「映画に耳を」をめぐる逍遙 08 

武満徹

勅使河原宏監督「他人の顔」(1966)
  篠田正浩監督初期の傑作心中天の網島』(1969)

第8回目は、映画監督というよりも満徹の担当した映画音楽を。
武満徹は、大衆作品から前衛系のものまで約100作品の映画音楽製作に携わりながら、映像と音楽との在り方を模索し続けた現代音楽家でもある。
この「逍遙」の最初にもふれたが、武満徹は映画音楽を書くとき、映像に音を加えるというよりは、映像からいかに音を削っていくかを考えているという。
武満徹のエッセイ「私たちの耳は聞こえているか」のなかにこういうところがある。
「映画も概ねそうであるが、それにしてもテレヴィの音の扱いの無神経さは、日本の場合、酷過ぎるように思う。ニュース報道の背後にまで全く関連性のない音楽や音響が流されて、徒に視聴者の気分を煽ろうとする。また、私たちもいつかすっかりそれに馴らされてしまっている。こんな状態が永く続くようなら、私たち(日本人)の耳の感受性は、手の施しようが無いまでに衰えてゆくだろう。その時、耳は、もはやなにものをも聴き出すことはない。」
このエッセイは1994年に書かれたものだが、事態は武満徹の危惧した通り、いやそれ以上に進んでいるように見える。私たちの耳はなにも聴きだしていなように、さらに私たちの目も何も観ていないようにみえる。
私たちは沈黙に耐えることができないし、暗闇にも耐えることができなくなっている。それは「ひとり」でいることができないということだ。「ひとり」でいることができてはじめて、ひとは愛することができる。愛することができないからこそ、人は暴力的になり、またその暴力を受容してしまうような共依存関係からでることができなくなる。その暴力には、ひとりではいられないがゆえにふるわれることになる感情の力もある。おそらく、メディアに、もちろんこうしたネット社会もそうだが、共依存関係なしではいられないような愛の欠如が蔓延しているように見える。そんななかで、武満徹の音楽は、そしてその姿勢について考えることは、大変に示唆的であると思う。

では、まず、勅使河原宏監督「他人の顔」(1966)から「ワルツ」。
グラスハーモニー、バンドネオンを使って1920年代の雰囲気をだしている。
原作は、安部公房の小説『他人の顔』。

http://www.youtube.com/watch?v=zwSGGPrTdMU

続いて、近松門左衛門のの原作を映画化した篠田正浩監督初期の傑作心中天の網島』(1969)。
武満徹も共同脚本に当たっている。今見直してみても、驚くほど新鮮である。

http://www.youtube.com/watch?v=mujZ_suUiEs

そして、勅使河原宏監督「ホゼー・トレス」(1959)から「トレーニングと休息の音楽」。
1956年にメルボルン・オリンピックで話題を呼んだプエルトリコ出身の、駆け出しの移民プロボクサー、ホゼー・トレスのドキュメンタリー。を臨場感あふれる武満徹の音楽とともに観る2部構成のドキュメンタリー。

http://www.youtube.com/watch?v=CH3D11yNqwU