で頑張っているというのは、
半ば信じられない気もする。
 
その頃は、ビートルズが解散したばかりで、
デヴッド・ボウイはグラム・ロックとかで
金粉ぬりたくりで「スターマン」を歌い、
カーペンターズも「スーパースター」を歌っていた。
ジョン・レノンの「イマジン」の頃。
 
すでにカレンも他界しているし、ジョン・レノンもしかり。
ジュリアン・レノンなどはおそらくすでに
ジョン・レノンの死んだときの年齢を超えているだろう。
 
そんな(どんなだ?)エルトン・ジョンが、
こうして、元気な傑作アルバムを聴かせてくれる。
エルトン・ジョンのアルバムをすべて聴いてきたわけじゃないけれど、
かなりすぐれもののアルバムではないかと思う。
ただ、ちょっと声が?というところがあったのだけれど、
解説を読むと、エルトンの心臓には
ペースメーカーが埋め込まれているという話もあったりするそうで、
「発した声に力のある頃のエルトンなら、
これだけラフな質感のサウンドに対しては、殆どヴォーカル加工をせずに、
逆にコンプレッサーで声のエッジをざらつかせる位の処理をしたはずなんだが、
よく聴くとディレイを掛けて声質に倍音を効かせ、
その上をデジタル処理しているように聴こえる」。
ご苦労様といいたいところだなあと思う。
 
ともあれ、今回のアルバムは、
エルトンらしいピアノを中心にした
気持ちのいいエルトン節のたくさんつまったナイスなアルバム。
エルトンはいつまで走り続けるのだろうと思いながらも、
あと10年後か20年後に、
ピアノだけで静かに歌うエルトンのアルバムを
聴いてみたいものだとも思っている。
 

 

 

風の音楽室

Andreas Scholl:wayfaring stranger・folksongs


2001.10.25

 
■Andreas Scholl:wayfaring stranger・folksongs
 with Chamber Orchestra
 DECCA 468 499-2
 
いわずと知れたカウンターテナーのショルの新譜。
イギリスとアメリカのいわゆるフォークソング集。
ぼくにとっては、ショルのこれが聴きたかった!という
待望のアルバム内容になっている。
 
ショルの新譜は必ずといっていいほど聴いてきている。
これまでのいちばんの愛聴盤といえば、
1996年のEnglish Folksongs&Lute Songs(HMC 901603)
このアルバムはジョン・ダウランドの曲を中心に、
リュート伴奏だけのものだったが、
今回のものは、その続編的な性格もあるものの、
オーケストレーションをベースにしながら
リュートやダルシマーなどが効果的に奏でられる
フォークソングだけによるもの。
 
ショルの声には、その透明な魅力に加えて、
つねに中心を失わないところがあり、
その中心に深い愛情が流れているように感じる。
そして、何度聴き返しても飽きることがない。
先のEnglish Folksongs&Lute Songsは
何度聴き返したことだろう。
そして、聴くほどに発見がある。
おそらく今回のアルバムも、これに続く
愛聴盤に加えられることになるのではないかと思っている。
 
さて、DECCAからでているショルのアルバムは
けっこう面白い嗜好になっているものが多いのだけれど、
今回のものは、まるで絵本のようなジャケットになっていて、
とてもよくできていて楽しめる。
観音開きになっていて、サイズとしては
開くと通常のCDジャケットサイズ×4ページ。
魔法の庭(森?)のようなイラストのなかに
少しおどけたショルが歩いている。
 
ショルの声のどこまでも響き渡る声を聴きながら、
その魔法のような庭で
いっしょに彷徨いながら遊んでいるような、
そんな得がたい時間を過ごすことができた。
 

 

 

 

風の音楽室

The Hilliard Ensemble/Christoph Poppen:

Morimur


2001.10.26

 
■Morimur
 The Hilliard Ensemble
 Christoph Poppen,Barockvioline
 J.S.BACH
 Partita d-Moll BWV1004 fuer Violine solo
 Choraele
 ECM NEW SERIES 1765 461895-2
 
ヒリアードアンサンブルによるバッハのコラールと
クリストフ・ポッペンのバロックヴァイオリンによる
バッハのパルティータの演奏のコラボレーション。
 
ヒリアードアンサンブルには、1994年、『オフィチウム』という
サクソフォンのヤン・ガルバレクとの「グレゴリオ聖歌」などの
素晴らしいコラボレーション・アルバムがありますが、
これはそのバッハ・ヴァージョンともいえるでしょうか。
 
タイトルのMorimurは、
シュタイナーの『死後の生活』(イザラ書房)の講義録にもある
 
        Ex Doe nascimur(神から生まれる)
        In Christo morimur(キリストにおいて死ぬ)
        Per Spiritum Sanctum reviviscimus(聖霊によって目覚める)
 
