「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
4◎関心をもつこと(2009.3.6)

  中学生の頃、テレビの歌番組を見ていたら、隣にいた父親が「どれがどれ
 だかよくわからん」と唐突につぶやいたことがある。画面に映っていたのは、
 僕とほぼ同世代の、山口百恵と森昌子、そして桜田淳子だった。花の中三ト
 リオと呼ばれていた彼女たちの個性や路線は、画面を見つめ返すでもなく、
 それぞれまったく違う。
 (中略)
  でも僕も今、モーニング娘。の個々のメンバーの違いがほとんどわからな
 い。数が圧倒的に多いし頻繁にメンバーの出入りがあることも一因と思うが、
 きっとそれだけじゃない。一人ひとりの個性を、感知しづらくなっているこ
 とは明らかだ。

  同じ景色を目にしながら、人は違うことを考える。

 (中略)
  見分けがつかなくなる現象は、実際に似通って見えるようになるわけでは
 なく、脳内に再現されたその情報に対しての興味が薄くなることを意味して
 いる。加齢すればするほどこの傾向は進む。情報処理のパターンがどこかで
 固定されるからだろう。年とともに趣味嗜好が変わるのは当たり前だけど、
 でも十代後半によく聴いた音楽は、その後も続く場合が多い。だから懐メロ
 はジャンルとして成立する。僕と同世代で今の音楽シーンにはまともな歌が
 ないと嘆く人は多いけれど、きっと僕らより上の世代もそう思っていたし、
 今の十代も数十年後には同じ溜息をもらすだろう。
 (「ペッパー警部」森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.68-70)

言葉の習得もそうだけれど、たしかに若い頃のほうがずっと習得が容易だし、
若い頃繰り返し聴いたり見たりしたことは、意識無意識を問わずよく憶えている

どこかインプリンティングされてしまう傾向は強いだろうと思う。
ぼくも70年代のはじめ頃に聴いた音楽は、ほんとうによく憶えている。
英語のロックやポップスなども、意味がわからなくても、音で憶えていたりする

その大きな理由のひとつは、
まだぼくのなかの空白の部分、メモリーフリーな部分がたくさんあって、
そこに、渇いた喉が水を欲したときのように、流し込まれること。
それと、まだ免疫がないというか、
変な先入見(「見」というよりも感覚的な部分のほうだろうけど)が少ないため
に、
ちょっとした刺激であったとしても大きく作用すること、
それから、ほんとうに集中して、ひどく興奮までして、
繰り返し繰り返し聴くからだろうと思う。
だから、ほとんど細部まで感覚的に記憶しているし、
似ているものがあったとしても細かい差異のこともよくわかる。

たしかにぼくにも、「モーニング娘。の個々のメンバーの違い」は
名前のほうもそうだけど、ほとんどわからない。
でも、その理由は、早い話が、関心が持てないということに過ぎないのだろう。
つまり、「違い」をわかろうとなんか思っていない。

今でも、深く関心をもったものがでてきたときには、
小さい頃に、無批判なまでに吸い込むような仕方ではないけれど、
「違い」がわからないということはない。
それまでに形成してきたある種のフィルターはあるとしても、
たんに模倣的なかたちでの吸収の仕方とは異なって、
感覚的な方面からだけではなく、さまざまな「見」を伴った
ある意味総合的な吸収の仕方を可能性として持ち得るだろうと思う。

若い頃と、ある程度年を経てからでは、
ある種の受容の可能性は異なるだろうけれど、
重要なのはおそらく「関心を持つ」ということだ。
そして、関心を持てないことについて「違い」を云々することはできない。

だから、年をとることで失われるもの、だとか
ノスタルジックに若い頃に帰りたいとかいうことを云々することの背景には、
切実なまでに関心をもつことができなくなっているというのが大きいはずである。

シュタイナーは、『教育の基礎としての一般人間学』の最初のまえおきのところで、
あらゆることに関心をもつことの必要性について強く語っているが、
なぜ神秘学が人間の成長について寄与できるかといえば、
おそらく自己教育の必要条件のひとつが、
その「関心をもつこと」にほかならないからではないだろうか。
そういう意味では、神秘学は、どん欲なまでにさまざまなものに関心をもつことで
自己教育を持続的に行ない続けるということにほかならない。
とはいえ、「モーニング娘。の個々のメンバーの違い」的なことに関してまでも、
そう積極的に違いを云々する必要はないとは思うのだけれど・・・。