「二十世紀の音楽」ノート7

近代音楽の終焉


2002.11.27

         二十世紀は、どんな意味で新しい世紀なのか。それを考えることと現代
        音楽を知ることときってもきれない関係にある。
         二十世紀に入ってからの音楽の変わりよう、特にまた第二次大戦後の数
        十年のそれといったら、大変なものがある。
        (…)
         とにかく、私たちは、前に述べた素材の増大の大立者であるメシアンか
        らシュトックハウゼン、ブレーズたちを経験したのと同様、ケージとそれ
        に続くものを、目の当たり見たわけである、戦後のわずか三十年たらずの
        間に。
         「芸術の現在の状況に対してなにかおそろしく間違ったことが起こって
        いるようだというのがごくふつうの反応である。アクション・ペインティ
        ング、ポップ・アート、チャンス・ミュージックといった今日の現象は、
        芸術の現状に対し広汎な不安を引き起こしつつある……。多くの人々は、
        芸術はどうやら行き止まりの道に入り込んでしまったようだとか、なにか
        未来があるのなら現在の方向から脱出しなければならないとか、感じてい
        る」
         またしてもステントを引用するが、それはこの分子生物学者の現状診断
        が、私には恐ろしいくらい正確なものを含んでいると考えられるからであ
        る。
        (…)
         ともあれ、音楽の現状は、イヨネスコかベケットの終末論的不条理劇に
        気味が悪いほど酷似している。
         そうして、私には、この現状がいかに不快で不安をかきたてるものだと
        しても、これがまったく一時の気まぐれで起こった流行だとは考えられな
        いのである。
        (…)
         いわゆる近代音楽は、もうこのさき生命がなくなってしまったのではな
        いだろうか?あるいは、すでに、過去のある時に終点に到着していたので
        あって、私たちはそれに気がつかないばかりに、今ごろになって「音楽は
        どうなってしまったのだろう」と心配していたにすぎないのではないか?
        それを示すもの、それが、ほかならぬ、私たちの目の前にくりひろげられ
        ている現代音楽の光景ではないだろうか?それとは逆に、「いや、音楽の
        将来はますます大きく輝かしい。これについて悲観したり懐疑を示すのは、
        目の中にごみをいっぱいためていて『見れども見えない』盲目の徒輩、あ
        るいは先入観にとらわれ、『聞いても聞こえない』つんぼの類にすぎない」
        といっているような人たちとしても、その「音楽」が音楽であって、しか
        も昨日までの音楽でないことは自明の理としているのである。では、それ
        は、どんな音楽か?私たちは、これから当然それを見てゆかなければなら
        ない。だが、その前に、こういう人たちの仲間の中には、その音楽は実は
        もう「音楽」などという言葉を使わないで、別の名をつくり、それで呼ん
        だほうが「将来に来たるべきもの」により正確に照応すると主張している
        人の少なくない事実も、今のうちに指摘しておいたほうがよさそうだ。
        (…)
         今は、近代音楽そのものについて、そこに、私を「終焉」とよぶように
        誘う、何が起こったかを語るべき時だ。
         音楽に、では、何が起こったのか?
        (…)
         近代音楽の終焉は、この芸術が異常な密度、インテンシティでもって、
        発展をとげる力を発揮したことと表裏一体をなしているはずである。私た
        ちは、だから、近代音楽の展開のあとをみないでは、終わりを終わりとし
        て感じとる力をもてないことになるといってもよいだろう。
         それから、もう一つ、(…)近代芸術では、時代の様式に逆戻りという
        ことはないのであって、二十世紀の音楽家には、どうしても十八世紀のス
        タイルで創造的な仕事をするわけにはいかないという事情があるのである。
        (吉田秀和全集3『二十世紀の音楽』白水社1975.10.25発行/P110-132)
 
「いわゆる近代音楽は、もうこのさき生命がなくなってしまったのではないだろうか?」
という問いは、「近代はもうこのさき生命がなくなってしまったのではないだろうか?」
という問いにも重なってくる問題である。
 
この引用部分が全集に収められてからでさえすでに四半世紀が経っているのだが、
この問いは今でも、というかすでに二十一世紀に入っている今だからこそ、
ますます切実な響きを持ってきているようにも思われる。
 
しかし、「歴史の終わり」とか称する議論も、
その議論そのものがかなり限定された土台のもとでしかなかったように、
音楽に関してもある種そうした側面を持っているのかもしれない。
 