という三位一体の聖句のキリストの聖句より
つけられているようです。
 
このCDには厚いブックレットがついていて、
その最初に、グルジェフの次のような言葉が引用されています。
(ドイツ語解説からの訳:KAZE)
 
        古代の芸術にはある確かな内的な意味がある。かつて芸術には我々の
        時代の書物と同様の目的があった。つまり、知識を守り伝えるという
        こと。古代においては、書物を書くのではなく、知を芸術作品に込め
        て表現したのである。我々は、それを読みとり理解するときにのみ、
        我々のところにまで届けられた古代の芸術作品の多くの理念を見出す
        だろう。
                                                      G.グルジェフ
 
この引用に続く、このアルバムのコンセプトに関する解説に、
次のようにあるように、バッハの作品には名前が織り込まれていたり、
意味深い数との関連が指摘されることがありますが、
 
        バロック時代、とくに音楽においては、数に関する謎遊びや隠された
        メッセージが広まっていた。そのためJ.S.バッハの作品研究は、数多
        くの暗号化された、たとえばその名前への示唆、もちろん彼の宗教作
        品から、数や音符のなかにある神学全体を読みとってきた。
 
このアルバムでは、単に、バッハのパルティータやコラールが演奏される、
というのではなく、そうした謎を実際に耳で聞くことができるようにする
試みがなされているようです。
 
たとえば、第21曲めに収められているシャコンヌでは、
通常は聞き取ることのできないような
三位一体や信仰告白のような名前や神学の内容への数的な示唆が
ソロヴァイオリンによる器楽ソロとヒリアードアンサンブルのコラール演奏が
組み合わせられて演奏されることで、
それを聞き取ることができるように試みられているということです。
 
さて、なぜ音楽を聴くのかとあらためて自問してみるとすると、
やはりほかの形では得られないもの、
たとえば言葉を読むとか絵を見るとかいうことでは
得られないものを聴こうとしているのだということができます。
そしてそのなかに、数々の謎が秘められているとき、
それを生きた形で聴とることができるとしたら、
その体験はまさに得難いものになると思われます。
実際、このアルバムは聴くほどにその音楽の持っている深みへと
私たちを連れていってくれるように思われる優れた演奏になっています。
 

 

 

 

風の音楽室

神楽


2001.10.29

 
        鎌田 …観光化するのも形式の方にばかり関心がいってしまったからです。そ
        して、それが経済主義や商業主義と結びついた。だけど、また一方でで精神だ
        けを追求しても、やはり豊かな形につながってこない。非常に窮屈な、シリア
        スな何かになるかもしれないけれど、豊かな多様性とか、自由とか、雑多なバ
        ラエティは生まれてこない。自由であって、かつ精神性を持っていて、そして、
        その内容が形式と一体となるような創造が必要なのです。祭には必ず即興的な
        創造の部分があって、昔は、それは神懸かりで行なわれていた。祭の場で、シ
        ャーマン的な直感で、パッと行なわれた。みんながそれを生かし合う関係と場
        があった。そういう即興的な創造性が祭りの中にないと、ほんとうの祭りの命
        というのはないのではないかと思うんです。
         細野さんはいつか、神楽研究会をやろうとおっしゃいましたけど、そういう
        ことが、細野さんのいう「神楽」とつながってくるのかなと、ぼくは思うんで
        す。
        細野 神楽というと、あの形の音楽が出てきちゃいますけど、ぼくが言ってい
        るのは、まったくいまおっしゃったような意味ですね。ほかの言葉がないので
        「神楽」と言っていますけど。
        鎌田 神楽というのはなんで「神の楽しい」と書いて「かぐら」と読むんでし
        すかね。たとえば「くら」というのは、磐座の「くら」、鎌倉も、秋田の民俗
        行事の「かまくら」もそうですけど、神霊のこもる空間のことを「くら」とい
        うんです。神楽というのは神様がこもる、あるいは神がその中に入り込んでく
        る、憑霊したり、浮遊してきたり、スッと立ち現われてきたりするような様態
        をいうんでしょうか。今、ふっと思ったんですが。
        (……)
        細野 考えてはできないことなんですよ。知識でもできない。だから、日本中
        の神楽の資料を集めてできるようなものじゃなくて……、そういうことは考え
        てないわけです。
        鎌田 たしかに、いくら研究しても違うんですよね。
        細野 そうなんです。だから、神様が教えてくれるのを待っている研究会です
        ね。インディアンの人も言ってるんですけど、「知識は過去にある。知恵は未
        来からくる。」その未来、知恵の世界ですよね。何か待っているんですよ。
        鎌田 細野さんが前にNHKでアメリカ・インディアンを訪ねていったときの
        タイトルは、「黙って座ってじっと聴け」でしたね。
        細野 あの言葉には、ぼくがグッときましたね。まず聴くことですね。
        鎌田 耳を澄ませることですね。
        細野 うん。ぼくも音楽家と言っているから、演奏したり、曲をつくったりす
        るのがメインだろうとみなさんは思うだろうけど、メインは聴くことですから
        ね、ほんとに。まず聴くことから始まりますから。たとえば人の音楽、いい音
        楽を聴いたら、それが糧になって音楽ができるんです。無からはできないです
        から。
        (対談・音霊の世界を求めて/細野晴臣・鎌田東二
         鎌田東二編著『隠された神サルタヒコ』大和書房/1999.9.9発行/所収)
 
