「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
9◎ ボヘミアン・ラプソディ(2009.3.18)

 「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞の意味は、発売当時から謎とされてい
 る。フレディ自身は意味を聞かれたとき、「ただのお話だ。僕にもわから
 ないよ」と答えている。
  一九七五年。僕はエアポケットの時期だった。だから知らなかった。フ
 レディ・マーキュリーが、ゲイで移民の子で、さらに両親がゾロアスター
 教徒だったことを。
 (中略)
  歌詞は確かにミステリアスだ。でもスカラムーシュ(イタリア古典喜劇
 に登場する道化師)やファンダンゴ(バカ騒ぎ)など一つひとつのフレー
 ズにどんな寓意が隠されているのかと考えたところで、おそらくはあまり
 意味をなさないだろう。フレディが生前に話したように、彼にも意味はよ
 くわからないのかもしれない。
  だからこそ、この曲は残る。解釈が自由だからだ。表現は欠落が重要だ。
 その欠落に、受け手の想像力が呼応する。つまり相互作用だ。その瞬間に、
 作り手のプライベートで個別で主観的な物語であるはずの表現は、普遍性
 を獲得する。

  ねえママ、たった今僕は、人を殺した

  あらゆる意味でマイノリティだったフレディは、「ボヘミアン・ラプソ
 ディ」を作ったときは、二十九歳になっていた。ひとつのけじめの歳だ。
 だからこそフレディは、彼、つまり自分自身を殺さねばならなかった。た
 だし標的はマイノリティである自分に悩み続けてきた自分だ。人は誰も人
 生を一回しか体験できない。ならば多数派か少数派かなどの比較に、実は
 意味などない。

 (「ボヘミアン・ラプソディ」
  森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.275-276)

「ボヘミアン」は、ジプシーであり、放浪者。
「ラプソディー」は、狂詩曲。

フレディ・マーキュリーがゲイであることは知っていたけれど、
「移民の子で、さらに両親がゾロアスター教徒だったこと」は知らなかった。
フレディも、ゾロアスター教徒として死後は火葬にしたとか。

「マイノリティ」であるということはいったいどういうことだろう。
「個」として自分をとらえるならば、
すべての人間は「マイノリティ」以外の何者でもない。
そういう視点からすれば、自分を「マイノリティ」以外に位置づけようとするの
は、
「個」としての自分を放棄することを意味することになるだろう。

実際のところ、自分を「マイノリティ」であるとして位置づけるのは、
「マイノリティ」という「集団」のなかで自分を位置づけることを
正当化したいということであることは多いのではないだろうか。
そのことが権利上正当なものであるのだとしても、それは「個」ではない。
「わたしたち」であって「わたし」ではない。
多数派であれ少数派であれ「わたしたち」は「わたしたち」である。

それはともかくとして、
よくわからない歌詞というのは、解釈を自由にする。
そこにほんとうの謎が隠されていることもあるだろうし、
気分だけでとくに意味のないこともあるだろうが、
「受け手の想像力」を刺激しない歌詞は、
繰り返し聴くうちに摩耗してしまうところがあるように感じる。
そういえば、サイモン&ガーファンクルの「スカボロフェアー」の歌詞も、
メインのストーリーとは別に挿入される戦争に関連した部分に
謎めいたところが多分にあり、単なるラブソングになっていないところで
繰り返し聴くのに耐えているというところがあるように思う。

人間もそうで、
謎を感じない人というのは、つきあっていて摩耗する。
もちろんハチャメチャな謎だらけというのも疲れるだろうが、
「解釈が自由」なほうが、人間はずっと面白いと思う。
では、ぼく自身はどうだろうか。
もちろん、謎のない人間は存在しないだろうし、
ぼくの行動パターンや関心にしても人とはあまり似てなさそうではあるけれど、
だからといってそんなに謎めいた人間ではないような気がする。
自分ではよくわからないところだけれど、
まあ、そういうのは人がぼくをみて、自由に解釈するところなのだろう。
少なくともぼくは「ゲイ」でも、「移民の子」でも、
「ゾロアスター教徒」でもないことはたしかで、
そういう意味での「マイノリティ」意識はあまりないし、
「マイノリティ」にも「マジョリティ」にも自分を位置づけたいとは思っていない。