風の音楽メモ2


ビートルズ全部聴き


2005.10.6.

中山康樹という音楽評論家がいる。
とくに好きでも嫌いでもなく
その著書をそんなに読んでいるわけでもないのだが、
ちょうどビートルズがらみで
『これがビートルズだ』(講談社現代新書1653)を読んでいる。
これは、ビートルズの全公式曲213曲を聴いて
そのすべてについて語っているものである。

まだ読んではいないが、
マイルス・デイヴィスの全アルバムを対象にした『マイルスを聴け!』
ボブ・ディランの全曲を対象にした『ディランを聴け!』
ブルーノートレコードの1500番台に残された
全アルバムを対象にした『超ブルーノート入門』
とかいう全部聴くことで書く著書がある。

そこで、ビートルズである。
ぼくはとくにビートルズのファンであるわけではなく、
どちらかというとひややかな視線でビートルズをみているほうである。
じっさい、ぼくがロックやポップスをききはじめたのは、
ちょうどビートルズが解散した後のことであって、
印象としてはリアルタイムで知っているのは
各メンバーのソロの時代になっていて、
それらにもそんなに愛着をもってはいない。

しかし、先日ひょんなことから、
ビートルズの全アルバムの音源を手に入れて聴いているうちに、
いろんなことを感じたり考えたりする機会をもった。
どうせなら、ということで、見つけたのが
『これがビートルズだ』なのだ。
1曲1曲聴きながら、同時にそれについて書かれてある文章を読む。
そういうこともちょっとした贅沢かもしれないと思ったわけである。

そこに書かれてあることに同意できない部分もあるものの、
次第に、「ビートルズは面白い」ということだけは
いまさらのように思うようになった。

あたりまえのことであるが、こういうおもしろがりかたというのは、
時代のなかでリアルタイムで生まれているものを
同時代的に受容する仕方ではない。
過去が過去であるがゆえに、そこに残されているものを
俯瞰しながらランダムピックアップもしながら、
いろんな視点から見ていくことができるのである。
そういう仕方で、過去を現在のものとして受容していく。
そうして、ビートルズはおもしろい!ということを感じるようになったわけである。
とはいえ、それはビートルズが好きになったというのではない。
いまだにある種の距離感のなかで、おもしろさを感じているのである。

そのあらためてみつけたおもしろさというのは
たとえはこういうところだったりする。
それは最初のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」のなかの
「ベイビー・イッツ・ユー」について書かれてあるこんなところ。

  それはともかく〇分二八秒、一分一三秒に出るジョンの「オッオー」は必殺だ。
  これだけせつなく、甘く、なおかつ世間を徹底的にナメきった声(合いの手と
  いうべきか)は一九六三年二月一一日以前の地球上には絶対に存在していなか
  った。この曲をもって初登場の、まったく新しいヴォイスであり、感情表現だ。

たしかに、マスで流通していく音楽のある種の新しい表現を通じて
そのときから、ある表現以前と以後に分かれるという事実がある。
これは想像以上にすごいことなのだと思う。
感覚がつくられていくプロセスというのが
そこにマスのかたちで展開していくということ。

それは、たとえばデザインなどについてもいえることだ。
車のデザインひとつでも、以前と以後では
それそのものが変わってくるのである。
デザインそのものが同じでも、
それを受容するもあり方が確実に変容していくわけだし、
それがゆえに、デザインそのものがまた変化を余儀なくされていく。
つまり、「感じ方」というのはさまざまな変数のもとに変化していくということだ。

そうして、そういうことを考えながら、
すでに40年以上まえにはじめて録音された必殺の「オッオー」を受容するぼく。
その受容するぼくそのものという現象というのもまたとても面白い。

そしてそこであらためてふと思ったのは
やはり、あたりまえのことでしかないのだけれど、
ビートルズという現象はただものではなかったということだ。
アルバムのすべてをききながら
それが、これも陳腐な言い方になるが、滅びてはないのだ。
今なお、ハイレベルで輝いているというのは、やはり希有のことなのだろう。

ちょうどサザンオールスターズの
ひさしぶりのアルバムが発売されたところで、
少し期待感をもってその「Killer Street」をきき始めたのだが、
ビートルズ全部聴きのあとでのサザンは、これがいけない。
のっけから出がらしのようにしかきこえてこないのだ。
そんなに悪くもないのだろうし、それなりにときおりはきいてはきたが、
そのあまりの出がらし性というか、
スリリングさの欠如となってしまった表現はあまりのことで
もちろんそれはそれできけないこともないのだけれど
あえて時間を割いてきくに耐えないと思ってしまった。
それはビートルズの魔力かそれとも
ぼく自身の変化した感覚関数の影響か。

そういう意味でも、過去の定番の全部聴きという実験は
けっこうおもしろいのではないかと、ちょっとくせになりそな…。