神楽をまとまったかたちではじめて見たのは、
数年前に中四国地区の民俗芸能大会のディレクターをしたときのこと。
ステージ上で披露するようなかたちもののなので、
それはそれとして見ざるをえなかったものの、
そのうち神楽について調べてみたいと思ってそのままになっていた。
 
細野晴臣が神楽研究会とかをやろうとしているのは知らなかったのだけれど、
鎌田東二のサルタヒコ関係のものを調べるうちにそれを知り。
今回、各地で収録された神楽のCDや
それに関する細野晴臣のインタビューも収録されている、
別冊『太陽』の新刊『神楽』がでた。
 
ということで、神楽について考え始めたいということで、
上記の対談を引用してみた。
もちろん、観光化したかたちの神楽ではなく、
「神」と/を「楽」しむという神楽。
「黙って座ってじっと聴」くことで
はじめてそこに現出してゆく神楽。
 
かつては、伝統的な祭りなどの場において、
シャーマニスティックなかたちで、
「神」がそこに降りてきていたのだろう。
それが次第に形式化され伝統芸能化され、
「神楽」というかたちをとるようになった。
おそらく、音楽そのものの始源も、そうだったのだろう。
「神」の依り代を通じ、それがこの地上で奏でられるようになった。
 
それらが、やがて人間化して、
「神」がそこから失われるようになった。
「神楽」ではなく「人ー楽」。
それは、集合的なかたちでの自我から
個的なかたちでの自我へシフトするために、
どうしても必要なプロセスだったのだけれど、
おそらく現代においては、
その「人」において、「神」が
見出されなければならなくなっているのかもしれない。
 
そのために、「黙って座ってじっと聴」かなくてはならない。
耳をすませて、「神」の「音ー連れ」を聴く・・・。
かつてのようなシャーマニスティックなかたちではなく、
ひとりひとりが、耳をすませることによって
みずからを祝祭とすることによって。
「私」のなかで、そして「私」の訪れる(「音ー連れ」る)場において、
さまざまな「神」の演じる神話、
ひょっとしたらこれから創造されてゆくのかもしれない神話が
展開されてゆくのにじっと耳をすませる。
「知恵は未来からくる」のだから。
 

 

 

 

風の音楽室

有元利夫の音楽性から


2001.10.31

 
         アトリエにいるときはバロック音楽をかけていましたね。ヘンデル、テレマン、
        ヴィヴァルディほか、LPを何枚ももちこんで。バロックのリズムは心臓の鼓動
        に似ていて気がやすまる、描くときもじゃまにならないって話していました。
 
        <バロック音楽のもつ反リアリズム性、シンメトリカルで簡素で、それでいて実
        に典雅ーーそういうすべてが僕にとっては大きな魅力です。……見ているうちに
        どこからともなくチェンバロの調べが聞こえてくるような、そこに音楽が漂って
        いるような、そんな画面を作りたいというのが僕の年来の「野望」です>
 
        (有元容子「有元利夫の思い出 まるで双子のように生きた16年」
         芸術新潮2001年11月号・特集「有元利夫からの贈りもの」より)
 
有元利夫の絵をはじめてみたのは、
デンオンのアリアーレ・シリーズにある
有田正広のフラウト・トラヴェルソ演奏のアルバムのジャケットだった。
(同じ「有」がついていたりする)
 
そのシリーズのアルバムがでるごとに、
有元利夫の絵を見ながら、
その音楽を聴いていたことになる。
だから、有元利夫の絵からは
バロックの音色が響いてくることになっていたりする。
 
とはいえ、有元利夫のことをそのジャケットや
ときおりなにかの本の装丁に使われているもの以外に
知っていたわけではなく、
ぼくが最初にその絵にふれたときにはすでに
亡くなってしまっていたのだということも、
この芸術新潮の特集ではじめて知ることになった。
 
有元利夫の全作品を紹介しているものが
新潮社からでているのがわかったので、
それをひととおり見ていたのだけれど、
(ちょっと高いので書店でですが)
その作品の数々から響いてくる静謐さが
とても深く印象に残っている。
 
