このところ、読み始めるとあまりに面白いので 吉田秀和の音楽批評をあれこれと読んでいる。 ぼくは少しもこうしたジャンルについての 正統もそうでないものについてもまったくの無知なので、 吉田秀和の音楽批評の位置づけ等についてはまったくわからないので、 ある種の人からはひょっとしたら 失笑を買うおそれもなきにしもあらずなのだけれど、 そんなことは気にしないようにして、 ただ自分の興味のあるテーマについて そこから拾い出しながらいろいろあれこれと考えてみたい。 今読んでいるのは、吉田秀和全集3(白水社/1975年10月25日発行)、 「二十世紀の音楽」というタイトルのある巻で、 要は、いわゆる「現代音楽」をテーマにしたもの。 とはいえ、この全集が刊行されたのでさえすでに四半世紀が過ぎていて、 このなかに収められている『二十世紀の音楽』は 昭和32年に岩波新書で刊行されたもの、 『現代音楽を考える』は昭和50年に新潮社から刊行されたものなので、 はたしてそれが今の「現代音楽」を考えるガイドになるかどうかは疑問であるし、 現在はすでに二十一世紀ということもあり、 この「ノート」を「二十世紀の音楽」ノート、というふうに名づけてみた。 参考までに、この「現代音楽」ということに関して、 先日読んだ吉田秀和『音楽を語る(下)』(芸術現代社/昭和50年1月25日発行)から ご紹介しておくことにしたい。 現代音楽というのは、ほかにもそういう言葉はたくさんあるけれども、 便宜のためにつけた言葉で、要するに、現代の音楽ということでしょう。 「現代とは何か」というのは。ある幅はあるだろうけれども、その幅の 中ではかなり動かすことのできる概念でしょう。音楽だけで言っても、 現代というものを、たとえばそれまでの調性の音楽から調性で書かなく なった音楽の別れ目というのをとって、それ以降、現代音楽という言い 方もあるでしょうし、そうじゃなくてもっと短くとって、音楽以外の観 点を基準にして、たとえば第二次世界大戦以降の音楽ということもある でしょうし、もっと短くとって、いわば今日の音楽というようなのにし てちょっと考えますと、七〇年代の音楽といいますかね。その七〇年代 の音楽を考えるのに、六〇年代、五〇年代とさかのぼっていかないと説 明がつかないことがあったり。 だから、「現代音楽とは何か」と言われても、現代音楽とはそのとき の状況によってずいぶん変わってとることもできるんじゃないですか。 (…) ぼくが先に行った幾つかの中の一つの音楽以外の時間の切り方によっ たものじゃなくて、音楽のほうの時間とともに変化していくその変化の 仕方が、何かを一つ一つじゃなくてもいいけれども、目印にとって、そ の目印に合ったものを現代音楽と呼び、それに合わないものはたとえ同 じ時代のものでも現代音楽と呼ばないという考え方もありますね。それ は、ちょうど現代という時代をどう思うかというときに、現代とはこう いう時代だああいう時代だというその中でそれにうまく合わない現象が あったりすると、それは現代にありながら現代的でない過去の生き延び たものだと、ということで説明するのと同じじゃないでしょうか。 (…) いまは、現代の音楽というときに、ぼくは現代というのと音楽とがど いうふうにつながって、どういうふうにつながらないのかなあというこ とがひどく気になります。何も現代に音楽がないとは言わないんだけれ ども。あるんですけれども、ちょっとわかりにくい時代だと思いますね。 (P197-19) この引用の最後にあるように、 この70年代以上に、今は「わかりにくい時代」なんだろうという気がしている。 そのわかりにくさは、この30年ほどのあいだに加速しさえしている。 そういう意味で、現代および現代音楽ということを この「ノート」でいろいろと見てみることができればと思っている。 そういえば、「二十世紀の音楽」を見てみるにあたって、 ちょうどこの11月から「武満徹全集」が小学館から刊行されはじめる。 全ジャンル・全作品、約340曲をCD55枚・全5巻に 完全収録するというもの。 この武満徹という作曲家の存在は、とくにこの日本にいる現代人にとって、 二〇世紀とくにその後半に活動したという意味でも、 見過ごすことのできない大きな存在であるように思う。 |