新しい音楽が聞きたい。
その欲望は、ぼくにとっても、
音楽を意識して聞きはじめるようになってから消えることはない。
 
しかし、どれほどの音楽を自分は聞き得ているのだろう、と自問したときに、
その聞き得ている音楽というのが、いかに限定され、
しかもあまりにも貧しい耳のもとでしかない、
ということを意識しないわけにはいかない。
 
新しさとはいったい何なのだろうか。
科学が反証によって進展していくという議論があり、
それに対してパラダイムということがいわれることもあった。
そのアナロジーでいえば、ある音楽が乗り越えられるという言い方や
ある音楽と別の音楽はパラダイムが異なっているのだ、
という言い方も可能なのかもしれないが、
それがいったい何を意味しているのか、
ということをあらためて考えてみた場合、
再びよくわからなくなってくるところがある。
 
個人的な聴取という地平において、
新しさとして現われてくる音楽があり、
音楽の進展のなかにおいて、
新しさとして現われてくる音楽がある。
個人的な聴取を離れて音楽を語ることはできないだろうし、
かといって、その人がまだ聞いたことのないということだけをもって、
その音楽の可能性を語ることもまたできないだろう。
 
しかし、そうしたことをいくら考え始めてみても、
おそらくどこにも行けなくなってしまうのが落ちである。
そのためにも、自分にとってもっとも総合的な観点から、
なにがしかを見ていくという作業を基本としていく必要があるのだろう。
ぼくにとって、シュタイナーの精神科学が非常に示唆的なのも、
それが限定された領域における科学ではなく、
驚くべき広大な領域において一貫したヴィジョンを示してくれているからである。
そのようなガイドをある種限定付であれ、
またかなり暫定的なガイドであれ、参考にすることもまた意味がないわけではない。
 
そういう意味で、先日、たとえば、
結局のところ今自分が聞き得る音楽というのは、
いったいどういうものがあるのだろうということで、
■みつとみ俊郎『音楽ジャンルって何だろう』(新潮選書1999.12.25発行)
という著書を見つけて読んでみた。
本書の最初にもあるように、ジャンル分けということには、
絶対的な基準値は存在しないのは確かなのだけれど、
この本の各章にあるように、
「クラシック音楽とポップスの境界線」
「ジャズとロックの境界線」
「ロックは変容する」
「ポップスの持つベクトル」
「歌謡曲とJポップはどう違うか」
「ブラック・ミュージックとヒップ・ホップ」
「ダンス音楽とは何か」
「映画音楽、背景音楽、環境音楽など」
「ワールド・ミュージック」
「アバン・ギャルドーー音楽の最前線」
ということにひととおり目を通してみるのも
あながち不毛なことであるとも思えない。
 
ある意味で、「近代音楽の終焉」として語られたことというのは、
この各章のなかにおいては「アバン・ギャルドーー音楽の最前線」
ということにおけるテーマなのかもしれないのだから。
 
もちろん、シュタイナーが「宇宙進化」というヴィジョンを示唆しているように、
ある種の潮流があるということを認識する必要があるだろうし、
新しいものというのが、ある意味で過去の変容という形で、
展開してくるということなどもとらえておく必要があることかもしれない。
そういう意味でいえば「行き詰まり」というふうに見えてくるものは、
ひょっとしてそれまでの課題が別のステージにおいて
変容したかたちであらわれてくる兆しだといえなくもない。
その変容の前にはある種カオスが現われるということもあるのだろう。
 
音楽においても、たとえばぼくがこうして日本という場の
ほんの片田舎に住んでいるだけでも、
音楽のさまざまなジャンルのものにふれることができるように、
現代という時代は、かつて限定されていたであろうものが、
いわば大衆的なレベルにまで降りてきていて、
そのことによって、卑小なレベルかもしれないが、
そのなかでさまざな相互作用が坩堝のなかで
かき混ぜられているような時代だともいえる。
その混沌のなかから何が生まれようとしているのか、
そのことだけは常に意識しておく必要があるのだろう。
 
そうしたことはかつて限定された人たちにしか困難だったのだが、
現代という時代はそれを望みさえすれば、
そしてその認識に向かって努力しようとさえすれば、
混沌のなかからでもなにがしかの発見が
多くの人に可能な時代であるといえる。
 
問題は、その「自由」の前で、
その「自由」によって開かれている自己認識の責任の前で、
「その自由には耐えられない」としたり
「自由を容認するとただカオスにしかならない」
としてしまうような態度がでてくることなのかもしれない。
そのとき、人は過去に視線を向け、いわば「保守」に走り、
秘儀においてもそれは公開されてはならないという姿勢になってしまうのだろう。


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