それはたしかに、バロック音楽のそれに近いもので、
しかもそれが音楽のままではなく、
その独特な色彩とかたちの不思議な響きとなって伝わってくる。
まるでそれがぼくのなかにあって、
それが流れでているのであるかのように。
 
有元利夫は、リコーダーを吹いていて、
アトリエでバロック音楽を演奏することもあったそうで、
それらの響きが絵のなかに姿を変えているのかもしれない。
 
絵と音楽の関係ということでいえば、
やなりパウル・クレーで、
有元利夫にとっても、クレーは
<すぐれた古典文学に対応する画家>だったようだ。
 
ところで、今回の芸術新潮の特集の最初には、
船越桂の「有元利夫をめぐる八つの断想」というのがあって、
その最初にこうある。
 
        有元さんが描く人物はふしぎな表情をしています。<少女>という
        作品が僕は好きなんですが、輪郭線は曖昧だし、一見無表情に見え
        る。でもそれは表情があまりにもゆたかだから、喜怒哀楽のような
        わかりやすい表情になっていないからでしょう、能面とおなじで。
        自分の経験からいっても。表情をつくろうとすると似顔絵になって
        しまう。たとえば『ぴあ』の表紙の似顔絵なんてうまいとは思うけ
        れど、有元さんの絵のような深さはない。むしろ表情のことをわす
        れて、かたちの明快さだけを心がけて描いたときのほうが、ゆたか
        な表情が生まれる。
 
今回の特集のなかで、有元利夫の蒐集品が
紹介されているのだけれど、
そのなかに、16〜18世紀のタイ周辺の仏像の手があって、
それについて、彼はこう述べている。
 
        <僕の蒐集品の中に仏さんの手がひとつありますが、その豊かさは
        凄い。すべてが含まれているという気がします>
 
その仏像の手の写真を見ながら思い出したのは、
高校の頃、毎日のように見ていた写真集のなかの
広隆寺の半跏思惟像だった。
その不思議な表情がぼくに何かを語りかけているような気がしていた。
しかもなによりその手の表情には魅せられてしまった。
 
その仏像の手のもつ、
すべての表情を含み込んだ豊かさ。
その手はおそらく、妙なる音楽を奏でる手でもあるのだろう。
 
あらためてぼくのなかに響いているさまざまを甦らせてみると、
色も形も音楽も、そして言葉や思考も、
すべてはどこか同じところから響いてきているような気がする。
それはどこからくるのだろう。
そんなことを思いながら、
久しぶりに有田正広のフラウトトラヴェルソ
(テレマン「無伴奏フルートのための12のファンタジー」
ちなみにこのジャケットに使われているのは「光を集める人」)
を聴きながら、有元利夫の絵の響きを楽しんでいる。
 

 

 

 

風の本棚

日本音楽の再発見


2001.11.19

 
■小泉文夫・團伊玖磨『日本音楽の再発見』
 (平凡社ライブラリー/2001.11.9)
 
1976年に刊行された小泉文夫と團伊玖磨との
『日本音楽の再発見』をめぐる示唆的な対談の文庫化。
 
対談が行なわれてからすでに四半世紀は過ぎ、
しかも両者とも亡くなっている現時点でも、
(團伊玖磨も今年5月に亡くなった)
解説の細川修平が次のように述べているように
本書は『日本音楽』を『再発見』するための
数多くの視点を提示してくれるように思う。
 
        本書を久しぶりに読みなおし、現在の状況を大づかみにするための
        ヒントになお満ちていることを再発見した。この間、芸術音楽や民
        族音楽をめぐる状況は激変したが、「音楽の感動」「民族の伝統」
        「音楽の充実感」というような根源的な問いは、決して無効になっ
        たわけではない。(P241)
 
明治以降、日本では欧化政策ということもあり、
西洋音楽を模倣することを「音楽」としてきたことは
よく指摘されるところだけれど、
その際に見出されようとする日本の伝統音楽というとき、
その「伝統」は「民族や国家の文化的なまとまりのために、
十九世紀に(明治時代)に選別され、固定化されたものであることが
明らかになってきている」(細川修平)ように、
その「日本音楽」を「再発見」するというのは
「伝統」といった時点でそれがどのようにつくられたのか
ということをふくめたものでなくてはならないような、
かなりこみいった作業が必要とされるものでもある。
 
実際、たとえばぼく自身にとっての「音楽」は、と問うならば、
すでに生まれてから現在までにふれたさまざまの音楽が「音楽」であり、
かつその音楽環境を生み出してきたさまざまな要素のもとに
その「音楽」は成り立っているといえる。
そして、ぼくにとっては「日本の音楽」というよりも、
「ぼくにとっての音楽」を「再発見」することしかできない。
 
