風の音楽室10

 

2000.12.23-2001.4.8


●ブルーノ・ワルター

●ロックのススめ2000

●魂の言葉としての音楽

●悪と音楽

●芸術

●ポール・サイモン「ユー・アー・ザ・ワン」

●成熟

●クミコ「AURA」

●ジミー・スコット「虹の彼方に」

●ポール・ウィリアムス

 

 

風の音楽室

ブルーノ・ワルター


2000.12.23

 

 1951年から翌年にかけて、一年半に及ぶ闘病生活をつづけた僕は、当時最も敬愛していた名指揮者ワルターにファン・レターを出したのだが、彼は日本の貧しい音楽家の卵のために、長いはげましの手紙とサイン入りのブロマイドを送ってくれたのである。

 それ以来、1962年にワルターが他界するまで文通をしたのだが、ルドルフ・シュタイナーの人智学、神智学に傾倒し、人智学会に入会していたワルターの霊的な温かさは、まことに類例のないものであった。

 西ドイツのジャーナリスト、ヴェスリンクはその著書『フルトヴェングラー』(音楽之友社)のなかで、「ワルターは根っからの人智学者であり、自分をドイツから追い出したナチスにさえ、そこそこの恨みしかいだいていなかった。彼は、たとえ恐ろしい地獄が世界中を荒廃させてしまったときでさえ、この世の至福を味わうことが出来たのである」と書いている。

 晩年のワルターはモーツァルトを演奏する直前、楽屋で一人静かにモーツァルトの霊と交流していたという。

 そういえば、「モーツァルトの音楽は人生の終焉の至福に似ている」と書いたのはワルターであり、「音楽には道徳的な力がある」と語ったのもワルターである。

 この名指揮者に傾倒していたソプラノ歌手、ロッテ・レーマンに宛てて、彼は次のような手紙を書き送った。

「七十歳の誕生日が近づいて、君は絶望感しきりとのこと、それはぜひやめてもらいたいものです。この偉大な体験はけっして苦痛をあたえるものではなく、本来ならば君の自信を深めるはずです」

 ワルターの演奏を流れる人間的な暖かい情感は別格のものであり、そのチャーミングな節回しも独特である。

 芸術家としての深さ、厳しさ、スケールの大きさ、天才性において、彼はフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーに遅れをとるだろう。

 クナッパーツブッシュやムラヴィンスキーの音楽には、大衆を拒否し、「わからないヤツはついてくるな」というような一種の冷たさがある。

 その点、ワルターの音楽は万人に微笑みかけるのである。

(宇野功芳「名演奏のクラシック」講談社現代新書993/P21-23)

 

 「THE 20TH CENTURY MAESTROS」という40人の名指揮者の演奏を40枚のCDに集めた廉価版がでていたので、このところ、今日はこの指揮者!という感じで、少しずつ聞き比べてみたりしていたのだけれど、その中でとくに印象深いもののひとつが、このブルーノ・ワルターの指揮によるものだった。ちょうど、折良く、ブルーノ・ワルターの指揮したさまざまな演奏を10枚のCDに収めたものも廉価版ででていたので、この際と思い、今、ブルーノ・ワルターの「微笑み」に付き合っているところである。

 ワルターが人智学者であることは有名だが、宇野功芳氏がこのようにワルターを紹介されていることに、以前から共感を覚えていた。

 今日は、モールアルトの交響曲とピアノコンチェルトを聴いていたのだが、(そのピアノコンチェルト(20番)のピアノもワルターの演奏である)演奏の善し悪し云々を越えて、ワルター以外のなにものでもない演奏が、そこにはあって、その人格の暖かい響きのようなものが伝わってくる。この品格のようなものはいったい何なのだろうかと思う。おそらくそれは、人間への、そして音楽への、深い深い、愛情、信頼感からくるような気がする。

 「たとえ恐ろしい地獄が世界中を荒廃させてしまったときでさえ、この世の至福を味わうことが出来た」ワルター。その音楽は、常に、世界をその荒廃から救い出してくれるだけの深い霊性を湛えているように感じる。

 人智学も、まさに、そうしたものであり、シュタイナーの言葉のひとつひとつは、その可能性に満ちているように思う。もしその可能性から閉ざされてしまうとしたら、その人智学は何の意味も持ち得ないのではないだろうか。世界中の人間がすべて絶望しようとも、自分だけは決して絶望しないでいることができるための人智学。そういう人智学をぼくは学びたいと切に願わないではいられない。

 そして、そういう絶望の淵においてさえも、深い霊性の響きを奏でてくれるような、そんな音楽を聴きたいと思う。

 

 

風の音楽室

ロックのススめ2000


2000.12.23

 

 少し前にタワーレコードで、「ロックのススめ2000」という小冊子をもらった。表紙にはなぜか、つのだじろうの「恐怖新聞」の漫画が使われている。その小冊子には、60年代から90年代までのロックシーンを飾ったアルバムが年代ごとに紹介されている。ながめていると、いろんな思い出がアルバムごとによみがえってくる。

 ぼくがロックやポップスを聴き始めたのは、ちょうど小学校から中学校の間のこと。中学校に入る前の休みのとき、ぼくは耳の手術を受けた。まだ赤ん坊で寝返りも打てなかった頃、ほとんど放置された状態にいて、右耳の上部が折り畳まれたような状態のままになっていたので、それを整形するための手術をする必要があったのである。ぼくには、麻酔が効きにくい体質や傷口がケロイド状に残りやすい体質があって、手術そのものはすぐに終わるものだったのだが、ぼくにとっては、その手術はかなり拷問のような様相を呈することになった(^^;)。しかし、そういうことにも効用があって、小学校の頃、腎臓炎で入院したときに、じっと待つことを学んだように、その手術でも痛みへの恐怖に対して、どのように対処すべきかを学ぶことができたように思う。

