「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
3◎異端であることへの共感(2009.3.3)

  レコードやCDをきっかけに彼のファンになった人は、ライブに足を運ぶ
 と戸惑うことがよくあるようだ。なぜならあがた森魚は、オリジナルのとお
 りにはまず歌わない。メロディだけではなく歌詞も平気で変える。歌を解体
 する。まるで固定することを、怖れているかのように。
 「ここではないどこか」のことを、彼はずっと考えている。その違和感と憧
 れは、空間だけではなく時制にも表れる。デビュー曲の「赤色エレジー」は
 大正ロマンへの郷愁ではない。おそらく彼にはそんなつもりは微塵もない。
 過去も未来も彼にとっては等価であり、ピアスと銀河系も位相は同じなのだ。
  でも切ない。なぜならこの姿勢を固持するには、徹底した孤独に耐えねば
 ならないから。(・・・)
  しぶとく、そしてひめやかに、あがた森魚はこの世界で異端であり続ける。
 (「赤色エレジー」森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.66-67)

考えてみれば(考えてみるまでもないのかもしれないが)
常なるものはなにもなく、すべては変化のうちにある。
ということは、ひな形としてのオリジナル曲があったとしても、
それがいつも同じでなければならないということはない。
厳密にいえば、演奏されるものでまったく同じものはありえない。

それでも、Aという楽曲は、多くの場合
そのAであるための同一性をもつことが期待されている。
そうすることで、AはAであることができる。
それはAを「わたしたち」が共有するための
ひとつのルールだということができるかもしれない。
(ある種の抽象の時空では同一であることもできると思うのだけれど)

そういえば、小さい頃(小学校の1年か2年だったと思う)テレビで
歌手が毎回、同じ曲を同じように歌うのに驚いて、
「どうしてこんなことができるのか!!」という意味のことをいったら
親から、「歌手だからね」という意味の返答を笑いながらされたことがある。
それからしばらくぼくは考え込んでしまって、
じぶんなりの答えをそこから導き出したことがある。

まず、同じ歌手が同じ歌を同じように歌っているように見えるけれど、
実際は毎回少しずつ違っている。
でも、歌手は歌手だから毎回似たような感じで歌うことができる。
しかし、なぜそんなことをしなければいけないのかというと、
そうするのが決まり事だから、というふうにも考える必要があった。
決まり事でなければ、そんなことをするわけがないと。
ぼくはぼくなりに懸命に考えたわけである。

いまだに鮮明に覚えているのだけれど、
小学校の最初のテストがあって、それは
「おなじものをむすびなさい」というものだった。
左と右にいろんな絵が描かれてあって、その順序がランダムになっているので、
左の一番目といっしょなのは、右の何番目か・・・といった問題。
たしかに同じ(ようにみえる絵柄)が左と右とにある。
けれどぼくは「同じものなんてない」と思っていたので、
それを線でむすぶことができなかった。
そんなこんなで、テストは0点。
先生は、困ったようなちょっと責めるような態度で
ちゃんと答えるようにというが、
考えれば考えるほど、おなじもなんてない!
ほとんどべそかき状態になってしまった。

その後も、いろんなところで、
考えれば考えるほどわからなくなってくることだらけだったが、
(なぜわざわざ林檎3個と林檎2個を足さなければならないのか、とか)
ある時、「そうするのが決まり事だから」ということで
「嘘でもとりあえずそうしておくことになっているんだ」と理解し、
なんとか学校での勉強が進むようになった。
「違う」ということがわかるためには、
「同じ」ということがわからなければならない。
そのために「同じ」という仮定のもとに考える必要があると。

とはいえ、答えのようなものをだすことと
自分でほんとうに理解できることはまったく別のこと。
そんな二重世界をずっと余儀なくされることが多かった。
あえていえば、上記の引用にあるように
「徹底した孤独に耐えねばならなかった」といえばいえるかもしれない。
しかし、その「孤独」と
ほんとうはそうでないかもしれないものを「同じ」だと信じ込むことの
どちらかをとる必要があれば、やはり「孤独」を選ばざるをえない。
とはいえ、表面上は「同じ」という顔をして生きていく必要があるのだけれど。
「しぶとく、そしてひめやかに、あがた森魚はこの世界で異端であり続ける」ように。