ぼくのなかに、音、音楽についての
どのような要素が入り込んでいるのだろうか。
それらがどのように働きながら、
ぼくの「音楽」(についての感受性など)を形成しているのだろうか。
それらを問い直すことで、それらを「再発見」してみる必要性を
本書はぼくに喚起させてくれるものだった。
 
1976年といえば、ぼくにとっては、
やっとジャズを聴き始めてていた時期だったし、
クラシック音楽とされているものについてはほとんど不案内だった。
そして、その頃のぼくにとっての「音楽」といえば、
ポップスと歌謡曲くらだっただろうか。
いわゆる、テレビやラジオで流れている音楽。
そしてその後、ぼくにとっての「音楽」は、
ジャズや民族音楽やクラシックなどを「発見」してゆくことになる。
 
ぼくにとっての四半世紀の「音楽発見の旅」は、
自分でふりかえってみても、
よくこれだけの種類の音楽を聴いたものだ、
というくらいのものだけれど、
ここ10年間でぼくにもっとも影響を与えた音楽といえば、
もちろん、雅楽なども聴いているし、
ぼくのなかにはなぜか中東の音楽などにも
親近感のわくものでもあるのだけれど、
現在のところ、不思議なことに、バッハの受難曲やカンタータ、
ベートーヴェン、シューベルトのピアノソナタ、
武満徹、細川俊夫の音楽だったりする。
(けっこう、オーソドックスというか・・・)
 
それはともかく、この四半世紀で、
日本の音楽状況はかなり異なってきているようだし、
以前よりもほんとうにさまざまな音楽が
受容されてきているように思う。
雅楽さえ一種のブームにさえなっている。
しかし、果たしてそれが、
音楽の豊かさへ通じる道かというと、
果たしてそうなのだろうかという疑問も起こらざるをえない。
ぼくの聴く範囲についていえば、
現在「生産」されている(消費されている)音楽の多くが
あまりにもルーティーンなものとしか
感じられなくなっている。
それゆえに、「音楽の感動」「音楽の充実感」を求めようとするとき、
ぼくは上記のようなバッハなどに行き着かざるをえなかったようにも思う。
 
本書は、あくまでもいわば『日本音楽』という観点からの
『再発見』の視点なのだけれど、
それを通じてさまざまなことを考えさせてくれる出発点になるのではないだろうか。
 

 

 

 

風の音楽室

テルミン


2001.12.1

 
まだ演奏しているところを実際に目にしたことはないのだけれど、
二本のアンテナの間の目に見えない電子空間に
手をかざしながら演奏する楽器、テルミン。
この楽器は、1920年、ロシアで生まれていたということだが、
それを知ったのは、最近のこと。
 
その生みの親、レフ・テルミンについての
 
■竹内正実
 「テルミン/エーテル音楽と20世紀にロシアを生きた男」(岳陽舎)
 
という本が昨年の8月に刊行されて以来、
その音色を聴いてみたいものだと思っていたが、
先日、CDショップに久々出かけたとき
ふと目に留めたコーナーにテルミンという文字が見えた。
解説に「岡野玲子」という名前も見える。
陰陽師のアルバムでも見せたように、
雅楽とブライアン・イーノのとりあわせのようなものがイメージされる。
 
■やの雪and Aeon
 eyemoon 01.11.21
 VICP-61602
 
という
やの雪のテルミン演奏と
中世ルネサンス時代の音楽を演奏している
カテリーナ古楽合奏団によるアルバム。
古楽とテルミンの不思議なコラボレーション。
 
古楽器は、Psaltery,Santur,Saz,Ud,Lute,Hardy gurdy,
Tromba,Viol,Crum horn,Dafといったものが使われている。
どれがどの音かわからなかったりするのだけれど(^^;)、
テルミンの不思議な音色に添いながら奏でられてゆく。
古楽器といえば、シュタイナーの見出した古代の竪琴ライアも
古楽器なんだなあと気づく。
 
カテリーナ古楽合奏団を率いている
松本正隆による解説があるのでそれを引いてみる。
 
        20世紀初頭、西欧では古楽器復興運動が始まりランドフスカやドルメッチら
        がその先駆的な役割を果たした。また、レスピーギはその古楽に触発され、
        ホルスト、ヴォーン・ウィリアムス、バルトーク、ストラヴィンスキーら多く
        の作曲家は世界の民族音楽を熱心に収集した。産業革命以降、余りに合理化
        された音楽や楽器に行き詰まり、失われたミュージシャンシップを取り戻す
        べく、中世の神秘的な旋法音楽、そして非ヨーロッパから万人が癒やされる
        素朴な生活音楽に耳をすました。折しもロシアでは、テルミン博士が鍵盤絶
        対主義から逸脱する楽器「テルミン」を創り出すこととなる。そして20世紀
        の終わり頃、僕はテルミンと出会い中世の古楽器との不思議な糸を感じた。
        復興運動などから百年の時が経ち、古楽器はもはや古楽器ではなく、テルミン
        は電子古楽器として見事な復興を遂げようとしている。
 