 それともかく、その手術の後で、痛みをこらえているときに、はじめてぼくは、その少し前に買ってもらったラジオで、ポップスなるものを耳にし、それ以来、高校生の頃まで、ロック&ポップスに熱中することになる。その音楽は、ショッキング・ブルーノ「ヴィーナス」。1970年のことだった。ちょうど、ビートルズが解散した頃にあたる。耳の痛みのなかで聴き続けた「ヴィーナス」。ぼくにとっては、はじめての、魔法のようなサウンドの体験だった。

 その魔法の音のなかで、ぼくの自我はおそらく育ち始めていたのだろう。今からふりかえってみれば、あの70年代初頭の、ロック&ポップスがいちばん輝いていたころに、同時代としてその響きのなかにいたことをとてもラッキーな体験だったと思っている。

 20世紀の最後ということもあるのだろうが、今年は、その頃に聴いていた音楽がよく流されて、ビートルズの音楽も、とくに秋頃からよく紹介されている。マドンナの歌う「アメリカンパイ」のようなリバイバルもあったりした。「アメリカンパイ」といえば、ドン・マクリーン。本当に、その70年代初頭あたりには、名曲が多かった。

 さて、その「ロックのススめ2000」という小冊子に紹介されている中から、ぼくの特に印象に残っているものを年代順に少し紹介してみることにしたい。もっとほかにたくさんあるんだけれど、とりあえずこの小冊子にあるものだけ。

・60'S(これはもちろん、70年以降に改めて聴くことができたもの)

 ●ドアーズ「ハートに火をつけて)'67

・70'S(ここからはほとんどリアルタイムで)

 ●サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」'70

 ●ジョン・レノン「ジョンの魂」'70

 ●エマーソン、レイク&パーマー「展覧会の絵」'71

 ●キャロル・キング「つづれおり」'71

 ●T.レックス「電気の武者」'71

 ●レッド・ツェッペリン「IV」'71

 ●イエス「危機」'72

 ●ディープ・パープル「マシン・ヘッド」'72

 ●デヴィッド・ボウイ「ジギー・スターダスト」'72

 ●ニール・ヤング「ハーヴェスト」'72

 ●エルトン・ジョン「黄昏のレンガ路」'73

 ●ピンク・フロイド「狂気」'73

 ●クイーン「オペラ座の夜」'75

 ●クラフトワーク「ヨーロッパ特急」'77

・80'S

 ●トーキング・ヘッズ「リメイン・イン・ライト」'80

 ●TOTO「TOTO IV〜聖なる剣」'82

 ●ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」'82

 ●ポリス「シンクロニシティ」'83

 ●ブライアン・アダムス「レックレス」'84

 ●ガンズ・アンド・ローゼズ「アペタイト・フォー・ディストラクション」'87

 ●U2「ヨシュア・トゥリー」'87

 これを見てると、ぼくの聴いてたのが、70年代の前半、とくに中学生の70〜73年頃に集中しているのがわかる。そういえば、ほとんど寝ないで、ラジオばかり聴いていた。そして、学校ではほとんど居眠りしていた(^^;)。居眠りしながら、夢のなかでは「♪〜ハイウェイ・スター〜♪」という感じ、はは。

 そうそう、ディープパープルの日本語歌を歌ってお腹を抱えて笑わせてもらった「王様」というのがいる。あの、まさに伝説の、「深紫伝説」である。以前、CMの編集スタッフに教えてもらって、編集のあいまに、スタジオでガンガン聴いて、いっしょに笑いころげていたのだけれど、今年、偶然CDの中古で見つけたので、あらためて聴いて感慨を深くした。

 この「王様」には、今年、あらためて注目されたジョン・レノンの曲を日本語の歌詞で歌った「想像してごらん」(もちろん、「イマジン」)というアルバムもあって、これがなかなかイケル。(「想像してごらん 天国はないと・・・」)今、ちょうどクリスマスシーズンだけれど、ジョン&ヨーコの「ハッピー・クリスマス」のカバーでは、泉屋しげるも参加して楽しいものになっている。この「ハッピー・クリスマス」も、確か'73年のヒットだったと思う。この年のクリスマス、ぼくは始めてカセットレコーダーを手にすることができ、お気に入りのロック&ポップスのカセットがあふれることに・・・。

 ちなみに、「王様」に対して、「女王様」というのがいるのをご存じですか?その名のとおり、「クイーン」をカバーして、これも笑える。「バイシクル・レース」は「自転車競争」。日本語の歌詞は「自転車 自転車 自転車ボク乗りたいなボクノ ・・・」というもので、もともとの歌詞が、そもそも笑えるものだったことに気づかされたりして、なかなかイケル(^^;)。

 今では、ぼくには、ロックはほんとうに限られたものしか聴かなくなっているけれど、70年頃から特に数年間、自我の形成期に集中的に聴いて、すごく影響を受けていたんだなあ、とあらためて気づいた次第。2000年の終わりにあたって、ふりかえってみると、本当に感慨深いものがある。

 

 

