風の音楽メモ2


沢田知可子『美しい国』


2005.6.2.

■沢田知可子『美しい国』

永瀬清子という岡山出身の詩人がいて、来年生誕100周年を迎える。
これまでその詩を読んだことはなく、岡山の人だということも知らずにいた。
思潮社の現代詩文庫1039『永瀬清子詩集』を読んでみると
その言葉の生きたリズムに、そして晩年になるほどに
その言葉がますます輝いてくることに驚いた。
またその誕生日と亡くなった日が同じ2月17日だという不思議さと、
そうしてその日がぼくの誕生日と一日違いだということにも
どこか不思議なご縁のようなものを感じることになった。

その永瀬清子の「美しい国」という詩を歌っている
沢田知可子のアルバムが今年の2月に発売されていることを知り
聴いてみたいと思った。
この詩のこんな言葉に
どんなメロディーと声がそえられているのだろうか…。

ああ夜ふけて空がだんだんにぎやかになるように
瞳はしずかにかがやきあいましょう
よい想いで空をみたしましょう。
心のうちにきらめく星空をもちましょう。

また、こんな言葉にも。

敵とよぶものはなくなりました。
醜とよんだものも友でした。

残念ながらCDショップには並んでおらず、
オフィシャルHPから申し込む必要があるようである。
http://www.chikaco.com/

「美しい国」とはいったいどんな国のことなのだろうか。
私は、私たちは美しい国に住んでいるのだろうか。
「国」とはいったい何だろう。

老子を新しく訳し直した
王明『老子(全)自在に生きる81章』(地湧社)を読んでいるところだが、
第2章の最初がこんなふうに訳されている。

世の人々があることを
美として認識するのは
すでに醜さが存在するからである
世の人々があることを
善として認識するのは
すでに悪が存在するからである

おそらく美しい国であるためには、
「醜」とよんだりすることによっては、
その「美」は、その醜さをつくることになってしまうのだろう。

・・・そんなことを思いながら、
静かな夜更けに沢田知可子の「美しい国」に耳を傾けている。