ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』

2012.11.22

●ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(河出文庫/2012/8/4)2012.11.22

哲学とは何だろうか?という問いかけは、
哲学という言葉を知ったときからずっとぼくのなかにあって、
それはおそらく哲学に関心のある人ならばだれにでもある問いなのだろうと思う。

そんななかで、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの
『哲学とは何か』 (河出文庫/2012/8/4) が文庫になっているので、
少しずつ読んでいる。

ドゥルーズ、ガタリについては学生時代以来
あれこれふれる機会も散発的にあったけれど、
とくにドゥルーズについてだが、
やっと(自分勝手な理解ではあるけれど)ああそうだったのか・・・と
「来た」のは最近のことで、ピーター・ホルワードの
『ドゥルーズと創造の哲学』(青土社/2010)を読んでから。
面白いことに、先日来、勉強させてもらっている
ヌーソロジーの半田広宣さんもこの『ドゥルーズと創造の哲学』には
大いに啓発されたとのこと。

さて、『哲学とは何か』だが、
それはその『ドゥルーズと創造の哲学』にももちろん関係している。
訳者( 財津 理)によると『哲学とは何か』はドゥルーズ/ガタリの遺言だという。
「哲学に固有の問いとは概念と創造が関係しあう特異点であり、
概念は創造されるもの、創造されるべきものである」。

「序論」にも「哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野である」とある。
もちろんその「概念(コンセプト)」というのは、
広告屋が「今回のコンセプトは・・・」とかいってうそぶくようなものとは対極にある「創造」そのもののこと。
だからその意味で、「だれにでもわかる哲学」というのは自己矛盾でもある。
もちろん人の認識の根底にあるものにかかわるという意味で、
その「創造」が深く人の深みに届くという意味でもわかりやすさはあるはずだけれど、
そういうシンプルさほどわかりにくく、
世の常識とは相容れないものであることが多いように思う。

同じく「序論」の最初にこうある。
「「哲学とはなにか」という問いを立てることができるのは、ひとが老年を迎え、
具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらくほかにあるまい。
実際、文献目録などまったく取るに足らぬものである」。

ネットとはいえ、ほとんど文字だらけのこうしたMLさえもそうだし、
twitterやFacebookなどといった場所とは
ほとんどエラーしてしまうような問いではあるのだけれど、
(老年というには少しばかり早いが)やっと数十年の孤独なつぶやきのなかで、
少しばかりおぼろげながらなにかが見えてきた感もあるので、
そろそろそこらへんについて考え初めてみたいと思っている。

おそらくだれにもわからないような言葉になりかねないけれど、
少しずつ少しずつである。
これも、マヤの暦の終焉である2012年12月という時期に
対応しているのかもしれないし、
ヌーソロジーのいう21013年にも対応しているのかもしれない。