ヒヨドリ(鳥取県大山 2010.5.16)

「ああ、ヒヨか・・・」といってカメラを向けないという失礼な行動をとってしまうことが多く
そういえば、こうしてご紹介するのはここでははじめてのことになる。
先日、梨木香歩の『渡りの足跡』というエッセイ集のなかで、
著者がヒヨドリ嫌いだったことを反省していたのを読んで
ぼくも少しばかり反省するところがあった。
そこでは、留鳥としてのヒヨドリだけではなく、渡りをするヒヨドリについても記されている。

「なぜあれほどヒヨドリが嫌いだったのだろう。
そう、狡知で世慣れていて、相手が自分より弱いと見るとすぐに猛々しく威嚇する。
都会の空気が心の芯までしみ込んだような薄汚れた灰色。
そういういくつかの属性に、世俗の厭わしさを全て重ね合わせ、彼の鳥に背負わせてしまっていた。」
そのヒヨドリのイメージが、北海道のケミチップ湾のほりにあるホテルに滞在したとき
ヒヨドリの「『野鳥』めした慎重さ、つつましさ」にあって、少し変わる・・・。

この写真のヒヨは、大山の山深き渓谷で見かけたときに撮影したもの。
もちろん、けたたましく鳴き騒ぐヒヨドリが好きになったというのではないけれど、
このところ、いろんな鳥たちの歌まねをするヒヨドリの
まねしきれないけれど、そしてまぎらわしいけれど、
その歌まねをしようとするヒヨドリのある種のいじらしさを思ったりもするようになった。

人間にも「狡知で世慣れていて・・・」というのは珍しくもないけれど、
どうしてそうなっているのかについて、
少しばかり思って見るのもまた必要なことなのかもしれない。