風の音楽室

魂の言葉としての音楽


2000.1.4

 

 音楽は魂の言葉だ。だからこそ音楽を愛する人間はだれしも内なる情動を何とかして探りあて、また伝達しようとする。もっとも人間の感覚がどれほど豊かであり得るかについての認識は、肉体的あるいは知的成果が受けている評価にくらべ、はるかに注目されることがない。

 記録をつぎつぎと更新する肉体の力や技術は、科学の最高の業績やあらゆる分野での完全主義と同じく人を魅了し、ますます商業主義の色を濃くするわれわれの生活に多大な影響をおよぼしているが、魂の欲求にどのように耳を傾けるかという努力は個々人にまかせっぱなしで、そのためますます不利な立場に追いやられている。しかし人間の未来のための指針を求めたければ、体力や機械力にも、知力の「偉業」にもたよることはできず、魂に、すなわち感受する能力に、感情に、とりわけ共感というものに、失われた地位をとりもどしてやらねばならない。

 他のなにものにもなして私に多くを語りかける声がある。それは自己の、内なる声だ。ところが今日では外からの作用や影響があまりにも多大かつ優勢なので、多くの人々の自己の声は響きも意義も失ってしまった。だが自己の音に耳を傾けなくなれば、他者の内なる音を聴く力も失う。そうなると音の質や特性をもはや判断できず、そのためやすやすと安っぽい宣伝や誘惑の犠牲になってしまう。

(ヴェルナー・テーリヒェン「あるベルリン・フィル楽員の警告/心の言葉としての音楽」音楽之友社 1996.11.10発行/P8)

 普段はほとんどテレビを見なくなっているのだけれど、年末年始久しぶりに比較的長時間いろんな種類のテレビを見てみた。

 そのなかで実感したことは、いわゆるバラエティ番組の質が、ますます短時間あたりの刺激をふんだんに盛り込んでいるということだった。しかも、最近では、しゃべっていることを大きな文字で表示してくれたりもする。聞き取りにくいからというのでもおそらくなく、情報サービスでももちろんなく、その場その場での刺激を確実に届けるためのだめ押し的なものなのだろう。まるで15秒か30秒で確実にクライアントの商品情報を伝達しなければならないCMのように、テレビ番組がその表現の質を変えてきているように見えた。

 そうした番組では、たとえ考えさせる要素が盛り込まれてあったとしても、次々に押し寄せる波のなかで、それらは常にかき消されていかざるをえない。感受性という観点からいっても、あまりに強い連続的な刺激は、感受性そのものを鈍麻させていくだろうと思えた。

 そうしたCM的な刹那滅のような思考や、強い連続刺激に対応することを訓練されてしまったとしたら、日常的な場において、考えをじっくりまとめたり、じっと耳をすませてみるということはもはやできなくなるのではないだろうか。

 マスコミは、スポーツを好んでとりあげる。わかりやすいからだ。しかも、それはマスとしてのマーケットを獲得しやすい大衆性を持ちやすい。それは、手軽に享受できる科学技術にも似ている。わかりやすい上に、そのプロセスそのものを見ないでも済むからだ。

 最近では、音楽もスポーツ化しているように見える。ポピュラー音楽やコンサートはいうまでもなく、スポーツの要素をそのなかにふんだんにとりいれて、刹那滅的刺激ー反応思考パターンと強い感覚刺激によって、観客はみずからを刹那滅させるのを楽しむ。

 そこではむろんのことみずからの内に耳をすませなくても済むがゆえに、結局のところ、何かを聞いているというのではもはやないだろう。感情も感覚も思考もそこではきわめて単純なパブロフ犬化してゆく。

 「魂の言葉」としての「音楽」を聴きたいと切に思う。真昼に燈火を掲げて「明かりをくれ!」と叫んで街を歩く禅僧がいたようだが、そのように「音楽を聴かせてくれ!」といって走らなければならなくなる。

 

 

風の音楽室

悪と音楽


2000.1.10

 

 ときどき、ナチスの収容所の所長がバッハやモーツァルトなどを愛し、理解していたと言われたり、書かれたりしている。そして、シューベルトの音楽に涙を流していたとも言われている。だが、わたしはそんなことを信じない。ジャーナリストが作りあげた嘘である。わたし個人としては、本当に芸術を理解できるような死刑執行人には、これまで一人としてお目にかかったことがない。

(S・ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」中公文庫/P227)

 スターリンなどのもとにあって、常に死の恐怖のもとに、音楽活動を続けたショスタコーヴィチの言葉。

 さて、スターリンは一人で別荘に居て、ラジオ放送で聴いたモーツァルトのピアノコンチェルト第23番のレコードを求めたという。その演奏は、生放送でレコード録音はされておらず、ラジオ委員会はあわててスターリンのための一枚だけのレコードのために、翌日までに録音・レコード制作を行った。

 ピアノ演奏は、名演奏家であり非常に信仰深いユージナ。彼女は、その演奏に対して2万ルーブルの入った封筒を受け取り、それに対する返礼として非常に危険なメッセージを送る。「ヨシフ・ヴィスサリオノヴィチ、あなたのご援助を感謝いたします。わたくしはこれから、昼となく夜となく、あなたのことを、国民と国に対するあなたの過酷な罪を許してくださるよう神に祈ります。神は慈悲深いかたですので、お許しくださることでしょう。お金は、わたくしの通っている教会の修理のために献金することにいたします」。