テルミンという不思議な楽器。
たしかに「電子古楽器」といわれれば、
そういう響きではあるのだけれど、
これは聴いてみなければこの響きはイメージしがたいかもしれない。
古めかしい、そして振れの大きい電子音が
まるで彼方の未来からやってくるような、そんなイメージ…。
 
岡野玲子は、そのテルミンの音色について、
そして演奏者のやの雪について次のように書いている。
 
        ピアノのように鍵盤がわるわけではなく、ギターのようなフレットも、ヴァイ
        オリンのように弦に添ったネックがあるわけでもない。音程のキーポイントは
        日本のアンテナの間の目に見えない立体空間の電子ウェーブの球体の中に、演
        奏者が手をかざして(銀河の中の星のように座標を持って存在している、と思
        うのだが、)キーポイントをカンと経験により、指でキャッチしなければなら
        ないうえ、このキーポイントが常に流動的で楽器の近くの電気コードの配線や、
        果ては五メートル先を横切った人の影響を受けたりするそうで、本当に演奏が
        むずかしい。
        それでも、未来的でいて古楽器よりも古く聞こえるその音色は人を惹きつけて
        離さない。そして、なにしろ奏者の魂とセンスを鏡に映したかのごとく顕にし
        てしまう。
 
        このCDで、不可能という言葉を知らぬこごとく放縦自在にテルミンを演奏す
        るやの雪さんは、まったくの独学で、この楽器を手にして三週間後にはステー
        ジに立って「白鳥」っを演奏していた。その時からすでに、やのさんはこの不
        思議な楽器テルミンの前に立つと、表情も姿も楽器と一体となったかのように
        別人になってしまっていた。音色もさることながらその美しい演奏姿も一度目
        にしたら忘れられない。何て不思議な楽器だろう。
 
電子楽器が登場したとき、
最初はその音の新しさが新鮮だったりもしたのだけれど、
(クラフトワークも、YMOも、富田勲も)
その後、そのある種の単調さに食傷してしまったところがあったりした。
このテルミンの不思議な音色は、プログラムできそうもないがゆえに、
そのメカニカルな在り方から自由になれているのだろう。
それゆえに、古楽器と不思議な親近性をもっているように聞こえる。
それはまるで言葉を話す楽器のようにも聞こえてくる。
その言葉に耳を傾けながら過ごす時間。
おそらく過去でも未来でもあるそんな時間のなかにある今・・・。
 

 

 

 

風の音楽室

BCJ/J.S.Bach : Cantatas, volume 15


2001.12.9

 
■J.S.バッハ/教会カンタータ
 鈴木雅明/BCJ 全曲シリーズVol.15
 〜ライプチッヒ1723-8〜
 BIS-CD-1111
 
 「神の御子現れたまいしは」BWV40
 「おお永遠、おんみ雷の言葉」BWV60
 「目を覚まして祈れ、祈りて目を覚ましておれ」BWV70
 「おんみらを、おぞましい最期がひきさらう」BWV90 
 
 (S)野々下由香里
 (CT)ロビン・ブレイズ
 (T)ゲルト・テュルク
 (B)ペーター・コーイ
 *録音:2000/9 神戸松蔭女子学院大学 チャペル
 
最近は、ここであまりご紹介してはいないのだけれど、
BCJのJ.S.バッハ/教会カンタータ 全曲シリーズもこれで15枚目。
最初に出た1996年から約5年だから、一年で3枚のペース。
その度ごとに感動を新たにしている。
これであと10年以上はかかるらしい。
まだまだお楽しみはこれから、という感じなのでうれしくなってしまう。
 
そういえば、先日、佐藤公俊さんご夫妻にオイリュトミー公演のときにお会いして
いろいろお話ししていたときに、BCJのHPのリンクに
このトポスのHPがなぜあるのかをきかれたのを思い出した。
佐藤さんご夫妻もBCJには関心を持たれているようで、
こういう見えないところからでも静かなネットワークができているのはうれしい。
 
このBCJのカンタータシリーズは
コープマンのシリーズのように、一気呵成にやってしまう、
というスタイルではなく、この坦々とした持続感がすばらしい。
クオリティも落ちないし、毎回いろんな発見がある。
ロビン・ブレイズ、ゲルト・テュルク、ペーター・コーイのソロも
すっかり定着して、変な声をきかせられる不安を感じないで、安心して聴ける。
 
