ストラヴィンスキーという人は、はじめ過去の音楽の遺産というものに、 ひどく無知のまま、出発した。彼は、まずリムスキー=コルサコフについて 学んだのち、『春の祭典』まで、息つく間もなくかきつづけた。そのあとは じめて、ペルゴレージその他の十八世紀ロココとバロックを「発見」し、つ いでハイドンやベートーヴェンの初期のソナタを「発見」し、ベッリーニと チャイコフスキーを「発見し」たりした末に、第二次大戦後になって、シェ ーンベルクの音楽に接近したのだし、そのあとブレーズ以下の前衛の敬愛の 的となりながら「ヴェーベルンこそ音楽のまことの中心だ」などといってみ たりもした。おすやって、十二音で作曲するようになってからも、バッハの コラールを編曲してみたり、ジェズアルトのマドリガルに手を入れてみたり など、この人の好奇心には極まるところがないなのように見えた。 彼の死んだのは一九七一年の春だったが、その直前ニューヨークの病院に 彼を見舞ったという人の話を、先日きいた。それによると、ある日、彼を見 舞っているうち、何かレコードでもかけようかということになったが「病人 の口からは、かつてあれほど夢中になっていたヴェーベルンあるいはブレー ズ以下の新しい音楽の話は全然出てこなかった。『ではストラヴィンスキー のものを何か』というと、病人からきかれるものは、それだけはやめてくだ さいとでもいった風情で、唇をふるわせて『ブウウウ……』という音だけだ った。そのうち尊大で気むずかしい病人は、もしきくとすれば、それはベー トーヴェンの晩年の弦楽四重奏に限る。『あれこそは真に偉大な音楽だった』 といいたした」のだそうである。 この話を、私といっしょにきいていたさる人は、「それにしては、あの老 人はずいぶんまわり道をしたものだな」と呟いていたが、私にいわせれば、 そのおそろしく長いまわり道があったればこそ、ストラヴィンスキーは、 『春の祭典』や『兵士の物語』や『結婚』や『エレミア哀歌』の傑作や名作 を生み出したのであった。 (吉田秀和全集2『二十世紀の音楽』白水社1975.10.25発行/P18-19) この「おそろしく長いまわり道」の話は、 なぜこの世界がこうして存在しているのかを ぼくなりに理解しようとするとき、非常に示唆的に響いてくる。 なぜ世界があるのか。 また、これほどまでの矛盾に満ちて、 このような混迷した在り方で存在しているのか。 もし世界に、たとえば善という目的があるならば、 なぜその目的に向かって、 いちもくさんに向かうような世界でないのか。 迷路に次ぐ迷路、ときには、いや多くは袋小路。 そんな進み方をしているとしか見えないような世界。 また、なぜ人は赤ん坊として生まれ、 長い時間をかけて育ち、そして死に向かわなければならないのか。 動物のように速やかに立ち上がり育っていくことができないのか。 そういう類の問いかけを 生まれてこの方、何度自分のなかで反芻したことか。 「もし創造神が存在するとしたら、なんと悪趣味なことか!」 ときには悪態を付きたくなることさえあるほど。 しかし、ほんとうのところ、おそらくは 「だからこそこの世界があるのだ」といえるのかもしれない。 たとえば、その「だからこそ」のところに、 このストラヴィンスキーを、そしてそれになぞらえて 自分の今までのことをあてはめてみる。 ぼくは「過去の遺産」にひどく無知のまま生きてきて、 そのなかで、些細なことにすぎないとしても、 好奇心の赴くままにそれなりの「発見」をしてきた。 そしてひょっとしたら死に際して 「○○以外にはいらない」というかもしれない。 しかしそのプロセスで「発見」したさまざまなことは、 たとえそれがどんなに愚かなことでしかないとしても、 それは「○○のために世界があるのだ」というよりも、 それらすべてをひっくるめても、「だからこそこの世界があるのだ」、 というふうにとらえてみたいと思っている。 そういう意味において、音楽を聴くということは ぼくにとっては、今この自分を聴くということにほかならない。 そういう意味での「現代音楽」を必要としている。 また、現代という時代をどのように受けとめるか、 ということにおいて、 現代に近い状況において活動していた/している音楽家が どのように活動しているかということは ぼくにとって同時代的に共振しやすいというところもあり、 ストラヴィンスキーの現代性もしくは遺産についても 無関心でいることはできない。 それは無関心な人にとってはまさに「まわり道」なのかもしれないが、 その「まわり道」ゆえに、いやその「まわり道」そのものが ぼくそのものなのだということがいえるのだと思う。 |