 これは事実上、自殺行為のはずで、すぐにでも逮捕状がでてもおかしくはなかったのだが、スターリンはそうはしなかったという。そして、その後スターリンが別荘で息を引きとったとき、レコードプレーヤーには、そのレコードが載っていたといわれている。

 ・・・これも、「ショスタコーヴィチの証言」のなかにでているエピソード。ショスタコーヴィチは、このエピソードを肯定的に語っているわけではない。むしろ、そんなことは関係ない、というような皮肉な口調のなかで、信仰深いユージナと独裁者のスターリンの迷信ぶりを語っているだけである。

 しかし、このことはいろいろなことを考えさせるに足るエピソードかもしれない。

 ベルリン・フィルの打楽器の首席奏者でもあったヴェルナー・テーリヒェンは、「悪の音」についてこう述べている。

 音楽は、人間が「思考、言葉、行為で」行いうるものを、すべて摂取し、すべて反映することができる。音楽を通して人間のあらゆる精神状態の多彩なパレットを覗くことができる。もちろん主観の眼鏡を通してだが。だからこそ私はこんな疑問も抱いている。非人間的なものでも、人間が人間によっていたるところで被っている、あるいは被ってきた、たとえばナチ時代のような、想像を絶する酷さでも、やはり音楽で表現できるのだろうか、そうだとすれば、いかにして。(…)

 ヒトラーには個性がなく、したがって芸術も情動上の欠陥から抜け出す道を彼に教示することはできなかったはずだ、というテーゼは考えが浅いだろう。いかに多くのアイデアをヒトラーはくりだし、実行に移したことか!いかにみごとに壮大な党大会の演出を監督し、掌握したことか!大衆を扇動する手段を、時期を狙いすまし、巨大な規模で効果的に投入する勘の、なんと優れていたことか!夕闇に瞬く果てしない松明行進とその光景にふさわしい音楽に、多くの人々が心を奪われ、味気ない日常から嬉々として引き出されるのを、ヒトラーほど心得ていたものはない。いかに大規模に彼は人間を自分と自分の目的のために動員してのけたことか!

 ヒトラーは演出の巨匠でありーーつまり芸術家でもあった?ーー、この演出家は自分の独自の道と多くの人々の出発、発進を形成するすべを心得ていた。その道がどこに向かおうとも。人間を蔑視する彼が、同時に人間を熱狂させる形成者でもあったのでなければ、あれほどの徹底的な「成功」はけっしてありえなかっただろう。(…)

 私の考えるオペラの登場人物アドルフ・ヒトラーに生命を吹き込みたければ、私は彼の内面にぴったりと密着しなければならない、否、彼の音楽を私のなかから引きだすには、彼を自分のなかに取り入れなければならないだろう。これは不可能ではない。考えてみればオペラの歴史のなかでは、すでにあらゆる種類の権勢欲にとりつかれた暴君や悪魔に曲がつけられているし、逆に神や天使の曲も人間の手で総譜に書きこまれている。一人の作曲家がーー人間はだれでもそうだがーー神も悪魔も心中に抱えているのだ。

(ヴェルナー・テーリヒェン「あるベルリン・フィル楽員の警告/心の言葉としての音楽」音楽之友社 1996.11.10発行/P134-135)

 これは、もちろんヒトラー賛美なのではない。むしろ、最初に弾いたショスタコーヴィチ以上に、魂の音楽を求めているがゆえに述べられている言葉だといえる。

 フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユに、こんな言葉があるのをつい先日知った。

悪そのものをとおして神を愛すること。自分の憎悪する悪をとおして、その悪を憎悪しつつ神を愛すること。今自分の憎悪しつつある悪をつくった者としての神を愛すること。(「重力と恩寵」より)

 スターリンは、死に直面しながら、モーツァルトのピアノコンチェルト23番をどのような気持ちで聴いていたのだろうか。

 

 

風の音楽室

芸術


2001.1.23

 

 偉大な精神的業績が政治・歴史上のそれよりも、人類にとって本質的に高い意義を持っているという確信は、ついに私から離れなかった。音楽の女神とその偉大な作品とに仕える一介の使徒として、ここにあえて私の人生について報告するのもそのためである。なぜなら、私の人生は音楽の永遠の力と美に仕えたのであり、その無常も不滅のものとの結びつきによって祝福されていた。世界史的な活動はどれほど重要な人間によるものでも、やはり時間に隷属している。それに比べて、創造的精神の作品はいつまでも消えないのである。ナポレオンは死んだーーだがベートーヴェンは生きている。

(『主題と変奏/ブルーノ・ワルター回想録』/白水社/P9-10)

 生を芸術なくしてとらえるならば、すべては無常であろう。名ばかりの芸術も、名ばかりのベートーヴェンも、やはり無常であろう。それは、流れ去る時間という砂の上に築かれた城にすぎない。

 芸術と一般に呼ばれているものが芸術なのではなく、その「創造的精神」が生を貫いているものこそが、それがたとえとるにたりないような生活の一コマにすぎないとしても、それこそが芸術の名に値するものではないだろうか。

 すべての生は、芸術化されねばならぬ!という要請を持っている。そのことで生は光明・荘厳化され、永遠のものとなってゆく。

 ベートーヴェンが生きているか、死んでいるか。そのことも、私の生がベートーヴェンを体験することで、芸術化しているかどうかによるだろう。

 多く私のなかでは無常があふれんばかりになる。そのとき、生きていても私は死んでいる。しかし、ほんのつかのまにせよ、そこに永遠が見つかるときがある。そのとき、私は永遠のなかに生きている。