ほんとうはコンサートにもでかけられるといいのだけれど、
神戸や東京にそのためにそう出かけるわけにもいかないから、
年に数回、こうして出されるカンタータを聴く。
以前住んでいたところでは、CDショップに輸入盤が乏しく
手に入りにくいことが多かったのだけれど、
今いる広島では、タワーレコードのコーナーにちゃんと並んでいる。
以前に比べ、知名度も上がったのもあるのかもしれない。
たまにでかけるショップに新譜がでているのを見つけるのは、
ふとしたきっかけで旧友と再会できるようでとてもうれしい。
 
バッハのカンタータを聴きはじめたのはそう昔のことではなく、
友人がソロで参加するそのコンサートを聴いてから興味を持ち、
その後、あらためてリヒターのマタイなどを聴いたり、
このBCJのカンタータシリーズを聴くようになってからなのだけれど、
おそらくこれから一生聴いていくことになるんだろうと思う。
 
そういえば、こうしてバッハのカンタータを聴くときなど、
語学力は乏しいものの、ドイツ語がわずかながら理解できるというのは、うれしい。
シュタイナーの遺している著作や講義録もドイツ語だけれど、
このふたつのためだけでも、ドイツ語をやっていてよかったと思う。
 
*以下、VIVA! Bach Collegium JapanのHP
http://www2s.biglobe.ne.jp/~bcj/
より、各曲に関するデータから、参考までにピックアップして転載。
 
《神の子の現われたまいしは》 BWV40 
 
*トーマス・カントル就任後、最初のクリスマスのために書いた作品のひとつ。
*3つのコラールの引用が単純な4声体の形で処理され、
表面的な華麗さに走らない堅固な手応えのカンタータになっている。  
 
初演    1723年12月26日、ライプチッヒ
用途    クリスマス第2日
礼拝での聖句      書簡  :テトス 3,4-7 または 行伝 6,8-15/7,54-59(55-60)
福音書:ルカ 2,15-20(羊飼いたちが飼葉桶の幼子イエスを捜しあてる)
    または マタイ 23,34-39
歌詞    作者不詳
(引用:第1ヨハネ 3,8[第1曲]、K.フューガーのコラール[第3曲]、
P.ゲールハルトのコラール[第6曲]、Ch.カイマンのコラール[第8曲] )
編成    声楽:ソロ(ATB)、合唱
器楽:ホルン2、オーボエ2、ヴァイオリンI,II、ヴィオラ、通奏低音
演奏時間        約15分 (レオンハルト:15分、コープマン:14分) 
 
《おお永遠、そは雷のことば》 BWV60   
 
*ヴァイマール時代に好まれた対話形式をライプチッヒ第1年度に受け継ぐ作品。
*「恐怖と希望の対話」と題され、恐怖を表すアルトがテノールの希望と対話し、
やがてバスによるキリストの声に出会う。
*アルバン・ベルクが「ヴァイオリン協奏曲」に終結コラールの旋律を
引用したことでも知られる。
 
初演    1723年11月 7日、ライプチッヒ
用途    三位一体節後第24日曜日
礼拝での聖句      書簡  :コロサイ 1,9-14
福音書:マタイ 9,18-26 (病気および死に対するイエスの権能)
歌詞    作者不詳
(引用:J.リストのコラール[第1曲]、黙示録 14,13[第4曲]、
F.J.ブールマイスターのコラール[第5曲])  
編成    声楽:ソロ(ATB)、合唱
器楽:ホルン、オーボエ・ダモーレ、ヴァイオリンI,II、ヴィオラ、通奏低音
演奏時間        約16分 (アーノンクール:16分、コープマン:15分) 
 
《目を覚まして祈れ!祈りて目を覚ましおれ》 BWV70  
 
*ヴァイマールにおける待降節第2日曜日のために書かれたBWV70a(全6曲:歌詞のみ現存)をもとにライプチッヒ初年度に演奏されたカンタータ。
ライプチッヒでクリスマス準備の時期、盛大な音楽の演奏が禁じられていたため、
内容的に関連のある三位一体節後第26日曜日の礼拝へと転用された。
*壮大な響きの合間に青年期の作品らしい抒情が彩りを添えている。
*レチタティーヴォに織り込まれた劇的な「最後の審判」の表象も印象的。
 
初演    1723年11月21日、ライプチッヒ  *初稿 1716年12月6日、ヴァイマール
用途    三位一体節後第26日曜日 礼拝での聖句      書簡  :ペテロ II 3,3-13
福音書:マタイ 25,31-46 (世の裁き)
歌詞    フランク 1717 に基づく(改作者不詳)
(引用:作者不詳のコラール[第7曲]、Ch.カイマンのコラール[第11曲]) 
編成    声楽:ソロ(SATB)、合唱
器楽:トランペット、オーボエ、ファゴット、ヴァイオリンI,II、ヴィオラ、通奏低音 
演奏時間        約25分 (アーノンクール:22分、コープマン:21分)
 
