風の音楽メモ2


ラトル/R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」


2006.1.9.

■ラトル/R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

昨年の再来日でも話題になっている
サイモン・ラトルにはじめて関心をもったのは、
1985年の武満徹との対談を読んだのがきっかけだった。

このR.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」は
日本公演の演目にもなっていたということだが、
ラトルはR.シュトラウスについてこう語っている。

自分を“英雄”と呼ぶ作曲家には、皮肉屋が多いものです。私にとって
意外だったのは、作曲家と批評家の間のくだらない論争の中で見せた当
時まだ30代だった彼の自分に対する考え方です。彼は自分の晩年を想
像し、自身に対する疑念や死への恐れ、老後の安らぎのことまで考えて
いました。これは私を驚かせ、心を動かすに十分だったのです。

武満徹が対談のなかで、ラトルの音楽を率直に「大変すばらしい」と言い、
その「すばらしさ」の背景にあるものについて次のような話をしているのが
印象に残っている。

武満 ときどき音楽を離れて、文学や哲学の勉強をするために休暇をとら
れるそうですね。今日の音楽家、ことに日本の音楽家たちは、単に音楽的
な技術を磨くことばっかりになってしまって、音楽家としての、人間とし
ての深さや広がりを持たない傾向にあるわけだけれども、そういうことに
ついて意見をうかがいたいと思います。
ラトル 今、武満さんがおっしゃったことは、日本に限らないことです。
(…)現在、ほかの芸術分野を体験せずに音楽を追究することは可能だと
いう考え方、その風潮は、非常に残念なことだと思いますし、このことに
よって音楽家は、自分たちの音楽をたいへん浅いものにしてしまっている
と思います。例えばエゴン・シーレなどを見ることができなかれば、シェ
ーンベルクを弾けないし、それから印象派の絵画を理解できなかったら、
ドビュッシーは、いつも自分にとって異質なものにすぎないと思うんです。
すべてのものが音楽の役に立つと思います。

シェーンベルクといえば、ラトルの揮るその「グレの歌」などが素晴らしいのも、
そういう音楽以外のさまざまなものによって深さや広がりを持つことによって
可能になっているのだろう。
今回のR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」も、
最初に引用してあるように、その美しさの背景には
R.シュトラウス及びその作品に対する深い共感と理解があったことは確かだろう。
・・・というのは、ある意味であたりまえのことなのだけれど、
それがあたりまえにならない音楽というのは、貧しくならざるをえない。

ラトルの演奏は、上記の武満徹との対談からずいぶんたって、
ほんとうに最近、ベートーヴェンの交響曲全集をまとめてきいてから
少しずつきくようになったところなのだけれど、
一作一作のオーケストレーションをとても楽しんできくことができる。
そういえばお正月にラトルの揮るバッハのヨハネ受難曲、
しかもポストリッジがエヴァンゲリストというものを
ほとんどエンディングの部分だけしてきくことができなかったのは残念だ。

ポストリッジといえば、ちょうどラトルのベルリンフィルとの
「ブリテン歌曲集」が発売されたところだが、
このポストリッジという人も、「音楽以外のさまざまなもの」による
「深さや広がり」が背景にある音楽家のひとりだ。

そうした、いわゆる「専門」を超えた
「〜外のさまざまなもの」による「深さや広がり」を
どれだけ背景にもてるかということなくしては、
その「専門」そのものがひどくうすっぺらになってしまうことを
もっと多くのひとが見て取ることができるようになれるかどうかが、
いわば芸術や文化の豊かさにとって非常に大切なことで、
それなくしてはじっさいのところ、いわば
「白く塗りたる墓」のようになってしまうことになる。