 

風の音楽室

ポール・サイモン「ユー・アー・ザ・ワン」


2001.2.3

 

■ポール・サイモン「ユー・アー・ザ・ワン」

 WPCR-10809 00.11.8

 「こんな時代に、信じられる歌がある。」アルバムにつけられているこのコピーには、なぜか笑ってしまった。ほんとうは笑えないんだけれど、苦笑に近い笑い。

 「信じられる歌」のあった時代・・・。そういえば、浴びるようにポップスやロックを聴いていた時代、70年代の初頭、「信じられる歌」というか、そのまま素直に「歌」を受け入れていた時代があったような気がする。サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、ビートルズの「レット・イット・ビー」の時代。もちろん、それらは同時に彼らの解散をも意味してもいた皮肉はあるが。

 あの時代、アルバムはレコードが擦り切れるまで聴いていた。まるでレコードの溝をみただけで音楽が聴こえてくるほどに。あまりに幸せな恵まれすぎた体験だったのかもしれない。その後、あれほど繰り返し「歌」に没頭したことはなかったから。

 さて、最近はあまりポップス系の新譜情報などを見ないので、ポール・サイモンの新譜を見つけるのが今頃になってしまった。アルバムとしては、ミュージカル用の「ザ・ケープマン」に続き3年ぶり。純粋なオリジナル・スタジオ・アルバムとしては、「リズム・オブ・ザ・セインツ」以来、10年ぶりだという。

 派手さは決してないのだけれど、こういうストレートな新譜を手にできるというのはとてもうれしい。多くのファンも感じているだろうように、アート・ガーファンクルの声がここにあればもっとよかっただろうけど。最初に聴こえてきた「THAT'S WHERE I BELONG」(夢の帰る場所)など、アート・ガーファンクルの声を同時にイメージしていたりもした。しかし、サイモン&ガーファンクルの時代はひとつの奇蹟だったのかもしれない。「ブック・エンド」のあのクオリティ。

 ところで、このアルバムの日本用セールスには、スペシャル・ブックレット「ポール・サイモンを知る50の方法」がついていたりするし、同時にベストアルバムもでていたりする。ビートルズもそうだけれど、そういえば今のティーンエイジャーなどにとって、ポール・サイモンという名前などは、ほとんど無名なのかもしれないとか思う。そういえば、数年前、エルトン・ジョンの「ユア・ソング」が流れていて、ある20代なかばの若者がぼくにこの歌を教えてくれたことを思い出す。「ぼくの中学一年頃流行ってた」というと、びっくりしていたけれど(^^;)。

 もちろんのことだけど、このアルバムをうれしく聴いていても、すでにぼくにとってはかつてのような「信じられる歌」ではもはやないだろう。しかし、ぼくの一部をつくり育ててくれたであろうポップスについてあらためてとらえなおしてみるきっかけとしては、とても豊かなものを与えてくれるような気もしている。

 そして今も、ぼくをつくり育ててくれているであろう音楽はどういう音楽なんだろうということを考えさせてもくれるだろう。すでにそれはポップスではなくなっているのかもしれないが・・・。

 「THAT'S WHERE I BELONG」であるにはあまりにも早すぎて、ぼくにはまだまだ THAT'S WHERE I GO ON なのだから。

 

 

風の音楽室

成熟


2001.3.10

 

 先日、ひとから送られたレコードーーCDーーをきいていて大変幸福な気持ちになった。

 それは大分以前に亡くなったピアニストのエドウィン・フィッシャーが弾くモーツァルトの協奏曲で、彼はオーケストラの指揮も自分でやっている。

 フィッシャーは私が誰よりも尊敬するピアニストである。尊敬というよりも敬愛というほうがもっといいのかもしれないが、その演奏をきいているといつも幸福な気持ちになる。

 才能の大きさという意味ならば、もう少し先輩のコルトオをあげなければならないかもしれないし、後輩のクララ・ハスキルも素晴しい音楽家である。しかし、彼らの演奏に感嘆することはあっても、それは必ずしも幸福という感情にはむすびつかない。むしろ、才能をもつことのむずかしさをそこに感じることも多い。(…)

 音は音楽の親だといえば当たり前にきこえるかもしれないが、その当たり前のことがわかりにくくなっている。いま、音楽家は音をきく前に音楽に出会う。音楽の情報が豊かになるのに反比例して、音との素朴な出会いが失われてゆく。その情報の伝達機械がピアノなのである。五線譜をそのまま鍵盤に移したようなピアノでは、演奏はえてして音をとびこして音楽を語る、というよりも、むしろ音符について解説するのである。…

(…)

 音楽家たちは、当然、自分の音をもっていた。私も批評を書く時に、まずその音楽家の音について書くことができた。それがそのまま彼の音楽を語ることにつながっていた。

 しかし、いつの頃からか、そういうことがむずかしくなって来た。みんなが同じような音を出すようになったといってもいいが、音のなかに一人ひとりの欲求をきくことがなくなったのである。そのかわりに、彼らの演奏は精密機械の完璧さに近づいている。

 フィッシャーは決してピアノの上手な人ではなかった。特に、私のきいた頃の演奏には失敗やミスが多かった。コルトオもその点では同じである。しかし彼らの演奏には六十歳の、あるいは七十歳の成熟や円熟があった。