《怖ろしき終わり汝らを引きさらう》 BWV90 
 
*ライプチッヒ初年度、1723年における三位一体節後日曜日用カンタータの最後の作品。      
*規模の小さい曲ながら、主の来臨、最後の審判のもたらす災いと幸福を考察する音楽は
密度の高いもの。
*終結コラールは「ヨハネ受難曲」でも用いられた「天にましますわれらの父よ」の旋律。
 
初演    1723年11月14日、ライプチッヒ 
用途    三位一体節後第25日曜日  礼拝での聖句      書簡  :テサロニケI 4,13-18
福音書:マタイ 24,15-28 (世の終わりに起こる誘惑)
歌詞    作者不詳 (引用:M.モラーのコラール[第5曲])
編成    声楽:ソロ(ATB)、合唱
器楽:トランペット、ヴァイオリンI,II、ヴィオラ、通奏低音
演奏時間        約12分 (レオンハルト:12分、コープマン:12分)
 

 

 

 

風の音楽室

小坂忠  People


2001.12.13

 
■小坂忠 People
 EPIC RECORD/ESCL2267 01.11.07
 
目を疑った小坂忠のニュー・アルバム。
あの「エイプリルフール」の小坂忠である。
細野晴臣、松本隆との。
 
まさに伝説の人の復活。
前のアルバムは1975年の「ほうろう」。
なんと26年ぶりのアルバムとなる。
プロデュースは、細野晴臣。
 
その後、小坂忠はいったい何をしていたのだろう。
プロフィールを見ると、76年にクリスチャンになったという。
そして、78年、日本初のゴスペルミュージックレーベル
「ミクタムレコード」を設立。
91年には、牧師になっている。
その後、世界規模の賛美歌運動を普及させるべく、
世界各国でSinger&Pastorとして神の歌を歌い続けているという。
で、昨年からティンパンとの活動を再開していたのは記憶に新しい。
 
やはり聴かずばなるまい、の「People」。
・・・すごい、かっこいい、こういうのが聴きたかったんだの応酬。
昨今の付け焼き刃R&B/ゴスペルとはチョット違うと思ったら、
買うときについてきたパンフにもしっかり書いてある。
 
        26年ぶりに小坂忠と細野晴臣という名コンビが手を組んだアルバムだが、
        ただの再開ではない。時が流れても常に前向きな彼ならではの2001年
        現在進行形のポップ・ミュージックに仕上がっている。AORな「Knocking
        on your heart」、ニューオーリンズな「Hot or Cold」アコースティック
        な「Yumeo Kikasete」まで、音楽はポジティヴで、アグレッシヴで、しか
        もゆったりしている。ゴスペルできたえた小坂忠のヴォーカルは、26年前
        よりたくましく、艶やかで、信念がこもり、ちまたのインスタントR&B/
        ゴスペル人気とは一線を画したヴィンテージな」現役感にあふれている。
        アルバム・タイトルを『People』としたのは、「この26年間、ぼくには
        新しい世界でいろんな人たちとの出会いがあった。その出会いを通じて、
        歌は聞いてくれる人がいて、はじめて成り立つことを強く感じた。いまい
        ちばん関心があるのは人=Peopleなんだ」(小坂忠)ということから。
 
ところで、やはりこうなると、
小坂忠の歌うゴスペルがどうしても聴いてみたくなる。
 
で、ゴスペルミュージックレーベル「ミクタムレコード」を
ネットで検索してみると、あった!
http://www.michtam.com/main.html
 
小坂忠&Asiahが放つブラックゴスペル最新アルバム
WE LOVE GOSPEL
CHU KOSAKA & ASIAH
with GOSPEL FAMILY CHOIR
CD:30MCD-1046
というのもあって、すごそう!
 
こういうのもでていて、
これまで知らなかった日本のゴスペルへの興味がわいてきた。
 
        日本においてはロック/ポップ史上に先駆的な役割を果たした小坂忠が、
         1978年日本初のゴスペル専門レーベル(ミクタムレコード)を設立。
        久米小百合(元久保田早紀)、久米大作、スティーブ・フォックス(ゴダイゴ)、
        岩渕まこと、市原 康、中村裕二、小林靖宏(アコーディオン)らとともにコン
		サート活動等を展開。数々のアルバムを発表し独自のコンテンポラリークリスチャ
		ンミュージックの世界を築き、日本の教会音楽に文字どおり新風を吹き込み、
		Jゴスペルの確立に多大な貢献をした。
 
 


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