風の音楽メモ2


波多野睦美・寺神戸亮:ひとときの音楽


2005.10.8.

■波多野睦美・寺神戸亮:ひとときの音楽/バロックの美しい歌
 (AVCL25043 2005.9.21)

パーセル(1659-1695)の歌曲が美しい。
アルバムタイトルになっているパーセルの
「ひとときの音楽Music for a while」ではじまり
波多野睦美(メゾ・ソプラノ)と寺神戸亮(ヴァイオリン)、
芝崎久美子(チェンバロ)、今井奈緒子(ポジティヴ・オルガン)を中心に
ヘンデル、モンテヴェルディ、チェスティ、J.S.バッハといった
バロックならではの音楽が
静かに奏でられてゆく時間を豊かに楽しめる。

パーセルの歌曲を少しまとまったかたちで
聴くことができたのははじめてだったが、
思っていた以上に、美しい。
自然にのびていく波多野睦美の声の響きも格別である。

  <ひとときの音楽>
  ひとときの「音楽」は
  あなたの心の悩みをすべていやすだろう
  「音楽」は自分があなたの痛みを和らげたことを不思議に思い
  人々に喜ばれることをいぶかしく思い続けるのだ
  復讐の女神アレクトが
  死者を永遠のいましめから自由にする時まで
  彼女の頭から蛇が落ちる時まで
  手から鞭が落ちる時まで「音楽」はそう思い続ける
  音楽はほんのひとときで
  あなたの心の悩みをすべていやすだろう

「ひとときの音楽Music for a while」の歌詞(翻訳)を記してみた。

「音楽」は、なぜ自分が人を癒すのだろうといぶかしく思い続けている。
「音楽」が自分のその力を信じることができるのは、
みずからの頭の蛇が、手の鞭が落ちていくときなのだ。

さて、ぼくにとっての頭の蛇は、手の鞭とは
いったい何だろうかと考えてみる。
癒す力をもつ「音楽」が自分の力を信じることができるためには、
ぼく自身がそうしたものから自由にあることができたときなのだろう。

しかし、音楽のなかには
人を自由にするものもあれば、
逆に頭の蛇や手の鞭を増強してしまうものもあるだろう。
それは人を癒す音楽ではないからだ。
そこには別の神々が住んでいる。

せめて「ひとときの音楽」を楽しむときには
みずからの頭の蛇や手の鞭を手放すことのできるようでありたいものだ。

しかし「美しい音楽」を好みながら
その音楽を離れると
その自由さの対極にある態度をとることも人にはある。
アウシュビッツでモーツアルトを楽しんでいた人たちのように。
ひょっとしたらそういう人たちは、
無意識のうちに自分のうちにある頭の蛇や手の鞭から
自由でありたいと望むがゆえに
「美しい音楽」を楽しむことを必要としたのかもしれない。
そういえば、小泉首相が選ぶエンリオモリコーネのCDというのも
そういうヤヌスの顔の側面なのかもしれないと妙に納得してしまう。