「二十世紀の音楽」ノート3

「なぜ」という現代性


2002.10.20

         ケージの考え方は、ほぼ、こういうことから出発する。
         「音楽のリアリティ」は演奏の中にあるのであって、「作品」ないしは楽
        譜の中にあるのではない。だから、大切なのははじめからわかっている結果
        を追いかけるのをやめて、「演奏そのものを作曲する」にある。これを手に
        入れるためには、作曲家は、どうせ紙の上でしか成立しない作品の一回性な
        どというものは断固として無視してしまって、直接鳴りひびきつつあるもの
        そのものの一回性を十分に実現するよう力を致すべきである。だからまた、
        彼が作曲家としてとどまり、演奏家たちに一から十まで自由な即興に任せる
        というのでないなら、そこから演奏の無限の可能性が生まれてくるような具
        合に、限定を設定することが肝心になってくる。しかし本来ならば、彼は、
        できるだけ限定しないのが望ましいのであって、せいぜい、終極的には無力
        でしかない素材の限定とか、確実なものが生まれるはずのない演奏の規定だ
        とか、そんなものをきめておくだけでよろしい。「この種の作曲は当然実験
        的たらざるをえない。実験的行動とは、その結果が予測できないものにほか
        ならないのだし、結果が予測できない以上、その行為は、いわば大地のごと
        く、大気のごとき、無償の行為にほかならない。演奏が不確定な作品の演奏
        は一回的なものであり、反復不可能である。二回目の演奏は必ず最初のもの
        とちがう結果を生む。したがって、こういう演奏は、どこにも到達しない。
        というのも、この演奏は時間の中のオブジェ(客体)として捉えることがで
        きないからである。この種の作品をテープに録音してみるのも、安絵葉書以
        上の価値は全然ない。それは起こったことについての何らかの知識は伝達す
        るけれども、行動とは本来、まだ生起していなかった何ものかに関する無知
        にほかならなかった」というのが、彼の考えではなかろうか?
         ジョン・ケージが、彼の<音楽>に接する多くの人たちに、平静にきくこ
        とを許さず、まず憤慨をひきおこすというのも、その中に、以上にみられる
        ような、あまりにもナイーブで、ある場合は陳腐といってもよいような議論
        の進め方と、冷血といってもよいような非妥協性とが共存していて、それが、
        人びとに、彼を単なる道化として嘲笑してしますには何かまだ割り切れない
        後味を、残すからだろう。
        (吉田秀和全集3『二十世紀の音楽』白水社1975.10.25発行/P20-23)
 
ジョン・ケージの実験音楽パフォーマンス?について知ったとき、
ぼくのなかでそれまでもっていたはずの音楽という概念のなにがしかが
崩れていくことになったのを今でも覚えていたりする。
絵画の世界ではデュシャンの「泉」だったりするのだけれど、
自分はいったい何を聴いているのか、またそうしていたのか、
いったい何を見ているのか、またそうしていたのか。
そのことを考えないではいられなくなった。
 
ある意味で、「現代」というのは、
そうした「なぜそうなのか」ということを
常にふりかえらざるをえない時代なのかもしれない。
 
もちろんそうした「試み」はどんどんエスカレートしていくことになって、
それにつきあってみても、最初のときに受けたショックは
二度と味わえるというのではなく、
そうした二番煎じ的なものにつきあおうとは
次第に思わなくなってくるところもあるのだけれど、
それにもかかわらず、その「なぜ音楽なのか」、「なぜ絵画なのか」といった
「なぜ」ということを問いかけずにはその後なにも聴けなくなり、
なにも見えなくなってきた、ということは確かなことのように思う。
音楽そのもの、絵画そのものというよりも、
それについての意識、つまりそのメタレベルをも
同時に問題にせざるをえないということ。
 
それはそれまで機嫌良く歩いていた百足が、
自分の足を意識するようになって、
それまでのようには歩けなくなってしまった状態のように、
たとえ、それがいかに無様で馬鹿げていたとしても、
「聴く」ということ、「見る」ということそのものの質は変化していかざるをえない。
それは、それまでなかったかもしれない、というか
「それ以前」の段階で、見つけられなかった、
もしくは存在しなかったであろう「矛盾」を見つけるというか、
ある意味それを自分で生み出していくということでもある。
 
「現代」というのは、そういう意味でも、
「自己意識」または「反省意識」、シュタイナー的にいえば「意識魂」の時代、
ということもできるように思う。
 
それは決して幸福な状態ではないかもしれず、
そんなことを意識しないで機嫌良くやっていたほうが、
ずっといいのかもしれなかったのだけれど、
「なぜそうなのか」ということを
子供のような問いかけではなく、
自己意識によって問わざるを得なくなってしまった以上、
その「なぜ」を追いかけていくしかすでになくなっている。
すでに、ただ昔に帰る、というわけにはいかない。
ひょっとしたらかつてそうだったものを獲得するために、
それを「なぜそうなのか」をふくめて、
再獲得しなければならなくなっているわけである。
 
そうした自己意識のまだ存在しない人にとっては、
その「なぜ」のレベルは存在せず、そのために、
そんなまどろっこしいことをする人のことは
まるで理解できないのかもしれないけれど、
それは、たとえばそれまで、2+3=5という計算を
あたりまえのようにしていた人が、
2というのはいったい何だろう、3というのはいったい何だろう、
+っていうのはいったいどういうことなのだろう。
そうしたことを問い始めたとたん、
計算ができなくなってしまう人を見て、
「なぜこんなに簡単な計算ができないんだ」と思うのにも似ている。
 
自己意識をもつということは、そのように
それまでのような「エデンの園」から
自分で自分を放り出すようなものなのだけれど、
そこから出発せざるをえないというのが、
「現代性」なのではないかと思っている。
シュタイナーの神秘学というのもまさにそこが出発点で、
その出発点を持っているかどうかということが
その受容態度を決めてしまうところもあるのかもしれない。
 
☆☆☆KAZE(topos)☆☆☆
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