「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
6◎ 一人称単数の主語を消さないこと(2009.3.9)

 「人間の価値は自身からどれくらい解放されているかで決まる」と言った
 のはアインシュタインだ。唯我論は子供の論理と呼ばれている。確かにい
 い齢をした大人の感覚ではない。でも自分からの解放が過ぎれば滅私とな
 る。一人称単数の主語が消える。そうなったときに人は必ず間違いを犯す。
 「我々」や「国家」などが主語となり、「凛として」や「毅然として」な
 どの副詞を好み始め、正義と邪悪、被害者と加害者などの二元論に嵌りこ
 む。
  その間隙を突いて、善意の薄衣をまとった恐怖と憎悪が増殖し、危機管
 理意識が発動し、正義や国益など、粗野で腕力だけは強い用心棒たちが腕
 まくりして現われる。戦争や虐殺はこうして起こる。当事者にとっては自
 衛のつもりなのだ。明確な悪意や加害の意識など必要ない。だからこそす
 べてを失った後に、人は茫然と立ち尽くすばかりだ。
  多数派の不幸よりも君を失うことのほうが辛い。そのエゴイズムを僕は
 肯定する。大切なのは一人称の情緒だ。他者の気持ちを想像することは大
 切だ。でも他者や我々などの多数派を主語にしたときに、その情緒は自己
 犠牲という名の自己陶酔へと簡単に結びつく。
 (中略)
  戦争はなぜ起きるか。主語を一人称単数から他者や複数代名詞に置き
 換えるからだ。世界の平和のために、僕は自らのエゴイズムを優先する。
 誰もがそうすれば、きっといつかは、争いのない平和な世界が実現する。
 (「落ち葉のコンチェルト」
  森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.123-124)

森達也に深い共感を持つようになった一番のポイントが、この
「主語を一人称単数から他者や複数代名詞に置き換える」ことに対する警鐘である。

「主語」が「一人称単数」でなければ、
この地上でいきている人間は「思考」することができない。
「われわれは」という複数におけるものは「思考」ではなく、
集合魂あるいは、集団に依拠し我をなくした思考停止以外ものではない。

とくに日本人は、「自我」や「思考」の成立するまえに滅私し、
安易に我をなくしやすく、
その状態のまま集団の集合意識を権威化する傾向があるように見える。
そのときの「私」は単に集合意識に自分を依拠させ
それで自己正当化された欲や(事なかれ的な)善意でしかない。
少なくともなにかその集団で責任をとる必要のある事態が生まれても
そのなかでの個人はその責任の主体としては成立しえない。
もちろん、集団の長が形式上責任を負うこともあるだろうが、
そのなかで集合化されている魂にとって責任の自覚は生まれようがない。

先日、生で初めて加川良の「教訓」を聴いた。
「命を捨てて男になれと言われたときには、ふるえましょうよね。
そうよ私は女で結構、女の腐ったのでかまいませんよ」とか
「死んで神様といわれるよりも生きてバカだといわれましょうよね」とか。
何十年も聴いているけれど、いいフレーズである。
ぼくも「おまえはそれでも日本人か、日本男児か」といわれたら
迷わず「日本人の腐ったのでも、日本人でなくてもかまいませんよ」と答える。
いろいろ考え方はあるだろうけど、ぼくとしては集合魂や類的なものを主語に
はできない。
ぼくはぼくという「一人称単数」からしか出発できない。
そしてその「一人称単数」をなくさない範囲で、
できるだけイマジネーションを働かせることしかできない。
「一人称単数」にももちろんさまざまな問題は起こるし、
どうしようもない状態にも陥るのはたしかだけれど、
少なくとも起こる問題は、その「一人称単数」の責任として成立する。
そしてその「一人称単数」は、他者への、
そして自分を含むものとしてのあらゆる世界への、宇宙への
イマジネーションへと向かうこともできる。

しかし、その最初の「一人称単数」を最初から滅私してしまったところからしか
発想できなくなると、その場合、だれも責任の主体ではなくなる。
その場合の「他者」は自分の属する集団にとっての「他者」で、
その場合それはともすると敵や悪などとして位置づけられてしまう。
そうしたときの優越意識や憎悪や(もちろん善意もだが)
そうしたものの主体はすでに自分ではなくなっている。
安易な自己犠牲もそこには起こり、その態度を共同体内の他者にも強要してしまう。
「治安維持」のためには必要な犠牲だからだ。

これをひとごとだと考えることはできない。
ひとは容易に自分を類に置き換え、一般化して自己責任をあいまいにする。
集団に所属することで容易に自分の目の前の問題から逃避する。
そうしたことは日常的に数限りなく起きているが、
自分だけはそうではないと思っている。
自分のエゴイズムをどこかほかのところにある何かだと思っている。
しかし自分の意識を「一人称単数」としての主語に置いたとき、
それらはすべて自分の問題となって目の前にあることがわかる。
すべての悲しみも喜びも苦しみも痛みも笑いも怒りも自分とともにある。
まずはそれ以外のものではない。
そこからしかなにも始まらない。