 いまの演奏家には成熟がこばまれているといったことがある。これは演奏家だけの、あるいは音楽家だけのことではない。すべての芸術が情報になってしまったためである。人格は成熟するが情報にはそれがない。

(遠山一行「いまの音 むかしの音」講談社/2000.10.27発行P11-15)

 いつまでも聴いていたい音楽や声。とても幸福な体験がそこにはある。私たちはそのとき何を聴いているのだろうか。

 まるで自動機械のように完璧な演奏、その人がそこにいる必然性が感じられない演奏に、私は幸福を感じることはできない。むしろ、自分がその演奏のなかのどこにも入り込むことのできない居心地の悪さを感じてしまう。

 おそらくそのときその音は、その声は、生きたものではもはやなくなっているのだろう。生きていない音や声のなかでは、私はそのなかで自分を広げてみることができない。

 幸福な体験には、生きた交感のようなものがそこにはある。たとえCDのようにデータ化されたものであるとしても、私はそのなかに自分を広げてみることができる。それは単なる音の情報ではないのだ。私はそこに演奏家の人格の響きを聴いている。

 ところで、上記に引用したものに収められている別のエッセイのなかに、以前ここでも少しご紹介したことのある、ヴェルナー・テーリヒェンの「あるベルリン・フィル楽員の警告」(音楽之友社)から次の箇所が引かれてあった。

 多くの日本人学生を私はベルリンと東京で教えてきた。実際上の知識を詰め込み、明快な課題を与えるぶんには、かれらは付き合いやすい弟子だった。かれらが自分に要求されたものをすばやく把握して、みごとに課題を解決するところは感動的だった。しかしことのほか困難で、つねに気をもませた体験は、個々の学生から彼独自のイメージを誘い出して、そこに自前の情熱を点火させることだった。かれらはつねに非常に勤勉で、不気味なほどの適応能力であらゆる状況に対処した。いっこうに適応できないものがあるとすれば、まったく自分ひとりで独自の感情によって方向を定めねばならないときで、そうなるとかれらは慇懃な微笑を浮かべ、さらに詳しい指示を欲しがるのだった。(P126)

 明治期以降、日本人は西洋を次々に受容し、それなりの成果をあげてもきたのだが、そこには多く何かが欠けていた。適応能力と勤勉さという点では感動的なまでのものがあったとしても、そこに肝心な何かが欠けているのだった。

 以前、たしかフレドリック・ブラウンかなにかのSFで、つねに周囲の気持ちに機敏に反応してみずからの姿を決める火星人の混乱の話があったように記憶しているが、その火星人は、自分で自分の顔を決めることができないのだ。その個性は、相手の要求にいかに応えるかということにあり、自分で自分の表現したいものを見つける方向にはなかったのだ。だから、おそらくそうした個性だけが集まった場合、お互いが顔を見合わせてみんなの顔色を伺うようになり、互いに機敏に相手に反応しながら生きていくようになるのだろう。もちろん、個性や独創が欠如しているとかという以前に、自分の持つ個性を場のなかで適応させ展開させようという傾向があまりにも強いということなのだろう。

 ちょうど今、カール・バルトという神学の巨人とでもいえる人物について興味深く調べているところなのだけれど、そのなかで日本人の「神学」への無理解に関して、次のような箇所があった。

バルトの思想の特質とは、彼の「神学」の特質である。われわれは一段と深く神学の世界に入っていこうとしている。おそらく日本の知的読者にとってそれは未知の世界に足を踏み入れるようなものであろう。はじめに滝沢が「神学」という語に「時代錯誤」を感じたという語を引用した。それからハルナックがバルトに対して「アンテナ」をもっていなかったということも言及した。バルトの世界はヨーロッパ人にとっても容易に入りにくい。一般的にみて、日本人は「神学」へのアンテナをもっていないといえよう。まずそのことを考えておかねばならない。何故だろうか。

 それは、近代日本の大学がドイツの大学の模倣(つまらないことまでまねをした)にもかかわらず、その導入に当たって神学部を切り捨てたことに関係しているであろう。この神学部切除は、あたかも大脳前頭葉の一部切除が異常人間をつくり出すように、ヨーロッパの深層次元について全然感受性のない人間をつくり出した。それは音楽教育の欠如から音痴人間がつくられるのにも似ている。音痴とは、ただ単に音楽の美しい世界が分からないだけではない。それが分からないことが分からない、つまり無知の無知という二重の無知の現象である。それと類似したことが神学においても起こっている。

(大木英夫「バルト」講談社/人類の知的遺産72昭和59年5月10日発行/P23)

 上記の「音痴人間」に関するたとえはあまり適切ではなく、むしろ音楽教育がなされるにもかかわらず、その必然性とでもいうべき中心にあるはずの精神が欠けているがゆえに、技術面のみが特化してしまい、なぜ自分がその方向に行っているのかが欠如した自動人形のようになりがちだということなのだろう。日本人は、むしろ音にならないものに耳を傾けるような「間」や「沈黙」を直観的に感じ取ることもできるはずだったのが、それらの直観能力を適応能力のほうに使ってしまっているのかもしれない。だから、自分が何がわかっていないのかをわかろうとしなくなる・・・。

 そして、現代では、人は「成熟」ということをあらゆる面から排するようになっている。

若さと消費だけがそこでは礼讃される。高齢化社会ということをやたら危惧するというのもその象徴である。高齢化社会が危惧されなければならないのは、人間が成熟するということを忘れてしまっているからなのではないか。そうでなく、人間は成熟することをそれぞれがめざしているのだとしたら、高齢化社会はむしろ真の意味で芸術的で進んだ社会になるはずなのだから。

