「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
8◎内部規制と禁忌(2009.3.13)

  組織共同体における内部規制の多くは、上や外部からの圧力そのもので
 はなく、内側から自然発生的に生まれる場合が実は多い。つまり過剰な忖
 度。こちらのほうがタチが悪い。なぜなら摩擦がないからだ。放送禁止歌
 がまさしくそのものだ。最近ではNHKの女性国際戦犯法廷をめぐる番組
 で、自民党の現職代議士から政治的圧力があったかどうかの論点で朝日新
 聞とNHKが泥仕合になったことが好例だけど、僕はあの騒動の内実につ
 いても、結局はNHK幹部の政治家に対する「過剰な忖度」の帰結だと考
 えている。ただし、だから政治的圧力はなかったとはならない。特定の番
 組を名指ししながら「公正中立にやるように」と指示するためには、その
 番組が「公正中立ではない」との前提が必要になる。放送前にその主観を
 押し付けることを政治的圧力という。まあ政治家なんてその程度。「バカ
 じゃん、憲法21条と放送法を読みなさい」と一蹴してその場を立ち去ら
 なかったNHK幹部たちが、いちばんどうしようもないことは変わらない
 けれど。
 (「雨あがりの夜空に」森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.259)

こうした内部規制を、責任回避のための過剰反応としてとらえることは容易だし、
そういうあり方にしっかり目を向けておくことは重要なことである。
そしてできれば「バカじゃん」といえるようでありたいとは思うけれど、
それに加えて、それを別の角度から見てみることも必要ではないかと思っている

ちょっとばかり飛躍しているかもしれないけれど、
それをタブーや汚辱(けがれ)に対する態度として
とらえることもできるかもしれないし、
自己臭症や脅迫的なまでの潔癖症などといった傾向とも
どこかで関係しているというように感じるところもあるように思うのだ。

日本人の多くは、「汚れ」を払い清めるというのが好きで、
できればはやく「汚れ」を払ってきれいになりたがる。
そして、自分は「汚れ」とは関係ないかのような顔をする。

しかし、エリアーデもいっているように
聖なるものは「聖」であると同時に「汚れた」ものでもある。
だから「汚れ」を払うということは
ある意味では、自分の影の部分のほうにそれを押しやることで、
むしろその影響力を別のところから働かせるということにもなる。
その「汚れ」を過剰に意識するというのもそのひとつで、
自分を潔癖なまでに清潔にしておくということは、
そうでないことに過剰反応するということでもあるわけである。
そうした過剰反応というのは、逆の過剰なまでの無意識の所産でもある。
男らしさを過剰に出す人が、
自分のなかの女性らしさという無意識に対して過剰反応したり、
知的な自分であることにこだわる人が、
自分のなかの無知という無意識に対して過剰反応したりするように。

ちょうど、1966年に刊行され1972年に邦訳のでていたという
メアリ・ダグラス『汚辱と禁忌』が文庫化(ちくま学芸文庫)されているが、
(原題は“Purity and Danger”清浄と危険)
そうしたことを考えるいいきっかけになっている。
解説を中沢新一が書いているので、そこから重要箇所を少し引いておく。

  社会に秩序をつくりだす体系は、そこからはみだす異物を排除すること
 によって、自分をなりたたせている。人間はそのことを自分の条件として、
 受け入れなければならない。しかしそのとき発生する「異例なるもの」を
 汚物として拒否して、徹底的な清らかさなどとを追求しだすと、人間は偽
 善者になり、大きな悪をおかしておくことになる。このような悪の可能性
 から逃れるためには、汚物を受け入れる寛容さが必要である。
  しかし汚物をそのまま容認し、まかりまちがってもそれに権力を与えた
 りしてはならない。健全な文化は、汚物を堆肥につくりかえる知恵を持っ
 ていなければならない。この堆肥が秩序に対して有効な働きをおこなうと
 きにかぎって、その文化はバランスのとれた成長をとげることができる。
 このように説く本書の主張は、書かれてから四十年後の原題においてます
 ます輝きを増す、健康な常識の堅固さをいまだに保ち続けている。
 (P.430-431)