田辺欧『待ちのぞむ魂/スーデルグランの詩と生涯』

2012.12.4

●田辺欧『待ちのぞむ魂/スーデルグランの詩と生涯』(春秋社/2012.11.20)2012.12.4

シュタイナーの時代の北欧フィンランド・カレリアの地の
モダニズム女流詩人「エーディット・スーデルクラン」(1892-1923)の
生涯と作品について紹介した
田辺欧『待ちのぞむ魂/スーデルグランの詩と生涯』(春秋社/2012.11.20)。

「保守的な北欧文壇に反旗を翻し、独自の道を歩むべく、
旧態依然の詩形式を打破しつつ、ニーチェ、シュタイナー等との
思想的対決を経て培われた詩作・思想の境地とはどのようなものだったか…。」とあるが、
この詩人のことはこの本を読むまでまったく知らずにいた。
今世紀初頭の反保守的な芸術家にとって、
ニーチェやシュタイナーは多大な影響を与えていたのだということを、
そして、この時代のシュタイナー受容の受容のされ方をあらためて再認識することになった。

本書の第7章は「シュタイナーへの傾倒、そして懐疑」とある。
シュタイナーへの傾倒は、スーデルクランがシュタイナーに宛てて
「私を運動へとお招きいただけませんか」と記すほどだったようで、
自然の神秘にふれ、超感覚的認識を得ようとしてシュタイナーに深く関心をもったようだが、
次第に魂の安息を求めようとするスーデルクランはシュタイナーへ懐疑をいだくようになり、
最晩年には「哲学、芸術、文化をはじめ道徳的な成就へのすべての努力に背を向け、
純朴なもの、感覚的に直接的な神への接近に憧れるようになって行った」ということである。
福音主義へと向かうのである。
そして、こんな手紙さえ書くようになる。
「キリストとシュタイナーの間の対立に恐ろしいほど悩んでいるの」。
シュタイナーをある種の「誘惑者」であるとして拒絶するまでになる。

こういう傾倒から拒絶へというような流れは、
おそらくはスーデルグランの求めるところが、
シュタイナーの方向性とは少しずれていたことと、
スーデルクランがきわめて宗教的なかたちで
魂の安息を切に求めようとしていたからなのだろうと思う。
実際、シュタイナーの神秘学は、宇宙的な認識の方向性にあるのであって、
魂にわかりやすい安息を与えようとするような狭義の宗教的なものであるとはいえない。
スーデルクランのような受容のされ方を見ながら、
シュタイナーの現代日本における受容のされ方のことについても
あらためてさまざまに考えるところがあった。
多くの(とはいえないかもしれないけれど)シュタイナー受容者は
いったいシュタイナーに何を求めようとしているのだろうかと。