 

 

風の音楽室

クミコ「AURA」


2001.3.17

 

■クミコ「AURA(アウラ)」

 松本隆+鈴木慶一 共同プロデュース TOCT-24372 2000.9.20

 「松本隆がほれ込んだ… クミコがライブ」という3月16日付の朝日新聞の記事を読み、どんな歌声だろうと関心を持つ。松本隆の二十年ぶりのプロデュース盤で、全12曲中、10曲が書き下ろしだという。

「雨よ降れ」と口にしたときに、

ほんとうに天から雨が降ってくる、

それが言霊である。

詞を書いていると、

日常会話の中で普段使っている言葉たちの、

真の意味に気づくときがある。

言葉のまわりに目に見えないが、

ほうっと漂うもの。

クミコという希有な女性は、

そういう気配まで、歌に変えてしまう。

この銀色の円盤に封じ込めた「オーラ」が、

あなたの心のアンテナに、

青白い電撃花火を走らすかもしれない。

 こんな言葉が、CDには添えられている。

 クミコは、1979年、ヤマハ・ポプコンに日本代表として出場。今回、高橋クミコ改め、クミコとして再デビューだという。

 「青白い電撃花火」や「オーラ」とまでは、ぼくの場合いかなかったものの、最近ではかなりめずらしく表情のある表現に聴き入ってしまった。逆にいえば、最近は歌らしい歌が珍しくなっているということでもある。かろうじてベテラン勢のなかには、歌を感じさせるものがあるのだが。

 松本隆らしく、なかにリムスキー=コルサコフの曲、カタロニア民謡の「鳥の歌」に詞をつけたものもあったりする。そういえば、松本隆プロデュース盤(1986年)でも、薬師丸ひろ子の「花図鑑」にモーツァルトのピアノコンチェルト23番に詞をつけたりしたものもあったりした。

 「蜜柑水」という詞に「不思議な蜜柑水はいかが?」とあるが、これも「花図鑑」に「ローズ・ティーはいかが?」という井上陽水の曲になるものもあったりした。松本隆風だといえようか。

 懐かしいところでは、あがた森魚作曲のものがあった。あがた森尾色とでもいうものを出した「かみかくし」という曲で、「魔都東京」「北一輝」「夢二」「満州」という言葉も見られたりする。あがた森尾は「赤色エレジー」というのが流行ったことがあったが、あがた森尾には個性的なコンセプトアルバムがたくさんあって、少し前に、「バンドネオンの豹」(1987年)の廉価版を見つけて、久々その世界を堪能したところだった。お聴きになったことがない方は、おすすめ!

 ところで、「オーラ」。ベンヤミンの複製技術時代の芸術にも「アウラ」がでてくるが、言霊を感じさせる歌を最近聴くことが少ない。たしかに、複製技術時代の歌とでもいえるような歌ばかりが膨大に街のいたるところで垂れ流されている。しかもそういうCDが数百万枚のレベルで売れているという。おそらくそれは絶え間なく携帯電話でメール交換をし続ける風景と同じ複製技術時代の風景とでもいえるのだろう。歌のなかに、言葉のなかに、「オーラ」がないからこそ、ファーストフードのようなそれらを禁断症状のように摂取してゆく……。そういえば、声優にもかつてのような個性を感じることが少なくなった。どれも記号処理、パターン化できてしまうような声ばかり。

 声の個性で思い出したが、小室等が谷川俊太郎の「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」に曲をつけたなかに、「きみの大阪弁は永遠だけど 総理大臣はすぐ代わる」というフレーズがあった。代えることのできないような声と言葉・・・。このところ、ぼくのなかでそれらを求めようとする衝動がさらに深まっているのを感じる。

 ちなみに、このCDのジャケットには、高野文子の絵が使われて、独特の雰囲気を醸している。

 

 

風の音楽室

ジミー・スコット「虹の彼方に」


2001.4.7

 

■ジミー・スコット「虹の彼方に」

 VICJ60738 2001.3.28

 ぼくは音楽のジャンルとかいうことにはほとんど無頓着で、ただたんに、いい音楽はいい、という単純さで受容しているものだから、バッハのカンタータやパレストリーナのミサ曲と同じように、このジミー・スコットの声を楽しんでいる。(これは、音楽だけではなくて、あらゆるものに対して似たようなもので、だから、ときにはたぶんいろんな誤解を生んでいるんだろうと思う。これはとくにクロスオーバーというのではなくて、ぼくのなかには最初からいろんなものにあまり垣根がなかったりするからだろう。)

 声というのはほんとうに不思議なもので、その人の姿形よりもむしろぼくにとっては、もっとリアルな形をもって、ーーもちろん、常に動いている形なのだがーーぼくのなかのなにかを響かせることになる。話す声もそうだし、歌う声であればもちろん、もっと深くぼくのなにかを、共振させるものとなる。

 それから、これが重要なことなのだが、声は、その質によって、ぼくのなかの違った部分を共振させることになるようだ。ぼくのなかのいったいどんな楽器がどのように共振しているのか。そのことを感じながら聴いてみると、明らかにそのことでぼくのなかにはいろんな楽器があるのがわかる。(もちろんこれは声だけのことではなく、あらゆる音に関してもいえることなのだけれども、それが声の場合はとりわけはっきりするということがいえる)

