風の音楽メモ2


光の雅歌/西村朗の音楽


2006.1.25.

■西村朗+沼野雄司『光の雅歌/西村朗の音楽』
 (春秋社/2005.5.20.発行)

武満徹亡き後の現代作曲家のなかでぼくが特別に感じているのは、
細川俊夫、新実徳英、そしてこの西村朗である。
あえてもうひとり挙げるとすれば佐藤聡明だろうか。

細川俊夫には『魂のランドスケープ』(1997年)、
新実徳英には『風を聴く 音を聴く』(2003年)という
それぞれの作曲家の音楽観を語る著書があったが、
西村朗にはまだそれがなかった。
それがようやく刊行されたのが昨年の5月だったのだけれど、
なかなかそれを読む機会が訪れなかった。
そして、ようやくである。

読み進めてみると、
音楽観や作曲についての考えをまとめてみないかという
誘いが春秋社からあったのは、1989年にさかのぼるという。
その間、ざっと16年。
しかしそれだけの内容がぎっしりと詰まっている。
いわば世紀末ではなく、こうして21世紀の最初の10年も
半ばにさしかかったところというのがむしろよかったのかもしれない。
少なくともぼくにとって、10年以上前にそれを読むよりも、
今それを読むことができたというのがとても重要な意味をもっているかもしれない。
細川俊夫を聴き、新実徳英を聴き、そして西村朗を聴く。
おそらくその順番もぼくにとってはある意味で必然のようにも思う。

おもしろいことに、昨年の暮れに刊行された
北沢方邦の音楽論『音楽入門/広がる音の宇宙へ』(平凡社)の最後のほうで、
「宇宙論の復権」として、ちょうどその三者を挙げていた。

わが国の若い世代の作曲家たち、とりわけ西村朗や新実徳英、あるいは
細川俊夫たちがこの音楽的宇宙論の復権をこころみている。
・・・
記号のニヒリズム、文化の画一化としてのグローバリズムの圧倒的な状
況のなかで、こうしたこころには貴重である。芸術以外の領域でも、文
化の多様性や生物の多様性を守る断固とした決意と実行のみが、人類の
未来を救う。それぞれの種族性を基礎としながら、ゲーテ・ベートーヴ
ェン的な意味での世界市民であることが、真の自由と平等と友愛の人間
社会を構築する出発点になる。
西村や新実、細川の音楽は、この意味で「世界音楽」に属している。

ぼくにとって、昨年は音楽を考え、また感じ、
そこから広がるものをとらえようとする意味でも実り多い一年だったように思う。
そしてそれを北沢方邦の音楽論、そして西村朗の音楽についての著書で
ひとくぎりをつけることができたのではないかと勝手に思っていたりする。
そして、今ベートーベンを、バッハを聴くことが、
また新しい宇宙を展開させてくれることになろうとしているような気がしている。

さて、ここでは西村朗の音楽についての著書を紹介するのが目的だったが、
ほとんどふれずじまいになってしまいそうなので、
最後に、「序」の最初で、沼野雄司が西村朗の音楽について
書いているところを少しだけご紹介だけしておくことにしたい。
いずれにせよ、その音楽は聴いてみなければわからないのだけれど。

 暗闇がある。
 ……いつしか漆黒が微妙に振動していることに気づく、やがて思わぬ
方向から一筋の光。この光は徐々に幅を拡げ、一種の重量を持つにいた
る。光はいくつも束になり共振をはじめるが、互いの周期が干渉しあう
せいなのか、光跡はやがて激しく交錯し、渦を形成する。この渦は徐々
に成長し、気づいてみると螺旋の中に自らを幾重にも巻き込んで、なお
も止むことなく変転を遂げてゆく。
 西村朗の音楽を聴くとは、この振動と渦の中に身を浸すことに他なら
ない。
 ヴィブラフォンが、ピアノが、あるいはオーボエが軸になって細かい
トレモロの振動を延々と紡ぎ出しながら、オーケストラ全体から立ち上
がる巨大なヘテロフォニー。この渦に身を任せることは全身的あるいは
生理的な体験であって、単に快いことを越えて、時には禍々しい何事か
に触れるような、ある畏れの感覚を聴き手の中に呼び起こすことになる。

この著書には、西村朗が師と仰ぎ多大な影響を与えたという
杉浦康平との1992年の対談も収められているのもうれしい。