「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
7◎目的の道具になる(2009.3.11)

  二〇〇四年に刊行された小室自身の著書『人生を肯定するもの、それが
 音楽』(岩波新書)に、小室は若い頃の彼が尊敬していたアメリカのフォ
 ークシンガー「ピート・シーガー」が、ベトナム戦争の頃にアジテーショ
 ンやスローガンばかりが突出する曲を歌い始めたことに対する違和感を、
 強い筆致で記している。

  「音楽が何かの目的の道具になる」「それが一義である」というのは何
  か違う、そう思いはじめていた時期だったから、ことさら違和感があっ
  た。(中略)そうしたアジテーションに満ちた反戦の歌が、ぼくには美
  しいと思えなかった。

  表現はメタファーなのだ。「ブッシュを降ろせ」などの勇ましいスロー
 ガンや「悪はこいつだ」式の二元論的なメッセージなら、プラカードに書
 いてデモ行進すればよい。間違いとまでは言う気はないが、勝手にやれば?
 という気分になる。

 (「出発の歌」森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.155-156)

「表現はメタファーなのだ」ということを忘れてしまうとき、
またはそのことをそもそも理解できないとき、
すべての表現はただの「目的の道具になる」。
そして、ポエジーは死んでしまう。

芸術だけではない。
哲学でさえ政治や宗教の道具になってしまうことに
注意深くある必要がある。

気をつけていなければ、いや気をつけていたとしても、
自分の歩いているところが、いつのまにか
変質してしまっていることさえあるかもしれない。

同じ言葉をつかっていたとしても、
それが別の場所に置かれたときに、
まったく別の意味を持ってしまうこともあるのだから。

だから、少なくとも、今自分の表現していることが、
なにかの道具になってしまってはいないかどうか。
そのことに気づけるようでありたいと思う。

広告表現のように、その表現が最初から
商品を売ったり、人を集めたりする目的のためになされる場合には、
その商品や集客の目的にさえ注意していてばいいし、
その目的が自分にとって大きな悪を意味するならば、
表現することを避ける選択も可能である。
その仕事をしなければいいし、異議を表明することもできる。

問題は、自分が表現しようとする目的に対して、
どこかで麻痺してしまっているときである。
だから、そうなってしまう前に、
どのようにして人は麻痺しているのか、そうなるのかについて
しっかりと目を向け、そのプロセスを観察するようにすることだ。
そうしておかなければ、人が麻痺するのは思いのほか簡単なことなのだから。
そして、麻痺がおさまったとき、
自分がなぜそうしたのかさえわからなくなっていたりもする。

そうならないためのひとつのポイントは
自分の「快ー不快」に意識的であることだとぼくは思っている。
なぜ自分はそれを「快」だと感じているのか。
なぜ自分はそれを「不快」だと感じているのか。
それを検証してみることだ。

その「快ー不快」は両義的である。
「快」が悪くて「不快」いいというわけでも、その反対でもない。
「快」に溺れている自分を見ることと同時に、
その「快」によって得られるものを明らかにすること。
「不快」が生み出されている源を見ることと同時に、
その「不快」によって導出されるものを明らかにすること。
正義をや善を主張することに「快」を得ることも、
またそれに対して「不快」を得ることもできる。
要はそれらが自分をどこに導いていくか、である。