 典型的なのは、快ー不快をはっきり感じ取れる声の違いで、やはり、嫌な声というのは、どうしてもぼくのなかの楽器が、共振したくないといっているのがわかる。一見(一聴)してきれいそうなのだけれど、どうしても受け入れることのできないような声や音もある。クレーダーマンのピアノなんかもそのひとつだろうか。

 逆に、かなり癖があって、人によれば抵抗があるだろうというような声や音でも、むしろその癖ゆえに、こちらのなかに眠っていたどこかの楽器が目覚めさせられてしまうようなものもある。声はかなり複雑な色合いの織物のようなものでもあるから、その紋様や色合いや染めている染料の質などを聴きわけることができればできるほどに、その声は、ぼくにとっては貴重なものになっていく。

 ジミー・スコットの声は、最初に聴いたときから、ぼくのなかの、それまで半ば眠っていた楽器を目覚めさせるのに貢献してくれたの声だった。(舟虫さん、教えてくださってほんとうにありがとう(^^))今回の新譜もまた然り。

 先日よく考えていたら、昨年から今年にかけてのぼくの音楽上の事件といえば、筆頭にあがるのが、やはりこのジミー・スコットだと思う。もちろん、キース・ジャレットのトリオの「ウィスパー・ノット」だって、なかなか感動させられはしたのだけれど、やはり、ジミー・スコットだ。

 昨日、このところすごく仕事が忙しく過酷で、少し気持ちが荒れてたりもしたので、昼休みのわずかな時間の間に、気持ちのいいジャズの新譜でもと思い、ほんとうはチック・コリアのトリオの新譜を、と思っていたにもかかわらず、やはり、ジミー・スコットさんを見つけてしまえば、こちらのほうに手が伸びてしまうのは必定だ。(そういえば、最近チック・コリアも聴いてなかったりするけど…)で、シンドイのには変わりはないものの、やはり、このジサマの声を聴くと不思議に元気がでてくる。

 今回のアルバムは、ジミー・スコットの声がいいのはもちろんだけれど、また、ジャケットの写真がすごくいい。特に裏にある、大きな樹の根っこのところに据わっているまるでグノームのようなジサマのスタイルがいい。ぼくも、この歳くらいになって、こういう写真でもとってほしいものだ。

 ジャケットはともかく、今回のアルバムのタイトル曲にもなっている、有名な「over the rainbow」は、まるで初めて聴く曲のようだし、そのなかからほんとうに、虹の向こうから声が響いてくるすごさがある。また、これも有名な、ビリー・ホリデイの「strange fruit」も、あの暗さではなく、なにか超えた感じのある深みを聴かせてくれる。またしばらく定番のCDになりそうだ。

 

 

風の音楽室

ポール・ウィリアムス


2001.4.8

 

■ポール・ウィリアムス「サムデイ・マン」WPCR1598

 ポール・ウィリアムスといえば、スリー・ドッグ・ナイトの「オールド・ファッションド・ラブ・ソング」やカーペンターズの「雨の日と月曜日は」などの名曲でも知られているが、その超名盤が、1970年のアルバム「サムデイ・マン」。それが、3年ほど前に復刻されCD化された。

 疲れたときには、どうもぼくはこの1970年頃のサウンドに身をまかせたくなるらしい。この時代のサウンドは、今聴けばたしかに少し古くさいところもあるけれど、そうした土くささのようなもののなかにある何かが生命力を引き出してくれるようなところがあるように思う。そして、最近の多くのサウンドは、生命力を消費させられてしまうような、もしくはことさらに「癒やし」に向かってしまうような、そんな両極を振り子のようにふれているようだ。

 ポール・ウィリアムスの声は、あえていえば、エルトン・ジョンのちょっと強面のところをとってソフトにした感じ、またはジム・クロウチのネバネバしたところを洗顔した感じで、しかもそのなかから哀愁が不思議に香ってくる、とでもいおうか・・。そんなにびっくりするような美声というわけでもないのだけれど、何度聴いてもあきのこない声で、30年ほど前もそう感じたし、30年後の今もまた同じように感じている。(早い話、ぼくの感覚はある種の音楽受容に関しては、とくに変わってはいないというか、ひょっとしたらぼくのこの部分の感覚は、30年頃前の数年間である形をとったということかもしれない)

 さて、このCDのライナー・ノーツは、面白いことに、当時の日本版LPレコードの発売(1972年)のものになっている。そのなかには、懐かしい名前がたくさんでている。先ほど挙げたスリー・ドッグ・ナイトやカーペンターズをはじめ、バート・バカラック、キャロル・キング、レターメン、ポールアンカなど。

 思い出せばきりがないし、単なる回顧録になってしまうが(^^;)、自分の音楽体験とかいうものを遡ってみると、感覚というのはある種、創られていくものなのだということがわかる。

 とくに深く影響を受けた音楽があるとする。そうすると、その音楽を聴く前と聴いた後とでは、自分の感覚そのものがある種の変容を受けているのがわかる。つまり、自分の感覚体系が部分的にか、ときには感覚全体の体系が組み替えられてしまうということである。だから、ときには、それまで素晴らしいと思っていた音楽が、ある音楽体験を境に、つまらなく感じられるようにもなる。

 音楽体験だけではなく、その他のことに関しても、自分のなかでの変容の過程を辿り直してみるという作業は、そういう意味でもとても面白いのではないかと思う。意外な発見も多々あるかもしれない。


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